星を悼む貴女へ
激しい雨風が打ち付けられるボロ小屋で、私は刃を研いでいる。切れ味が良い方が苦しまずに済むからだ。使う方も、使われる方も。
外は昼か夜かも分からない酷い雨だ。どんなに飢えたケモノだって、こんな時は穴倉に籠もって過ごすだろう。それでもきっとあのヒトは来る。ここ数ヶ月は雨季だから、それが終わった星の綺麗な夜にと言ったのはあのヒトなのに。始めはあれこれ理由を付けて家には入れなかったが、泥で床が汚れるから来るなと言った次の日に、「拭く物を用意した」とニコニコ立っていたのを最後に遠ざけるのを諦めた。バカバカしくなったからだ。
いや、本当は来て欲しかった。気が違ってしまった私が創った幻ではないと思わせて欲しかった。私が殺す最後のヒトだと信じさせて欲しかった。あのヒトの手で私は死ねるのだと、安心して眠らせて欲しかった。多分あのヒトが知ることは、一生無いのだろうけど。
雨風の音と、刃を研ぐ音だけがする。一通り仕上がりを観て、満足して2本目を手に取った。今回は2本必要だ。私の分と、あのヒトの分。いつかのどの時とも違う。特別な2本目だ。
私とあのヒトを殺す為の、特別な。
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昔話と一緒に、ルールの話をしよう。世界のルールの話だ。
神から生まれたモノは死なない。いや死にはするが、頭が潰れても空腹に倒れても、命の炎は消えた瞬間にまた灯る。それを使命を終えるまで繰り返す。それが絶対のルール。
だから皆自分の使命を探す。生きる事は苦痛に満ちているからだ。楽になりたいから、終わらせたいから使命を探す。あるいはそれを諦めて、終わらない日々をただ過ごす。せめて苦しまないで済むように、同じ日々を繰り返す。
そんな世界で、あの日のワタシは足を引き摺りながら森を歩いていた。突き刺さった矢を抜き包帯を巻いて、歯を食いしばって。
ヒトは死なない。だが怪我をすれば痛いし、飢えれば途方もない時間苦しむ事になる。だからヒトは敵を排除し水を求め、大きな争いになればワタシの様な食うに困った者達が戦場を駆け回るのだ。世界は何千年もそうやって続いてきたらしい。
ワタシは岩だか樹だか、よくわからないが大きな物に背中を預けズルズルと腰をおろした。敵の足は馬だった。たった一人逃げた下っ端を探すためだけに森に深入りはしないだろう。追手は来ない。少しの間は休めるはずだと思った。
しかし初陣で童貞も捨てずに逃げるハメになるなんて運がないなぁ。などおぼろげに浮かんだ文句と一緒にフッと息を吐いてワタシは空を見上げた。木々の間から星がよく視える。雨季の直前だが、そこは空が綺麗に視える場所だった。ワタシの故郷もそうだった。痛む足から意識を逸らすために、ワタシは少し思い出に浸ることにした。
『ヒトは使命を果たすために生まれ、そして死ぬ。立派にそれを成し遂げた者は、夜空を照らす星になる。次に星となる者が、空への旅路で迷わぬように。』
故郷の婆が、仕事を嫌がる子供に決まって言い聞かせたものだ。婆が若い頃、それはそれは顔立ちの整った白髪の男に聞いたらしい。村の大人は皆それを聞いて育ち、事故なり飢えなりで死んでからルールを知って、使命を探す者は村を出るか、そうでない者は黙々と畑を耕す日々を送る。ワタシは前者を選んだ。村から出て街にたどり着いて、同じ境遇のどうしようもない仲間と飲み明かして…。その時に「使命から解き放ってくれる者が昔いたらしい」なんて話もしたっけなぁ。
現実逃避にと過去を懐かしんではみたものの、やはり限界はあるらしかった。傷が痛い。とても痛い。ああ、きっとこのまま死んで、そしてワタシはこの森の中で目覚めるだろう。できればもっとマシな所で死にたいと思った事を覚えている。例えば人里の近くとか。
ワタシは立ち上がり、また歩き出した。星を頼りに真っすぐ進めば小さな村に出るはずだ。そこで死ぬことができれば、目覚めたときに死肉を食べに来た虫たちとバッタリ…なんて事もないだろう。ないと、思いたい。
