目隠し悪役令嬢とツルハシぶん回し令嬢百合
少し長いですがよろしくお願いします!
「ねえ。この言葉をある人に伝えてほしいの。──『あなたのせいじゃない』、この言葉をあの人に──メイアさんに伝えて。あなたになら、できるわよね?」
──
王城の奥。長い長い渡り廊下を渡った先には、王族の血が流れるものしか足を踏み入れてはならない王宮が存在する。その王宮は王城とは比べものにならないほど絢爛豪華であるらしく、王の愛人だった女が漏らした情報によると、この世の欲が全て詰め込まれているとのことだった。
──欲を満たしすぎて、欲を抱かなくなるほどに。
それ故に、女は語った。「あんな場所で暮らしておきながら、それでも傲慢な王族の態度にはほとほと呆れ果てる。彼らが欲を満たし、幸せになることなど未来永劫ないのだろう」と。
その後、その女は大衆の前で裸に剥かれた挙げ句、首を刎ねられ殺された。
また、これは最近の話だが、年若い兵士が興味本位で王宮を覗こうとした。その兵士は貧しい地方の出身で、『欲を満たす』という行いについて知りたかった。兵士が抱く欲━━想像できる欲など精々、『お腹いっぱいにご飯を食べること』くらいしかなかったからだ。
王宮を除いたその兵士は王族の『欲』を目撃した。そして、そのあまりの貪欲さにパニックを起こし、逃走した。
その後、その兵士は捕まってしまった。王の愛人だった女と同様に、周囲へ王宮の情報を漏らしたからだ。
兵士は語った。「あんな『欲』は想像すらしていなかった。王族はまるで赤子だ。無邪気で残酷で、傲慢な赤子だ」
その後、その兵士は股間を切られ、出血多量で死んだ。その死体は兵舎の玄関に数週間飾られた。見せしめとして。
そして━━今。そんな欲望の王宮に、足を踏み入れようとする少女がいた。それは、つい先日学校を卒業したばかりの男爵令嬢だった。
その少女はメイアといった。王子の"現"婚約者であった。
メイアと王子は学校で運命的な出会いを果たした。そして、知らずのうちに惹かれ合い、いずれ愛し合うようになり──(メイアと王子の恋愛について興味がある人など、この小説の読者には存在しないので省略する。)
メイアは、王宮へ続く長い長い渡り廊下を歩きながら、決意を固めていた。
(ついにここまで辿り着いた。我が領地のため、王子との良好な関係を続けなければ……!)
メイアと王子の"運命的"な出会い。それは、微塵も運命的などではなく、全てがメイアによる策略であった。
メイアの男爵家が治める領地は、ここ十数年の間、常時飢饉に見舞われていた。原因不明の土地枯れにより、農作物が全く育たなくなってしまったのだ。
専門家達に調べさせても原因は不明。栄養はあり、陽光も届き、水もある。しかし全く育たない。「何も分からない。完全にお手上げだ」と放棄されてしまった。
食料が無くなった領民は、まるで狩猟時代に遡ったかのように森の中で獣を狩って暮らしていた。
しかし、そんな生活はいずれ破綻していった。当然だ。獣の食糧だって等しく育たないのだから。領民は飢え、死んでいった。
その状況を改善するため、メイアの男爵家は他領を治める貴族や商人に助けを求めた。しかし、そのような原因不明で改善する兆しもない状況の領地を救おうなどと考えるものはおらず、見て見ぬ振りをされてしまった。
メイアの男爵家は完全に孤立してしまった。
そこでメイアは、領民を救う為、同級生である王子に近づき、自分の領地の現状を知らせ、支援をさせるという計画を立てた。
メイアはその計画を両親に提案した時、両親は猛反対した。
父親は言った。
「婚約者のいる王子に近づくなんて、そんな無鉄砲で愚かな計画は失敗するに決まっている。それに、王族は傲慢だ。何か気に触ることをしてしまったらお前の命に危険が及ぶかもしれない」
しかし、メイアは反対を押し切り、計画を実行に移した。メイアは領民達が苦しみ死んでいく様を黙って見ていることができなかったのだ。
メイアは王子に近づく為に様々な手を打った。王子と同じ班になるよう名簿を改竄したり、王子に胸やお尻をくっつけて誘惑したりした。
しかし、メイアの努力も虚しく、位が低く特段スタイルが良いわけでもない木っ端の男爵令嬢などに、国のトップである王子が靡くはずが━━。
……メイアの誘惑に、王子はあっけなく陥落した。
いずれ国王になる人間がこの程度の誘惑に魅了されてしまっていいのか!? ……という不安があったが、メイアにとって国などどうでも良かった。自分の領地に支援さえ送らせることができれば。
メイアは王宮に足を踏み入れた。そこは、噂に聞く欲望駄々漏れの坩堝というわけではなく、確かに豪華絢爛過ぎてはいるが、王城とあまり変わりない空間だった。
メイアが周囲を見回していると、そこへ王子がやってきた。
「よく来た。愛しのメイア。こちらへおいで。私の部屋に案内しよう」
メイアは息を飲み、王子の部屋へ向かった。
━━
ぴっかぴかでギンギラギンのソファに、メイアと王子は腰を下ろした。王子は足をおっぴろげ、ふんぞり返るように座っていた。王子の横に座るメイアは王子に萎縮し縮こまっていた。王子の座り方とは対照的であった。
「君を愛しているよ。メイア」
王子がメイアの頬を撫でながら、耳元で甘く囁いた。メイアは不意を突かれ、身体を震わせた。メイアの反応が面白かったのか、王子は口を大きく開けて「フハハ!」と笑った。
その時、部屋のドアがノックされた。王子はメイアの頬を撫でながら「入れ」と許可を下した。すると、開かれたドアから一人の老人が入ってきた。王宮へ足を踏み入ることが許されている数少ない宮仕だった。老人は王子の前に跪き、一つ深呼吸をしてから話し出した。
「ご報告します。シナン様の処刑の日時が決まりました」
━━突然、王子が老人を殴り飛ばした。
「ッ!?」
老人が突然の暴力に顔面を真っ青にして後ずさった。一体自分の何が気に障ったのか、自分は何をしてしまったのか、自分はこれからどうなってしまうのか、と老人は頭の中で反芻した。
「あの女に敬称をつけるな!」
王子が叫んだ。
「あの女は私のメイアに怒声罵声を浴びせた挙句、暴力まで振るった屑だ! あのような女は豚とでも呼んでおけば良いのだ!」
王子が怒気交じりにそう言い放つと、老人はすぐさま頭を下げた。
「も、申し訳ありません!」
王子の隣に座るメイアも、王子の豹変ぶりに恐怖を感じ震えていた。
老人の様子から察しが付くと思うが、この国の王族は横暴なものばかりなのだ。前に一度、王宮の中で雑談をした罪として、処刑された宮仕がいた。それ以来、宮仕たちは一言も発さず、王族の横暴さに震えながら仕事をした。
王子は呆れたように目を逸らした。少しの沈黙の後、王子が口を開いた。
「それで、豚の屠殺はいつだ」
震えていた老人が、絞り出すように声を出した。
「明後日の昼、王宮地下にて絞首刑となるそうです」
老人がそう伝えると、王子は先ほどよりも更に顔を顰めた。そして、静かに呟いた。
「……ぬるい」
「へ?」
王子の呟いた言葉を聞き取れなかったのではなく、理解できなかった老人がとぼけた声を出した。老人の頭の中には、絞首刑をぬるいとする思考が存在しなかったため、王子の思考を理解できなかったのだ。
すると、王子は案の定激昂した。
「ぬるいと言っている! あの豚は私のメイアに暴力を振るっていたのだぞ! その程度の刑では足りぬ!」
王子は今にも老人を蹴りつける勢いで立ち上がった。
「も、申し訳ありません!」
老人は、完全に怖気付き、尻餅をついて後ずさった。
王子は、そんな老人の様子を見て、ニヤリと不気味な笑みを浮かべた。
ソファに座り直すと王子は言った。
「……王宮前大広場にて見せしめの上、焼く」
王子はそう呟いた。その顔は不自然なほど口角が上がっていた。まるで、悪魔のような笑みだった。
「し、しかし、今からの変更は」
「私の決定に従わぬというのか?」
「っ! いえ!」
老人が王子の言葉に従わないだなんて、そんなことができるはずもなかった。
王子の我儘を止められるのは王と王妃だけだ。しかし、国の存続に関わるほどのとんでもない横暴でないと、王と王妃は動かない。だから、王子は好き勝手に権力を振りかざしているのだ。こんな化け物が生まれてしまったのは、王と王妃が放任主義だったからとも言えるだろう。
王子は悪魔のような笑みを絶やさず、楽しそうに言った。
「豚は焼かねば食えぬものな。まあ食わずに捨てるのだが。そうだ、死体は家畜の餌としてやろう」
そう言って笑うと、王子は隣に座っているメイアの頬を撫でた。
「メイア。良かったな。あの豚が明後日、この世を去るそうだ。笑えるな」
「え、ええ」
メイアの声は震えていた。
「どうしたメイア。具合が悪いのか?」
「そ、そんなことはありませんわ」
王子は自分を頼ってくれないメイアに寂しさを感じながらも、愛おしそうに言った。
「そうか。具合が悪くなったらすぐに言ってくれ」
「お心遣いに感謝いたします」
メイアは、精一杯の笑顔を王子に向けた。
(無理だ……。この王子を操って領地を救うなんて、私にはとてもできない……!)
