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起立、礼、謎解き!

起立、礼、謎解き! 一時間目「理科教師殺人事件」

作者: タカノコの子

プロローグ

「境町くん」

 六月も半ば、少々ムシムシする職員室で目の前のパソコンと睨めっこしていると、ふと後ろから声をかけられた。

「何ですか?」

「ちょっといいかい?」

 そこに立っていたのは僕が教師として勤めている時任中学校の教務主任・峰形治先生だった。


 僕の名前は境町友介。今年から時任中学校での採用が決まった二十九歳の新人教師だ。新人なのにも関わらず、僕は中学三年生のクラス担任を任されてしまった。受験を控えて、さらには思春期真っ只中だという、チョー難しいお年頃の生徒たちだ。

 どうして新人なのに三年生を受け持つことになったのか。笑っちゃうけど、その答えは僕の体の大きさにある。

 僕の身長は軽く180㎝を超え、それに体重も80㎏近くになる、ビッグボディだ。時任中学校の先生の中でもずば抜けて体がデカい。

 もちろん、集会の時に飛び抜けて目立つ僕のことを、生徒がからかわずにいるわけがなく、生徒たちは僕のことを〝ウド先生〟と呼んでいる。どうせ『ウドの大木』という言葉からとったあだ名だろうけど、今時の子供たちは変な知識はたくさんあるようだ。

 まあ、そういうことで僕は、体が大きく迫力が強いという理由で、新人に関わらず中学三年生の担任という、重要な役目を負うことになった。

 初めは断った。僕はこんなにデカくても、実際は少々気が弱いし、そもそも運動系ですらない。逆に手先が器用で、体育の成績より普通教科の成績の方が断然よかった。だから親や友達からは、図体だけデカ男と言われて馬鹿にされたものだ。

 ちゃんと教務主任の峰形先生には「自分にはまだ荷が重すぎる」と言ったのだが、

「君は新人とはいえ、十分な実習や勉強はすでに積んでいる。境町くんなら大丈夫だ」

 と曖昧な答えしか得られなかった。

 どうしても納得できなかったから何回も言ったのだが、

「わかった。ちゃんと他のクラスの先生と副担任の先生が補助してくれるから。みんなで頑張ろう!」

 とどこぞの熱血漢のような張り切りっぷりで押し切られてしまった。

 もうそこまで言われたら、僕の死ぬ気で挑もう。と僕も腹を決めた。

 こうして、僕の中学三年生としてのお勤めが決まったのだ。


 僕が任されたクラスは三年四組。個性豊かな生徒たちが集まる、にぎやかなクラスだ。

 そのクラスの担任としての生活が始まって、もう二ヶ月が過ぎようとしている。今は六月の半ば、梅雨盛りの時期。時任中学校周辺も空気が肌に張り付くような心地の悪い日が続いている。

 僕には担任の他に数学の教師という務めもあった。三年生全五クラスのうち、四組を含めた三クラスの授業を受け持っている。

 あともう一つ、吹奏楽部の副顧問もしているが、これは僕は高校まで、吹奏楽でのチューバ(あのバカでかい楽器)や習い事のピアノなど何かしらで音楽に触れていたというのが理由。しっかりしている女性の顧問がいるから、副顧問の仕事は多くない。


 ちなみにいうと今日は土曜日だが僕は学校にいる。来週の一番初めの授業で小テストをするつもりだからそのテストを作っているのだ。

 展開しなさい。因数分解しなさい。二次方程式を解きなさい。

 数学教師の資格を持っている僕でも懐かしい問題文の数々が目の前で羅列を成している。さてこれをどう組み立ててテストを作るか。昔は、先生は問題を作るだけだから楽なんだろうな、と思っていたが、いざ作るとなると平均点や難易度を気にして悩んでしまう。教師という仕事も一筋縄では行かない。

 そんな今、僕に声をかけた峰形先生は、教務主任でありながら国語教師も務め、雑談が楽しい授業で人気を博す先生だ。

 そんな峰形先生は僕より背は低いが、少し腹が出ているので体重は僕とそう変わらないだろう。四十路らしいから、歳ゆえの顔の皺が一見厳しい印象を与えてしまうが、少し話せばすぐわかる優しい先生だ。

 そんな峰形先生に呼ばれて、僕は職員室の給湯室へ連れてこられた。この給湯室には冷蔵庫やコンロがある。その真ん中にあるテーブルに、僕たちは腰を下ろした。

 目の前の峰形先生は滅多に見ない神妙な面持ちをしている。

「あの……なんですか」

 僕は何かやってしまっただろうか。そんな不安を覚えながら尋ねる。

 大きな声で叱るなんて一度もやってないし、体罰なんてもっとしたことがない。元々そんなキャラじゃないし……。

「いやそんな固くならんで良いんだ。君に伝えておきたいことがあっただけなのだ」

 峰形先生はそう言ってポケットから折り畳まれた紙を取り出し、広げた。それは僕のクラスである三年四組の名簿だった。

「これが何か」

「まあ、見てくれ」

 僕は名簿を覗き込む。

 すると、名簿の名前の中のいくつかに赤ペンでチェックがつけられているのが見えた。

 十三番・左門悠悟、十四番・新谷知佳…十六番・立花晶……二十五番・広末美琴…二十八番・水無恵美、二十九番・森田真……。

「悠悟、知佳、晶、美琴、恵美、真…」

 一体どういうことだろうか。三十人いるクラスの中で、どうしてこの六人だけにチェックをつけたのだろうか。

 問題があるとでもいうのか。あえて挙げるならば、左門悠悟はクラス一、いや学年一のお調子者でよく男子仲間と遊んでいるが、そこまで問題になるようなことは起こしていない。

 他の生徒だって普通の中学三年生。森田真と広末美琴はそれぞれクラスの学級委員長・副委員長だ。水無も立花も新谷も、個性的ではあるが何もおかしいことはない。

「すまんな、いきなりこんなの見せられたらそうなるわな」

 峰形先生から見たら僕が相当考え込んでいるように見えたようだ。

「言っておくが、欠点がある生徒をピックアップしたわけではない」

「じゃあどうして」

「いやぁ…確かに、他とは違うんだが…」

「やっぱり何かあるんですね。教えてください」

「うん、わかってるよ。君には伝えておかなくてはいけない」

「そうです、僕は彼らの担任ですから。さあ教えてください」

「うん……」

 峰形先生の返答はなんだか煮え切らない。

 僕も歯痒い思いで峰形先生を見つめていたが、ついには峰形先生は諦めたように短いため息をついてこういった。

「堺町くん」

「はい」

「……君は探偵を信じるかい?」

「……は?」

 思わぬ言葉に、目上の峰形先生相手に素の反応をしてしまった。

 探偵…?…え、探偵って言った? 聞き間違い?

「あ、いやごめんなさい、いきなり、あの、何をおっしゃるのかなって思って」

「いや、気にしないでいい、君の気持ちはわかる」

 焦る気持ちを抑えて、僕は落ち着いて尋ねる。

「探偵って……あの神津恭介ですか?」

「うん、そうだ」

「おうっ!」

 探偵だ、やっぱり探偵って言ったんだ、僕の耳に間違いはなかった。

 驚きのあまり「おうっ!」なんていう聞いたこともない驚きの声をあげてしまった。

「確かに神津も探偵だが、センスが渋いな。他にも『コナン』とか『シャーロックホームズ』とかあっただろう」

「『金田一』もいますよ」

「まあ、確かに…」

 頭が混乱している中でも峰形先生のコメントに付け足しする僕に、タジタジしている峰形先生。……言っとくけど、全部あなたが原因だからね!