木々に手をつきながら少しずつ進む。天井を埋め尽くしているように生えている枝々のすき間から視える星は、痛みと疲労で霞む眼でも綺麗に映った。
どれくらい歩いただろう。少し拓けた場所に出た。目指した村かと思ったが違う。まるで月の光を木々が避けてできた、ぽっかり開いた穴の様な場所だった。そしてそこには、彼女が居た。
男ならば容易く手折れそうな華奢な身体。月光のヴェールの中で艶めく褐色の肌。夜風に流れる白い髪。そして何より、どんなに強く輝く星々でさえ照らせないだろう、すべてを諦めてしまったような暗い暗い紅色の瞳。
息を呑むということを初めてした。
胸が高鳴るとは何かを知った。
このヒトの為に死ぬことがワタシの使命であったなら、どれ程幸せだろうと思った。
生まれて初めての、恋だった。
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私はヒトを殺せる。いや、使命から解き放つ事ができる。
世界でたった一人、それができるヒトらしかった。私だけが、ヒトを星にできると言われて育った。
ヒトを解き放つ事が私の使命だと信じて疑わなかった。だから沢山殺した。解き放つ度に星の数は増えていった。殺して、殺して、殺して。そして気付いた。
星を幾つ増やしても、私の使命は終わらない。
最初はただ数が足りないのだと思った。もっと殺せば私も星になれると信じた。次は使命に苦しむヒトから順に殺した。ヒトに幸せを与えれば自分も夜空で輝けると思った。
幸せを与えてもダメならと苦しませながら殺し、苦しみがダメならばと愛しながら殺し、愛がダメなら憎しみながら殺した。そうして増えた星が空から落ちてしまうほどヒトを殺し続けて、私は悟った。私の使命は、ヒトを殺す事じゃない。
それから私は、解き放つ事を辞めた。使命の為と東西奔走した日々を思い返しては虚しい気持ちになった。自分が解き放たれるのだと知ったヒト達の、その幸せそうな顔を見て「ズルい」と思った。ズルいと思ってしまう自分が嫌だった。いつからか自分を解き放つためにヒトを殺し続けたこの手が、なんだか汚れてみえた。
もちろん私を殺す事だって試した。身を投げたり首を刺してみたり、あるいは誰かに殺させてみたり。全部ダメだった。どんなに苦しい思いをしても、私は死ねなかった。解き放たれたヒト達が、何故あの様な顔をしていたのかだけは分かった。
それから私は星を眺めて過ごす様になった。星になったヒト達を思い返しては、自分のして来た事に意味があったのだと思い込みたかった。新しく星が増える度、自分のして来た事の無意味さに打ちのめされたが、それでも私は星を視て過ごした。夜空の無数の星々が、私の人生だったから。
そんなある夜、あのヒトに出会った。
月明かりの中で一段と星が輝く夜だった。
最初はケモノだと思った。血と汗と土のニオイがしたから。でも違った。彼はヒトだった。切傷と刺し傷と、とにかく傷だらけの彼をみて私はどんな顔をしていただろう。兎も角どれくらい振りかも分からないヒトと眼を合わせるという時間。こんな時どのように振る舞えば良かっただろうか。そもそも傷だらけのヒトと関わるのはいかがなものか。頭の中で考えが浮かんでは消えていく。そんな彼との睨み合いは、彼がドシャリと崩れ落ちることで終わった。
風が吹いた。雨の近づくニオイがする。目の前のヒトは恐らく死んだ。でも解き放たれた訳ではなさそうだった。雨は次第に強くなっていく。私は彼の死体を、放っておけばよいものを近くの洞窟へ運んだ。彼を濡らしたまま置いていくのは、なんだか嫌だった。
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目覚めた時、ワタシは硬い石の枕に頭を預けていた。
眼前には岩肌が、耳には雨と風の音が聞こえる。
月明かりの景色は幻だったのだろうかと思ったが、足の痛みが確かに現実だったと信じさせてくれた。
