プロローグ
PKは、いつだって嫌なものだ。
わずか十メートルしか離れていない距離から、止まったボールをゴールに放り込む。こんな簡単な作業が悪魔に魅入られたみたいに失敗する。ゴールの横幅に対し、立ちふさがっているキーパーはあまりに頼りないはずなのに、真正面から相対すると何倍にも大きく見える。
心臓が高鳴っている。
こちらのチームは後攻。すでに相手チームは五人全員がPKを成功させている。確率的にはありえないことじゃない。むしろ、外すほうが珍しいのだから。
そして、このキックを外せば負け――中学最後の大会の敗退を意味する。誰しもがその意味を噛みしめている。おれたち最後の戦いとなるか、それともまだ一緒にサッカーが出来るのか、その命運がこれから決められようとしている。
ボールをセット。硬いグラウンドを、滑らないように踏みしめる。サッカー部全員の視線がひとつのボールに注がれている。それだけではない、その場にいる全員が成り行きを見守る。
乾いた砂地を風がさらっていく。ボールがわずかに揺れたのをもとに戻し、ひとつ深呼吸。
三歩半の助走をとる。
キーパーの動きが目に入る。
飛ぶのは、右だろうか、左だろうか。
今まで四回のデータのうち、左方向に飛びついたのが三回。後の一回はその場から動かなかった。
もうひとつ深呼吸。
どこに蹴ったって確率的には同じことだ。枠にさえ収まればいい。
「……外すなよ」
隣にいる監督のつぶやきが漏れる。
全員がそう願っていた。
審判の笛が鳴らされる。
おれだったら、蹴るのは、右。
泥だらけのスパイクが一閃される。
しかし、一瞬のスローモーションのあとで聞こえたのはグローブを叩く乾いた音。キッカーはその場で泣き崩れ、敵のキーパーは天高く拳をつきだした。ネットを揺らすはずだったボールはポストの横に力なく転がった。
肩を組んで祈っていた選手たちも、ドミノみたいに倒れていく。馬鹿みたいに暑い日差しが容赦なく照りつける。猿みたいな歓声を上げながら走りだす相手チームの選手たちの顔には笑みがこぼれている。
「――ほら、立て。整列するぞ」
監督が険しい表情でピッチに立つ選手たちをうながした。
歓喜に包まれている相手選手とは正反対に、涙ながらに挨拶するチームメイトの様子をおれはベンチから眺めていた。試合に出るのも出ないのも監督の気まぐれひとつ。中学の三年間をかけてようやくつかみとった通算十三分の出場時間はそこで幕を閉じた。
あまりにあっけない。おれにはロスタイムは残されていない。
ピッチでボールに触れたのはたった五回だった。
いまでもよく夢に見る。嫌な夢だ。
おれだったら、あのとき左には蹴らなかった。それなのにチャンスを与えられたのはおれじゃない奴だったのだから、どうしようもない。
そう、どうしようもないことだった。
ゴールデンウィークが五月の初めを去って行くと、一気に学校の雰囲気が変わった。
慣れない空気の漂っていた教室はいつの間にかホームタウンみたいに体に馴染んできたし、先生の特徴もつかめてくる。春の桜に彩られていた風景はいつのまにか初夏の準備をはじめ、徐々に季節の移ろいを感じさせた。
とくに難しい受験をすることもなく、おれは大部分の奴らと同じように地元の高校へと進学した。そのためクラスの半分以上は中学のときに見知っている面子だ。とくに目新しいことはなにもない。慣れてきたというのは、人よりも、高校というシステムそのものに対してだった。
誰も彼も変わっちゃいない。
最後の試合でPKを失敗したあいつも、隣の教室でのんきに笑っていることだろう。
「……はい! くじ引きの結果が出たので各自で確認してください! 紙は黒板に張っておきます!」
クラス委員の女の子が叫んでいる。
席替えの結果が発表されたらしい。雪崩のように黒板の前へ殺到していく連中の後ろからのぞきこむと、最後尾の席だった。
ちょうどいい、寝ていても怒られない。
どうせ高校の勉強も、中学の頃と比べて格段に難しくなるわけじゃない。
相変わらず数式にはxやyがわがもの顔で登場してくるし、清少納言は何千年経っても春のあけぼのに感動していることだろう。いわゆる難関大学に進むつもりがなければ必要のない知識だ。
頭のいい奴らは勝手に勉強していればいい。
悪ければ悪いなりに落第を免れればいいだけの話。
「暗い顔してんじゃん、お前先生の目の前に当たっただろ、残念だな!」
能天気に肩をたたいてくるのは小学校からの友人だ。元チームメイトでもある。
「ちげーよ。一番ラッキーな席になった」
「マジ? ホントだ。うらやま」
「教卓の真ん前は村山だな。可哀想に」
「いっちょ笑ってくるか。あいつ今どこだ」
「さっきトイレに行くの見かけた」
