氷の騎士様は、残業帰りのOLを甘やかしたい~異世界で最高の癒やし、見つけました~
騎士団の詰所の厨房は朝から湯気と美味しそうな匂いで満ちている。大きな寸胴鍋の中ではたっぷりの野菜と干し肉から旨味が出たスープがことことと煮込まれていた。
「アズサさん、味見お願いできるかい」
「はい、今行きますね!」
厨房を取り仕切る恰幅のいい料理長、ゴードンさんに呼ばれて私は木のスプーンでスープを一口味見する。
うん、完璧だ。塩気も丁度いい。
「美味しいです!これなら皆さん、きっと喜びます」
「そりゃアズサさんのレシピだからな。あんたが来てから、厨房に立つのが楽しくて仕方ねえよ」
ゴードンさんは豪快な笑顔で私の頭をわしゃわしゃと撫でた。ここにきて、私の名前は「アズサ」で通っている。相川梓というフルネームもそれが日本の名前であることも、今は心の奥にしまってある。
ここ、エルドラド王国の「黒獅子騎士団」の詰所で厄介になり始めてから、一ヶ月が経った。
記憶喪失(という設定)の私を保護してくれたのは、この騎士団の団長であるレオンハルト・フォン・アイゼンヴァルト様。
銀の髪に凍てつくような青い瞳を持つ息をのむほど美しい人。最初は「得体の知れない女」と射殺さんばかりの冷たい視線を向けてきた彼だったが、今では少しだけほんの少しだけ態度が軟化している……と、思う。
たぶん。
私がこの場所で得た役割は厨房の手伝いだ。
騎士たちの食事はそれまで携帯食の焼き固めたパンと干し肉、味気ない豆の塩茹でと余り物を煮詰めたスープが基本だったらしい。
そこで前世で唯一の趣味であり、ストレス発散でもあった料理の知識を総動員した。保存食の作り方、ハーブを使った風味付け、栄養バランスを考えた献立。
それらは驚くほどこの世界の人々に受け入れられた。
特にハードな訓練で常に腹を空かせている若い騎士たちはすっかり私に懐いてくれた。
「アズサー!今日の昼飯なんだー?」
「アズサさんの林檎パイ、また食いてえな!」
屈託のない笑顔で話しかけられるたびに胸の奥がじんわりと温かくなる。誰かの「美味しい」という言葉がこんなにも心を満たしてくれるなんて私は長いこと忘れていた。
「アズサ、これを」
ふと、背後からかけられた低い声に心臓が跳ねた。
振り返るとそこにはレオンハルト様が立っていた。
いつからそこにいたのか、全く気配を感じさせない。
彼は無表情のまま、小さな布の包みを私に差し出した。
「これは……?」
「……近隣の村の者から、献上されたものだ」
「わぁ……!」
包みを開くと中には艶やかな光を放つ木の実が数粒入っていた。初めて見る種類だが、ナッツのような香ばしい匂いがする。
「珍しいものなのか?」
「え、ええ、とても!ありがとうございます。レオンハルト様!」
私が満面の笑みでお礼を言うと、彼は「……そうか」とだけ短く呟き、ふいっと顔をそむけて去っていった。
去り際の耳がほんのり赤かったような気がするのは、きっと私の願望が見せた幻だろう。
彼はいつもこうだ。
ぶっきらぼうで、何を考えているかわからない。
けれど、時々こうして珍しい食材や甘い果物を「献上品だ」「余り物だ」と言って持ってきてくれる。
私が喜ぶのをわかっているかのように。
(優しい人、なんだよな……)
手の中の木の実を見つめ自然と口元が綻ぶ。
なんて穏やかな毎日だろう。
温かい人々に囲まれ、美味しいものを作って喜んでもらえる。たったそれだけのことが夢のように幸せだ。
その幸せな時間の中で。
ふと私の脳裏に、全く別の光景がフラッシュバックした。
チカチカと不規則に点滅する冷たい白色の蛍光灯。
鳴りやまない内線電話のコール音。
隣の部署の課長が、若い部下を怒鳴りつける声。
淀んだ空気に混じる、誰かがデスクで食べているカップ麺の匂い。
______大丈夫です。
______はい、本日中に対応します。
______すみません、私の確認不足です。
感情を殺した私の声が頭の中に響き渡る。
「……っ」
ズキリ、とこめかみが痛んだ。
楽しかったはずの気持ちが急速に冷えていく。
手の中の木の実が、急に色褪せて見えた。
「アズサさん? どうかしたのか、顔色が悪いぞ」
ゴードンさんの心配そうな声に私はハッと我に返る。
「い、いえ、なんでもないです!ちょっと、立ちくらみが……。すみません、少しだけ外の空気を吸ってきてもいいですか?」
「おお、もちろんじゃ。無理はするなよ」
「はい、ありがとうございます」
私は厨房の裏口からそっと外へ出た。壁に背中を預け、ずるずるとその場にしゃがみ込む。
(なんで、今……)
忘れようとしていた記憶。
必死で蓋をしていた泥沼のような日々の光景が、鮮明に蘇ってきていた。
私の前世は地獄だった。