頭を横に倒すと、居た。少し離れた場所で、暗い暗い紅色の瞳が雨を眺めていた。美人は何処に居ても美人なんだな。なんて、今思い返すとワタシは随分呑気に思ったものだ。
紅がこちらを視た。最初に出会った時と同じ、困ったような迷惑そうなような、微妙、そう微妙な顔をしていた。
「あの、あのー…そう。こん、ばんは?」
見つめ合うのが居心地悪くてなんとか絞り出した言葉。自分をマヌケな男だと心底思った。気不味い空気となんとなく近寄りがたい雰囲気の女性を目の前に、ワタシはあまりにも挙動不審だった。
「…こんばんは。起きたなら、私は行きます。」
そう言って女性は立ち去ろうとする。この大雨の中を一人で行くのか?ワタシの中のなけなしの紳士か、あるいは浅ましい下心が彼女を引き留めようと口を開けさせる。
「あの!…あの、お1人で行かれるのですか」
「あなた、足に怪我をしていますよね。…雨の中で肩を貸して歩きたくないわ。」
少し行った先に村があるから、動けるようになったらそこに向かうのね。彼女はそう言ってこの穴倉から出ていった。出ていってしまった。洞窟は雨の音がよく響く。ワタシはそれを聞きながら、ただ横になっているしかなかった。
しばらくしてワタシは穴倉を出た。ずぶ濡れになりながら歩いた先に、恐らく伝え聞いたものだろう村があった。余裕がある村には見えないが、幸いにも邪険にはされなかった。雨季の食料調達を手伝う事を条件に、ワタシはしばらくの間そこに置いて頂けることになった。3日に1度森へ入り、キノコだの木の実だのを取って帰る。そんな日々の中で、ワタシは彼女の事を聞いてまわった。
村人曰く、森の外れに住んでいること。誰も名前を知らないこと。どれ程生きているか分からないこと。村に降りてくるのは数カ月に1度、少しの木の実と茶の葉を交換して帰ること。そして眉唾だが、使命を断ち切る事ができるらしいこと。そんな事を聞かせてもらった。ただ肝心な事は分からない。あのヒトとどうすれば話ができるのかが、分からないのだった。
だがワタシは黙って待っていられるほど大人では無かった。仕事の合間に多めに取った木の実と、それが入った籠を手に森を進む。教わった場所には確かに家があった。いつ建てられたかも分からない小さな小屋だった。ワタシは雨で冷える手で戸を叩く。風の音が煩かったが、ギィと扉が開いたのは聞き逃さなかった。
あのヒトがいた。手になにか刃物を持っているがそんな事はどうだってよい。ワタシは冷えて震える声で言った。
「あの晩はありがとう。これ、お礼です。」
彼女は少し困った顔をして、しかし黙って籠を受け取った。それから下を向いてワタシに言った。
「どういたしまして。でもコレきりにして下さい。」
あの晩の礼はして頂きました。そう頭を下げて部屋の奥へ引っ込んでいく。ワタシはただこれで関係が終わるのを惜しんで叫ぶ。
「また来ます!今度はきのこを取って!」
こうして彼女とワタシの交流が始まった。扉を開けてくれる日もあったし、返事すらしてくれない時もあった。でもそれで良い。あのヒトの近くに居られることが嬉しかった。今日は顔を見られるだろうか。気持ちばかりの手土産は受け取ってくれるだろうか。想像するだけで寒さだって忘れるほどだった。
そんなある日、あのヒトは村へ来た。例の数カ月に1度の日らしかった。最初はただ彼女の顔を見られた事が嬉しく、またチラリとこちらへ視線をくれた事に浮かれるばかりだった。
この時のワタシはまだ知らない。今日この瞬間から、自身の使命を全うする日がすぐ近くに迫っていく事を。
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私は今村へ向かって山を降りている。手に持つ茶葉は、雨の中でも元気に育つ物で、お世話になっている村ではこの季節の貴重な嗜好品。数カ月に1度、私は生きていくのに最低限の食べ物とコレを交換しに行くのだ。
もう何年も続けている習慣だが、今回は少し億劫だった。いつか出会った彼がその村にいるらしいからだ。あのヒトは何度も家にやってきた。突き放しても無視をしても、時間があれば訪ねてきた。名は知らないが、顔は嫌でも覚えた。