メイアは今すぐにでも王宮から、王子から逃げたくなった。
しかし、もう遅い。
メイアは王子の“現”婚約者なのだから。
──
長い階段を下りていく。
螺旋状に渦巻く階段。燭台の蠟燭に明かりは灯っていなかった。
闇の中での唯一の光は、手に持っている小さな角灯の灯りだけだった。石を雑に削っただけの階段は、今にも足を踏みはずし、転げ落ちてしまいそうなほど凸凹だった。
突然だが、私の自己紹介をする。
私はメイア。王子の現婚約者だ。
ただの男爵令嬢だった私は、学校と呼ばれる教育機関内で、王子と出会った。それからなんやかんやあって、遂には結婚を申し込まれた。(王子とのストーリーなど、今の私にはどうだっていいものだから、適当でいい。)
所謂、シンデレラストーリーの主人公。それが私だった。自分で言うのも、なんだけれど。
そんな私が闇の階段を下っていくのはなぜか。
それは、王子の『元』婚約者に会いにいく為だった。
階段は下れば下るほどに闇が増していくように感じた。実のところ、暗さは変わっていないのだが、しかし、地下に下るに連れ、肌寒くなっていく空気が、私にそのような錯覚を引き起こさせていた。
壁を触りながら階段を降りていた私は、階段の終着点で足を止めた。
手に持った角灯で周囲を照らすと、そこには先の見えない一本道が続いていた。
私はゴクリと生唾を飲み込み、頬に垂れる冷汗を吹いて、一本道に足を踏み出した。
一本道を歩いていくと、円形の空間に出た。円形の空間には八本の分かれ道があった。
私は八本の分かれ道をそれぞれじっくりと観察した。これらの八本の分かれ道のうち、どれか一本の先に、王子の元婚約者が幽閉されているのだ。
もう一度、ゆっくりと落ち着いて観察をした。すると、右から三番目の分かれ道、その床に、つい最近できたであろう引きずり跡を発見した。
角灯で前方を照らし、その道を進んだ。
奥まで進んでいくと、そこには、さらに地下へ降りる階段があった。私は「あいつらどんだけ地下が好きなのよ」と悪態をついた。
「あいつら」とはもちろん、王族のことだ。こんな言葉遣いを聞かれたら、即刻処刑されてしまうのだろうが、私はリスクを冒してでも、そのような言葉遣いをしたかった。
王子の婚約者として、王宮に足を踏み入れてからというもの、私は命の価値について、新たな知見を得た。
命の価値が最上級なのは、当然王族の命。そして、それ以外の命は、王族の一存で簡単に消し飛ぶ程度の価値しかないものなのだと。
こんな知見、得たくなかった。
それ以来、私は王族に対し、反抗的な態度をとりたくて仕方がなかった。できることなら、ぶん殴ってやりたかった。
私は「はあ」と深くため息を吐いた後、さらなる闇の底へ下って行った。
階段を下った先、闇の最深部。そこには、小さな牢屋が一つあった。足を延ばすことすらできないくらい、本当に小さな牢屋だった。
私がその牢屋の中を照らすと、そこには、ドレスであったはずの布切れを着た、王子の元婚約者。
シナン様がいた。
──
マインドコア・カインドネス・ハートウォーム・シナン。公爵令嬢であり王子の元婚約者。そして、大罪人。
美しかったドレスは酷く汚れ、砂に塗れていた。高いヒールなどは、すでに片方が無くなっていたし、履いている方もピンが折れてしまっていた。
そのように変わり果てた姿をしているシナン様だったが、やはり一番に目につくのは、両目を覆う金属製の目隠しだった。
それは目を隠すことで自由を奪い、反抗できなくする為に作られた拘束器具であった。
私は檻の前に立ち、変わり果てたシナン様を見つめた。
汚れているのは服だけではない。学校ではさらさらと美しく流れていた、あの白銀の髪はボサボサに荒れ、色も灰色に霞んでいた。
身体も痩せ細り、今にも折れてしまいそうなほどに、まるで枯れ木のように、細かった。
変わり果ててしまったシナン様を見つめて、私は膝をついた。
いつの間にか、私は泣いていた。シナン様が地に堕ちることを承知の上で策略し、王子と婚約を結んだ私が、このようになるまで転落したシナン様を差し置いて、みっともなく泣いていた。
「どうして泣いているのですか?」
檻の中のシナン様が言った。
その声は、非常に小さく、今にも搔き消えてしまいそうな声だったが、私の耳にはしっかりと届いていた。
私は顔を上げてシナン様を見た。目が隠されているので、顔の表情を見ることはできないのだが、それでも、その口元を見るだけで、シナン様の表情を見て取れた。
檻の中にいるシナン様は、柔らかな笑みを浮かべていた。まるで私を慰めているかのような、そんな笑みだった。
「どうして、貴方は笑っているのですか?」
私はそう聞いた。私にはシナン様の感情が全く理解できなかった。シナン様の笑顔を信じられなかった。どうしてこんな状況に陥っているのに、笑うことができるのか、と。
シナン様は質問に質問で返されたことに戸惑っていた。しかし、しばらくすると、眉を八の字にして静かに答えた。
「だって、もう、仕方ないんだもの」
私は、シナン様のその言葉に、何も言うことができなかった。シナン様が「仕方ない」と言った瞬間に、私を覆う闇がより一層深くなった気がした。私は、シナン様の絶望と、諦め、そして悟りに、畏怖を覚えた。
仕方がない、と割り切れるものなのか? そんな風に、悟りを開いて笑えるものなのか?
……あなたは何も、悪いことをしていないのに!
シナン様がキョロキョロと周りの気配を探っていた。私がずっと黙っていたからだ。
私は不安そうに手を握りしめるシナン様を見ていった。
「明日もまた来ます」
そう言うと、檻の中のシナン様は優しく微笑み、言った。
「こんなところですから、何のもてなしもできませんが、それでも来てくださるというなら、それはとっても嬉しいです。何せ、何も見えない、何も聞こえない、自分自身の存在を疑ってしまうような、そんな空間ですから」
「そうでしょうね」
「うふふ。話し相手ができてしまって、なんて幸せなんでしょう。また明日、お待ちしていますね?」
私はその声に答えず、静かに立ち上がり、階段を上った。
──
あの時、シナン様が学生達の前でありもしない罪をでっち上げられ断罪された時、シナン様は頷いた。
自分とは全く関係のない罪を被せられようと、自分一人が犠牲になればいいだけならと、頷いた。
学校で私を虐めていたのはシナン様ではなかった。私と王子の関係に嫉妬した女子達が、私を虐めていたのだ。
シナン様が私を虐めたことなど、一度もなかった。
あの日、シナン様が断罪された日。シナン様は王子に問われた。
「お前は、私の愛するメイアに対し、罵詈雑言を浴びせかけ、挙句の果てには暴力まで振るったそうだな!」
もちろんシナン様は、私に暴力を振るったことがない。
しかし、シナン様は頷いた。
それを見ていた私は、何も言わなかった。私は自分の野望のために王子と婚約せねばならなかったからだ。シナン様のことを、計画の邪魔だと考えており、シナン様がそこでどうなろうと、婚約破棄さえしてくれれば何でも良かったからだ。
結果、王子の問いかけに頷いたシナン様は王子に殴られ、兵士に捕まり、何処かへ連れて行かれた。
私はシナン様が、どこへ連れて行かれたのか知らなかった。
その次の日、私は王宮を訪れた。王子の婚約者として、王宮に足を踏み入れる許可をもらったのだ。
そこで私は目にした。王子の横暴さを。王子が老人を殴り蹴り、笑う様を。まるで幼子が、幼さゆえの残虐性を発揮して、無邪気に蟻を踏み潰すかのような、残虐さを。
王子は言った。「大衆の前で見せしめの上、焼く」と。
そのとき、ふと、私の頭の端に、シナン様の顔が浮かんだ。
そして、頭の中に誰かの声が響いたのだ。
「ねぇ。シナン様を殺すのは一体誰?」
私はただの男爵令嬢だった。そのような地位でありながら、王子に近づき、シナン様の地位を奪ってしまった。
シナン様の目に、私の行動は、どう映っていたのか。
「ねぇ。シナン様を殺すのは一体誰?」
私は、知らなかったとはいえ──シナン様に無実の罪を押し付けてしまった。
シナン様は、私を虐めてなんかいないのに。
「ねえ。シナン様を殺すのは一体誰?」
すごく聞き覚えのある声だなと思っていた。当たり前だ。頭の中に響いていたのは私自身の声なのだから。
「シナン様を殺すのは、私だ」
──
階段を上がりきると、闇夜に丸い月が輝いていた。
シナン様の処刑は、その日の二日後の正午に行われる予定だった。
私が地上に出たときには、既に夜の十一時頃だったので、残り時間は一日と半日だった。
私は、階段をのぼりながら、ある一つの決意を固めていた。
それは『シナン様を連れ出して逃げる』という決意だった。
シナン様を連れ出すためには、地下牢の鍵が必要だが、日中は王子や兵士の目があるので鍵を探しに行くことは難しいだろう。そのことを踏まえて計画を立てると、この夜のうちに、鍵の場所くらいは把握しておきたかった。
──
しかし、私は王宮の構造を全く把握していなかったし、誰が牢屋の鍵を管理しているのかも知らなかった。よって、残念ながらその日の夜のうちに鍵がどこにあるかを把握することはできなかった。
──
次の日は、王子に連れられ、森に出かけた。
王子は、私が地下に潜っていたことに気づきもせず、上機嫌で猟銃を撃ち、鹿や鳥を殺していた。
「メイア見たか? 今撃った鳥はどう調理しても旨くなる最高の鳥だ。しかも繁殖も早い」
「そうなのですか。王子は物知りなのですね」
もちろん私もその鳥のことは知っていた。飢饉に見舞われている我が領では狩猟がもっぱらの食糧調達手段だからだ。しかし、私は王子のご機嫌を取る為に、なにも知らない道化を演じた。
