水神の記憶(3/5)「朧気な話」
「あいにく風呂はないよ。疲れただろう、くつろぎな。桶の水も飲んでいい」
女の子はそう言うと囲炉裏の前に座った。言われた通り桶に溜まっていた水を柄杓で掬って飲んでから、迷った末に僕も囲炉裏の向かい側に腰を下ろした。
火に照らされた女の子の目は、注意深く薪を見つめている。
「あの、お姉さんは……」と僕が呼びかけると、
「シノでいいよ」と女の子は名乗った。
それから横に置かれていた竹の先端を口にくわえると、薪に向かって息を何度か吹きかける。その様子がとても真剣だから、邪魔したら悪いと思って、僕はそれ以上何も言わなかった。
シノも火を真剣に見つめたまま何も話さない。とても静かで、ときおり薪がはじけるパキッという音だけが響く。やがて何かが釜の中で煮える音が聞こえるようになり、吹きこぼれる水を見て僕は初めてご飯を炊いているのだとわかった。
炊き上がると、シノは木の箱にご飯をよそって冷ましつつ、いくつかある陶器の中から塩や漬物を出してきて箸と一緒に箱の横へ並べた。そうして桶の水で手を濡らして「あちっ、あちっ」と言いながらおにぎりを作った。僕のお腹がぐうと鳴る。
「はい、どうぞ」
「ありがとうございます」
差し出されたおにぎりを僕はありがたく頂いた。塩だけの簡素な味付けだけれど、おいしい。なんだか懐かしい味がする。
一つ食べて、漬物を口に運び、二つ、三つと食べる。椀に注がれた水を飲み、一息つくとずいぶん元気が回復した。
シノは囲炉裏の向こうで薪を棒でくずしたりしながら、僕の様子を何も言わずただ眺めていた。部屋は少しずつ暗くなる。なんだか不思議な感覚だった。ずっと昔に今と同じことをやったような、そんな気がした。
「おいしかった?」
「うん、すごいおいしかった」
「そりゃよかった」
僕が答えると、シノはようやく表情を崩して笑った。人懐っこい笑い方だった。
「シノさんは、ここに住んでるの?」
「だめかい?」
「え」
だめとか、そういう意味で訊いたんじゃない。でもそう聞こえてしまったのかな。勘違いだ。僕は慌てて訂正しようとした。
「ふっ、あははは」
僕が訂正する前に、シノは今度は吹き出すように声をあげて笑った。
「ごめんごめん、冗談、冗談。そういうつもりで訊いたんじゃないことはわかってる。住んでるよ、生まれたときから住んでる」
「そうなんだ」と僕は言って、もう一度部屋の中を見る。お皿の中で燃える火、障子に映る影法師、火に照らされて揺れる陶器の入れ物。
「……寂しいところだと思う?」
「いや、なんだか温かくて懐かしい感じがする」
思ったことを答えると、シノはなぜかとても寂しげな目をした。それから立ち上がり、押入れから布団を出して敷き始める。
「え、もう寝るの?」
まだご飯を食べたばかりなのに。シノはまるで当たり前のように「少し話してから寝るよ。もう暗くなったからね」と答えた。
「話す?」とまた訊くと、シノは呆れた顔をした。
「なんだ知らないのか。食べてすぐ寝るのはよくないんだ。他にすることもないから、お話しするんだよ」
「何を話すの?」
「知るかい、そんなこと。思ったことを話すのさ」
シノは笑いながらそう言って囲炉裏の前に座った。
でも、いきなりお話しをすると言われても、何を話せばいいのかわからない。黙っていたら、シノの方から口を開いた。
「あんた、思い人はいるのか?」
「思い人?」
「好きな子って意味だよ。一人ぼっちで暮らしてるわけじゃないんだろう?」
「うーん、友達は好きな子いたりするけど、僕は誰かを特別に好きになるとか、よくわからないんだ」
「好きになることがよくわからない、か」
シノはそう呟いて腕を組む。僕は少し慌てて付け足す。
「友達はいるよ。誰かが好きっていうよりは、みんなのことが好きなんだ」
シノは「なるほどねえ」と相槌を打ってから暫く何か考えてから、また口を開いた。
「そうだな、昔話をしよう」
「聞きたい」と僕は言う。
「遠い昔、あるところに美しい鬼がいてさ……」
シノの語る話は見てきたように詳しかったけれど、なぜか朧気で儚く、意味がつかみづらい。人の想いについて漠然と想像をめぐらすうち、僕はいつの間にか眠りについていた。
そうして深夜、障子戸の開く音を聞いて目を覚ました。小さな足音が遠ざかっていったから、シノが戸を開けて出て行ったのだとわかった。どこへ行ったんだろう、と思いながら暫く暗闇をみつめていると、足音がまた近づいてきて、部屋の中に誰かが入ってくる。
しかしそれはシノではなかった。布団の中ではっきりとそう感じたとき、寝転んだ背中から冷汗が吹き出し始めた。




