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作者: りな

夕暮れがゆっくりと川面を冷たく染め、草むらの匂いが湿った風と混じる頃、蛍たちが点々と夜を描き始めた。彼は川沿いの石段に腰を下ろし、足先で水を蹴る。彼女は少し離れて立ち、指先でそっと一匹を追いかけていた。薄闇の中で、蛍の光は紙細工のように繊細で、しかも確かに存在していた。


「ここは、いつでも綺麗だ」彼がぽつりと言うと、彼女はふっと笑った。笑いは小さくて、言葉より先に風に溶ける。


「命が、はかないから綺麗なのよ。永遠に光っていたら、綺麗でなくなるわ」


彼はその答えに少し困って、彼女の横顔を見た。輪郭は夜に溶け込みそうで、けれどその目は光を集める鏡のように濡れていた。周りの人たちは彼女を、つまらない、変わっている、おかしい、と言った。彼自身、どうして今日、ここに彼女といるのか分からない。


「そうかな」彼はまた俯き、石のざらつきを指の腹で確かめる。


彼女は続ける。「人の命も、そうよ。終わりがあるから、大切なの。若さは、老いがあるから貴重なのよ」


蛍の光が二人の間を浮遊する。彼はその比喩のほどを全部飲み込めないまま、ただ息をする。彼は、いつも他人の期待を計って生きていた。笑い方、話し方、行く場所まで──ささいな揺れが自分の価値を左右するように思えていた。誰かの顔色を伺う癖は、いつの間にか彼の骨になっていた。


「だから、今を大切に生きろってこと?」彼が訊ねると、彼女は首を横に振った。


「そうだけど、違うわ。明日死んでも、後悔しないように、生きる、てこと」


その瞬間、彼の胸がどくりと跳ねた。言葉が直球で心を打った。後悔、という音の厚みが彼の内側で広がる。自分の毎日は、後悔を避けるための小さな工夫でできている。目立たない服、無難な話題、忖度する笑顔。彼女の言葉は、それらを一つずつ剥がしていく。寒さではない。むしろ冷ややかな光が当たるような感覚。


彼は言葉を探して、でも何も出なかった。彼女は相変わらず蛍を見ていた。灯りがゆらりと揺れるたび、彼女のまつげに光の粒が落ちるように見える。


「君は、そうしているのか?」彼は最後に訊いた。自分でも驚くほど、声が小さかった。


彼女は少し考えてから答えた。「他人の顔色ばかり伺う生活は楽しいの?」その質問は嘲りでも責めでもなく、ただ静かに投げられた。彼は自分の胸に聞いてみると、答えは曖昧だった。楽しい、とは言えないし、苦しいとも言い切れない。日々はただ続いていった。


「私は、少なくとも、明日死んでも笑ってられるように、したいと思ってる。難しいけどね」


彼女はそう言って、片手で蛍を受け止めた。ふわりと暖かい光が彼女の掌を照らし、彼女の顔が淡く薄紙のように透ける。蛍は逃げようともしなかった。彼女はその小さな命を長く見つめたまま、ゆっくりと息を吐いた。世界が一瞬止まったように感じた。川の流れも、虫の声も、遠くの街灯も、すべてが彼女を背後からそっと支えているようだった。


彼はそのとき初めて気づいた。彼女が「変」と言われるのは、彼女の見ている景色がみんなと違うからではなく、みんなが見たがらない景色をちゃんと見ているからだ。彼女の言葉には選択があった。選択はいつも、損得ではなくて、どう生きたいかの方を向いていた。


「怖くないの?」彼は訊いた。蛍が消えてしまうのを恐れるように。


彼女は小さく笑って首を振った。「さあ?」



彼女は蛍をそっと放した。小さな灯りは空中で一瞬だけふらついて、また夜の中に溶けていった。彼女の顔に光が走る。彼はその表情を見て、世界が彼女のために一枚のフィルムを引いたように感じた。彼女は世界に溶け込みそうに見えたが、本当は世界に溶けるのではなく、世界と同じリズムで呼吸しているのだと理解した。


帰り道、彼は普段なら選ぶはずのない細い路地を選んだ。言い訳ではなく、ただ気が向いただけだ。彼女と別れる時、彼はふと立ち止まって言った。


「今日は、有難う」


彼女は振り向いて、小さな笑いを返した。


「此方こそ」


蛍の光が一つ、彼らの上を通り抜けた。小さな光はやがて視野から消えたが、その残像は彼の胸にしばらく留まった。消えても、光った事実は消えない。それは彼女が教えてくれた、たぶん一番簡単で一番難しいことだった。


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