……時を進めよう。王子との会話など、興味ないだろうし、私も語りたくない。
──
昼。私は手紙を書いていた。一通は実家宛に送る謝罪の手紙だ。
内容はこうだ。
『お父様お母様。王子からの支援は届いておりますでしょうか。お察しの通り、私は計画を実行に移しました。その結果、私は王子の婚約者に選ばれることができました。
しかし、今になって思います。お父様とお母様は正しかったと。お二人の言葉をしっかりと聞き入れておけば良かったと。
私は、人が痛ぶられるのを初めて目にしました。とても恐ろしかったです、しかし、王宮ではそれが日常のようです。
耐えられません。私は逃げることにします。これにより、支援は打ち切られてしまうでしょう。ごめんなさい。
不出来な娘でごめんなさい。
しかし、私はタダで逃げるわけではございません。逃げる理由は王子が恐ろしいからではありません。
私は、私のせいで奈落に落ちたマインドコア・カインドネス・ハートウォーム・シナン様と共に逃げます。
きっと長い間会うことができなくなるでしょう。しかし、私は必ず生き延びてみせます。
再会を期待していてください。あなた達の娘は、無謀な計画を成し遂げてしまう娘ですから。』
そして、もう一通は━━
━━
「もしかして、昨日も来てくださった方ですか?」
深夜。私は昨日と同じように、地下牢へ下りた。シナン様の檻の前までくると、檻の中から嬉しそうな声が聞こえた。
「はい。そうです」
「わぁ。嬉しいです。こんなところまでありがとう」
シナン様の明るい声色は、この闇には似つかわしくなかった。
「シナン様、申し訳ありません。今日はお話ししている暇はないのです。私には……いえ、シナン様には時間がないのですから」
私がそういうと、シナン様は首を傾げた。
「シナン様。貴方は明日、処刑されるそうです」
私は伝えた。シナン様にとって、これ以上なく残酷な運命を、容赦なく叩きつけた。
しかし、シナン様は怯えることなどなく、寂しそうに「やっぱりですか」と、言うだけだった。
「私はどんな風に処刑されるのですか?」
「大衆に晒されながら、焼かれるそうです」
「あらら。それは大変。もうちょっと楽に死にたいものです」
そこまで言っても、シナン様は声すら震わせず、涙も流さなかった。
私は角灯を床に置いた。そして、地上から持ってきた大きな麻袋を手に取った。
「ところでシナン様、ここから逃げたいとは思いませんか?」
私は麻袋を開きながら、片手間といった様子で聞いた。シナン様は真面目な声で強く返答した。
「逃げるなんてことはしません。そんなことをしたら、腹いせに誰かが殺されてしまうかもしれないでしょう」
なんて正義感だ。
確かにそうだ。シナン様が逃げてしまったら、王子は誰かに八つ当たりをするだろう。王子の鬱憤を晴らすために、誰かが殺されることになるのだろう。シナン様は、王族の横暴さを良く分かっていた。
しかしながら、その心配はなかった。
「いや、それはないですよ」
「なぜ? あなたは王族の横暴さを知っているの?」
「ええ。知っておりますとも。それはもう、とっても」
シナン様がきょとんとした顔をした。
「え。もしかして、王族関係者の方ですか?」
「さあ、どうでしょうね」
「えー。気になる!」
「教えません」
「えー」
シナン様がぷりぷりと頬を膨らませて腕を振った。
「私が誰かは置いといて、とにかく、あなたが逃げたせいで誰かが殺される、なんてことにはならないと思いますよ。だって、王子はシナン様にとってもお熱ですから。他の者には目もくれず、あなたを追いかけてくるでしょう」
それに、きっと昼に出したもう一通の手紙がきっと働いてくれるから。
私の言葉に、シナン様は納得したのか「ほう」と言った。
「私ったら、王子様に追いかけられてしまうだなんて。もしかして、罪な女?」
「ええ。大罪人です」
「えへへ」
まるで、お茶会のような会話だった。自分が尋常ならざる状況に置かれていることを、忘れそうになるほどだった。
「やめましょう。こんなに楽しい会話をしていてはいけません。私たちには時間がないのですから」
「いいじゃない。どんな状況でも、楽しまないと楽しくないじゃない」
……それはそうなのかもしれないが、この状況に置いてのそれは、ポジティブシンキングすぎて、正気を疑う。
「なんだかシナン様は公爵令嬢の元婚約者とは思えない方ですね」
「だって、今は婚約者じゃないもの。もう、頑張らなくていいんだもの」
「……そうですね」
私は首を振って、気持ちを切り替えた。麻袋の中に、入れていた水嚢を取り出し、シナン様に手渡した。
「わあ。お水?」
「はい」
「ありがとう。実は、ここに入れられてから、何も口にしていなかったの。喉はカラカラ、お腹もペコペコ。捕まっても食事くらいはさせてくれるものなのだと思っていたわ。こんなことなら、最後の晩餐で満漢全席くらい平らげておいたのに」
「いや、普通食事はさせてもらえますよ。シナン様はほら、特別待遇ですので」
「ファーストクラスならぬ、ワーストクラスね」
「さっきから。状況に似つかわしくないユーモアはお仕置きですよ」
「あら。どんなお仕置きをされてしまうのかしら」
「カッチカチのパンを食べなくてはならない罰です」
パンを手渡した。
「わお。ホントにカッチカチ」
「私の手作りです」
「ふわふわもちもちね! おいしい! 歯が落ちてしまいそう!」
「ほっぺたを落としてください」
私はまたもや雑談にふけってしまった自分の頬をはたいた。改めてだが、楽しくお話をしている暇なんてないのだ。
パンと格闘するシナンに向け、真剣に話した。
「シナン様。私は貴方に逃げて欲しいと思います。だからちょっとうるさくしていいですか?」
「え、うるさく? 何をするつもりなの?」
「破壊します。壁を」
「破壊するの? 壁を?」
「ええ。仕方ないのです。牢屋の鍵、見つけられなかったので」
そう。私は結局、牢屋の鍵を見つけることができなかった。
その代わりといっては何だが、見つけてきたものがあった。
つるはしだ。
私はつるはしを大きく振りかぶると、思い切り壁に打ち付けた。
ガンッ! という甲高い金属音が鳴り響いた。
「きゃっ!」
これにはさすがのシナンも悲鳴を上げた。
「なにしてるの!?」
シナンが叫んだ。
「思った通りです。この壁、割と簡単にぶっ壊せそうです」
「大丈夫!? 力業過ぎない!?」
──
「ふぅ。これは、ギリギリですね……」
「貴方、意外と野蛮なのね。顔が見てみたいわ」
「私の顔なんて見ても、良いことないですよ。寧ろ、悪いことしかないです」
私は壁をつるはしで破壊し続けていた。破壊しながら、シナンとの会話も続けていた。その会話は、私の緊張と疲れを忘れさせてくれていた。
「それにしても、シナン様は本当にお強い方なのですね。普通、明日処刑ってなったら、泣かずにはいられませんよ」
「そうねー。でも、こうなるって分かっていたからね。覚悟もできるというものだわ」
シナンのあっけらかんとした性格に、私はだいぶ助けられていた。ここで、おいおいと涙を流されていたら、ビリビリと痛む腕の痛みに耐えられず、諦めていたかもしれない。
「もし、朝までに脱獄できなかったらどうします?」
「まあ、大人しく処刑されるだけじゃない?」
「愚問でした。絶対に間に合わせます」
壁を削り始めてから一時間くらい経った頃、私は一つの案を思いついた。
「シナン様。その服、汚れてもいいですか?」
「別にいいけど、なんで?」
「いや、シナン様が這いつくばることに抵抗がないようでしたら、そう時間はかからないかもしれないと思いまして」
私がそう言うと、シナンはちょっとふざけたような声で言った。
「えー。これでも私、公爵令嬢の元婚約者ですからねー? 這うなんて、そんな汚いことできないかもしれませんねー?」
「そんな汚い身なりで何を言っておられるのですか」
「き、汚い身なりとか、言わないで!」
「ドレスはビリビリ砂塗れ。髪の毛もボサボサです」
「やだ! 恥ずかしい! 見ないで!」
「もう遅いですって」
結局、シナンは「いくらでも這いつくばります!」と元気に言った。
「そういえば、貴方はどこで私のことを知ったの?」
シナンが不意に質問してきた。私は一瞬反応に困ったが、適当に答えた。
「兵士の間で話題になっていたので」
シナンが顎に手を当てて「ふーん……」と何かを考えていた。
「じゃあなんで私を助けようと思ったの?」
その質問に『あなたが私のせいで殺されそうになっていたから。』などと答えられるはずがなく、私はまたも適当に誤魔化した。
「噂話で、学校での話を聞きました。現婚約者のメイア様に色々なさったとか」
「あー、そうね……」
シナンはそう言いながら、恥ずかしそうに頬を掻いた。
私は言った。
「しかし、それは嘘なのですよね?」
シナンは驚いていた。
「なんで知ってるの?」
「噂話です。確か、メイア様に色々なさっていたのは他の女性達だったのに、シナン様が罪を被った、とか」
シナンは少し苦笑いをしながら話した。
「いやね。別に他のみんなを庇ったとかじゃないのよ?」
私が壁を壊し続けていると、シナンはポツポツと独白を始めた。
「私もね。メイアさんに悪いこと、しちゃったから」
──
私が壁を壊し続ける中、シナンは独白した。
「私ね、メイアさんを助けなかったの。メイアさんが他の女子や男子に何か言われたり、水をかけられたり、暴力を振るわれたりしているのを知っていたの。その現場を見ていたことだってあるの」
ガンッ!
