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自覚せざる大審問官としての三宅香帆

掲載日:2026/07/18

 三宅香帆という最近売れっ子の評論家がいる。私からすると評論家でもなんでもないが、評論家という事にしておく。

 

 さきほど見たニュースで、三宅の記事が載っていた。その中に次のような言葉があった。

 

 「検索やAIは「情報」をピンポイントで返してくれるが、本には知りたいこと以外の「知識」も書かれている。最近は、背景の知識が「ノイズ」と映り、本はまどろっこしいメディアに見えるのではないか。」

 

 (「AI時代「ノイズ」必要 新発想は関心の外に 文芸評論家 三宅香帆さん」 読売新聞オンライン)

 

 上記の文章の後には「でもアナログな知識の取り入れも大切だよね」的な事が語られる。「本を読む事はノイズかもしれないけど素晴らしいよね」という感じだ。

 

 まず、私の全体的な印象を言うと「昔と違って最近は露骨になったなあ」という事だ。三宅香帆のような典型的な大衆迎合者も、昔であればもう少しごまかしながら出てきていた。今は大衆迎合が基本ですらあるので、そういう事が恥ずかしいという感じもなく、露骨に前に出てくるようになっている。

 

 これは彼女が見た目のいい若い女性という事も含んでいる。というか、三宅香帆のような人物だとそういう要素も計算に入れないとそもそも論じる事ができない。

 

 それと三宅香帆を批判する事そのものは難しくないのだが、私自身はそれだけではつまらないと思うので、三宅がどうこうと言ったレベルとは違う本質的な事も考えておきたい。


 ※

 そもそも三宅香帆はどういう事をしているのか。私が驚いたのは彼女の「文体のひみつ」という本を手に取った時だ。

 

 「文体のひみつ」のレイアウトは、大学生の小綺麗なノート風で、文章の態すら成していない。わかりやすいと言えばわかりやすいが、私はその時、(最近の本ってここまで進化したんだ)と悪い意味で思った。これもまた大衆迎合が露骨になった一例と言える。

 

 私が驚いたのは「文体のひみつ」というタイトルで、文体について取り上げ、文体というものを肯定的に取り扱っている本それ自体が、形式としては文体を否定しているという事だった。「文体のひみつ」それ自体には文体がなく、ただわかりやすさ(概念としての理解)だけを目指した作りになっている。私が興味深いのはこの矛盾の構造であり、この文章で取り上げるのはこの構造となる。

 

 最初に取り上げた三宅の「AI時代 ノイズ必要」という記事も、私には同じ構造としか思えなかった。というのは、三宅香帆がやっているのはノイズの除去でしかないからだ。

 

 私は三宅を全く良いと思えないので、(こういうのを読んでいるのはどういう人だろう)とネットで検索をかけた。色々出てきたが、その中で私が納得できたのはある人が「三宅香帆さんは私の読書のハードルを下げてくれた」と感謝を述べていた事だ。確かに、そういう事なら納得できる。

 

 この「読書のハードルを下げる」とは「ノイズ」を除去する事でしかないと思う。また、もっと言えばそもそも三宅香帆自身の言っている事はAIのジェミニによく似ている。八方美人的で誰にも当たり障りなく、常識的で穏当で優等生的な事を言うのがジェミニによく似ている。AIっぽい言説の、ノイズを除去してまわる仕事の人が「AI時代にノイズは必要」と言っているわけだ。

 

 三宅のやっている事についてもう少しだけ書いておく。これは以前から言っている事だが、私はいつも登山に例えている。読書を教える人間が仮にいるとしたら、それは本来山に登る為の技術、装備の使い方や体力づくりを教えるようなものだと言えるだろう。最初は低い山で試して、徐々に高い山を目指していく。ゲーテとかドストエフスキーは高い山だととりあえず言えるだろう。

 

 一方、三宅香帆のような大衆迎合者は、山の頂点を地面にひきずりおろす。自分の足で苦労して登るのではなく、山頂を模したオブジェを地上に作って、「これさえ拝めばあなたも山の頂上に登った事になりますよ、ご利益がありますよ、苦労して山に登らなくてもいいですよ」と宣伝してまわる。登山の苦しみや辛さは嫌だが、山頂に登ったという達成感を味わいたい大衆はこういう存在に金を払い、ありがたくオブジェを拝む。こういう事が彼女のような人たちがしている事だろう。

 