「ふぅ…ふぅ…」

 深呼吸してなんとか心を安定させた僕。

 この不自然極まりない挙動からわかってもらえるだろう。僕が、探偵物が大好きであるという事は。

 峰形先生が持ってきてくれたコップ一杯の水で、とりあえず心と体を落ち着かせる。

「それで、急にどうしたんですか。探偵なんて」

「いや、ちょっと気になってね。君が探偵の存在を信じるのかどうか」

「探偵の存在ですか」

 僕は椅子の背もたれに背をもたげて、ちょっとだけ考え込んだ。

「信じるかって言われたら微妙なとこですよね。探偵と言っても一般人が、そう簡単に殺人事件に首を突っ込めないですし、下手したら公務執行妨害になっちゃうし。というか、そもそもそんな凝った事件なんて起こらないですから」

「そうだよなー」

 峰形先生もまた難しい顔をして答える。

「信じないということにしておきます」

「そうだよな。でも俺も信じていなかったんだがな……」

 なんだか言い切らない様子の峰形先生に、若干むず痒さを感じる。

「なんですか。申し訳ないんですけど、僕も小テストを作らないと」

 僕はそう言って給湯室の窓外を見る。もう火が沈みかけていた。

 クラスの仕事や宿題の添削をしているうちに、もう午後六時を過ぎて七時になろうとしていた。明日は副顧問をしている吹奏楽部の一日練があるからそれに付き合わねばならないし、今日は今日で見たいテレビがあるから八時までに帰りたい。

 ともかく、後一時間くらいで小テストの作成を終わらせたいのだ。

「そうだな」

 峰形先生もそれは知っている(テレビのことは知らないだろうけど)から、それを悟ってくれたらしい。

「単刀直入に行くよ」

「はい」

 峰形先生はさっきの名簿を指差すとこう言った。

「この六人は、本物の名探偵なんだ」

 名探偵。なあんだ、なるほど。名探偵、そんなことか……

「って、えぇえぇ! 探偵⁉︎」

 自分で出した大声に、自分の耳がキーンと悲鳴をあげた。給湯室中の割れ物がちょっと揺れて、峰形先生も急な大声にびっくりしている。

 給湯室の周りもざわざわしていた。つい出してしまった大声に、先生方も驚いたんだろう。

 深呼吸でなんとか心を落ち着かせると、峰形先生の発言が改めておかしく思えた。

 全ての元凶・峰形先生は想定内のことだったようで、苦笑いしながrこちらを見ている。給湯室に他の先生が顔を出すたびに「なんでもないなんでもない」と軽くいなして追い返している。

 十数秒してようやく事態が落ち着いた。

「それでなんですか、その悪趣味な冗談」

 ちょっときつい言い方になってしまったが、峰形先生に聞き返す。

「悪い悪い、単刀直入が過ぎたな」

 峰形先生はそう簡単に返すと、さっきの神妙な顔に戻った。

「でも本当なんだ」

 その顔に僕は冗談ではないことを察して、黙って話を聞くことにした。

「俺がそのことを知ったのは去年だ。

 俺は去年、二学年の学年主任だったんだ。彼らにはその時出会った。

 彼ら六人は不思議な縁で、中学校で一、二年と同じクラス。その上、小学校六年間もずっと同じクラス」

「そんなに……」

 あり得ない話ではないもののすごい偶然に、僕も驚いた。

 峰形先生の話は続く。

「そんな六人を、去年は国語の授業で教えていたんだ。

 俺はこう見えて、学校を休むなんてことはしないようにしている。出張とかない限りだが。

 でもたった一度だけ、ある理由で休まざるを得ないことがあったんだ」

 峰形先生は再びポケットから折り畳まれた髪を取り出す。この先生は何でもかんでもポケットに入れてしまう癖があるようだ。

「これがその時の新聞記事だ」

「新聞記事?」

 なぜ新聞?と思ったが、僕はそれを覗き込んだ。

 不審死……病死……殺人の疑い……。

 僕もうっすらを覚えている事件の記事だった。

 朝の駅のホームで急に男性が倒れて、その場で死亡が確認された。病死だと思われたが、後日の検死で毒物が発見された。

 という事件だった覚えがある。そこまで有名な事件でもなかったため、その後の事件の動向や犯人については興味を持たなかったが。

「実はこの時、現場に俺はいたんだ」

 峰形先生の言葉に、

「え! 峰形先生が!」

 僕も驚く。

「あぁ」

 そう言って峰形先生は新聞記事の写真の一つを指差した。よく見ると、その中には峰形先生らしき人が写っている気がする。

「この駅は気分転換がてら使う駅だったんだが、この事件に出くわしちまってよ。しかもこの時、被害者の背後に俺は立ってたんだよ。

 おかげで重要参考人になっちまった」

「えぇ!」

「本当だ。幸いなことに古い友人に警察になった奴がいたから、変に疑われることはなかったんだが。

 事件の状況が特殊だったせいで、被害者の近くに立ってた数人は容疑者扱いされて。特に被害者の後ろに立ってた俺は事情聴取が長引いちまって、結局その日は学校を大幅に遅れることになったんだ。

 もちろん、事件だってことは生徒に内緒でね」

「それでそれで」

 いつしか僕は、あっという間に峰形先生の話に引き込まれていた。

「けれど、俺はその事件のことをある生徒たちに話しちまったんだ。

 それが、この六人だったんだよ」

「ほんとですか⁉︎ でも、それって本当はダメなんじゃないんですか?」

 警察の捜査に関する情報を無関係の第三者に流すことは、やってはいけないことだ。下手すればまずい犯罪になる可能性だってある。それは僕でも知ってるし、峰形先生も知ってるだろうに。

「あぁ。もちろん初めは話すつもりはなかったよ。けれど、彼らは当てたんだ。俺がその日に、その事件に遭遇していたってことを」

「!」

「俺も驚いたさ。だって、先生にだって上層部にしか教えてないから知らない人も多い状況だったのに、生徒が知ってるわけない。それなのに六人は当てたんだ」

「それでそれで」

 僕は話の続きが聞きたくて仕方がなくなっていた。

「ということで事件のことを話すことにしたんだが、境町くん、今日は時間がないんだろう。また今度話してやるよ」

 そう言われて僕は時計を見る。七時半を過ぎたところだった。

 まずい、もうそろそろ出ないと見たいテレビに間に合わない。だからテストを急ピッチで完成させないといけない。

 だが、峰形先生の話も気になる。六人の生徒に関する話の続き。

 考え抜いた末に、僕は後者を選んだ。

「教えてください。時間は……大丈夫っす」

「そうか。なら続きを」

 峰形先生は一旦席を立つと、ポットのところでお茶を入れながら話し出した。

「彼らはずっとクラスが一緒というだけあって仲がいい。

 だからその日も、授業が終わって下校時刻になるまで六人で一緒にいたらしい。月曜日のことだったから全ての部活が休みだからね。

 俺はその日、見回りの当番でね、六人がいる教室に入った時に彼らにあったんだ。六人で仲良く話してたぞ、授業のこととか恋愛のこととか」

 あの共通点のなさそうな六人が……? 僕はちょっと意外でおかしく思えた。

「その時に、六人に言い当てられたんだ。俺が事件に遭遇したことを。

 それで、どうせ隠したって無駄だと思って正直に伝えたよ。

 そしたら、彼らはなんて言ったと思う?」

「なんて言ったんですか?」

 急に峰形先生に聞かれて、僕は思わず身を乗り出して聞いてしまった。

「今覚えば笑っちゃうんだけどさ、彼らは言い方は違えど、口を揃えてこう言ったんだよ」

 峰形先生はクスッと思い出し笑いしてから、僕を見てこういった。

「僕たちがその事件を解いてやる、ってね」


第一章 起立

「帰りの挨拶、さようなら」

『さようなら』

 いつも通り帰りの会が終わり、今日という日が無事に終わった。

 三年四組の生徒たちも挨拶が終わった途端に荷物を掴み取り、教室を飛び出していく。部活引退前の最後の大会を控えた運動部員が多いので、多くの生徒の行き先は体育館やグラウンドだ。

