水神の記憶(5/5)「杯に注ぐもの」
シノの視線の先を追うと、また石でできた人の形が、木板に守られて座っていた。
「これはなに?」と僕は訊ねる。
「風神の祠さ」とシノは答えて、手を合わせて祈った。僕も近寄っていって、シノの真似をして手を合わせる。
祈り終わってから、僕は「石像がいっぱいあるんだね」と素朴に言った。シノは真面目な顔をして語り始める。
「これはな、かつてここに生きた人たちの、想いの証みたいなもんだ。今はいない、誰も覚えていない、けれどかつて確かに在った。それを忘れないために……昔の話だけじゃない。在るものの殆どは、時が過ぎれば忘れ去られていく。だからせめて一時だけでも、思い起こすように祈るのさ」
それからシノは僕を帰り道へと案内していった。斜面を下り、分かれ道を曲がり、苔の道を超える。気付けばだんだん人の歩いた痕跡が感じられるようになる。
そうして池の横を道が通ったとき、僕はその池に見覚えがあった。水草がゆっくり揺れているのが見える。濃い緑色の水面にはスイレンの花が咲いている。その白い花を見て、僕はシノに向かって大きな声で言った。絶対に、これだけは言わないといけない、そう思った。
「シノ、僕忘れないよ!この山でシノと会ったことも、夜にシノがした昔話も、綺麗な景色も、この白い花のことも、忘れない!ずっと覚えてるよ!」
透き通る瞳で僕を見ていたシノは、はじめて穏やかな表情を見せて薄く笑った。それから背を向けると、片手を上げて「達者でやんなよ!」と言い歩き去っていく。
「え、帰り道は!?」
「あとは一人で帰んなあ」
慌ててシノを追いかけたけれど、木の幹に姿が隠れて、それっきり姿が見えなくなった。
僕は諦めて池の前まで戻ってきた。道は続いているけれど、なんだか振り出しに戻ったような感じがした。この道を歩いて行っても帰れないんじゃないか、そんな強い予感がする。
僕はその場に座り込み、途方にくれて、膝を抱えた。気付けば僕は泣いていた。
涙は頬を伝ってとめどなく流れていく。木々は風にささめくこともなく、静かに立ち並んで僕を見ている。鼬が一匹、草陰から顔を出し、泣いている僕を見て首をかしげた。湿った植物の匂いがあたりに漂っている。
泣いていても仕方ない。僕は顔を上げて、帰り道を探るために道の向こうを見た。しかし道の先は霞んでいてよく見えない。僕は目を凝らした。
――そうではない――
頭の中に響くような声が、また聞こえた。
――故郷を想うというのは、遠くを見ることではない。故郷の水で心を浸すということだ。胸の内にそれを満たすのだ――
目に見えない手が、僕の胸をそっと撫でる感触がする。
――やってみるがよい――
僕は目を閉じて、未だ帰れない家のことを思い浮かべた。
あたたかい湯舟から立ち昇る湯気や、蛇口から滴り落ちる水の音。机の上に広げられたノートと教科書、ゲームがつないであるテレビ画面。キッチンからリビングに、小気味良い包丁の音が飛んでくる。僕を呼ぶおかあさんの声が聞こえる……
とぷん、と全身が水に浸かる感触がした。
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「先生、起きて下さいよ、先生!」
微睡みの中で誰かが僕を呼ぶ声がする。
「う……ん、ん~……」
「先生ってば!」
背中をゆすられて僕は目を覚ます。むせかえるような草の匂いは消えて、起きてすぐ、鼻につくインクが意識を覚醒させた。机の上にはイラスト原画が広げられたままになっていて、インクが倒れて服の袖と、原画の三分の一ほどが黒く染まっている。
「あ~……」
「あ~じゃないですよ、袖も真っ黒じゃないですか!」
「……ごめん、机の上片づけといて、この服洗ってくるわ」
「ほんとにもう、落ちるわけないじゃないですか。無理ですよその服、捨ててください」
「あ~あ」
「わ、何考えてるんですかここで脱がないでください!」
川沿いに建つ家の、小さな一室で僕は目を覚ました。アシスタントに騒がれるまま部屋から出て着替え、汚れた服をゴミ箱に放り込んで元いた椅子に座る。彼女は傍の丸椅子に座って腕を組み、すっかり説教モードになっている。
「まったく、制作中に寝ちゃうなんて。ありえないですよ普通。だいたい、徹夜続きで描いてるからそういうことになるんです。自己管理、そう自己管理ができてません。ほんとに社会人なんですか?」
「たはは、そこまで言われちゃうかあ……真世ちゃんだってまだ社会に出てないだろう?」
「む、私がまだ高校生なのはいま関係ありません。そもそも、いくら親戚だって、高校生にアシスタントさせてる方がおかしいんですよ!給料だってお小遣い程度だし」
「たはは……」
僕が眉を下げて申し訳なさそうに笑うと、真世ちゃんは少し心配そうな顔になった。
「……原画、どうするんですか?〆切今日までですよね」
僕は「そうだねえ……」と呟いてぼんやり机の上を眺める。あらかた描いたイラストがダメになるのは、たしかにショックだ。でも、原画も障子紙と一緒だ。破れてしまったならまた貼り直せばいい。ダメになったなら、また描き直せばいい。
「せっかくだから、イメージ膨らませてもう一度描くよ。悪いけど真世ちゃん、ちょっと出て行ってくれる?」
元気でちょっと説教臭い僕のアシスタントは、やれやれ、という顔をして部屋から出て行った。いい子だな、と思う。人の顔色をうかがうことの多い僕だけれど、彼女だけは、気の置けない態度で接することができる。
田舎の山の手に建つ家の一室は、それで静かになる。僕は窓を開けて風を招き入れ、音楽をかけてぼんやり外を眺めた。
それから深く息を吸って目を閉じ、頭の中でイメージを膨らませた。過ぎ去りし過去と、遠い場所、山の上を吹き渡る一陣の風。そうしてスピーカーから穏やかに聴こえる現在……
水の音が聴こえる。