 今、私が言った事は「三宅香帆さんは読書のハードルを下げてくれた」という感想とよく合致する。これは読書家のレベルを上げるのではなく、書物の方のレベルを下げる事を意味するだろう。しかし書物のレベルを下げる事は本質的には不可能なので、その為には色々な技巧が必要となる。三宅の場合は例えば「文体」に着目して「ほらこんなに簡単ですよ、面白いんですよ」と言う。これも一つの方法だろう。

 

 ※

 三宅香帆はそういう人だと私は思う。ノイズを除去して単一の言説を聴衆に聞かせながら、「ノイズは大切ですよ。単一の言説は良くないですよ。対話的なものが素晴らしいですよ」というような事を言う。その言説そのものは対話的ではない。

 

 こうした事はしかし、三宅をありがたく受け取っている人からは見えない構造だろうと思う。つまり、三宅香帆そのものは分裂しているのだが、彼女はファンに対しては分裂を隠し通さなければならない。ここに私が興味深く感じるポイントがある。

 

 この事は、ドストエフスキーが「カラマーゾフの兄弟」の大審問官というエピソードで扱っている事なので、大審問官と比較しつつ考えたい。結論から言っておくなら、三宅香帆や頭木弘樹(編集者)のような人は存在としては大審問官に近い。彼らはキリストの否定者である。しかし彼らの言説レベルでは、キリストを称揚している。

 

 これを実際の状態にずらすと、三宅香帆や頭木弘樹といった人達は文学を称賛しているのだが、実際には文学を否定している。彼らは文学の複雑さを単純な概念に置き換え、わかりやすいもの、食べやすいものにして大衆に配る。大衆はそれで「文学の滋味」を味わっている気分を得る。しかし実際には、文学でも何でもない。

 

 ドストエフスキーの大審問官に戻ると、大審問官自体は、ドストエフスキーという大天才が書いたキャラクターなので自己が何をしているか全て自覚している。私は三宅香帆や頭木弘樹といった人は、自覚せざる大審問官だと考えているが、もし彼らが自分達のしている全てに自覚していたとしたら、おそらく今のポジションにいる事に耐えられないだろうと思う。

 

 大審問官が自分のしている事を全て論理的に語るのはあくまで天才作家が全てを語らせる事を心得ているからだ。だから、このような人物は現実には存在するのが難しいと言ってもいいかもしれない。私には生身の人間がこのような矛盾に耐えられるとは思えない。

 

 さて、ではそもそも大審問官はどのような事を言っているか。大審問官は、異端審問が最も激しい時のキリスト教社会の最高権力者だ。彼は大衆をどのように支配しているかを、普通の人間の形で現れたキリストに流々語る。キリストは終始無言である。

 

 大審問官は大衆を支配している。その支配形式はキリストの栄光を基礎としているが、キリストが人間に与えようとしたものの真逆となっている。

 

 キリストにおいて重要なのは「人はパンのみにて生きるにあらず」だ。この事は、人間が自己の欲望を否定し、精神に仕える事を可能としている。私はこれを「自由」と解する。一方、このような高潔な思想はキリストと、その弟子となれるような少数の選ばれた強き者(これを弱いとも見れるが)だけに可能なもので、普通の人間にはあまりにも厳しい要求だ。

 

 大審問官はキリストのした事を正確に理解した上で、しかしキリストに背き、大衆を支配する。ある意味で大審問官はキリスト以上に慈愛に満ちた存在だ。大審問官は人々に気を遣い、彼らが精神的に満足できるような状態を作ってやる。

 

 大審問官は、悪魔が裏返った存在と言える。大審問官はキリストの名において人々にパンを与える。こうする事によってキリストという精神的象徴とパンという物質的象徴とが高い次元で「止揚」されたかに見える。だがこの二つは本来は調和しない矛盾である。大審問官は自らこの矛盾を背負う。彼は苦悩に満ちているが、大衆に向かう時、彼はその苦悩を表してはならない。彼は分裂を隠す。

 

 大審問官は奇跡と神秘と権威で大衆を支配する。しかしそれは大衆が支配されたいという欲望を叶えているに過ぎない。大衆は、自らの精神的な自由、地上のパンを捨て天上のパンに仕える力を持たない。だが、このような暴露をして大衆の精神を傷つける事は大衆も好まない。大衆が望むのは単一の声だ。だが、この単一の声を大衆に与える為に、単一の声を与える存在は分裂せざるを得ない。

 

 こうした存在はこの世に奇跡も神秘もない事を知りつつ、奇跡や神秘の真似事を人々に与える。地上のパンを天上のパンと偽り人々に与える。これならば、人々のプライドが傷つく事もないし、その弱さが暴露される事もない。大審問官は「優しい」のだ。