「先生さよなら!」

「さようなら」

 生徒たちが元気な声が僕の耳に届く。

「さようなら」

 僕は彼らの声に挨拶で返す。中学三年生は難しい年頃だと思っていたが、こうしてみると意外に可愛い一面もあるのだ。

 しかし、僕の返す挨拶にはどこか気が乗らない。やはり、頭の片隅に峰形先生の話が残っているのだ。

 あの後も結局三十分ぐらい話が続いて、帰る時間が予定よりもかなり押してしまった。見たかったテレビはお預けだ。

 いやこの際テレビはどうでもいいのだが、あの六人の話は気になって仕方がない。峰形先生の話はこうだった。


 口を揃えて『その殺人事件を解いてみせる』と言った六人を前に、峰形先生はかなり迷ったそうだ。だが結局、事件のことを話すことを決めた。

 警察にいるという峰形先生の友人の刑事が、飲みに行った時にこっそりと事件のことを教えてくれたらしい。これも刑事としてどうかとは思うが……この際気にしない。

 峰形先生は余すところなくその情報を六人に伝えた。もちろん、関係者たちの名前や住所などの個人情報は抜きで。

 峰形先生は最初、ちょっとした悪い冗談だろうと思っていたらしい。

『解けないって言ったら、少しは説教しようと思っていたよ』

 言っては良い冗談と悪い冗談がある、と教えたかったという。

『まあ、あの時情報を教えちまった俺も、ちょっとバカだったけど』

 峰形先生はその後考えこむ六人を前に数分まった。

『流石に待ちくたびれて、五分待ったところで口を挟もうとしたんだ。そしたらよ……』

 六人が一斉に声を上げた。

 また口を揃えて『この謎解けた』と。

『そのあとは俺も驚くばかりだった。

 六人がかわりばんこになって事件の謎解きをするんだが、ど素人の俺が聞いても納得できるものばかりでな。ほんとに辻褄が合ってるんだよ。

 あれには仰天したね。しかもあいつらの語り口と言ったら……』

 本物の探偵も顔負けだな、と峰形先生は笑って言った。

 そのあと峰形先生は、警察の友人にそのことを洗いざらい話した。友人には散々言われたらしいが、友人も六人の推理に納得してくれたそうだ。そしてその推理の証拠や証言集めに走ってくれて、ついには事件解決に至ったという。

 そのあとはその友人すら六人を頼るようになり、二件ほど事件を解決したという。峰形先生はその橋渡しだった。

『そうして一年が過ぎて彼らは中学三年生になろうとしていたんだが……』

 俺は必要無くなった、と峰形先生は顔を曇らせた。

 友人の刑事が殉職したという。凶悪犯と面と向かって戦い、逮捕に成功したが、その際に負った重傷が元で亡くなったらしい。

 いきなりの訃報に、僕がしばらく何も言えずにいると、峰形先生は元の顔に戻って言った。

『聞いたところによれば、境町くんも事件にあったことがあるらしいじゃないか。それに、警察に知り合いがいるとか』

 そう言われてドキッとした。

『もちろん、俺がしていたことを君に強制するわけじゃない。このことはちょっとした秘密情報だと思って頭の片隅にでも置いておいて欲しいんだ』

 じゃあな、と言って峰形先生はさっさと給湯室を出て行ってしまったのだった。


 なんだか、結局峰形先生のテンポで話を進められてしまったが、話の内容は信じられないものばかりだ。六人に本職の刑事を唸らせていた推理力があるだなんて。

 そんなことを考えていると、すでに教室からは人気がなくなっていた。ただ一人、黙々と作業している生徒を除いては。

 メガネをかけたその男子は、校則では開けていいことになっている第一ボタンまでしっかり留めていて、制服には一つのしわも見られない。姿からして真面目である。

 彼こそ、推理力が高いと呼び声高い(言っているのは峰形先生だけだが)六人の一人、三年四組二十九番、森田真だ。整った顔をした彼は女子ウケもだいぶいいし、成績も上位、そしてクラスの学級委員長をも務めている。

 一見すれば完璧人間なのだが……毒舌なのが玉に瑕だという。

 僕はまだ直接的な毒舌を受けることはなかったが、よく友達と話している中で聞こえることがある。しかし、決して気持ちの良くない言葉ではなく気持ちのいい言葉を選んだ毒舌なので(毒舌に気持ちの良し悪しがあるのかはわからないが)、交友関係も広い。

 しかし、まだ気になる。確かに真は成績優秀で学力や知識も備わっているが、推理力が高いというのは信じられない。

 真は僕がそんなことを考えているなんてつゆ知らず、学級会で話し合う予定のアンケート結果を黙々とまとめている。

 峰形先生はあの時、こうも言った。

『きっと信じられないだろう。だったら六人のうち誰か一人に試してみるといい。君が出くわした事件というのも、だいぶ凝ったものだと聞いているぞ』

 峰形先生のいう通り、僕も殺人事件に出くわしたことがある。そしてその繋がりで、警察にも知り合いがいる。

 さらにその事件というのも、一筋縄ではいかない厄介なものだった。

 何が厄介かって? それは現場に、ダイイングメッセージが残っていたのだ。

 警察は結局それを解明できず、地道な捜査の末に、最後は犯人の自白で終わったという。ダイイングメッセーっじの謎は不明のままだ、と警察にいる知り合いも言っていた……。


「先生、始めましょうか」

「ん?、あ、そうだった」

 ぼんやりと考えていると、目の前に真の顔があった。

 今日は学級委員長である真に、学級会での話し合いの打ち合わせを理由に残ってもらっていたのだ。

「集計終わったので」

 真が集計結果をまとめた紙を差し出す。

「次、何しますか」

「えっと……」

「集計も終わりましたり、あとは明日話し合いを進めるだけなのでは?」

「……」

 確かに真のいう通りだ。正直いえば集計だって残ってやってもらうことじゃない、僕がやってもいいのだ。

 なぜ真を残したか。

 それは、峰形先生の話の真偽を確かめたかったからに違いない。

「先生?」

 真が続けて聞いてくる。

 いざ聞こうと思うと、やっぱり馬鹿馬鹿しく思ってくる。峰形先生と六人がグルになって僕を騙そうとしているのかも……

「帰ってもいいですよね」

 真が自分の荷物をまとめたのが視界に映る。

「真、待ってくれ」

「はい」

 思わず声を出すと、真が手を止めた。

「ちょっと話があるんだ」

「学級会のですが?」

「いや、違う話だ」

 真は雰囲気が違うのを感じ取ったようで、自分の席の椅子に腰を下ろした。

「すまないな」

「いいえ別に大丈夫ですけど」

 真はそういうとメガネを外して、ポケットから出したハンカチで拭き始めた。真のお母さん曰く、メガネいじりを始めるのは真がイライラしている証拠らしい。本来ならとっくに下校している時間に残しているのだ、仕方がない。