新卒で入社した会社は、いわゆるブラック企業というやつだった。経理部に配属された私は最初こそやる気に満ちていた。けれど、その炎はあっという間に消し炭になった。
月曜の朝8時に出社し終電で帰る。
それが定時。
繁忙期になれば会社に泊まり込むのが当たり前だった。仮眠室なんて気の利いたものはなく私たちは会議室の長机に突っ伏して数時間だけ意識を飛ばす。
「相川!この数字、一桁違うじゃねえか!お前の目は節穴か!」
「すみません!」
「すみませんで済むか!取引先に頭下げてこい!」
上司の怒声がフロアに響き渡る。
私が悪いのだから仕方ない。睡眠不足でぼーっとする頭を叱咤し、何度も何度も数字を見直す。
パソコンのモニターが発するブルーライトで目の奥は常に鈍い痛みを抱えていた。
食事はいつもデスクだった。
出社前にコンビニで買ったおにぎりやサンドイッチをパソコン作業の片手間に口に詰め込む。
味わう余裕なんてない。
ただ、空腹という生理現象を処理するための作業だ。
味のしないそれを栄養ドリンクで胃に流し込む。
それが私の「食事」だった。同期で入社した仲間は一年で半分が辞め、三年経つ頃には私を含めて数人しか残っていなかった。
「梓、無理しないでね」
心配してくれた友人に私は笑ってこう返した。
「大丈夫だよ。みんなやってることだし」
大丈夫。
いつからか、それが私の口癖になっていた。
本当は大丈夫じゃない。
辛い。苦しい。辞めたい。逃げ出したい。
そんな本音を口にしたら心が壊れてしまいそうで。だから私は「大丈夫」という分厚い鎧で心を覆い、すべての感情を殺した。
趣味だった料理も、いつしかしなくなった。
週末は泥のように眠るだけで終わってしまう。
キッチンのコンロには薄らと埃が積もり、冷蔵庫にはいつ買ったかもわからないミネラルウォーターと栄養ドリンクしか入っていなかった。
ある金曜日の夜。時刻は23時を回っていた。
「相川さん、悪いんだけど、これ週明けの朝一までにお願いできるかな」
鬼のような量の伝票の束を悪びれもせずに押し付けてくる上司。
「……はい、大丈夫です」
週末出勤が確定した瞬間だった。
絶望が黒いインクのように心に染み渡っていく。
もう、何も感じなかった。
ただ機械のように指を動かし、キーボードを叩き続ける。
電話が鳴る。受話器を取る。謝る。キーボードを叩く。伝票をめくる。叩く。謝る。叩く。叩く。叩く……。
(癒やしが、ほしい……)
心の奥のまだ死にきっていなかった部分が、か細い声を上げた。
温かいお風呂に入りたい。
ふかふかのベッドで眠りたい。
誰かが作ってくれた、温かいご飯が食べたい。
誰かに「お疲れ様」って、優しく頭を撫でてほしい。
そんな、ささやかな願い。
その願いが女神様に届いてしまったのだろうか。
給湯室でインスタントコーヒーを淹れようとした時。
ぐらり、と世界が揺れた。
ああ、床が近い。冷たいな。
遠のく意識の中で最後に思ったのは「これでやっと、休める」という、安堵の気持ちだった。
「……う、……ひっく……」
過去の記憶に囚われ、私は一人、声を殺して泣いていた。しゃがみ込んだ膝に顔をうずめ止めどなく流れる涙を制することができない。
辛かった。苦しかった。
誰にも助けを求められなかった。
あの頃の私は心を殺すことでしか自分を守れなかったのだ。
ここの生活が幸せであればあるほどあの地獄のような日々との落差が心を鋭く抉る。
「おい」
不意に頭上から降ってきた声にビクリと肩が震えた。涙で濡れた顔を上げると、そこにはレオンハルト様が困ったような、それでいて心配そうな顔で私を見下ろしていた。
「レ、レオンハルト、様……!?」
「……どうした。誰かに何かされたのか」
彼の青い瞳が鋭く細められる。
それは敵意を探る騎士の目だった。
「ち、違います!なんでも、ないんです、本当に……!」
慌てて立ち上がろうとしたが泣きじゃくったせいで足に力が入らない。ぐらりと体が傾いたところを彼の強い腕がぐっと支えてくれた。
「なんでもない人間が、そんな顔で一人で泣くか」
「……っ」
「言え。俺が力になれることかもしれん」
彼の真剣な眼差しに、私は言葉に詰まる。
記憶喪失のふりをしている手前、前世がどうとかブラック企業がどうとか言えるはずがない。
でも彼の瞳は「嘘はつかせない」と雄弁に語っていた。
「……すごく、辛い場所に、いたんです」
絞り出すように、私は言った。
「毎日、心がすり減って……息をするのも苦しくて……。眠れなくて、食べるものも味がしなくて……。私が、私じゃなくなっていくような、そんな場所に……」
それは紛れもない私の本心だった。
「ここにきて、皆さんが優しくて……食事が美味しくて……。幸せだなって、思ったら……急に、その時のことを思い出してしまって……。ごめんなさい、意味がわからないですよね……」