「でもね、私は助けなかった。それどころか、いい気味だって思っっちゃったこともあったわ」
ガンッ! ガンッ!
「私は、王子がメイアさんに夢中になっているのを見て、不安を感じてしまったのよね」
ガンッ! ガンッ! ガンッ!
「早く王子を諦めて、田舎に帰っちゃえ! なんて、思ったこともあったなぁ」
ガンッガンッガンッガンッガンッガンッガンッ!!!
そこまで続けて、シナンの独白が止まったので、不思議に思った私はシナンに声をかけた。
「シナン様? どうしました?」
「貴方、私の話、聞いてる?」
シナンの方を見ると、いかにも怒ってますというように頬を膨らませていた。目は目隠しで見えないが、表情が豊かだ。口だけで怒っていると分かった。
「もちろん、聞いてますよ?」
「だったら一回さぁ。その壁壊すのやめてみない? 話の途中にガンガンって音がすると、話しづらいの」
「それは無理ですよ。朝日が登ったら、シナン様が処刑されちゃいますもん」
「それはそうだけどね?」
シナンは非常に不満げな顔をしていたが、私が「お気になさらず続けてください」と言うと、渋々話し出した。
「あれ? どこまで話したっけ」
「メイア様に田舎に帰れって言ったとこです」
「言ってはないよ! そう思っちゃっただけ! ……そう、それでね。メイアさんって男爵家だから、貴族としては位が低いじゃない? だから、他の皆に反抗できなかったのよ。しかも王子に相談していなかったみたいだから、止める人もいなくてね。虐めはどんどんエスカレートしていったの。
初めは軽い悪戯だったのだけれど、遂には殴る蹴るが始まってね。さすがにその時点で王子に気づかれたけれど……。
メイアさんに虐めていたのは、位の高い貴族だった。だから誰も止められなかった。……でも、私なら止められた。
私は公爵家。王族を除けば、上がいないほど位が高かった。私なら、みんなを止められた。私なら、メイアさんを助けられた。でも、私はそれをしなかった。
それでね? あの日、断罪された日。なんでか分からないけれど、私がメイアさんに暴力を振るったことになってた。私が個人でメイアさんを虐めたことになってた。
正直、訳が分からなかった。確かに、私はメイアさんに酷いことをしてしまった。何もしないということをしてしまった。……だけれど、私が虐めの主犯格にされるのは、正直納得がいかなかった。だから反論しようとした。
でも、メイアさんのあの目。私を見つめる冷たい目を見ていたら、私が主犯格でもいいかなって、思っちゃったの。なんだか、自業自得かな、ってね?」
私はその話を聞いて、呆れていた。優しいにも程があると。私はシナン様の話を「ハッ」と笑い飛ばし、突き放すように言った。
「意味分かんないですね。そこはちゃんと反論するべきでしょう。やってないのだったら、やってないと言うべきです」
「だって、反論したとしても、あれを覆すことなんてできないでしょ? 周りにあれだけ人がいた状況で、私を信じる人なんていないもの」
「いたでしょう」
「誰?」
「……メイアです」
私は自分でそう言いながら、情けなく感じていた。私があの時、「私を虐めていたのはシナン様ではありません」と言わなかったせいで、こんな状況が出来上がってしまったのだから。
「もし、そこでシナン様が反論していたら、メイアが賛同してくれたのではないですか?」
「うーん。それはどうだろ。だってメイアさん、興味なさそうにしてたもん。多分、自分が最終的に王子様と婚約を結べればなんでもいいと思っていたんじゃない?」
「そんなことは……」
図星だった。
「多分、敵が消えてラッキー! くらいに思ってたわよ」
「……」
図星も図星だった。
──
私の中で、シナン様の認識が変わりつつあった。
私の中のシナン様には、『無実の罪を他人の為に被るような、病的なお人好し』というイメージが着せられていた。
しかし、シナン様の独白を聞いた後では『自分の罪を重く受け止めると共に、自分の命を軽く見ている死に急ぎ』というイメージに変わっていた。
「どうして、そんな風に、自分の命を軽んじるのですか?」
私はシナンに尋ねた。
「別に、軽んじているつもりはないのだけれど。……でも、そうね。王子と結婚する為だけに生まれてきたんだから、王子と結婚できないのなら死んで然るべき、と思っているのかも」
「王子と結婚するために生まれてきただなんて、そんなわけがないでしょう……」
「王妃教育が厳しすぎて、正直病んでいたからねぇ。そう思い込んでいても仕方なかったの」
私は、壁を壊す手を止めた。手が痛かったからではなかった。シナン様があまりにも、死を受け入れていたからだ。もしかしたら、私がシナン様を救おうとしているのは迷惑なことなのではないだろうか、と思ってしまったのだ。
「もしかして、私が今、こうやってシナン様を助けようとしているのは、迷惑ですか?」
そう言った私の声は震えていた。涙が溢れていた。
「あら? 泣いてるの?」
「泣いてないです」
「泣いているわよ。どうしてあなたが泣くの?」
「シナン様が泣かないからです」
「えー。なんですかそれ」
シナン様は言った。
「迷惑なんかじゃありません。寧ろ、とっても嬉しいです。あなたが私を助けてくれるのは、私のことを信じてくれたからでしょう? ただ噂話を聞いただけなのに」
シナンは私の方向に手を伸ばしてきた。
「もし、貴方が学校に通っていて、私と友達になってくれていたら『私は無実だ!』と反論していたかも。私は、私を信じてくれる人と、生きていたいから」
「……」
「だから泣かないで? ほら、早く壁を壊さないと。私、死んじゃいますよ? みんなの前で黒焦げになっちゃいますよー?」
「……シナン様。貴方は狂ってます」
「狂ってても楽しければなんでも良いのです」
「はいはい。そうですか」
私はつるはしを、改めて強く握った。
「私は、貴方を必ず助けます。私はシナン様を信じていますから」
「そう。じゃあ私も死なないわ。あなたが私を。マインドコア・カインドネス・ハートウォーム・シナンを、信じてくれるなら」
シナン様は付け加えるように言った。
「それに、あなたとの逃避行は、とっても楽しそうだし!」
「辛いことばっかですよ。多分」
「信じ合った仲間がいれば、辛いことも楽しいのよ」
「さいですか」
私が強くピッケルを振りかざすと壁がゴトンと大きく削れた。
「おお。段々コツが掴めてきました。それでも間に合うか微妙ですけれど」
「え。まだ間に合わない可能性があるの? 折角生きたいなって思ってきたのに、まだそんな状況なの? これで間に合わなかったら、あなたのこと呪うわ」
「顔も知らない相手を呪えるのでしょうか」
「気合で呪うもん。l
「そうですか。頑張ってください」
──
「ねぇ。まだ?」
「そろそろチャレンジしてみますか」
四時間ほど壁を壊し続けた。メイアが地下に入ったのは二十二時ごろだったので、日の出まではまだ時間があった。
「ちょっとこっちまで来てくれますか?」
「こっちってどっち?」
「左向いてください」
「こう?」
「もうちょっと左です」
「こう?」
「んー。本当に、ちょっとだけ右です」
「このくらい?」
「行き過ぎです。本当にちょっとだけ左です」
「こう?」
「あ、大丈夫です。そのまま、まっすぐ歩いてください」
シナン様が歩き出した。
「これ邪魔」
そう言って、シナン様は片方だけ履いていたヒールを器用に蹴り飛ばした。蹴り飛ばされたヒールは織の間を通り抜け、私の頬をかすめて飛んでいった。
「危なっ!」
「あっごめん。そこにいたの?」
「あと数センチで当たってました」
「ごめんなさいね」
シナン様が数歩進み、私の目の前に来た。シナン様の身長はちょうど私と同じくらいだったが、その姿はとても小さく見えた。
「……足枷もつけられてるんですね」
左足には足枷とそれに繋がれた鉄球がつけられていた。
「私も立派な囚人って感じがするわよね」
「喜んでんじゃないですよ」
私は手を伸ばして、シナン様の細い指に触れた。
「あっ」
「あっ、ごめんなさい」
「いえ、大丈夫よ。もう一回触って?」