「なあ真」

「はい」

「真はさ、推理が好きなのか」

「!」

 真のメガネいじりの手が止まった。

「それはどういうことですか」

 そしてメガネを掛け直す。

「えっと、峰形先生から聞いたんだけど」

「峰形先生か」

 フッ、と真は思い出すように微笑んだ。

「真と、あと他の五人が推理力が高いと来たんだ」

「まあ、当たらずとも遠からず」

 なんだかイラっとくるものいいだ。

「それで」

「えっと、なんというか……」

「なるほど。その事が信じがたいから、僕で試してみようと思った、と」

「……」

 図星です。

「じゃあ試してみますか」

「あぁ」

 結局全てリードされてしまった。まあいい、峰形先生の話を確かめるチャンスだ。

「えっと、僕が遭遇した事件の話なんだけど……それでいいか」

「もちろん」

 真は、どうぞお話しください、とでもいうように椅子に深く座った。

 僕も教員用の椅子を教卓の前に持ってくると、そこへ座った。

 思い出せる限りのことを話してみよう、あの事件のことを。

 僕は、獲物を待つような眼で話を待っている真に、あの事件の内容を話し始めた。


「あれは二年前、ある中学校に教育実習に通っていた時のことなんだ」


第二章 礼

「境町くん」

「はい」

 僕は悠木先生に呼ばれて振り向いた。悠木賢治先生は僕の教育実習に担当としてついてくれている、馬靴毛中学校三年四組の担任の先生だ。

 僕はこの六月、教員になるための実習をこの馬靴毛中学校で受けている。決められた実習期間三週間のうち、すでに二週間が過ぎた。残り一週間の実習を有意義に過ごしたい、と改めてやる気を込める今日この頃である。

 僕は教育実習中、悠木先生が担任を務める三年四組に入って、数学を教えている悠木先生の授業にも入らせてもらうことになっている。そして、実習期間中の最後の一時間は授業を受け持つことになっている。その授業が実質、数学教師の資質を測るテストになるのだ。

 今日は土曜日だが学校に来ている。それは悠木先生と一緒に、最終テストとなる大事な授業の打ち合わせをするためだ。

「さっき頼んだ小テストは完成したかい?」

「はい。確認をお願いします」

 僕は目の前のパソコンをそのまま悠木先生にわたした。

 ふと時間が気になって腕時計を見る。九時三十分。八時過ぎから学校にいたから、五問だけの小テストに一時間も費やしていたようだ。

「拝見するよ」

 悠木先生は隣の空いている席に座った。

 僕と悠木先生がいるこの部屋は、職員室の隣にある小さな部屋。四、五人の椅子と机が並んだだけでもかなりきつい。

 幸い今日は僕以外の実習生たちは席を外している。期間中に見学する部活の大会に行っているそうだ。だから十分に部屋を使える。

「うん、いいだろう。みたところ問題や答えにミスはない。いい問題だ。このまま使ってみよう」

「ありがとうございます」

 悠木先生が僕が作った小テストをファイルに保存しようとした時だった。


「キャアアアアア!」

 どこからか大きな悲鳴が聞こえてきた。

「あれは……小田先生の声だ!」

 悠木先生が言った。まだ馬靴毛中学校に来て二週間の僕には、声の主が誰かわからなかった。

「B校舎からだ」

 悠木先生はそう呟くと、部屋を飛び出して行った。僕もその後を追う。

 馬靴毛中学校は校舎がA校舎とB校舎に分かれている。A校舎には、一階に事務員室と職員室、僕たちがいた部屋があり、二階から四階にかけて普通教室になっている。

 B校舎には一階に三つの理科室と保健室が、二、三階に他の芸術系や技術系の教室がある。

 僕は悠木先生を追って、階段を下り、A校舎とB校舎をつなげる唯一の道、渡り廊下を走る。

 僕たちが渡り廊下を渡り終えた時、第一・第二理科室がある右手に、女性が倒れているのが見えた。

「小田先生!」

 悠木先生の声で気がつく。

 その女性は馬靴毛中学校の音楽教師・小田雪先生だった。僕が中学生だったら人目で惚れていただろうなと思うほどの美人だ。

 小田先生は無言のまま、ずっと第一理科室の中を指さしている。

「あそこ……」

 そう呟いて気を失ってしまった小田先生を横たえると、僕たちは第一理科室へ向かった。

 ドアは開けたままになっている。悠木先生を先頭に部屋を覗き込んだ。

「これは……!」

 部屋の中には、男性が右腕を伸ばした格好で俯けに倒れていた。小柄で細身のその男性は、白衣を着ていて近くには馬靴毛中学校の教員証が落ちていた。

「中田先生じゃないですか!」

 悠木先生はそう言って男性を揺り起こした。体を抱き抱える悠木先生の手に、血がべっとりとついた。

「まずい……」

 悠木先生はそういうなり、片手でスマホを起動して救急車を呼んだ。

「僕は一応警察に!」

 僕は自分のスマホで警察に通報した。

 相手の警察官と話しながら、周りの状況を見る。

 中田先生と呼ばれたみたことのある顔には、すでに血の気がない。

 そして何より、部屋にはいくつも異常なところがあった。

 第一に、異臭がする。獣の嫌な匂いが充満していた。

 そして第二に、中田先生が伸ばした右腕の先に、不自然な血の跡が残っていた……。


挿絵(By みてみん)


 日本の警察は優秀だ。

 警察に通報してから十分ほどで学校が警察で埋まるのをみて、僕はそう認めざるを得なかった。

 救急車もすぐに来た。けれど、中田先生はその場で死亡が確認された。幸いに小田先生はショックで倒れただけだった。

 中田浩司先生は馬靴毛中学校で理科を担当している、地学・生物専門の先生だった。

 亡くなった人を悪くは言いたくないが、正直なところ中田先生の周りの評価は低かった。目つきが悪く、常に人の粗探しをしているような中田先生を苦手に思っている先生は多かったと聞く。


 警察を呼んでから五分ほどで、僕たちはB校舎三階の会議室に集められていた。

 僕たちを集めたのは男女のペアの刑事だった。近くを巡回していたから早くつけたのだという。

 どうやら僕たちは、犯行当時に学校にいたということで容疑者という立場らしい。集められた容疑者は、僕と悠木先生の他に四人いた。

 悠木先生は一人一人の先生について、詳しく僕に教えてくれた。

 一人目はさっき倒れてしまった小田雪先生。今保健室に寝かされているらしいが、意識が戻ったら特別に話を聞かれるらしい。それも第一発見者として。

 二人目は米田英治先生。米田先生は先生というより校務員さんで、学校の花壇の手入れや電球替えなどをしてくれる。優しい初老の人で、僕も初めて会った時は「頑張りや」と声をかけてもらった。

 三人目は磯井八十八先生。一年担当の国語教師だ。厳しいということで生徒から聞いていたが、実際に話してみると朗らかな印象の先生だった。

 四人目は先生ではなかった。佐田葉子さん。ある生徒の母親で、馬靴毛中学校でも有名なモンスターペアレントだという。


 九時四十分ごろ。

 僕たちを会議室に集めた男女の刑事が入ってきた。四十歳くらいの男性の刑事と、二十歳くらいの女性の刑事……

 男性の刑事の背後をトコトコとついてきた女性刑事をみた瞬間、僕の心が高鳴った。呼吸が荒くなって、鼓動も早まる。

 集められた時にもみたはずだけど、慌てていてそれどころじゃなかったのだ。

 小柄だけど、スタイルのいい立ち姿。小顔には瞳が綺麗に輝き、整った目鼻立ちをしていて、束ねた黒髪を華麗にたなびかせている……。

「柳谷三郎です。よろしく」

 僕の、妄想に似た思考を止めたのは、男性刑事の名乗りだった。柳谷と名乗った男性刑事は、警察手帳を見せる。

「桜崎凛です」

 続けて、その女性刑事も警察手帳を見せる。

 桜崎さんっていうんだ……。

 わかってるわかってる、こんな状況で非常識だってことくらい……。

 けれど僕の胸のドキドキはおさまってくれなかった。

 見つめ過ぎてしまったのか、桜崎さんが僕の方を向いた。

 僕がドキドキしているのを不安がっているからだと思ったのか、

「よろしくお願いします」

 こちらを向いて微笑んでいった。

 か、か、可愛いーーーっ‼︎

 僕の口がだらしなく開きっぱなしになる。

「じゃあまず、皆さんに事情聴取しようか」

 柳谷さんが桜崎さんにそう指示した。

「はい」

 仕事に真面目なところも、また可愛い!

