誰かの『またな~』の後で ~児童館のせんせー
児童館とは、児童福祉法第40条に基づき、18歳未満の子供が自由に利用できる児童福祉施設である。
専門の職員・・・児童厚生員が配置され、遊びを通じて子供達の健やかな成長を支えている。
また、施設によっては学童保育(放課後児童クラブ)が併設されている事もある。
これは、そんな場所でのある日の出来事である。
ボールが、壁にぶつかって鈍い音を立てた。
ドン、と一回。
間を置かず、もう一回。
またか。
匠は奥歯をわずかに噛みしめる。注意する前から、どう返ってくるかがわかってしまう。やめろと言えば、やめない。理由を言えば、笑う。
それでも言わなきゃいけない場所で、言う側にいる自分が、少しだけ面倒だった。
「やめろって言ってるだろ」
低く落ちた声に空気が一瞬だけ止まる。ちゃんと届いた手応えはある。けれど、それで終わる相手じゃない事も知っている。
「当たってねーじゃん別に」
笑いながら言い返したのは、小学5年の史人だった。
ほらな。
胸の奥で小さく舌打ちをする。正論は、こういう場面では一番軽く扱われる。当たってないからいい。まだ大丈夫、だから続ける。幼稚な理論だ。
そうやって、ぎりぎりを踏み越える癖がついていく。
その隣で、小学3年の新が更にボールを強く蹴る。
今度は床を滑って、本棚の足にぶつかった。がた、と本が揺れる。
危ない、じゃない。危なくなる前に止めるのが仕事だ。ゲンコツでも落とせば、一発で静かになる。
そんな考えが、反射みたいに浮かぶ。
だが同時に、それが何を意味するかも知っている。今の時代、それをやれば指導じゃ済まない。簡単に虐待の線に踏み込む。
だから、やらない。やれない、じゃない。選ばないだけだ。
「危ない」
匠は二人に歩み寄る。足音は静かだけど、逃がさない距離で止まる。
この距離。逃げようと思えば逃げられる。でも逃げにくい。怒鳴らなくても、圧だけは伝わる位置。
「ここ、遊戯室じゃない。わかってるよな」
視線を落とすでもなく、二人をまっすぐ見る。目を逸らしたら負ける、なんて思っているわけじゃない。ただ、逸らした瞬間に本気じゃないと判断されるのがわかっている。
新が、鼻で笑った。
「わかってるけど?」
そう来るよな。
匠は一拍だけ息を止める。言葉を選ぶ余裕は、もうあまりない。
「だったらやめろ」
「つまんねーじゃん」
即答だった。
史人が肩を揺らして笑う。
「ここさ、静かすぎんだよ。なんか気持ち悪い」
確かに、この部屋は静かだ。声を潜める場所として大人が作った空間。
壁際には低い本棚が並び、角の丸いテーブルと小さめの椅子が幾つか置かれている。床には寝そべっても大丈夫なように柔らかいマットが敷かれ、足音はほとんど吸い込まれてしまう。
蛍光灯の光もどこか一段落とされたように柔らかく、窓から差し込む陽の光が埃を静かに浮かせていた。
落ち着くための場所。だが、その静けさが必要な子達もいる。
匠は新と史人から嫌な感じを受けた。
部屋の端で本を読んでいた低学年の子が、びくっと肩を揺らした。
その反応に、新が気づく。獲物を見つけたみたいに、にやぁと口元が歪む。
「ほら、ビビってる」
そのまま、わざと足音を大きくして近づく。
「なに読んでんの?」
しゃがみこんで、更にわざと近く顔を覗き込む。
その子は答えない。ただ、本を握る手に力が入る。
「無視?」
声が少しだけ低くなる。
その時だった。
部屋の端で様子を見ていたベテラン職員の京子が、すっと一歩踏み出す。
丸みのある体つきに、無理のない動き。背筋はぴんと伸びているわけではないのに、不思議と崩れない。短く整えられた髪は気取らず、それでいて清潔感がある。
普段はよく動く表情も、今は静かに落ち着いていた。口元にわずかな緩みを残しながら、目の奥だけがきゅっと締まっている。その目に、軽さはない。怒っているわけでもないのに、ここから先は違うと立つ強さがある。
本を読む子のすぐ横に立ち、さりげなくその前に体を入れた。
押し返すでも、睨みつけるでもない。ただそこに立つだけで間に境界ができる。
その瞬間。
「新」
匠の声は、さっきよりも一段だけ強く落ちた。
新の動きが止まる。
「ボール遊びがしたいなら、遊戯室でやれ。それ以上やるなら、外出るか、帰るか選べ。他の子達の迷惑になっている」
「は? 警察と親に言うぞ。オマエなんて首だからなっ」
「言うなら、言え。自分行動が間違っていないと思うならな」