私は恐る恐る手を伸ばして、もう一度指に触れた。
「柔らかいわね」
「そうですか」
「それに、暖かいわ」
「シナン様の指は冷え切っていますね」
私はシナン様の指を掴み、削った壁まで誘導する。
「ここにしゃがんでください」
「はい」
「檻の端っこの壁を削ったので、ここを通ってください。壁に打ち込まれてた鉄が危ないので、私が手で覆っておきます」
シナン様はしゃがんで手で確認すると、躊躇なく這いつくばり、もぞもぞと進み始めた。
「あっ、通れるかも!」
「公爵令嬢が芋虫になってる」
「元ね! 元公爵令嬢!」
シナン様は頭まではスムーズに通れたが、身体が地面と壁に擦られるのが痛いようで「痛いー」と呻きながら苦戦していた。
「もうちょっと削ってからの方が良いですか?」
「いえ、大丈夫。痛いのは生きてるって感じがして嫌いじゃないから」
「変態じゃないですか」
そうして、シナン様は十分な時間をかけて、ゆっくりと檻を抜けることに成功した。
私も、まさか鍵なしで脱獄できるとは思っていなかったから、やればできるもんだなぁ、と感心した。
「うわー出れちゃったんだよね。これ」
「四時間あれば壊せてしまうものなんですね。壁って」
二人して感心していると、シナン様が言った。
「ねぇ。手、握って」
「え。なんでですか」
「だって私、目隠しでなんも見えないんだもの」
「じゃあ目隠し、外しますか」
私が目隠しを外そうと、シナン様の後ろに回った。
「無理よ。鍵がかかってるもん」
「本当だ」
その目隠しを解くには鍵が必要だった。無理やり外そうともしてみたが、金属製なだけあって、めちゃくちゃに痛いらしかった。
「無理! この痛みは我慢できる痛みじゃないわ!」
「では、目隠しも四時間かけて破壊しましょうか」
「つるはしで!? 私の頭が先に割れるわよ!」
シナン様が呆れたように笑った。
「もういいじゃないの。ほら、手、繋いで?」
「はあ。分かりました」
私とシナン様は手を繋いだ。
「……ッ」
手に痛みが走った。つるはしを振るい続けていたおかげで、手がボロボロだった。
「どうしたの?」
「いえ、なんでもないです」
「手、痛いの?」
「……ちょっと痛いです。でも、これくらいシナン様を連れ出す為なら平気です」
「そっか」
「じゃあ、ゆっくり行きますから」
「はーい」
──
シナン様の手は細く、強く握れば折れてしまいそうなほどで。
「ねぇ。ちょっと怖いわ」
「ゆっくり行きましょう」
シナン様の目隠しは外すことができなかった。足枷も外せていなかった。螺旋階段のように曲がった階段を、不自由な脚で、何も見えずに登るのは、相当怖いだろう。
「ねぇ。まだ着かないの?」
「まだ半分も行ってませんね」
夜明けまでは時間があった。思ったより早く壁を壊せたことが僥倖だった。
「改めて考えると、あなたって馬鹿ね」
「急になんですか?」
「だってそうじゃない。こんなことバレたら即刻首が飛ぶわ」
シナン様は何かを思いついたように楽しそうな声を出した。
「あっ! もしかして私の関係者だったりする? 私の……ファンとか!?」
私はどう答えようか迷った。
「まあ、少しだけ関係あるんじゃないですか」
「本当? あなた、誰なの?」
「それは言えないですけど」
私がはぐらかすとシナン様は不機嫌そうに口を膨らました。
「知り合いの女性なんてほぼいないんだけれどねぇ。それこそ、王宮に入れる知り合いなんて、一人も」
シナン様は考え込んでいたのか、足元の階段につまづいた。
「きゃっ!」
「ちょっ!」
私は咄嗟に下敷きになり、シナン様を守った。シナン様の体重があまりにも軽かったので、痛くはなかった。
「あら。抱き着いてしまったわ」
「まずはありがとう、もしくはごめんなさいでしょう」
「そうね。ふふ。よくやったわ」
「どうして急に高飛車ムーブを」
「分からない。もしかしたら、私も、今の状況に緊張しているのかも」
その後もシナン様は私の正体を探り続け、私は私の正体をはぐらかし続けた。
螺旋階段を登り続けた。何度も何度も転びそうになるシナン様を支えようとした私は、いつの間にか、シナン様の手を固く握りしめていた。それに気づいてシナン様を見ると、シナン様は嬉しそうにニコニコと笑っていた。
──
「あ。これ、土の感触」
「分かるものなんですね」
「え。外、着いた?」
「はい。外ですよ」
私とシナン様は、遂に螺旋階段を登り切り、地上に出た。
「本当だ。風。気持ちいい」
「でもちょっと冷えますね」
「地下のほうが寒かったわ」
シナン様は相変わらず、目隠しで視界を塞がれていたが、「むしろ感覚が研ぎ澄まされるのよ」と、全身の感覚で地上を楽しんでいた。
「シナン様。地上を楽しむのもいいですけれど、さっさと王宮から出ないと見つかるかもです」
「そうね。逃げましょっか」
私とシナン様は改めて手を繋ぎ、周りを警戒しながら、王宮を抜け出した。王族の恐怖から兵士の見張りが杜撰な素晴らしい王宮で助かった。
「ねぇ。本当に脱獄しちゃったわね」
「そうですね」
森の中を二人で歩きながら、会話した。
「そろそろさ、名前教えてくれてもいいんじゃない?」
「嫌です」
「何でよ」
「嫌なもんは嫌です」
シナン様が呆れたように溜息を吐いた。
「まあいいや。じゃあさ、これからどうするの?」
「……」
これからのことは、私も何も考えていなかった。とにかく、シナンを処刑させないこと。それだけが目的だった。
「シナン様はどうしたいですか?」
「そうね」
シナン様は考え込んだ。
「まずは、目隠しと足枷を外したいわ」
シナン様はとても楽しそうに、私に笑いかけた。
──
朝日が登り出した。夜の間、ずっと歩き続けたので王宮からは、すでにだいぶ離れていた。
「シナン様、大丈夫ですか?」
「うーん。流石に休憩したいかも」
シナン様は笑顔を絶やさずにそう言ったが、その身体はとうに限界を迎えていたようだった。彼女は立ち止まると同時に膝をついた。
……私の気遣いが足りなかった。こうなってしまうことなど、考えなくても分かるはずだったのに。
あんな狭い暗闇に、数日間閉じ込められ、その間、何一つ食物を口にしていなかったのだ。そんな状態で、目隠しと足枷をつけたまま、森の中を歩き続けていたのだ。精神的な疲労も、身体の疲労も限界だろう。
「ちょっと寒いね」
「そうですね」
シナンの身体は冷え切っていた。
私はシナン様に靴と上着を貸していたが、それでも彼女の身体は冷えていく一方だった。
私は背負っていた麻袋から、火打ち石を取り出した。
シナン様を倒れている木の上に座らせ、周りから乾いた木の枝や、松毬を集めた。
私が慣れた手つきで火を起こすと、シナン様は驚いた。
「すごいわね。火を起こすの、慣れてるのね」
「小さい頃に教えてもらったので」
「ふーん」
「あんまり近づきすぎないでください。火の粉が飛ぶので」
「見えないから分からない」
「……その距離なら大丈夫です」
麻袋に詰め込んでおいた飲料水と保存食をシナンに食べさせた。
「あーん」
「あーん」
なぜ人に物を食べさせる、または、食べさせてもらう時に、お約束のように、あーんと言ってしまうのか。
私は恥ずかしくなって顔を逸らした。シナン様は恥ずかしくないらしく、保存食の簡素な味に「ふむ」と微妙な感想を漏らしていた。
私がシナン様の口に食べ物を運んでいると、彼女はふいに小さく笑った。
「なんか、介護されてるみたい」
「大人しく食べてください」
食事が一段落するとシナン様が話しかけてきた。
「ねぇ。やっぱり名前が分からないと不便だわ」
「教えられません」
「何か事情があるの?」
「そうです」
何度聞かれても教えることはできない。シナン様の人生を狂わせたのは私だから。
地下に捕まったのも、処刑されそうになったのも、脱獄しなくてはいけなくなったのも。
全て。私のせいだから。
「はぁ。名前は分からないけれど、貴方が強情だってことは分かったわ」
シナン様は身体を震わせながら、手に息を吹きかけ、少しでも暖を取ろうとしていた。
「へっくしゅ!」
「大丈夫ですか?」
「うーん。寒いわ」