 桜崎さんはそのまま、会議室の一番端に座っていた米田先生のところへ向かった。

 僕は桜崎さんの微笑みが頭から離れなかった。彼氏はいるのだろうか。どんな男子がタイプなのだろうか。

 年甲斐もなくそんなことを考えていると、隣から強めに小突かれた。悠木先生だった。

「魂胆が見え見えだぞ」


「なんですか。その先生のぐだぐだな話」

 そこまで話した時、真琴がつまらなそうに話を止めた。

「そんな話じゃなくて、さっさと事件な肝心なところを聞きたいんです」

「まあ……そうだな」

 確かにこの話は要らなかったかもしれない。

 黒板には、僕があの時現場で見た血の跡を、できるだけ忠実に再現した。

「ごめんごめん」

「次はなんの話ですか」

「容疑者の先生方についてもう少し情報があるから、それを話そうと」

「なら、今のうちに聞きたいことがあります」

 その瞬間、真の目つきが変わった気がした。ただ獲物を待つのではなく、狙いに行くような、そんな気が……。

「いいけど」

「じゃあ、先生が現場で感じた異臭って、正体はなんだったんですか」

「それはね、解剖された鶏の匂いだったよ」

「鶏? 解剖?」

「中田先生の専門が地学と生物だと言っただろう。中田先生は次の授業で、鶏の解剖をする予定だったらしいんだ。本当なら内臓とかを見せながら授業中にやるのがいいんだろうけど、やっぱり解剖は好き嫌いがあるだろう、だから事前にやって、それを写真に収めることになったらしい」

「じゃあ、それがそのまま放置されていたってことは、解剖の途中に襲われたってことですね……。

 っていうか、まだ死因と凶器のことを聞いていませんでした」

「あ、そうだった」

 僕はまたあの事件のことを思い返した。


 悠木先生に本心を読まれてしまった僕が焦って弁解しようとした時だった。

 会議室にもう一人の男性刑事が手帳を持って入ってきた。

 その刑事は僕たちの視線に気づくと、「鶴屋岩久です」と手帳を見せて一礼すると、米田先生の前にたどり着いたばかりの柳谷さんとい桜崎さんのところへ向かった。

 柳谷さんは「ちょっとお待ちを」と米田先生に断って、鶴屋さんの口元に耳を近づけた。桜崎さんもできるだけ聞こうと、男性刑事二人に挟まれながら熱心に耳を傾けている。

 鶴屋さんは手帳を見ながら耳打ちした。

「わかった」

 柳谷さんがそう呟くと、鶴屋さんはまた一礼した部屋を出て行った。鶴屋さんはスラリとした見た目にあって礼儀正しい人のようだ。

「事情聴取の前ですが、情報が来たのでお伝えします。被害者、中田浩司さんの死因がわかりました」

 柳谷さんはそこまでいうと、「後をよろしく」と桜崎さんを前に出した。

「中田さんの死因は刺殺でした。小型のナイフのようなものが凶器で、胸を一突きされていたようです。ほぼ即死に近く、刺された後は十秒ほどしか意識が残らなかった、と。

 死亡推定時刻は、八時五十分前後でした。その時刻に中田さんの携帯電話に最後の通話履歴が残っていて、相手方が、何者かに襲われたような中田さんの悲鳴を最後に電話が切れてしまったそうです」

 日本警察は初動捜査が大切だというが、随分と早い捜査だ。そう思った時、ふと気づいたことがあった。

 あれ……あの血の跡のことは触れなかったな……。

「あれなんだったんだろうな」

 同じことを思ったようで、隣から悠木先生が声をかけてきた。

「刑事さんたちが触れたがらないってことは、やっぱりダイイングメッセージだったのかな」

「ダイイングメッセージ……」

 ミステリでも定番のアレですか⁉︎ ミステリが大好きな僕は、一人だけ盛り上がっていた。

「凶器は見つかったのかな」

 磯井先生が声を上げた。

「はい、見つかっています。被害者の近くに落ちていた解剖用のメスに、被害者の血が付着していました」

「そうだわ!」

 佐田さんがここぞとばかりに声を張り上げた。

「その凶器についた指紋を調べればいいじゃない!」

 学校でも有名なモンスターペアレントだ。すっかりスイッチが入ったようで、続けて捲し立てる。

「そうすればすぐわかるじゃない! ここにいる人たちの指紋を調べれば!

 私は犯人じゃないの! 早く帰らせてちょうだい!」

「申し訳ありません。事情聴取もあるのでもうしばらくお待ちください」

「いやよ! 早く帰らせて!」

 もうここまで来ると単なるわがままだ。僕はその対応に戸惑う桜崎さんがかわいそうに思えた。

 柳谷さんが口を開いた。

「わかりました。佐田葉子さん、でしたね。別室で事情聴取と荷物検査をさせていただきますので。移動お願いします」

「初めからそうしなさいよ」

 佐田さんは別の制服警官に連れられて、会議室から出ていった。

「申し訳ありませんが、男性の皆さんも別室で事情聴取をさせていただきますので、お一方ずつ、移動お願いします」

 柳谷さんはそう言って、はじめに米田先生の名前を呼んだ。


 米田先生と佐田さんが席を外している間、僕は悠木先生と磯井先生と話をすることにした。

「そういえば、今日は磯井先生って出勤する予定ありましたっけ」

 事件についての話の口火を切ったのは悠木先生でした。

「やだな悠木先生。僕を疑ってるんですか?、冗談きついですよ」

「いや、非常識だとはわかっていますけど、こんなことはもう二度とないでしょうから。ちょっと探偵気分というのを味わってみたくて」

 悠木先生はそう言って笑った。場が和んで僕と磯井先生も笑ってしまった。

「いやね、確かに今日は来る気はなかったんですけど、学校に印鑑を忘れてしまって。明日の日曜日に役所にちょっと用事があって、それに印鑑が必要だったものですから」

「なるほど」

「そういう悠木先生と堺町くんこそ、今日はどうして」

「今週で堺町くんは実習終わりじゃないですか。それで、今度やる授業の打ち合わせをしようと思ってね」

 な、と悠木先生が僕に同意を求めたので、僕も頷いた。

「でも、佐田先生と米田さんはどうして今日来たんでしょう。あと小田先生も」

 悠木先生が聞いた。

「私、知ってますよ」

 米田さんの声が聞こえた。部屋のところに米田さんが立っていた。

「次に磯井先生を呼んでくれと言われました。お願いします」

「あ、はい」

 磯井先生は部屋を出ていった。

「意外に早く終わりましたね」

 悠木先生が声をかけると、米田さんはこれまで磯井先生が座っていた席に座った。

「えぇ。二、三分くらいでした。学校に来た理由と、中田先生のことをどう思っていたか、それと名前と電話番号を控えられただけです」

「そうでしたか」

「さっき磯井先生が聞いていた質問、答えましょうか」

「質問?」

 僕が聞き返す。

「私が今日学校に来た理由ですよ。

 今日、花壇の花の植え替えをしに来たんですよ」

 米田先生は会議室から見える花壇を指差した。確かに、花の色が昨日まで咲いていたものと違っていた。

「それを話したらさっきの男の刑事さんに、土いじりしてたのに手が綺麗ですね、なんて言われて怪しまれちゃいましたよ。もちろん軍手をしながら作業してたのに決まってるじゃないですか」

