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水神の記憶(4/5)「忘れ去られるもの」

 全身の骨を揺さぶられるような恐怖に耐えかねて、僕は目をつぶった。


 物音はゆっくりと僕の方へ近づいてくる。部屋に入ってきたなにかが、明らかに障子戸から離れたタイミングで戸が閉まる。しかしそれを境に物音はしなくなった。


 僕はじっと身動きせず耳だけに神経を集中させて、周りの様子をうかがい続けた。しかしもう音は聞こえない。


 気のせいだったのかな?


 そんな安堵が浮かびそうになった瞬間、枕元のすぐ近くから声がした。


――起キテオルナ――


 反射的に僕は目を開こうとした。しかし瞼が動かない。


――見ズトモヨイ――


 明らかに大人の声だ。それなのに、男性なのか女性なのかがわからない。頭の中に直接響くような、今まで聞いたことのない声色だ。


 ゆっくりと、枕元から顔を覗き込まれる気配。身体がぴくりとも動かない。


 あまりの恐怖に僕は気が遠くなる。そのとき、胸を撫でられる感触がした。


 はじめ僕はがたがたと震えていたけれど、丁寧に胸をなぞられるうち、なんだか恐怖心が消えていった。


 目に見えないなにかが僕の胸を撫で続ける。あたたかい感触が心の中に広がっていく。


 幼いころ、かあさんに抱かれて眠ったときのような、安らかな心地よさを感じた。


 少しして声がまた飛んでくる。声の響き方に慣れてきたのか、さっきより自然に聞こえた。


――珍しい。人間の心の壁はたいていもっと硬いものだが、お前の心の壁はこの紙のようだ――


 聞こえてくる言葉に反応するみたいに瞼が開き、視線が障子戸の方へ吸い寄せられる。暗くて見えるはずのない障子戸は、淡く光って闇の中に浮いていた。


――光をよく通すが、破れやすい――


 障子紙が音を立てて破れ落ちた。


 僕は目に見えないなにかに身体を委ねたまま、頭に響いた言葉の意味について考えた。紙のように破れやすいというのは、心が弱いということだろうか?この声は、僕の弱さを指摘しているのだろうか?


――そうではない。世界との距離が近いということだ。感じやすく、それゆえ傷つきやすいが、紙であるならば、張り替えればよい――


 シュッと音がして、僕の顔の少し上に和紙が現れる。それはひとりでに空間を舞うと、障子戸にピタリと張り付いた。僕はじっとそれを見ている。


――それよりも気をつけるべきは、心を乾かさんことだ。乾いた心は、脆く、固くなる。水に飢えて、しかし水を受け付けなくなる。それはよくない――


 僕はじっと黙ったまま声の話を聞いている。内容が難しく、理解は追いつかない。言葉の響きだけが、刻み付けられるように頭に残る。

 

――お前の指は温かかったから、この器をやろう。決して乾くことのない器を。何を注ぐかは、お前次第だ――


 声がそう唱えると、銀色に光る杯が目の前に現れて、布団の中の身体に音もなく入っていく。


 瞼がするりと閉じ、僕の意識は滝を滑り落ちるように薄れて行った。


「ふわぁ……」


 朝の小鳥の鳴き声の中、大きなあくびをして瞼を擦る。


 目が覚めたとき、部屋には誰もいなかった。シノの姿も、深夜話したなにかの気配もなかった。僕は布団を畳んで押し入れにしまい、火が消えた囲炉裏の前に座って、深夜の記憶を思い返した。


 杯ってなんだろう?あれは夢だったんだろうか?しかし夢にしては、不自然なほどはっきりと覚えている。


 何かの弾ける音が家の前から聞こえてくる。僕は立ち上がり、障子を開けて外の様子を見ると、シノが斧で薪を割っていた。すぐ僕に気が付いて手を止める。


「ああ、起きたか。おはよう。よく眠れたかい?」


「うん……」と僕は気のない返事をする。夜中に不思議な声を聞いたことを人に話す気にはならなかった。


 シノは斧を肩に担いだまま、昨晩と変わらない人懐っこい顔をして笑った。頭の後ろで結ばれた長い髪も変わらない。着ている和服の色だけが、水色に変わっていた。


「朝飯を食べたら出発するよ。悪いけど帰る前にちょっと付き合ってもらう」


「付き合う?」と僕は訊いた。シノは少しめんどくさそうな感じで、投げやりに答える。


「せっかく来たんだから、山の景色を見て行けってさ!」


 遠くの山が霞がかって見える。時々鳥の鳴き声が、鋭く高く聞こえる。先導するシノの足元から、小さな石が、僕の傍を通って転がり落ちていく。


 僕とシノは見晴らしのいい山の、緩やかな斜面を登っていた。歩き続けるにつれて、風がだんだん勢いを増していく。


「風で転ばないようにな」


 シノの声が響く。「うん」と僕も少し大きな声で返事をする。


 家から出てもう、それなりに歩いている。山頂の景色を見せたいのだろうか?と僕は思った。しかし仰ぎ見る道の先は、まだまだ長そうだ。帰る前の寄り道としては、ちょっとどうなんだろう。


 そんなことを考えていたら、シノは道の途中でとつぜん、立ち止まって「ここだ」と言った。

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