村に入ると、暖かく迎えてくれる村人たち。使命を諦めてただ今日を生きる、それでも私を邪険にするでも歓迎するでもなく接してくれるヒト達。そんな中に彼もいた。少しばかり横目に見ただけだが、それだけでいつものように嬉しそうに笑う彼。この間持ってきてくれたのは自身で織ったらしい布だった。不格好だが、丁寧に作られた事は分かる出来だった。思えば私は彼から貰い過ぎている気がする。ひと言、お礼をするべきだろうか。
そんな事を考えていた時、背後から血と泥の臭いがした。振り向くとそこには、目の焦点が合わないボロボロの男がいた。
「居た!見つけた!本当に居たんだ!!」
男は私に覆い被さるように肩を掴む。食い込む指が痛い。男の顔を見た。何度も見た使命を終わらせる事に囚われたヒトの顔だった。
「頼む!頼むよ!終わらせてくれ…もう終わらせてくれよ…っ!できるんだろう!?アンタならできるって聞いたんだ!」
衝動に任せて強く掴んだ肩を揺さぶる男。久しぶりに浴びる大きな感情の滝に、私は身を縮こませるしかなかった。怖い。私が使命をやめると言ったときの人々の顔が浮かぶ。彼らは皆、目の前の男と同じ顔をしていた。私を口々に責め立てる大勢のヒト達。━━許して下さい。勝手に辞めてごめんなさい。期待に応えられなくてごめんなさい。私だって本当は…っ!
その時、硬いものがぶつかる鈍い音がした。途端膝から崩れ倒れる男。頭から血を流して倒れている。息をしていない。そして驚くことに、|使命から解き放たれている《・・・・・・・・・・・・》。視線を上げると、大きな石を持って息を上げている彼の姿があった。
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頭が真っ白になった後、気が付けば地面に血塗れの男が倒れていた。後から聞いた話では、あのヒトの顔があんなふうに青褪めるのをみた途端、ワタシは近くの石を握って駆け出したらしい。
ワタシは目の前の死体をみて怖くなった。この男が起きたとき、ワタシや彼女にまた襲いかかるかもしれない。ヒトは死ぬ度に正気を失っていく。次は彼女が殺されてしまうかも…。
思わず後退るワタシを、村人達は遠巻きにみている。静かな村には些か物騒な出来事に、現実を受け入れられていないといった顔をしている者もいる。そんな中であのヒトは、いつもとは少し違う瞳でワタシをみていた。
「貴方に、頼みたいことができました。」
彼女はそういう言うや否や、ワタシの手を取って森へ向かいだした。目を白黒させているうちに最早見慣れた小屋へたどり着き、そして彼女は始めてワタシを中へ招く。目まぐるしく動く状況に頭が付いていかない。ワタシは濡れた髪もそのままに立ち尽くした。そんなワタシの手を再度、今度は両手で握った彼女は言う。
「お願いがあります。あなたにしかできない事なんです」
「どうか、どうか私を。」
「殺してください。」
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完全に事切れた男をみて、最初に感じたのは「希望」だった。私が手を掛けた訳ではないのに、男は完全に解き放たれている。それはつまり、彼にはそれが可能だと言うことだ。
私は彼の手を取って走り出す。一刻も早く、少しでも早く伝えたかった。鼓動がどんどん速くなる。足元が悪い事など忘れて進み、彼を家の中へ押し込むように招き入れた。
何がなんだか分からない。そんな顔をしている彼に私は言う。
私を殺してほしい。あなたにはそれができるから。私と同じ事ができるから。あなたが世界でただ一人、私を殺せるヒトだから。
それは懇願だった。彼の身体に縋る私は、私が殺してきたヒト達と正しく同じだった。この希望を手放してはいけない。崖っぷちとはこの事なんだろう。彼の顔を見上げた。彼の困った顔を初めてみた。それでも私は彼の身体を離さない。離せない。きっと彼は今、さっきの私と同じ痛みを感じているのだろう。