 ねえ、と米田さんは笑った。

「でも佐田さんと小田先生が来た理由も知っているんですよね」

「えぇ。お二人が学校へ来た時にちょっと挨拶しましたから」

「そうでしたか」

「佐田さんはいつも通り、クレームを言いに来たらしいです」

 モンスターペアレントの佐田さんも、なぜか米田さんには心を開いているらしい。

「今日は中田先生へのクレームだったそうですよ。なんだか、娘さんの理科のテストで字が読みづらいという理由だけで点数を減らされて、せっかくの百点満点を台無しにされたと」

 聞いたところによると、中田先生はそういうことを度々していたらしい。

「佐田さんのお子さんの佐田早苗は丸文字ですからね。イマドキの女子にはありがちな字体だし、読みやすいと思うんですけど……中田先生、百点取られるの嫌いだったからね……」

 悠木先生がため息をつきながら言った。

「あの、じゃあ小田先生は?」

 僕が聞いた。

「小田先生は、今度顧問を務める合唱部がコンクールに出るらしくて、コンクール側から注意事項が今日届く予定だったそうです。それを受け取るために学校に来た、と」

「でも今頃、保健室で寝かされていると言っていましたけど、落ち着いて寝られてますかね……」

 悠木先生がふと呟いた。米田さんも「確かに」と笑っている。

「どういうことですか」

 思わず僕は聞いた。

「小田先生は教師という職でありながら、かなりの潔癖症なんだよ。諸君室でも誰かのペンを使ったり使われたりすることは絶対なかったね。不特定多数の人が触ったものは必ずハンカチで吹いてから触るし、ドアノブとかだって素手で触っていることはほとんど見たこともない。

 だから、保健室のベッドだって誰が寝たかわからないだろう。目が覚めたら大騒ぎするかもしれないな」

 悠木先生の説明に、米田さんも頷いている。

「そうだったんですか」

 そこまで話を終えると、ふとトイレに行きたくなってきた。いや、正確にいうと大変なことになったせいでさっきから我慢せざるを得なかったのだ。

「ちょっと、トイレ行ってきます」


 B校舎のトイレは一階の端っこ、しかも現場となった理科室の隣にしかない。A校舎にもあるのだが、今朝きた時に見たら工事中となっていたから、このB校舎のトイレしか使えない。

 理科室の近くを封鎖していた警官に止められたが、事情を説明するとしぶしぶながら入らせてもらえた。

 トイレを済ますと、ちょうど現場の理科室の中が見えた。

 捜査員らしき服装の人が三人、そしてもう一人。

「桜崎さん……」

 口からつぶやきが漏れていた。

 どうして彼女がここにいるんだろう、柳谷さんと一緒にいたはずなのに。もしかしたら現場の捜査をするように指示を受けたのかもしれない。

 僕は見惚れてしまい、立ち尽くしてしまった。

 そんなことには気づかず、桜崎さんたちは捜査を進めている。

「桜崎刑事、凶器のメスの持ち手の指紋検査が終わりました」

 捜査員の一人が桜崎さんに近づいた。おい、仕事はいえ近づきすぎだ!

「それで、どうでしたか」

「メスには誰の指紋もついていませんでした。それに、被害者の指紋も」

「それは一体、どういうことですか」

「机の上にゴム手袋のパックがありました。解剖にはそれを使ったのかと。ご遺体もゴム手袋をしていましたし。

 あと、指紋ではないのですが、解剖中だった鶏の血や体液が付着していました」

「そうですか。ありがとうございます」

 桜崎さんは胸ポケットに手を入れた。

 その手には手帳が握られていたから、きっとメモをしようと取り出したのだろう。だが、手帳と一緒に胸ポケットから出てしまったものがあった。

 白いハンカチ。それが手帳と一緒に胸ポケットからはらりと落ちた。

 桜崎さんが気づかないうちに、白いハンカチはハラハラと舞い落ちると、あの血の跡の上に落ちてしまった。

 桜崎さんがそれに気づいたようだ。一歩踏み出してそれを取ろうとする。

 しかし、桜崎さんの足がそこでもつれた。踏み出した足は着地点を見失い、目の前のハンカチをダイイングメッセージごと……

「あ!」

 捜査員が声を上げるのと同時に、桜崎さんがハンカチを踏みつけた。

「ダメじゃないですか」

「すみません」

 桜崎さんは手を借りて姿勢を取り戻すと、急いでハンカチを拾い上げた。

 捜査員はそのハンカチを見て呟いた。

「あー血がついちゃいましたよ」

 その真っ白いハンカチには、うっすらと、それに大半がかすれているが、赤い血による一本線が……

「ちょっと!、そこの人!」

 そこまで見たところで、後ろから声をかけられた。さっきあった警官だ。

「トイレ終わったんでしょ。終わったら早く戻ってください」

「あ、御免なさい」

 僕はさっさと会議室に戻ることにした。

 時計を見る。九時五十分よりも少し前のことだった。


「そのあと、僕も事情聴取を受けて、そのあとは解散だ。特に話すことはもうない」

「なるほど」

 僕が思い出せる限りのあの事件のことを話し終えると、真はそう呟いた。

「これで全部だ」

「わかりました」

 そういうなり、真は黙り込んでしまった。


 数十秒待った。時間が経つにつれて、だんだん馬鹿馬鹿しく思えてくる。

 何やってんだ僕。やっぱり峰形先生の話は嘘だったんだ。だって、警察をも手こずらせた事件の謎なんて、中学生が解けるわけがない。

 時計を見ると、思いのほか長く話していたようで、下校終了時刻の十分前だった。今日の校門番の先生は時間に厳しい人だから、もし真がそれを過ぎてしまったらどんなに怒られることか。

「なあ真、ごめんな、変なこと言って。

 もうそろそろ下校時刻だ。帰りなさい」

 僕がそう言った時、真の目が輝いた。獲物を狙う目ではない、獲物を爪にかけた時……勝利を確信した目をしていた。

「真?」

「先生は、この事件解けているんですよね」

「えっ?」

 いきなり何を言い出したんだ?

「こんな初歩的な事件、先生ならちょっと頭をひねればすぐに解けますよね」

 なんだ、いきなり……?

「いや解けてはいない。事件が解決できたことは知っていたが、容疑者だった僕にも何にも教えてくれなかった」

 僕がそう答えると、真は純粋にきょとんとした顔をした。

「もしかして先生、解けなかったんですか? 事件の容疑者としてその事件を肌で感じることができたはずなのに。それに、ダイイングメッセージも解けていないんですか?」

「ま、まあ、そうなる……かな」

 真はそれを聞くと、やれやれというように頭を横に振った。そして口を開く。

「先生って……バカなんですか?」


 はっ?


第三章 謎解き

 はっ?、はっ?

 今、なんて言った? バカって聞き取れたような気がするんだけど……

 いや、確かにそう言ったな。えっバカ?、バカ⁉︎

「真! 何をいうんだ!」

 思わず怒鳴ってしまった.

