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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

右手事件

作者: 久蔵伊織



「Hallo!シド!」

「やぁ、テディ」

 耳を擽る明るく高い子どもの声に、シド・オーウェンは苦笑した。

 テディは一人歩きして良い歳ではない。まだ4歳5歳といったところであり、全てが雑然としているニューヨークでは特に保護者が必須だ。向かった先がニューヨーク市警であるあたり、まだ救いがあるのだろうか。シドの記憶ではテディにはサラという女子大学生のベビーシッターが付いているはず。しかし彼女の姿はない。

「サラはどうしたんだい、テディ」

「サラ?サラはえっと、インドにいったよ」

「インド?」

「しゅぎょう、するんだって」

 割と訳が分からなかったが、今重要なのはそこではない。

「……サラの次にお姉さんが来ただろう。彼女は?一緒じゃないのかい」

「ジェシカ?…………あれぇ?」

「また好き勝手に走り回ったんだろう?ジェシカが心配しているよ。──まぁ、まずはお母さんに連絡しよう」

「ん!

 あ、シド!」

「なんだい」

「あのね、ひろったの」

「何を?」

 テディは背負ったリュックから丸めたタオルを取り出し、

 広げた。



 冗談のように転がったのは、人の手だった。


 腐敗し始めた、誰かの右手。




  

 

【右手事件】






 結論から言うとジェシカは半べそをかいていた。担当していた子どもが消えたと思っただけでも身の細る思いだっただろうに、まさか死体の一部を発見するとは、誰も予想出来ない。彼女の方が気絶せんばかりにショックを受けていた。更に事情聴取を受ける羽目になったのは気の毒で仕方がない。


 ──また、といえばまただった。

 テディという子どもは勘が鋭く、そして”感”が鋭い。


 ──死体を見つける。

 ──大量の麻薬を見つける。

 ──行方不明になった子どもを見つける。


 テディを張り込んでいれば事件にぶち当たるか解決する、と市警では有名だった。テディの母親が警察関係者──科学捜査班勤務だったことから、胎教で捜査のイロハを学んだのでは、とも言われている。 

「──何処で拾ったんだい?」

「セントラルパークの……えっと、えっとね……」

 テディは唇を尖らせて暫く考え──説明を諦めた。

 きょろりと大きなアンバーの瞳でシドを見上げ、

「いっしょに、きてくれる?」

「──分かった。ゆっくりで頼むよ、私はお爺さんだからね」

「おててつないであげる!」

 シドの節が目立つ皺だらけの手を、柔くて小さな手が握る。子どもの温かさと柔らかさは天からの贈り物だとシドはしみじみ思う。孫娘はテディよりも小さい。娘や息子を抱き上げた時とはまた違った、染み渡る歓喜を孫は与えてくれる。──早く引退しちゃいなさいよ──グロリアだって、早くお祖父ちゃんを困らせてやりたいって思ってるわよ──……娘はそう言ってくれたが、結局シドは勤め上げることを選んだ。若い衆に敵うものは経験のみ。身体は衰え、頭は最早経験則のみで動いている。何故、それでも職にしがみつこうとしているのか──……シドは理解している。自省している。


 テディのキャメル色の癖毛頭を見下ろす。

 ──彼はどんな大人になるのだろうか。



 署を出ると、いつもの人波、雑踏。クラクションが響く。ホットドックや中華の屋台が雑多な匂いを漂わせ、コーヒーショップが独特の香ばしさを加える。

「テディ、お昼ご飯は食べたかい?」

「んーん。おひるはね、ちょっとがまんする」

「どうして?」

「よる、ママがハンバーグつくってくれるの!チーズがね、ハンバーグにはいってて、すっごくおいしいんだよ!」

「そうかぁ。でもこれから、たくさん頑張るんだから、ご飯は食べておかないと」

「んぅ」

「お昼でお腹いっぱいになっても、夜にはお腹ぺこぺこになるよ」

「……そう?」

 テディの決意がぐらつき始めたのを逃さず、シドは近場のカフェに入った。自分一人であれば、屋台の立ち食いスナックで済ませるのだが、流石に幼児に立ち食いをさせる気は起きない。テディはミートグラタン一人前をぺろりと平らげた。おいしい!おいしい!と声を上げる子どもに、店員は朗らかだった。






 マンハッタン──セントラルパーク。観光地としても名高いこの場所は、多くの映画や舞台にも登場する。文化的彫刻からシティマラソン、バードウォッチング、演劇、様々な──人の理想的健康で文化的な生命活動の場となっていた。緑深いこの場所から見上げる摩天楼は歪にも見える。そもそもこの場所が歪から生まれた完璧な自然地だ。摩天楼からすればお互い様だ兄弟、といったところか。

 幼い子どもに手を引かれ、行く先は、死体の一部を発見した場所。 いくらでも遊具があるというのに、きゃいきゃいと騒ぐ子どもたちを尻目に行く。背後からは先に到着した他の刑事や科学捜査班がこっそりと、何でもないかのように着いてくる。わざわざ隠れる必要はないと思われるが、一度仰々しく事件にしてテディの感覚を乱してしまったことがあり、その反省だ。

 整地された広場や歩道を逸れて、草を踏み分け、木々の隙間を通ったところで、テディは足を止めた。

「此処かい?」

「ん-。

 ──でも、”ふえてる”?」

「増えてる?」

 テディはシドの手を離し、数歩行くとしゃがみこみ、指差した。

「まえは、なかったよ」

 シドが眼鏡の位置を直しながら覗き込むと、そこには──またしても人の手。それも”右手”だ。テディによって署に持ち込まれた”右手”と、もう1つの右手。単純に考えれば、犠牲者が2人。