シナン様は笑っているが、身体の震えは治まっていなかった。
私は改めてシナン様の身体を見つめた。
ボロボロのドレス。痩せ細り、骨が浮き出た身体。ボサボサの髪の毛。冷たい足枷と冷たい金属製の目隠し。
「シナン様。ちょっと失礼します」
「ん? きゃっ」
私はシナン様の背後に回り、彼女の身体を強く抱きしめた。
「ど、どうしたの?」
「体温で温めているんです。変な意味はありません」
「そ、そう」
私はシナン様の身体を見て━━その変わり果ててしまった姿を見て、感情が溢れ出した。どうして私はあんなにも考えなしだったのだろうと。
せめてこれくらいは、という気持ちでシナン様の身体を抱きしめたが、その程度では溢れ出る感情と涙を止められなかった。
「私、臭くない?」
「臭くありません」
「そう。ならいいけれど……」
しばらくの沈黙の後、シナン様は呟いた。
「暖かい……」
「良かったです」
──
「へっくしゅ!」
しかし、シナン様の体調は悪化した。弱り切った身体で寒空の中、薄着で歩いていたら、体調は悪化するだろう。当然だ。
私は自分の着ていたものを出来る限り脱ぎ、シナン様に着せた。しかし、そんなものは気休めでしかなく、彼女の熱は上がっていった。
「なんかごめんね?」
シナン様が私に謝った。
「謝ることは何一つありません」
私はシナン様の身体を労わりながら、抱きしめていた。
「……私が、あなたを背負って、周辺の村まで行きます」
「え。いやよ。私、重いかもだし」
「御冗談を。自分の体の現状、お分かりになってます?」
「何も分からないわ。見えないもの」
「それはもう、美しさを通り越して心配になるほどの細腕と細足ですよ」
「でも、私には金属の目隠しと、金属の足枷がついているわ。きっと重いわ」
「じゃあ、試しに背負ってみましょうか」
「え、ちょっと、きゃあ」
私がシナン様を背負うと、彼女は私の背中をポスポスと叩いた。
「乙女の体をそんな風に無理やり背負っていいはずがないわ!」
「大丈夫です。この重さなら余裕です」
「もう。かっこいいこと言っちゃって。あなたも乙女なのでしょう? もっとひ弱に『およよ』とか言っていればいいのに」
「私、乙女ではありませんよ。筋骨隆々な男です」
「あら。そうなの、それにしては体が柔らかいのね」
「ちょッ。そこは触っちゃダメでしょう」
「うふふ。言い触り心地ね」
「見損ないました。シナン様は泡沫のように儚いお嬢様ではなく、儚いおっさんだったのですね」
「儚いおっさん!? それは、新しいわね」
「確かに。新しすぎて想像ができませんね」
私はシナン様を背負って歩き出した。休憩は大事だが、こんなところで立ち止まっていてはいけないのだ。なぜならば、現在時刻が朝の六時だから。
シナン様の処刑の予定時刻まで、六時間。そろそろ、王宮にてシナン様の失踪がバレてしまってもおかしくない時間だからだ。
私たちの足で四時間ほど歩いたこの距離。きっと、馬で飛ばせば一時間かそこらで辿り着いてしまう距離なのではないだろうか。
本当ならば、このまま森の中を歩いて隠れながら逃げたかった。しかし、シナン様の体調が心配だ。どこか村にでも寄って、薬と休養を取らなければならない。
痕跡を残すような真似をしたくはないのだが、こればかりは仕方ない。薬を用意しなかった私のミスだ。
……私が送ったもう一通の手紙がしっかりと効いていてくれれば良いのだが。あまり期待はできそうにない。
──
不幸中の幸いか、村はすぐに見つかった。そして、村人たちは優しかった。
私が「助けてください」と言うと、快く受け入れてくれた。私が王宮から拝借してきた金銀財宝と引き換えに。
シナン様を布団に寝かせると、彼女はすぐに寝息を立て始めた。
私はシナン様の髪を撫でると部屋を出て、村人に話しかけた。
「あの、すいません」
話しかけると、せかせかと家事をしていた強気な女性は「ん?」と振り返った。
「何から何までお世話になったうえ、本当に不躾なお願いなのですが、服と靴、それに馬を一頭、いただくことはできませんか?」
私がそう言うと、村人は目を丸くした。そして笑った。
「本当に不躾ね。でもいいわ。何か事情がありそうだしね」
村人はそう言って、商人の馬を一頭くれた。そして、馬の乗り方を教えてくれた。一朝一夕で身につくものではないと重々承知しているが、一朝一夕よりも短い時間で身につけなくてはならなかったので、これ以上なく真剣に話を聞いた。幸い、私はド田舎出身。馬を乗りこなす親の背中にしがみついたことが何度もあったので、なんとなく、馬の乗り方のコツは知っていた。
「それと、この髪の毛を、切ってくれませんか」
──
シナン様が目覚めたのは昼の十二時頃だった。シナン様の失踪はバレてしまっただろう。ついでに、私の失踪も。
「あら、心地の良い朝ね」
「もうお昼ですが」
シナン様の熱は下がりきらなかったが、だいぶマシにはなったようだった。
「では、寝起きのところ申し訳ありませんが、お洋服を失礼します」
「え、待って。今この部屋にいるのはあなたと私だけ? あなたに裸を見せることだって恥ずかしいのに、他に誰かがいるなら恥ずかしいってレベルではないのだけれど!」
「大丈夫です。いませんよ」
「そうです。いませんとも。高貴なお嬢さん」
「いるじゃない! いるじゃないの! きゃあ! お嫁に行けなくなる!」
「とうにお嫁になど行けないでしょうが」
「うわ~ん!」
シナン様を裸に剥いて、似合わない質素な服を着せた。
「よし。行きましょう」
「淡白すぎる……。乙女を裸に剥いた人間の言葉とは思えないわ……」
「どんな言葉がお好みで?」
「そりゃあ、美しいだとか、少しくらい甘い言葉を囁いてもらうだとか……」
「逃げ切ったらご飯をしっかり食べましょうね。l
「あなた! だんだん私に遠慮がなくなってきてるわ!」
「ほら、我儘言いません」
私はそう言って、シナン様を背負った。
「きゃあ! ……あれ、髪切った?」
「邪魔でしたので」
私はそう答えると、シナン様は俯いて小さく言った。
「……ごめんなさい」
「髪なんていくらでも取り返しがつきますから」
シュンと俯いたシナン様を馬に乗せた。
「お世話になりました」
「頑張りなさいね」
「もし、誰かに私たちのことを訪ねられたら、正直に答えてもらって構いませんから」
「分かった。不思議なお嬢さん達が南東に逃げたと行っておくよ」
「……ありがとうございます」
私はシナン様を連れて、南西の道を走った。
「馬になんて乗れたのね」
「さっき習いました。もともと父の背中を見ていたのもありますが、この馬がとても優しい性格をしていて、私のペースに合わせてくれるんですよ」
私が馬の頬を撫でると、馬はブルルと鼻を鳴らした。
「あら、そうなの? よろしくね。エリザベス」
「この子はオスのようですが」
「じゃあチャリオット」
ブルル、とチャリオットが鼻を鳴らした。
ここから南西の方向にはインクジェットという町がある。その街は、この大陸中の人間が集まる商業都市であり、商人の出入りも活発だ。そのインクジェットまで逃げることができれば、私たちにはまだ希望がある気がしていた。インクジェットで他国の商人の荷馬車にでも乗せてもらう。そうすれば、きっと──
同時刻。王宮から大量の捜索隊が放たれた。メイアのもう一通の手紙が稼いだ時間は、わずか三十分程だった。
──
立ち寄った村からインクジェットまでの距離は、馬の脚で半日程かかるらしかった。私たちの逃亡劇は結果にかかわらず、この半日のうちに決することになるだろう。
私は、背中に睨まれるような感覚をずっと感じていた。背中にはシナン様の温かみがあるはずなのだが、そのシナン様を貫いて、私まで届く決着の矢が放たれるのではないかと、そう思わずにはいられなかった。
「不安?」
シナンが聞いてきた。
「いいえ」
「嘘が下手ね」
「……シナン様は不安ではないのですか?」
「不安よ。でも、あなたと一緒に死ねるなら、それでもいいわ」
「私は嫌です。シナン様と一緒に死ぬくらいなら、あなたを生かして私だけ死んでやります」