ゆっくり立ち上がる新。
目が、まっすぐ匠を睨む。
「なんで俺だけに言うっ」
「だけじゃない。二人ともだ」
史人にも視線を向ける。
「他の子達の迷惑だ。その最低限のルールを守れないなら、ここにはいられない」
少しの沈黙。
史人が、先に口を開いた。
「・・・別にいいし」
そう言って、ボールを拾い上げる。
「外行こーぜ、新」
軽い調子。けれど、どこか試すような目。
新は一瞬だけ迷うように視線を揺らした。
「・・・チッ」
舌打ちをひとつ。
そのまま、匠の腰辺りにわざと軽くぶつかるようにして通り過ぎる。
「つまんねー」
吐き捨てるみたいに言って、出入口へ向かう。
史人が後ろで笑う。
「またな~ちゃんと仕事しとけよ~」
ひらひらと手を振る仕草。
ドアが乱暴に閉まった。ばたん、という音がやけに大きく響く。
静けさが戻る。でも、それは元の静けさじゃない。さっきまでの空気をどこか引きずったままの、重たい静けさ。
「大丈夫?」
京子はしゃがんで、声をかけている。
その子は小さく、こくんと頷く。
その様子に、少し離れたところにいた悠子が、ゆっくりと近づいてくる。
「お疲れさん」
柔らかい声。でも、その奥に少しだけため息が混じる。
「・・・あの二人、また来ますかね」
匠は言いながら明日もまた来るだろうなとしか思えない。
悠子は少しだけ間を置いた。
「来ると思う」
窓の外に視線をやる。まだ、あの二人の姿が見えているのかもしれない。
「来る場所、ここしかない子達だから」
その言い方は優しいのに、どこか引っかかる。逃げ場って事か。匠は何も言わない。言葉にしてしまえば、軽くなる気がした。
「でも」
悠子は続ける。すらりとした立ち姿に、整えられた肩までの髪。穏やかな表情の奥で目元だけが微かに冷えている。
「来た時にどうするかは、考えておかないとね」
静かな声。けれど、その静けさはさっきまでとは違う意味を持っていた。試されてるな。
匠は、ほんの僅かに息を整える。
次の日。
児童館は、いつも通りの時間に開いて、いつも通りに子供達が来て、いつも通りに走り回って、いつも通りにケンカして・・・そして、少しだけ静かだった。
でも、その続きは来なかった。
「・・・来ないですね」
匠が、ぽつりと言う。誰とも言わないのに、誰を指すのかわかっている。
「一日くらいなら、珍しくないけどね」
そう言いながらも、来館カード置き場に目をやる。
金曜。
来ない。
土曜。
やっぱり、来ない。
週明け月曜。あんなに毎日憎まれ口を叩きに来ていたのに、来ない。
火曜も来なかった。
水曜の放課後。
低学年の子供達が、折り紙を広げているテーブルの端で。
「ねえ」
匠は、なるべく自然な声で話しかける。
「最近、新、見てる?」
何人かが顔を上げて、互いに目を見合わせる。
少しの間。その中の一人が小さく言った。
「・・・ケンカした」
「誰と?」
「史人くん」
空気がほんの少しだけ変わる。
匠は表情を変えないまま続きを待つ。
「なんか・・・ゲームで」
「ゲーム?」
「うん。カードのやつ。ずるしたって」
別の子が口を挟む。
「新くん、めっちゃ怒ってた」
「史人くんも」
「押したりしてた」
言葉がぽつぽつと落ちる。
断片的で、でも十分だった。
「それで?」
匠は促す。
最初に話した子が、少しだけ声をひそめた。
「・・・次の日から学校、来てない」
その日の帰り際。
ランドセルを背負いながら、ひとりの子がぽつりとこぼした。
「史人くんさ」
振り返る。
「新くんのカード、盗ったって言ってた」
「盗った?」
「うん。レアなやつ。欲しかったからって」
軽い調子。
でも、その軽さが逆に引っかかる。それで済ませていい話じゃないと。
「それで?」
「新くん、めっちゃ怒ってた」
そこまでは、さっきと同じ。
でも、その子は少しだけ声を落とした。
「でもさ、史人くんもさ」
更に声を潜める。
「どうせオマエのじゃねーだろって」
その言葉が妙に残った。
『どうせオマエのじゃない』
カードの話だけじゃない響き。何か他の事も疑われている響き。自分のものじゃないから、雑に扱っていい。そんな理屈も透けて見える。
匠は僅かに眉を寄せる。
放っておいていい言葉じゃない。
木曜。
別の子から、似たようで違う話を聞く。
「外でさ、やってたよ」
「何を?」
「押し合い。新くん、めっちゃ怒ってて」
手で押す仕草をする。
隣にいた子も話し始める。
「髪引っ張ってて、」
「史人くんも、やり返してた」