俯く私の頭に、ぽん、と大きな手が置かれた。
驚いて顔を上げると、レオンハルト様が今まで見たこともないような、穏やかな目で見つめていた。
「……そうか。お前は、辛い戦場から逃げてきたのだな」
「え……?」
「俺も騎士だ。心身をすり減らす戦場は知っている。だが」
彼は一度言葉を切り、私の頭を大きな手で不器用に、けれど優しく撫でた。
「ここは、お前がいたような辛い場所ではない。お前はもう、戦う必要はないんだ」
「レオンハルト、様……」
「だから、泣くな。お前の作る飯がまずくなる」
最後の言葉は、彼なりの照れ隠しなのだろう。
その不器用な優しさが凍っていた私の心の奥深くまで、じんわりと染み渡っていく。
涙の味がしょっぱいものから、温かいものに変わった気がした。
「……はい」
私はようやく笑って頷くことができた。
その日を境に私の中で何かが変わった。
過去は消えない。
あの地獄のような日々を忘れることはできないだろう。でもそれはそれとして、今の幸せをちゃんと受け止めよう。前を向こう。そう思えるようになったのだ。
そして私にもこの世界でできることがあると気づく出来事が起きた。
騎士団では訓練で怪我をする者が絶えず、常に薬草や軟膏が不足しがちだった。
薬草を管理する部署の人間はいるものの管理はずさんで、在庫がいくつあるのか、次にいつ入荷するのか、誰も正確に把握していなかった。
その状況を見た時、私の頭の中に、前世で嫌というほど見つめた在庫管理表とデータ分析のフローチャートが浮かんだのだ。
「あの、私でよければ、薬草の在庫管理、お手伝いできませんか?」
私の申し出に、薬草係の若い騎士は目を丸くした。
私はブラック企業で培ったスキルを思い出した。
終わらない単純作業をいかに効率化するか、その一点だけを考えていた日々。
数字の羅列から法則性を見つけ出し、無駄を削ぎ落としていく作業。それはこの世界でも通用する私の「武器」だった。
薬草の種類、効能、使用頻度、採取時期、保存可能期間……。
それらの情報を全て聞き出し、頭の中で整理して紙の上に書き出していく。
どの薬草がいつ不足し、どの時期に多めに確保すべきか。一目でわかるような管理台帳を作り上げたのだ。
「す、すげえ……!アズサ、お前、何者なんだ!?」
「これがあれば、薬の無駄がなくなる!怪我した奴らにも、すぐ手当てができるぞ!」
私の作った台帳は騎士団に衝撃を与えた。
そしてその報告は当然、団長であるレオンハルト様の耳にも入った。
その日の夜。
私は夜遅くまで執務室で仕事をしているレオンハルト様のために、安眠効果のあるカモミールティーと彼が密かに好きなハチミツをかけた温かいミルクを盆に乗せて運んだ。
「失礼します。夜食をお持ちしました」
「……入れ」
部屋の中ではレオンハルト様が難しい顔で山積みの書類とにらめっこをしていた。私がミルクとハーブティーをテーブルに置くと彼は書類から顔を上げ、私をじっと見つめた。
「薬草の件、聞いた」
「あ、はい。お役に立てたのなら、嬉しいです」
「……お前は、ただ飯が美味いだけの女ではなかったのだな」
それは、手放しの賞賛には聞こえないかもしれない。けれど彼の口から出た言葉としては、これ以上ないほどの褒め言葉だと私にはわかった。
「ありがとうございます。嬉しいです」
「……礼を言うのは、こちらのほうだ」
彼はそう言うと私が淹れた温かいミルクを一口飲んだ。そして、ふと遠い目をする。
「……俺も、忘れたい過去がないわけではない」
ぽつりと、彼が漏らした言葉。
それは、彼が初めて見せた弱さの欠片だったのかもしれない。いつも完璧で氷のように揺るぎない彼が抱える、影。
「レオンハルト様……」
「お前がいると、調子が狂う」
彼はそう言って私の手を取り、その甲に誓うようにそっと口づけを落とした。
触れた唇は、驚くほど熱かった。
「ここにいろ、アズサ。俺のそばに」
氷の瞳が熱を帯びて私を射抜く。
その瞬間、私ははっきりと自覚した。
私はこの人に恋をしている。
この人のそばにいたい。この人の力になりたい。
ブラック企業で失った、私の人生。
でも、あの地獄があったからこそ今、この場所が、彼のくれる優しさが、こんなにも温かく、幸せに感じられるのかもしれない。
「……はい、喜んで」
私の答えに氷の騎士様はほんの少しだけ、本当にほんの少しだけ、口元を綻ばせたように見えた。
もう大丈夫。
これからは「大丈夫です」と嘘をつく必要はない。
この温かい場所で、この不器用で優しい人の隣で、私は新しい人生を歩んでいく。
最高の癒やしはもう見つけてしまったのだから。
お読みいただきありがとうございました