「ふふ。じゃあ勝負ね。私も、あなたを生かして私だけ死ぬことにするわ」
「……勘弁してください。そんなことになったら、私は死んでしまいます」
「だめ。勝負に負けたら罰を受けなきゃ。生きるという罰を」
「……じゃあ、一緒に死にましょう」
「それがいいわ」
立て看板を見つけた。『インクジェットまで、三十キロ』
「三十キロ。あと四時間ほどでしょうか」
「よ、四時間も……腰がどうにかなってしまうわ」
私はチャリオットを撫でた。チャリオットはブルルと鼻を鳴らした。
「チャリオット、大丈夫?」
ブルル。
「ありがとう。チャリオット」
私はチャリオットの頭にキスをした。
「参りましょう」
「うう。腰……」
━━
同時刻。王宮から放たれた捜索隊は村にたどり着いていた。
いつの間にやら。メイア達との距離はすでに、二十キロほどに縮まっていた。
村人はメイア達に言った通り、「南東に逃げた」と言った。しかしながら捜索隊は「そうか」と答えながらも、南西の方角へ馬を走らせた。もとより、捜索に出たときから、彼らの終着点はインクジェットと決まっていたのだ。なぜならば、インクジェットは逃亡先として、これ以上ないほどの好条件だからだ。
……もう、すぐそこまで迫っていた。
──
「インクジェットについたら、その目隠しも、足枷も、きっと外せますから」
「それは、楽しみね」
「インクジェットについたら、私たちを助けてくれる人が、きっといますから」
「そうなの? 私、インクジェットに行ったことがないから、楽しみね」
「インクジェットについたら。インクジェットにつけたら」
立て看板を見つけた。インクジェットまで、残り五キロ。
日が落ち始めていた。
先ほどから、商人とすれ違うことが多くなってきた。
シナン様に布をかぶせた。商人ならば、シナン様につけられた目隠しの意味を知ってるものも多いだろう。見られてしまい、変な噂を立てられてしまっては困る。
「あと少し。あと少し……」
「……ねえ。ホントにあと少しなの?」
「ええ。希望が見えてきましたね」
──
残り、四キロ。
チャリオットのペースが落ちてきた。ここまで休憩なしで走ってもらったのだ。仕方のないことだろう。
「チャリオット。もう少しだから」
チャリオットは鼻をブルルと鳴らすも、やはり辛そうだ。馬に表情はないが、不思議と疲れが漂う表情をしている気がした。
「チャリオット。インクジェットについたら、あなたにもご褒美を上げるからね。馬にとってのご褒美は何なのかしら。やっぱり人参?」
私はそんなシナン様の言葉に、間の抜けた返事をするほど浮かれることができなかった。なぜならば、そろそろ追いつかれてしまってもおかしくない頃合いだから。
私が出したもう一通の手紙がどれほどの時間を稼いだのか分からないが、正直なところ、ここまで何の危険にも遭わず、無事に来れたのは、奇跡である。
シナン様には悪いが、この逃走劇が本当に成功するだなんて、思っていなかった。
──
残り、三キロ。
「シナン様、こんな時に言うのはとても縁起が悪いのですが、私、本当は、逃走できるだなんて思っていなかったんですよ」
「そうなの?」
「ええ。だって、普通に考えて無謀ではないですか。たった二人で、王国の騎士団から逃亡するだなんて」
「そうかしら」
「そうですよ。本当は私、あなたと一緒に死ぬ気だったんです。あなただけ殺されるのは、少し、寝覚めが悪いから」
「ふふ。あなたって、私のことが好きなの? あなたが誰なのか、いまだ分かっていないけれど、きっと、私と関係の深い誰かなのでしょうね」
「いえ、関係は深くありませんよ。私は、遠くからあなたを見つめているだけだったのですから。そのはずだったのですから」
「ふふ。本当に、誰なのかしら。逃げられたら教えてちょうだいね」
──
残り、二キロ──
あと、ほんの少し。
チャリオットの体力も限界だ。先ほどから走ることができなくなってしまっていた。
「チャリオット、お願い。もう少しだから、足を止めないで」
チャリオットが鼻を鳴らして返事をすることはなかった。ただ、足だけは動かし続けてくれていた。
「腰が、痛い」
私の背後でシナン様が呻き声を上げる。冗談などではなく、本当に限界のようだ。
ここまでの道のりは、彼女にとって本当に過酷だっただろう。空腹に栄養失調、足枷に、視界を奪う目隠し。
シナン様のように強い精神力を持っていなければ、とうに諦めてしまっていただろう。私はシナン様を尊敬する。
「もう少しです。あと少しで━━」
その時、私の耳元で鋭い風切り音が鳴った。そして『ドスッ』と、地面に何かが刺さった。
……これは。
……これは、まさか────。
「チャリオット!!!!!!」
私がチャリオットの手綱を思い切り引くと、チャリオットは鼻から息を吐き、全力疾走を始めた。私の聞き迫る声がチャリオットを奮起させた。
「シナン様! しっかり捕まってください!」
シナン様が私の腰に強く抱き着いてきた。それでいい。振り落とされてしまったら、その時点で終わりなのだから。
心臓が痛くなるほど激しく拍動している。それとは逆に背筋には凍るほどの寒気が走っている。今にも背中を貫かれてしまいそうで怖い。しかし、きっと、シナン様のほうが大きな恐怖を感じているはず。
チャリオットは全力だった。しかし、私の実力が足りていなかった。
「待て!」
いつの間にか凶器を振りかぶる兵士が左隣にまで追いついてきていた。胸元には忌々しい国章が煌めいていた。
「チャリオット!」
私が思い切り、左の手綱を引くと、チャリオットは兵士の馬に激しい体当たりをぶちかましたい。
兵士が「ぐああああ!」と叫びながら落馬し、地面に転がった。
「何が起こってるの!」
シナン様が叫んだ。
「最後の! 最後の苦難です! インクジェットはもう見えてる!」
目の前にはインクジェットの入り口がすでに見えていた。
しかし、背後から無数の足音が聞こえている。
時折、風切り音が聞こえたかと思うと、私の真横や真上を矢が飛んでいく。
「当たるな! 当たるな!」
私にできることは矢が当たらないことを願うことくらいだった。
「全力疾走中の弓矢なんて、そう簡単に当たるものか!」
そのように、信じることだけだった。
残り、五百メートル。
──
足音が近づいてくる。しかも、今度は一頭の馬ではなかった。背後のすぐ近くで、何頭もの馬が走っている気がした。
さすがにこんな至近距離で、弓矢を放たれたら当たってしまうだろう。
曲がるか……!? でも、曲がってしまったら、すぐ背後を追いかけている兵士達に囲まれてしまうかもしれない。
しかし、そんなことを考えたとて、この極限状態において、選択肢などなかった。
とにかく、今この瞬間に死なない最善の選択肢を選べ!
「シナン様! 私の腰に!」
シナン様が私に強く抱き着いた。
私は右の手綱を大きく引いた。するとチャリオットは素早く右に曲がった。
「ぐぁ!」
間一髪。私の頬に大きな切り傷がつくだけで済んだ。
「ねえ! ねえ! 大丈夫!?」
「大丈夫! 黙って! 舌を噛みます!」
インクジェットはもうすぐそこだった。そう、もうすぐそこなんだ!
曲がってしまったことで兵士に追い抜かされてしまった。前方から方向転換してきた兵士が剣を振りかぶり襲いかかってきた。
しかし、止まるわけにはいかない。止まったら囲まれる。
どんなことが起こってもいいから、何をしてでも前方の兵士を避けなければ。
私は咄嗟にチャリオットの手綱を取り外した。そして、前方の兵士に向かって投げつけた。
「ッ!」
兵士は一瞬怯んだものの、私に向かって剣を振り下ろしてきた。それを私は──。
「あああああああ!!!!」
左腕で受け止めた。幸い、両断はされなかった。しかし、左腕は切り裂かれ、骨が見えていた。
それを見て私は良かったと思った。この程度ならと思った。
シナン様を殺されるより、百倍マシだと思った。
──インクジェットの入り口まで残り五十メートル!
こんな計画性のない逃亡劇だったけれど! 成功なんてしないと思っていたけれど! 私はこの人を死なせたくない! シナンだけは、私が守らなくてはいけないんだ!