 いや、確かに僕は自分のことが頭いいとは思わない.それに特別に素晴らしいカリスマ性を持った先生だとも思わない。

 でも一応、立派に成人した男のちゃんと資格も持っている教師だぞ。それなのにその僕に、バ、バ……バカ⁉︎

 そんな僕なんてちっとも気にしない様子で、真は僕のことを冷たい目で見ている。

「し、真! 言っていいことと悪いことがあるだろう!」

「お言葉ですが先生。僕は、先生が僕の推理力を試したいとおっしゃったので、それで先生が経験したという事件を推理したまでです。そして、その事件の真相が思いの外に簡単なものですぐにわかったので、それを見抜けなかった先生をバカではないかと僕なりにひとつ推理したのですよ」

「……っ!」

 早口で捲し立てられて何もいえなかった。

 初めて真の毒舌を体感した。っていうか、バカはそもそも毒舌じゃなくて悪口じゃないか。

 それに、僕の話を聞いた時点で真相がわかっていたということは、あの数十秒間は僕がバカだということを考えていたということなのか? なんとも憎たらしい!

 ン?……それより、さっき真相がわかったって言ったか?

「真、お前、真相がわかったのか」

「ええ、もちろん」

 真はあっさりそう言ってみせた。

「じゃあ聞かせてくれないか。その真相とやらを」

 僕はわざとらしくいった。

 もしこれで真相が正しくなかったら叱りつけてやる! それに、納得のいく説明じゃなかったとしても同じことだ。さっき僕をバカと罵ったことを後悔させてやる。

 大人気もないことを考えている僕に、真は怯える様子も緊張する様子もなく、淡々といった。

「はい。わかりました」


 真は黒板の前にたった。僕は椅子を滑らせて一歩後ろに下がる。

 まるで、先生と生徒の立場が逆転したみたいだな……。

 そんなことは思ったが、真の話を静かに聞くことにした。

「まzす、ダイイングメッセージが気になるところでしょうが、実はダイイングメッセージを解かずとも犯人を絞ることは可能だったんです」

 犯人を絞る?

「あの四人の容疑者からか?」

「もちろん。他に誰から犯人を絞るというんですか」

 うっ確かに。いちいち嫌味なやつだな。さっき怒鳴ったことを根に持っているんだろうか。

 まあ、ここはおとなしく話を聞くことにしよう。

「でもどうやって」

「ヒントは、凶器の付着物にあったんです」

「凶器の付着物?」

「でも、その説明に行く前に、もうひとつ大事な推理をお話しします」

 そう言って真は意味ありげに微笑んだ。

「僕はこの事件を、衝動的犯行だと考えます」

 ショウドウテキ? 何だそれ。

「衝動的犯行とは、事前に計画していた犯行だけではなく、咄嗟に犯してしまう犯行のことを言います。計画的ではないため、多くの証拠が残ってしまうのが特徴なんです。

 ちなみにこの事件の凶器はなんでしたか」

 確か……

「メスだ。中田先生が解剖に使っていたメス」

「そうです。計画的犯行なら前々から凶器も準備しておくものです。今回は現場にあって、しかも今の今まで鶏を解剖していたメスが使われています。

 だから今回の犯行は、咄嗟に現場にあったメスを凶器とした、衝動的犯行だと考えられるんです」

「なるほど……。でも、それで犯人が絞れるわけではないだろう」

 真の語りに圧倒されながらも僕の頭に浮かんだ質問を投げかけると、真はまた「やれやれ」とため息をついた。

「ここまで言って、まだわかりませんか」

 ……わからないよ!、降参だ! 口で言うのはムカつくから心の中でそう叫んだ。

 真は黒板に何かを書きながら話を続ける。

「仕方ない。説明を続けます。では先生が盗み聞きしたーー」

 立ち聞きといえ、立ち聞きと。

「ーー凶器に関する情報によると、凶器の持ち手の付着物はこれだけでした」

 黒板には『鶏の体液』と書かれていた。

「でも普通に考えて、なくてはいけないものがあるんです。なんだかわかりますか」

 なくてはいけないもの……?

「被害者・中田先生の指紋と、犯人の指紋か?」

「その通り」

 真がまた黒板に書く。今度は赤いチョークで『中田先生の指紋』と『犯人の指紋』と書いた。

「中田先生の指紋がなかったのは納得がいきました。ゴム手袋を使っていたのですから。それなら、指紋が残らずに、鶏の体液だけが残ったのも辻褄が合います」

 真は『中田先生の指紋』を赤いチョークの斜線で消した。

「ではなぜ、犯人の指紋はついていなかったのでしょうか」

 また質問だ。でも今回は、簡単な質問だった。

「そりゃ手袋をしたか、使った後に拭いたかしたんだろう」

 そう僕が答えると、真は「ふっ」と鼻で笑った。

「なんだよ、だってそうだろ」

「えぇもちろん。〝普通〟に考えればそうです」

 真は〝普通〟を強調して言った。なんだよ、「普通に考えれば」って。

「けれど今回は状況が違います。

 はじめの説明で、今回の犯行が衝動的犯行だと言うことは納得いただけましたよね」

「あぁ」

「では、なぜ計画もしていないのに、衝動的犯行を犯した犯人が、都合よく手袋を持っていたのでしょうか」

「!」

 確かに矛盾している。

「確かに……でも、もし犯人が凶器を拭いたのだとしたら? そうすれば、素手で触っても指紋は残らないだろ」

「わかりませんか? 凶器には『鶏の体液』は付着していたんです。もし拭いたとしたら、それも拭き取られているはずじゃないですか」

「……!」

 真は黒板の『鶏の体液』を指差した。

「凶器を拭いてから体液をつけて警察を騙そうとした、なんて考えはやめてくださいね。

 何度も言いますが、これは衝動的犯行。そんな犯人に心の余裕はなかったでしょうから」

 真の推理を、僕は唖然としながら聞いていた。なるほど、凶器にヒントがあると言ったのはそう言うことだったのか。

「先生がその事件に遭遇したのは六月ですから、手袋が必須だと言うほど寒い時期ではありません。手袋を持ち歩いているのは、不自然な状況なんです。

 でも容疑者の中には、そんな時期にも手袋を持っている人……持っていると想像できる人が二人いました」

「二人も⁉︎」

 僕は改めて容疑者の先生を一人ずつ思い出した。米田先生、磯井先生、小田先生、佐田さん、悠木先生……。

 あっ、そう言うことか!

「米田先生だ!」

 僕の答えに、真は笑顔で大きく頷いた。

「その通り。米田先生はその日、花壇で土いじりするために軍手を持っていました。その事は、先生方にも警察の方にも話されていたそうじゃないですか。

 さすが先生。二人のうち一人は当てましたね。ではその調子で、もう一人わかりますか?」

 もう一人。僕は改めて、もう少し詳しく容疑者たちを整理してみる。

 ちょっと厳しい国語教師で、印鑑を取りにきた磯井先生。

 極度の潔癖症で、部活関係の仕事をしにきた音楽教師の小田先生。

 有名なモンスターペアレントで、被害者にクレームをつけにきた佐田さん。

 僕に実習指導をしてくれた、数学教師の悠木先生。

 四人の顔、そしてあの日の記憶が、巡り巡って……

 あっ! あーっ‼︎

「わかったーーっ‼︎」

 僕は思わず大声を出してしまった。真はうるさそうに耳を塞いでいる。

 しかし僕はこの興奮を抑えきれずに、大声で続けた。

「小田先生だ! 潔癖症持ちの‼︎」

 真は耳を塞ぎながらも、笑顔で頷いた。

 ようやく落ち着いた僕は、息を切らしながら椅子に座り直す。真は話を続けた。

「その通りです。小田先生は極度の潔癖症でした。人のペンを使ったり自分のペンを貸せたりできないほどの、ね。

 そして周りの先生方も、小田先生がドアを素手で触ったところを見たところがないと言います。

 そう、ドアですら素手で触っていないのです。そこまで極端に潔癖症なら、日頃からマイ手袋を持ち歩いていることも想像できます」

 僕はポカンとしていた。まさか凶器の付着物だけで犯人を二人まで絞れることができるとは。

 峰形先生のあの話は、本当だったのか? 真の口ぶりから見ていると、そう思えてしまう。

 けれど、僕の頭の中ではまだ信じられないと言う気持ちがわずかに大きかった。だって、肝心な犯人までは辿り着けていないのだから。(犯人を絞っただけでもすごいと思うが)