どれほどの時間そうしていたのか分からないが、彼は決心したように私の手を取って言った。
「分かりました。ただ一つ、ワタシからもお願いがあります。」
「貴女の手で、ワタシを殺してください。」
私は考える事もせず頷いた。私がどんなに残酷な事をしているかにも、彼の手が震えていることにも目を背けて。
それから、今までの時間がウソのように淡々と話が進んでいった。せっかく星になるなら、夜空が綺麗な日がいいな。そう彼が言ったから、雨季が明けた最初の満月の日にと決めた。石で頭を同時に殴ることはできないからと、私がなにか刃物を用意することになった。この2つのことだけ決めて、彼は村へと帰っていった。
いつ以来だろう。その日から私は、明日が来るのが待ち遠しくなった。
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あのヒトを殺すと決めた日から何日経っただろう。ワタシは初めて彼女に出会った場所に立っている。そこはあの日と変わらず月明かりに合わせてポッカリと穴が空いたような場所で、改めて見ると足元には名前も知らない花々が咲いている。幼子に聞かせる童話みたいな景色だな、など呑気に思った。
満月がちょうど真上に来た頃、彼女はやってきた。月明かりの下にいるワタシと森から来た彼女。あの時とは逆の位置にいるワタシ達だが、初めて出会った時と何も変わらない。
男ならば容易く手折れそうな華奢な身体。月光のヴェールの中で艶めく褐色の肌。夜風に流れる白い髪。そして何より、どんなに強く輝く星々でさえ照らせないだろう、すべてを諦めてしまったような暗い暗い紅色の瞳。
美しさに思わず息を呑む。
目が合うと胸が高鳴る。
彼女の為に死ねることが、こんなにも幸せだ。
ワタシの恋は、今もずっとここにある。
彼女はワタシに刃物を差し出した。刀身は綺麗に手入れがされていて、星明かりをよく反射している。
ワタシ達は正面から抱き合った。合図と同時に背中を刺し合う、そういう約束だ。初めて触れる彼女は、その肌色の様に暖かい。風に乗ってワタシの鼻に少しかかった髪からは、優しいシャボンの香りがした。こんな素敵な場所で死ねるワタシは、なんて幸せ者なのだろう。
「それじゃあ、いい?」
彼女が腕の力を強めた。いよいよ、という所なのだろう。ワタシも男だ。これから起こることに恐怖心は…いや、少しある。あるが、それよりも彼女の役に立てる事のほうが大事だと思った。
ただ一つだけ、思い残しがある。ワタシも彼女を抱き締める力を強めながら、最後のお願いを口にすることにした。
「貴女の名前を、教えて頂けませんか。」
そう、ワタシは彼女の名前を知らない。死ぬのは構わない。むしろ喜びさえ感じている。しかし、恋したヒトの名前だけは胸に抱いて死にたい。
「私は。私の名前は。」
「éclat。遠い昔の言葉で、煌めきという意味だと教えられたわ。」
エクラ。煌めき。なんてこの夜にふさわしい名前だろう。これからワタシ達は星になるが、きっと彼女は他のどの星よりも輝くのだろう。できればそれを、この場所で眺めたかった。
「素敵な名前だね。」
「最後に知れて嬉しい。」
彼女の手に、また少し力が籠もった。旅立ちの時間が来たのだ。愛しいヒトがなるべく苦しまないように、そっと心臓のある部分に刃先をあてる。
「ありがとう。貴方のおかげで、やっと終わる。」
ワタシの背中にも、刃先の冷たい感触が当たる。彼女の安心したような声は、それだけでワタシの人生に意味を与えてくれた。
「━━さよなら。」
一際強い風が吹いた。背中から全身に広がる熱さに耐えようと、互いにぎゅうと抱き合う。そのうち足元が覚束無くなって、2人同時に倒れた。ワタシは遠くなる意識の中、それでもこの腕を離してなるものかと彼女の…エクラの身体を抱き寄せた。ワタシの胸にエクラが頭をそっと寄せる。最後にくれた彼女からの気持ちに、もどかしさと愛しさを感じたのを最後に、ワタシ達は動かなくなった。
世界の夜空に、また2つの星が増えた。




