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駅から自宅へのちょうど中間地点、緩やかな坂道の途中に潰れた熱帯魚の店がある。
よほど慌てて引っ越したのか、それともただ単に面倒だったのか、大小様々な水槽が無造作に放置されていた。
その中の一つ、メインと思わしき大人が両手いっぱい広げたと同じくらいの、大きな水槽があった。それだけは特殊な薬でも入っているのか、水も濁らず藻もはらず、美しく透明なままだった。夜店にありがちな平凡な赤金魚が一匹、水面上に口を出して、ひっきりなしにパクパク喘いでいる。
木崎雄二は、ぼんやりとそれを眺めていた。纏わりつく夏の余韻と坂道のせいで、じっとり汗を含んだネクタイを緩め、胸ポケットから携帯を取り出す。いつもの場所でいつもの行為。呼び出し音が二回鳴った後、美和子の声がした。気取ったような、よそいきの。
「おれ。今から帰るよ」
そう言うと、途端に声は解ける。
あらあなた。ご苦労さまでした、今日はね、炊き込みご飯にしたの――……。
こちらを労わるような、優しい声。わざとらしい、優位に立つ者特有の僅かながらの高慢さをにじませた声。心の中の不快感がなお一層冗長するのを押し殺して、美和子の炊き込みご飯は絶品だもんな、腹が減ったよ、なんて相手の機嫌を取るような言葉をいくつか並べる自分を嫌悪しながらフラップを閉じると、今度は金魚には目もくれず、坂道を登り始めた。
この道の先が家ではなく、別のどこかであればいいのに。蝉の替わりに慎ましく鳴き始めた虫の音が闇夜に溶けて滲んでゆく。住宅地の一角、野球のテレビ中継と共に歓声が聞こえた。家庭の日常音をやり過ごしながら、雄二は丹田に力を入れるように小さく息を吸った。同時に胃の隅がキリリと痛んだ。
「おかえりなさい」
帰宅する夫の為に灯された玄関ポーチの灯りの下で、美和子は薄化粧に笑顔を浮かべて雄二を出迎えた。
「そんな、毎日やらなくていいって言っているのに」
へらりと笑いながら、軽口の中に存分に本気を込めてみたが
「だってわたしがしたいのだもの」
軽やかにかわされた。
「今日も暑かったわねぇ、汗かいたでしょう。先にお風呂になさる? それともご飯にする?」
ずっしりした黒いビジネスバッグを敲きに置くと、汗を吸った上着をするりと脱がされた。
――頼むから、放っておいてくれ。おれを待ちかまえないでくれ。
胸底に湧いた苛立ちを唾と共に飲みくだして雄二は無理矢理笑顔を作る。
「腹が減ったから、取りあえず先に飯食いたい」
「はいはい」
何時に帰るか分からないから、先に食べていてほしい、その方が気が楽だからと伝えても美和子は聞かない。でも、一人で食べるご飯って味気ないわ、二人で食べたほうが美味しい。あなたは気にしなくていいのよ、
「わたしが好きでやっているだけだから」
美和子はそう言って笑うたび、胸の奥にチリッとした違和感を覚える。だが、それを追求する気力が雄二にはない。昔からそうやって生きてきた。何となく強いものに巻かれてぼんやりと。
リビング兼ダイニングのテーブルの上には、きれいに整えられていた夕食が並んでいた。かぼちゃの煮物、豚の生姜焼き、ワカメと豆腐の味噌汁、そしてキノコの炊き込みご飯がランチョンマットの上に行儀よく並べられている。
「うまそう」
食欲はさっぱり湧かなかったが、またへりくだる言葉が口を付いて出た。食事中はもっぱら『夫婦の会話』に費やされる。美和子はスーパーでの出来事や読んだ本の話を楽しそうに喋り、雄二は仕事の内容などをかいつまんで話す。同じ会社で働いていたとはいえ、華やかな秘書課に身を置いていた美和子に、「もぐら」と揶揄される技術課の特殊な内容を話すのは大変だったが、美和子はいつも楽しそうに聞いてくれた。相槌も絶妙で、新婚当初はそれだけで疲れが取れたものである。今はただただ苦痛である。まるでホステスみたいだ、とも思う。本当はテレビを見たい。しょうもない番組をみてゲラゲラ笑って、何も考えずに飯を食いたい。
四六時中、テレビを点けっぱなしで育ってきた雄二と、決まった番組しか見せてもらえなかった環境で育った美和子は、同じ屋根の下で最初、カルチャーショックを受けた。
「そんなのどこが面白いの?」
バラエティ番組を見てゲラゲラ笑っていた雄二に、美和子は不思議そうに、本当に不思議そうに聞いたものである。「ねえ、そんなくだらない番組のどこが面白いの?」
まるで、雄二をくだらない人間だと見下しているようだった。食事中はだから、テレビを付けない。行儀が悪いと美和子がいうのである。家族の集う夕飯時に、みなで飯を食べながらテレビを肴にあれこれ賑やかにしゃべっていた雄二には物足りなかったが、その内慣れた。はずだった。
夕飯が終われば風呂である。ここで初めて家の中で一人になることができる。脱衣場から嫌な予感がしていたが、風呂場の扉を開けて雄二はがっくりと項垂れた。強烈な薔薇の匂いがする。濃厚で身も蓋もない外国製の。こんなのでリラックスなんてできるはずがない。げんなりした気持ちで湯から上がり、シャンプーを手にした。英語ではなくどこの国の言葉か分からない、しゃれたガラス製の入れ物に入っている、泡立ちの悪いシャンプーで頭を洗った後、これまた泡立ちの悪い独特の香りがする石鹸で体を洗う。
風呂からあがって初めてテレビが許される。ただしニュースのみ。
なんだろう、この気持ち悪さは。ビールを飲みながら雄二はいつもの違和感を覚える。
昔、友達の家に初めて遊びに行った時のような緊張とぎこちなさによく似ている。隅々まで掃除が行き届いていて、きちんと片づけられた心地よい空間のはずなのに。
空虚の中で、えんえん美和子と二人で虚しい夫婦ごっこを演じているみたいだ。