 

 ※

 以上のような事はしかし天才作家のドストエフスキーが考えた構想であって、現実ではない。本来、大審問官は楽屋裏を見られてはならない。

 

 この事を三宅香帆という人に適用するとどうなるだろうか。彼女のしている事は教養の否定である。文学の否定であり、古典の否定であろう。しかし彼女はそうしたものを褒め称え、そうしたものを普通の人が食べられるような柔らかい、優しい味わいにして人々に与える。人々はそうした業を行う彼女を褒め称える。

 

 しかしそもそも何故こんな事が行われなければならないだろうか。それは彼女が占めているポジションが答えになっていると思う。

 

 結論から言えば、今のインターネットのように、あまりにもあからさまに世俗的なものは回避される傾向がある。それは万人にとってもある程度は恥ずかしいものでもある。

 

 例えば、ネットで大人気のユーチューバーがテレビにはなかなか出られないというのは、あまりにも大衆的で俗っぽすぎて、多少は綺麗な仮装が必要なテレビという世界に召喚しにくい。

 

 あからさまな世俗性というのは大衆にとってもあまり大っぴらにされたくないものだ。とはいえ、彼らは難しいものを骨折って理解する力はない。そこで、三宅香帆のような存在が召喚される。彼女を褒める事は「本を読んでいる事」にもなるし、そこまで恥ずかしくない存在と考えられるからだ。

 

 三宅香帆という人はそういうポジションを今の社会で担っているのだと思う。人気ユーチューバーのように世俗的過ぎないが、そこそこに柔らかくて、知的な要素も兼ね備えている、そういう存在として。

 

 しかしその実質はこれまで見てきたように、大衆に対して知性的なものを知性的でなくして大衆に与える存在でしかない。天上のパンを地上のパンに変換して人々に与える事。あるいは地上のパンには天上的な要素が含まれていると説いて回る事、それを流布する役割として彼女は存在している。

 

 ※

 これまで書いてきた事を振り返ると、大審問官的な要素というのは資本主義と相性が良いなと私は感じた。というより、資本主義それ自体が巨大な大審問官と言ってもいいかもしれない。資本主義においては世俗的なものと天上的なものは金や物という形で「止揚」されており、人々はそれを跪拝しているからだ。

 

 私は三宅香帆という人について述べてきたが、そう考えると、彼女もこの大きな大審問官の一部の小審問官とでも言った方がいいかもしれない。

 

 ただ、彼女の内部に分裂がある事は確かであるし、いずれ彼女はその分裂に押しつぶされるかもしれない。大審問官が大衆の為の欺瞞に留まり続ける事に精神的な苦痛が存在するように。

 

 …しかし実際はそこまで行かず、彼女が年を取って「おばさん」になってしまえば、もう用済みという事でシステムに捨てられるかもしれない。こう言うと「それはルッキズムでけしからん!」と批判されるかもしれないが、そもそも精神的なものを否定するとルッキズムのような世俗的な有用さが価値とならざるを得ないのだ。

 

 そういう意味では例えばシモーヌ・ヴェイユが「美人だから人気がある」みたいな事があったとしてもそれはヴェイユの本質とは全然関係ないと言えるが、三宅香帆という人に至ってはそうとは言えない。

 

 しかしそのような些細な事で彼女がメディアから消える事になったとしても、それは彼女自身がそうした修羅の道を選んだからそうなった、としか言えないだろう。

 

 この道はいかにも優しい、美しい草花で着飾ってあるのだが、実際には大審問官がいつ大衆の縛り首にされるともわからないのと同じように、現実の酷薄さがその下には潜在している。

 

 八方美人的で柔らかい三宅香帆という人も現実の厳しさから逃げる訳にはいかない。彼女を跪拝するファンは一方的な声援を送ってくれるだろうが、彼らがどれだけ師の単一の声を絶対化しようとも、そもそもこの世界も、人間も分裂して存在しているという事実から逃げるわけにはいかないからだ。


 注:三宅香帆はある件で炎上批判された。なので、私の言うほど三宅は大衆から支持されていないではないか、という批判もあるかもしれない。


 ただ私はそのような批判があったとしてもそれは大審問官的な身振りそのものが批判されているのではなく、もっとうまく大衆の願望に沿った「芝居」をして欲しい、というメッセージでしかないと解釈している。全体の構造そのものは変わっていないと思う。



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