「真司も行こうぜ」
「おれはいいよ。席、移らなきゃだし」
「ふうん」
そいつはおれの顔をすこし見つめた後、気まずそうに視線を逸らした。
「サッカー部には入んないのか、もうみんな練習はじめてるぞ」
「もうやめたんだ。才能ないし」
「そっか。また真司と一緒にプレーしたかったんだけどな、仕方ないか」
「悪いな」
「別にいいよ、好きなことをやればさ」
軽い言葉の代わりに笑顔を見せて、村山がいるであろうトイレの方へ駆けていく。おれは自分の机から教科書の山を引っ張り出し、新しい座席へ運ぶという作業を数回繰り返した。
教科書を学校に放置せず普段から自宅に持って帰っていればこんな苦労しないのだが、おれはそんな真面目くんじゃない。山積みにされた本の群れを机に放り込んで、最後にスカスカの鞄をかける。
これで引越しは終しまい。
元の場所に愛着はない。教室のなかの居場所なんてどこにいたって同じようなものだ。それならせめて人目につかない場所でゆっくりしていたい。
「……悪いやつじゃないんだけどな」
おれのことを気遣っているつもりなんだろう。再びサッカーに誘ってもらえるだけいいのかもしれない。
そう、彼に悪意は小指ほどもないのだ。ただちょっとデリカシーに欠けるというだけで。ヘディングのし過ぎで配慮の一部を落としてしまったのかもしれない。
スポーツは残酷なものだ。
敗者と勝者を明確に分けてしまう。どんなに努力したって天賦の才能には歯がたたないことがいくらでもあり得る。その天才だって努力家の天才には及ばない。その更に上に何年に一度と呼ばれる逸材がいて、世界には化物みたいな選手が所狭しと競っている。
その気の遠くなるような頂をすべて踏破してようやく一番を名乗ることができるのだ。
千里の道も一歩からというが、その一歩すらも歩むことのできない人間がいることをみんな忘れてしまっている。それもそうだ、テレビに映るのはスーパースターばかりなのだから足元で転んでいるちっぽけな存在には気づかないだろう。自分が当事者でもない限り、綺麗な世界ばかり魅入ってしまう。
「――あの」
横から声をかけられる。小さな声だった。
「となり、いいですか?」
スカートの長い女子が困ったように立っている。
見るとおれの鞄が大口を広げて通路を塞いでいた。「どうぞ」といいながらチャックを閉める。汗のニオイの染みこんだエナメルのスポーツバッグは部屋の押入れに放り込んである。
いまはこの小さな学生鞄にもすっかり違和感を覚えなくなった。
教科書は机の中に置きっぱなしなので登下校の時に軽くていい。あっけないくらいの重さしかない。
「ありがとうございます」
ぼそぼそと発声する。あんまり好きなタイプじゃない。だが、隣人は無口な方が都合は良かった。あんまりうるさいのが近くにいると目立ってしまう。
古いせいで脚のぐらつく椅子を静かに動かして彼女は本を読みはじめた。
図書館で借りたものらしく表紙にナンバーが貼り付けられている。聞いたこともないタイトルと作者だった。どうやら外国の文学作品らしい。おれには一生関係ない小説だ。
「ねえ、名前なんだっけ」
訊くと、その女子生徒は本から視線を上げずに答えた。
「鈴森です」
「中学は?」
「東京から越してきたばかりなので」
どうりで名前を覚えていないわけだ。
もうすでにほとんどのクラスメイトを把握したつもりでいたが、それは元から知り合いが多かっただけであり高校から一緒になった生徒とはまだほとんど絡んだことがない。
最初のHRでクラス全員が自己紹介をする機会はあったがその一度きりですべてを暗記できるほどおれは賢くなかった。
それにおとなしそうな女子となれば一年間で数回しか会話する機会がないということもありえる。印象が薄くて当然だ。
「本とか好きなの」
「まあ」
「文芸部?」
「入ってない」
「入ればいいのに」
「知らない人ばっかりだから」
と、鈴森はいった。
「引っ越してきたなら仕方ないじゃん」
おれは知っている唯一の文芸部員の顔を思い浮かべる。けど、できることなら紹介はしたくない。
それに読書が好きだからといって書くのも好きだとは限らない。本人も乗り気でないようだし無駄なお節介はしないでおこうと決めた。
「わたし人見知りだから」
ぼそりと聞き取れないくらいの声でいう。
それきり黙ってしまったので、おれたちの会話はそこで終了した。
きっとこれかもこんな風に一言二言だけ喋っては途切れるコミュニケーションを続けることになるのだろうと思った。お互いに授業中話しかけるようなキャラじゃない。
長い髪をときどき耳にかける。その様子を眺めているくらいがちょうどいい。
安穏とした学校生活が送れそうだ。可もなく不可もなく、そんな±0の人生。