現代文読解―解釈
注意事項1
起承転結はありません。
短編詐欺に思われたら申し訳御座いません。
注意事項2
なんでも許せる方向けです。
そして、現代文の読解だけは真面目にやった方が良い。
赤恥をかくから。
学生の時にやった勉強というのは、社会に出た時ほぼ使われなくなる。使われるのは『そう言った』ことを道具として使う仕事だけであろう。
では行った事は全て無駄になるのかと言われればそんな事はなく。社会に出ても『あの時もう少し……』と思う事はやはりそれなりにある。
ある日の事、何時もの様に珈琲を嗜んで会計を済ませて帰ろうとした時の事、一つの日本画が目に入った。百人一首の誰かを模したものの様で、平安貴族の様な和装をして、上の方には和歌が書いてある。残念ながら、文字は平安貴族特有の達筆な字であったし、何より掠れて読めない。
あの時もう少し勉強していれば、とは思ったものの、あの文字は専門家でないと解読不可能であろう。
「で、分かったのか?」
「いや? だからまた今度」
流石にレジの真ん前で呑気に検索を掛ける事も、肖像権を侵害する事もしたくなかったら、またもう一度特徴を目に焼き付けようと思う。
勿論、古文の専門家であれば、あの文字を読む事は容易いであろう。分かればきっと、理解する喜びが胸を満たすだろう。これも勉強をした方が良い理由の一つである。
けれどもそれ以上に、それ以上に勉強をしなければならないと思ったのは、別にある。
「和歌繋がりで、君が知ってるか知らないかは分からないけれども、百人一首一つとっても解釈が違うものだってある。まぁ、現代日本でもよくある話だね。誰かが行った行動が真面目にやったのか、舐めてやったのか分からないって奴」
この時、自分の気持ちに身を任せて、相手を叩く輩を見るとこう思う。『君、小学生の国語の勉強、まともにやってなかったでしょう?』って。
国語の現代文の読解というのは、相手の真意を自ら考え出す事にある。つまりこれが出来ない輩は、感情に身を任せて相手を叩きたがるという意味ではあるが。
「国語だけは真面目にやった方が良い。赤恥をかくよ」
「……古文が出来なくても、赤恥には繋がらないだろうよ」
以下何でも許せる方向け。
個人の意見飛び交います。私の発言が許せる方のみ宜しくお願いします。
大真面目に失礼なことを書きますよ。
ちなみにこの百人一首の話、次はきっと幻想奇譚で登場すると思います。忘れなければ。
皆様、小学生の時に行った現代文、覚えてますか?
論文ではなく、小説の方。
『ごんぎつね』や『モチモチの木』や『スーホの白い馬』や『少年の日の思い出』なんかが良い例ですかね?
なんで現代文やるかって言われたら、相手の心理を知る為です。
極端な例で、私が追悼の意を込めて小説を書いたとしましょう。出来る限りの丁寧な文章で原作愛を込めて。貶す文章が一つもないぐらいに。
んでもって投稿した時、『死を労るか、貶すか』、評価が別れる事があるんですよ。
多分現代文で、作者の心情を述べよ。みたいな事が書かれていたら、前者が正解です。
読んでいけば、多分根拠がぽろぽろ出てくると思うんです。貶す言葉が何処にもないから。
けれども根拠が見つけられなければ、きっと『貶す』という考えに行き着くでしょう。
これがテストだとまだ良いんですよ。
またまた極端な例ですが、問題は現実世界。SNSとか感想とか、そういうの。
『自分が苛立ったから、この人は相手を貶している』
そんな短絡的な考えになると相手を叩いて炎上を引き起こすんです。
誤字脱字オンパレードの私に言われたくはないでしょうが、
傍から見ると大変に滑稽ですよ。
感情でしか判断出来ないのかと。
だから赤恥をかかない為にも現代文の小説だけは大真面目にやった方が良いかと思います。
相手に物申すならば、肯定にも否定にも相手が納得させる程の根拠はあった方がよいと思います。