「止めたの?」
「ううん」
首を振る。
「なんか・・・怖くて」
その怖さが匠の中で少しだけ形になる。ただのケンカじゃない時の、空気のやつだ。
金曜。
今度は、少し年上の子が面倒くさそうに言った。
「どっちも悪いよ」
「どういう事?」
「史人、前からちょっとやってたじゃん。人のカード勝手に持って行ったりさ」
「・・・」
「新もさ、すぐキレるし」
肩をすくめる。
「今回だけじゃないよ、多分」
断片が、少しずつ増える。
でも。
どれも決定的ではない。だから余計に想像が入り込む。
匠の中で場面が組み上がっていく。
カードを巡って言い合いになって。
新が強く出て。
史人が引かずに、余計な一言を乗せて。
『どうせオマエのじゃない』
その言葉に新が止まって。
次の瞬間、押したのか、殴ったのか。
そこは、わからない。
「・・・想像で補わない方がいいよ」
背後からの声。振り向くと悠子が立っていた。
いつの間にか話を聞いていたらしい。
「ありがとうね」
子供達に微笑んで会話を切り上げる。離れてから、匠に小さく言う。
「二人が来てない理由、それかもね」
「・・・あの感じだと、どっちも引かないですよね」
「ええ」
短く頷く。でも、その頷きは軽くない。
「顔に出てる」
少しだけ苦笑する。匠は息をひとつ吐いた。
「すみません」
「別に」
すぐに返ってくる。
「考えるのは必要だから」
ただ、と続ける。
「事実と想像と混ぜると、見誤る」
匠は頷く。わかっているつもりだった。
でも。
『どうせオマエのじゃない』という言葉だけは、どうしても引っかかっていた。
その日の夕方。
閉館後の静かな時間。窓の外は、もう暗い。
「学校には、確認しました?」
匠が、事務スペースで書類を整えながら聞く。
「さっき、学校に電話しました」
京子がため息混じりに呟いた。
「新くん、ずっと休んでるみたいです」
紙をめくる音が、止まる。
「史人は?」
「それも、同じく」
沈黙。短いけれど、重い。
「学校は、何か言ってましたか」
問いかける。
京子は少しだけ視線を落とした。
「詳しくは教えてもらえない」
当然といえば当然。
「ただ二人とも、同じ日に休み始めたって」
同時。それだけで、十分だった。
静かなフロアを見渡す。
走り回る子はいない。
大きな声もない。
問題は、今ここにはない。
なのに。
「・・・外で続いてるかもしれないですね」
匠の言葉に、京子も悠子も否定しなかった。
「そうかもね」
短く。
それだけ。
あの二人がここじゃないどこかで、同じ続きをやっているのか。
それとも。
もう、別の形に変わってしまっているのか。
「来た時が、大事だね」
悠子が言う。
その来た時が、来るかどうかもわからないのに。それでも、そう言うしかない事もわかっている。
匠は頷いた。考えるのは、その時でいい。
そう思いたいのに。
頭の中では、まだ途中の場面が何度も繰り返されていた。
「ただのケンカ、では終わってないかもしれないね」
悠子の声は落ち着いている。
けれど、その中に僅かな硬さが混じる。指先が組み直され、その一瞬に警戒の色が滲んだ。
「親も出てきて、大事にならなければいいけど」
京子の言葉には実感がこもっている。何度もそういう場面を見てきたのだろう。小さく息を吐きながらも視線はパソコンの画面に落としたまま、手慣れた動きで書類の入力を続けている。
匠も短く答える。視線は机ではなく、その向こう。子供達が過ごしていた空間の方へ向ける。
さっきまでのざわめきが嘘みたいに、静か。
「・・・何か、できないですかね」
思ったよりも小さい声だった。独り言みたいに落ちたそれを、悠子は拾う。
「児童館が現場でもない。その子の権利を主張できる立場でもない」
淡々とした言い方。
責めるでもなく、慰めるでもなく。
「児童館の職員なんて、こんな時は無力なもんよ」
少しだけ間を置いて、そう続ける。
言葉は軽くないのに声は静かだった。
匠は何も返さない。ただ、その言葉を受け止めるしかない。
視線の先には誰もいない。
けれど、そこにいたはずの気配だけが消えきらずに残っている。
「・・・ああいう子ほど」
京子が、ぽつりと言う。
「居場所なくすと、一気に崩れるから」
匠はゆっくりと息を吐いた。
何も言えないまま。
何もできないまま。
ただ、その言葉だけが静かに沈んでいった。
読んでくださってありがとうございます(*_ _)
ポイントを入れてもらえると、嬉しいです。