 そして何より……バカと言われたことがムカつく‼︎

「いよいよ肝心の犯人を特定するのに必要なのが、あのダイイングメッセージの謎なんです」

 ちょっとワクワクしていそうな真が黒板のダイイングメッセージを指差した時。

「ちょっと待て」

 僕は思わず止めた。真はきょとんとした顔で僕を見る。

「待ってくれ……」

 このまま全て解き明かされてしまうのはムカつく。ダイイングメッセージだけは自分の力で解いて見せたい。

 数秒経って真は僕の考えを見抜いたようで、にやけながら言った。

「それならちょっとだけ、待ってみますか」

 言い方がムカつく!、絶対に解いてやる!

 僕はゆっくり黒板のダイイングメッセージを見る。頭の中でいろんな角度からじっくりと。

 ダイイングメッセージということは、きっと犯人の何かを示しているはず。きっと名前だろう。僕は容疑者の名前を黒板に書き出すことにした。


 米田英治 よねだえいじ ヨネダエイジ

 小田雪 おだゆき オダユキ

 磯井八十八 いそいやそはち イソイヤソハチ

 佐田葉子 さだようこ サダヨウコ

 悠木賢治 ゆうきけんじ ユウキケンジ


 一つだけわかったのは、彼らの名前に何一つ共通点がないことだ。つまり、何一つ収穫はなし。……もう一回ダイイングメッセージを見てみるか。

 黒板のダイイングメッセージを改めて見直してみる。しかし何度見ても意味のないものにしか思えない気もするが……


 ん? だんだんと何かに見えてきた。これは、漢字か?

「米」

 多少いびつな形ではあるが『米』と読めなくもない。

 『米』と言って思いつくのは『米寿』。あれは、『米』が『八、十、八』に分解できるから八十八歳のことをいう。

「そういうことか!」

 つまりこのダイイングメッセージは、『米』と『八十八』を示している。つまり、米田英治先生と磯井八十八先生の二人のことだ。

 ってことは、さっきの手袋の推理を踏まえて考えると、犯人は米田先生⁉︎

 僕の頭の中で一つの答えが見えた。それを真に伝えようとした時。


「米じゃないですよー」

 真が僕の自信を粉々に砕いた。

 米じゃないの……⁉︎


 あれから五分経った。あの『米』の推理のあとは何も浮かばなかった。

 時計を見ると、下校時刻まで残り五分を切ろうとしている。

 落ち着くんだ、僕。ムカつくのは大いにわかるが、お前は教師だ。生徒を時間以内に返すのが最優先だぞ。

 そう理性的に考えられる一方で……やっぱりムカつく! 降参はしたくない。ここは一人の漢、堺町友介の名にかけて!

 頭の中で葛藤した末に……

「わからない。お前の推理を教えてくれ」

 僕の頭の中に白旗が舞い落ちた。

「いいでしょう」

 真はニヤリと笑った。

「現場で桜崎刑事がハンカチを落としましたね。あれはただの失敗なんかではありませんでした、見事なヒントになってくれたんです」

 真は「まさに怪我の功名」と言っているが意味がわからない。あれがただの失敗じゃなくて、ヒントになっただなんて。

「先生が見たハンカチには、うっすらと血の赤い一本線が残っていたんですよね。 でも、どうして。

 血液っていうものは普通の環境だと、二十分ほど経ってから乾いて固まるものなんです」

 なぜそんなことまで知っているんだ、という質問を僕は飲み込んだ。どうせ「常識でしょう」とか言ってバカにされるに決まっている。

「ダイイングメッセージは名前の通り、亡くなる直前に書くもの。つまり書かれたのは、八時五十分ごろです。桜崎さんがハンカチを踏んでしまうのを先生が見たのは九時五十分より少し前。

 血はとっくに乾いてるはずなんです」

「ん? どゆこと?」

 いまいちピンときていない僕を見て、真はわざとらしくため息をついて続けた。

「血がハンカチについたということは、まだ完全に乾き切った状態ではなかったということ。

 それでは時間の計算が合いませんよね」

「あっ‼︎」

「そのことが教えていることとは」

 真が僕に答えを煽った。

「他の血が乾いた後から、その一本線だけ付け足されたということか」

 僕はそう答えると、バッと立ち上がると真っ直ぐに黒板に向かった。そして、そこに書かれたダイイングメッセージのうち、縦の一本線を選んで手でこすった。

「そう。これは、犯人によって書き足された、いわばフェイクのダイイングメッセージだったわけです」

 真が微笑みながら、僕が黒板をこする様子を見る目ている。

 数秒すれば一本線が消えて、被害者・中田先生が残した本当のダイイングメッセージがあらわになった。

「これが、正真正銘のダイイングメッセージだったんだ……」

 僕はしばらく空いた口が塞がらずに、それを見ていた。


挿絵(By みてみん)


 しかし、まだわからない。三つの線が一点で交わっているこの記号のようなものは、一体なんなのだろうか。何を意味しているというのだ。

「被害者の中田先生は、確か地学と生物の先生でしたね」

 真が声を上げた。

 地学・生物?、地学?、記号?……

「あれだ!」

 僕はスマホを取り出して思いついた言葉を検索する。

 その辿り着いた画面にはあった。とある教材会社が生徒向けに作ったホームページに、このダイイングメッセージを○で覆ったものと同じ記号が。


挿絵(By みてみん)


「雪か。天気記号だな」

 真は大きく頷いた。だとすると……

「もうお分かりですね」

「あぁ。小田先生だな」

 小田雪。それが彼女の名前だった。


「以上が僕の推理です」

 何者なんだ。

「ちょっと時間はかかりましたが、先生も僕の推理に納得していただけましたか」

 一体何者なんだ、真という生徒は。

「もし、辻褄の合わないことや推理に間違いがあったら言ってください。今後の参考にしますから」

 いや、きっと間違いはない。あんな完璧で流暢な推理を聞いてしまっては、それを認めざるを得なかった。

 僕はこうして、峰形先生の話が本当だったことを思い知らされた。

『まもなく、完全下校時刻です……』

 峰形先生の顔が頭に浮かんだ時、峰形先生の声がスピーカーから聞こえてきてビクッとする。今日の下校時刻の放送は峰形先生が当番だったようだ。

「じゃ、帰りますね」

 僕が呆気に取られている一方、真は放送を聞いて帰りの用意を始めた。

 荷物を背負って、出ようとしたその時。

「あ、先生」

 思い出したように立ち止まると、荷物を下ろしその中から一枚の髪を取り出した。

「もう時間なので帰らないといけないんですけど、この問題の解説を明日にでも教えて欲しいんです。塾の先生に特別に出してもらった問題なんですけど、めっちゃ難しいらしくて。

 よろしくお願いします」

 そう言って真が差し出したのは、中学生にはレベルの高すぎる問題。連立方程式を最大限に応用しなくてはいけない文章問題だ。


 たった今僕の目の前で一つの事件を鮮やかに解決して見せた名探偵は、もうすでにただの中学生に戻っていたのだった。

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