「ああああああああ!!!!!」
もう、すぐそこ。すぐ、そ──
「────
──
「ああああああ!!!!!!」
私はインクジェットの入り口を全力で駆け抜けた。門番たちは慌てて私たちを止めようとしたが、私たち目掛けて飛んでくる弓矢に気づいて、悲鳴を上げながら身を隠した。
私たちはそのまま、インクジェットの市場へ駆け込んだ。
市場の客たちがどよめきを上げ、チャリオットに踏まれないよう必死に飛びのいた。
私たちの背後では、慌てふためく客たちが壁となり、兵士たちを止めていた。兵士たちは客を馬で踏み潰すわけにはいかなかったのだ。
私たちはそのまま、ひたすらに市場を進み、その先にある路地裏でチャリオットを止めた。
「はあ……はあ……」
「ね、ねえ。大丈夫なの……? け、怪我をしたんじゃないの……?」
「だ、大丈夫……です。それよりも、捜索の手が伸びてくる前に、隠れるなりなんなりして、身を潜めないと……」
「本当に大丈夫なの!? 嘘をつかないで!」
左肩に矢が刺さっていた。しかし、良かった、右肩じゃなくて。すでに使い物にならない左腕なら、くれてやってもいい。
それに、本当に良かった。矢に貫かれるのが私の左肩で。シナン様じゃなくて、良かった。
「ねえ! ねえ!」
いつの間にか、私はその場に倒れていた。
あれ。どうしたんだ。私の体。
逃げなくてはいけないのに。隠れなくてはいけないのに。こんな路地裏では、すぐにバレてしまうのに。
「やだ! 死なないで! 私、まだあなたの名前も何も知らないのに!」
シナンが私の体をまさぐり、「ああ、ああ……!」と声を漏らした。私の肩に矢が刺さっていることに気づいたのだ。
「いや……いやぁ……!」
「何が嫌なのですかぁ?」
──?
男。
「ッ!!!」
「これは、シナン様。本当に、奇遇」
目を塞がれたシナンにも分かった。それが私たちに害をなす存在であることが。
兵士は右手で、シナンの腕を強引に掴んだ。
「痛い!」そう叫ぶシナンを無視して、兵士は「腰が痛いなぁ」と左手で腰を叩いた。
「いや、しかし、ずいぶんと面倒なことをしてくれたものです。本当に、こんな状態で、よくもまあ、こんなところまで逃げてきましたね」
兵士はメイアに近づいた。
「いえ、こちらの女性を褒めるべきですね。えっと、そう、名前は確か──」
兵士はそう言って、首をひねり、メイアの肩に刺さった矢を思い切り引き抜いた。
メイアの体が力なく地面に落ちた。
「いや、ぽっと出の令嬢の名前なんて覚えられませんね」
そう言って、シナンに言った。
「シナン様。この女が今、王国で何と呼ばれているか教えてあげましょうか。『国家転覆を企てたテロリスト』ですよ。この女、王族が殺した兵士の遺族に、兵士がどのようなミスを犯して、どのような最期を迎えたのか詳細に記した手紙を送ったのです。遺族はブチギレ。王城を囲んで抗議活動を始める始末。全く、恐ろしいことをしたものです。まあ、三十分ほどで鎮圧できましたが」
シナンは(彼女の言っていた『もう一通の手紙』とは、このことだったのか)と気づき、改めて、メイアの覚悟を知った。
「では、帰りましょう。シナン様。カンカンに怒った王子様があなたを焼きたくてウズウズしておりますから」
シナンは──
「最後に、彼女に伝えたいことがあるの……」と呟いた。
兵士は耳をほじりながら「どうぞ」と言った。
シナンは、小さな声で話し始めた。
──
「ねえ。まだ、聞こえているかしら。それとも、死んでしまったのかしら」
シナンの目を塞ぐ目隠しの内側に、涙が溜まった。
「あなたは、本当におバカさんよね。私なんかのために、死んでしまうなんて」
「」
「前に言ったわよね。一緒に死のうって。大丈夫。私もすぐにそちらへ行くから。待っていてね」
「」
シナンは「そうだ」と声色を明るくして言った。
「ねえ。この言葉をある人に伝えてほしいの」
シナンは「ふふ」と笑みをこぼした。
「その人はね。私の地位を奪った人なのよ」
心底楽しそうに、シナンは笑った。
「そしてね、責任感が重すぎて、自分の命を投げ出してしまうような人なのよ」
シナンの笑顔は決して、無理をしているものではなかった。本心からの笑顔だった。
「そんな彼女に伝えてほしいの」
シナンの口から、今までにないほど優しい声で、告げられた。
「『あなたのせいじゃない』、この言葉を、あの人に、メイアさんに伝えて。あなたになら、できるわよね?」
「行くぞ」
シナンは満足そうに、兵士に腕を掴まれ、引きづられていった。
──
「オラぁぁぁぁぁ!!!!!!」
と、私は兵士に殴りかかった。ああ、本当に、持って来といて良かった。あなたにはじまり、あなたで終わるのね。つるはし!
つるはしで兵士の側頭部を殴りつけた。すると、兵士は突然脱力して地面に倒れ伏した。さすがつるはし。甲冑越しでも脳震盪を起こすレベルの威力があるようだ。
「え?」
シナン様が驚いたように、口をぽかんと開けていた。
「死んだふりに決まってるじゃないですか。視界の端に兵士が見えたから、とっさに死んだふりをしたのです」
いや、嘘だ。私の体は限界を迎え、意識を手放そうとしていた。しかし、朦朧とした意識の中で、先ほどのシナン様の言葉が聞こえてきて、死ぬわけにはいかなくなったのだ。
「な、なによ。あなたってば本当に……」
シナン様が目隠し越しに涙をぬぐう仕草をした。しかし、目隠しの存在を思い出したのか、腕を下げて小さく笑った。
「ほら。まだ終わってません。兵士はこの人だけではないのですから、すぐにここを離れないと。そのうち、この町が閉鎖されて、逃げ出すこともできなくなってしまいます」
そう言って、私はシナン様の手を握った。
「行きますよ。シナン様」
そう言うと、シナン様が笑った。
「ええ、行きましょう! メイア!」
「……はい」
「あはは!」
──
────
それから、数日後。私たちはインクジェットから港町に移動し、船に乗って隣国までやってきた。隣国までやってきてしまえば、王宮の追っ手も追いかけてこないだろう。
私は、本当に成し遂げてしまったのだ。こんなにも無謀な計画を。左腕を代償に。
私とシナン様は、鍵屋へ訪れていた。
「ああ、このくらいなら、三時間くらいで作れるかな」
「そうですか」
シナン様はそう言いながら、俯いてしゃくりあげるように泣いていた。
「すぐにお願いします」
私がそう言うと、鍵屋のおじさんは「おうよ」と作業を開始した。
「シナン様」
私は残った右手でシナン様の左手を握った。すると、シナン様は泣きながら私の手を強く握り返してきた。
「こんな、こんな日が来るなんて、夢にも思ってなかった。だって、私、死ぬと思っていたから」
「ふふ。私もです」
そう言って、笑いあった。
店の外からチャリオットが鼻を鳴らしたブルルという音が聞こえて、私たちはさらに笑った。
──
「じゃあ、外しますね」
そう言って、私は鍵屋のおじさんに渡された鍵を、鍵穴に差し込んだ。
「メイア」
シナンが私の名前を呼んだ。
「なあに?」
「ふふ。何でもない」
シナンは何かを企んでいるのか、楽しそうに「ふふふ」と笑っていた。
私は鍵穴に差し込まれた鍵を、ゆっくりと回した。何かの間違いが起こらないように、慎重に、ゆっくりと。
カチ、と。音が聞こえた。
鍵を抜き、シナンの目隠しの金具に触れた。
「あ」
シナンを閉じ込めていた目隠しが解かれていく。
そして、私は彼女の目から目隠しを外した。
「シナン様」
私がそう呼ぶと、シナンはこちらに振り返った。
そこには、美しい銀の髪を風に揺らし、白い玉肌を艶めかせ、白銀の瞳を輝かせる美しい少女がいた。
「メイッ……」
そう言って、シナンは腕を広げ──たのだが、突然時間が止まったかのように私の目を見ながら動きを止めた。
「お、おお、どうしました?」
私は、目隠しを外すことのできた感動よりも、シナン様の不思議な行動に戸惑ってしまった。
シナン様は私の目を見て固まっていた。
「シ、シナン様……?」
「え、えっと……」
シナン様の顔がみるみるうちに赤く染まっていった。
「あ、あの、目隠しが外れた瞬間に、あの、メイアにキスをしようと思っていたのだけれど……。あの、私の中のメイアは、オレンジ色の長髪に、ふわふわのドレスを着た女の子だったから、ちょっと、予想外で……」
今の私の格好は、オレンジ色のショートカットに帽子を被り、前に村で着替えさせてもらった村娘の服をきた質素な格好だった。
「あの、ちょっと、思っていたよりも、その、かっこいいのね……メイア……」
そんなことをシナン様が言うものだから、私は気が抜けてしまった。
「あ、あは、あはは!」
「な! なんで笑うのよ!」
「これが、笑わずにいられますか! あはは!」
なんてこった。やっと目隠しを外せた感動のタイミングなのに、このお嬢様は、一体どれだけ予想外なのか!
「シナン様」
私はそう言って、シナン様の顎に触れた。
「キスがしたいのですか?」
「は、はわわわわわ……」
慌てふためくシナン様を無視して、私は私の唇をシナン様の唇に重ねた。
「これで良いですか? シナン様?」
「お、王子様過ぎるよぉ……メイアぁ……」
シナン様は私の目を見て、その美しい白銀の瞳をこれでもかというくらいに輝かせていた。
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