 直ぐさま科学捜査班がキットを片手に動き出し、刑事が無線で応援を駆り立てる。シドはテディの手を取り、その場を静かに離れた。



 

「なんでおてて、きっちゃったの?」

 だいじでしょ?とテディは小首を傾げた。

「悪い人がやったんだね」

「なんで?」

「なんでだろうね」

 何故、どうして。刑事をやっていれば、擦り切れてしまう感覚だ。ホワイダニット。捜査において重要な要素であり、糸口でもある。しかし幼子が抱える純粋な疑問からは程遠い。どうしてこんなことをするのか──何故、自省出来なかったのか──。

 テディはヨーグルトを飲みながら続ける。

「おててのひと、しんじゃったの?」

 シドは知っている。あの手には生活反応がなかった。つまり死後に切り取られたものであるということが、検視によって判明している。しかしその事実をテディが知る必要はない。この小さな頭が生き死にについて物思うのはまだ早い。……そう思ってしまうのは、大人の偽善でしかないが。


 ──世の理不尽に触れさせたくない。

 ──世の理不尽に強くなって欲しい。

 

 人間を育てるなんて世紀の大問題のくせに人の数だけ正解があり誤答がある。

「──シド」

 アンバーの目がシドを射貫く。

「シド、おててのひとは、しんじゃったの?」

 じぃ、と見上げてくる瞳を諦観をもって見返す。

「いきてるの?」

 応えられない。しかしテディは直ぐに納得した。

 そう、しんじゃったんだ。

 




 テディの目は鷹。

 テディの耳は兎。

 テディの鼻は犬。

 そう称される程に感覚が優れている。人の心臓の音を捉え、人の微妙な筋肉の動きを察知し、人のホルモンや発汗を嗅ぎ分ける。嘘を見破るのは朝飯前だ。……朝飯に何を飲み食いしたのかも判定出来る。誰が誰と一緒にいたのか、何処の通りを歩いたのか。


 ──みんな、うそがすきなんだね。

 テディが首を傾げながらそう呟いたことを、シドは忘れられない。

「……本当のこと、が人を傷付けることもあるからだよ」

「そっかぁ」

 納得しているのかいないのか、返事は軽かった。



 

 テディを自宅へ送り届け、シドは署で資料を眺めていた。

 最初の右手の主はヘンリー・ルー。

 二番目のはトム・ビーン」

 二人とも指紋が犯罪データベースに登録されていた。

 犯した罪は──性犯罪。

 それも子どもに対する性犯罪だ。長く獄中にあり、ここ数年で出所して──右手を転がされて死んだ。まだ右手以外の大部分が見つかっていない。

 犯罪を犯す悪い手を切り落とされた、そうした象徴めいた報復だろうか。性犯罪者に対するヘイトクライム。

 シドは性犯罪の被害者も加害者も数多く見てきた。

 魂の殺人。魂を殺された者はそれまでの生活も、身体も、隣人に対する信頼も何もかもを失う。魂を殺した者は、一時の快楽に身を委ねただけ──そうした感覚だ。再犯性は極めて高い。右手を切り落とした犯人は思ったのだろう。死ななければ、治らない。殺さなければ、治らない。

 子どもに対する犯罪者の、その右手を見つけたのが子ども、というのは偶然だろうか。子どもを怖がらせたいのではない。子どもに対する供物だ。そう──もう怖がらなくても良いんだよ、悪い奴は死んだから──。


 それならば、犯人は被害者か、被害者に近しい者だ。




***

 



 テディはママのハンバーグを口いっぱいに頬張り、ご機嫌だった。

 とっても美味しい。シドと一緒に食べたお昼のご飯も美味しかった。……お手々の事件は不思議だ。けれどシドとのお出かけは愉しかった。

「ねぇママ」

「なぁに」

「ママがだれかのおてて、きっちゃうとしたら、なんで?」

「そうねぇ……その誰かが、あなたやパパをとても傷付けたら、チョッキンしちゃうかもしれないわね」

「ちょっきん」  

「ちょっきんよ」

 テディはママを見る。ママは大きく膨らんだお腹を撫でていた。

 もうすぐ弟が生まれる。それはとても楽しくて、幸せなことだとテディは知っている。だって、こんなにママが嬉しそうで、パパが嬉しそうだから。ママや、パパ、弟が、誰かの悪いお手々で酷いことをされたら──確かにちょっきんしなければならない。そう思う。




***



 

「Hallo!シド!」

「やぁ、テディ」

 セントラルパーク付近のマンション。

 テディの家にシドは訪れていた。

「ミキも久しぶり。──順調そうだね、良かった。これは、皆から差し入れだよ。」

「まぁ、有難う。

 今、珈琲を淹れるわ、座って。……うちの子に用事でしょう?」「テディとおはなししたいの?」

「そうよ。シドのお話もきちんと聞いて、お話ししてね」

 ん、といつもの短い頷き1つ。そしてテディは、ソファに座るシドの隣に着いた。

「テディ。昨日、君がどういうふうに過ごしたか覚えてるかい?」

「シドといっしょに、パークにいったよ?」

「うん、その前だよ。──まず、昨日の朝から教えてくれるかな?──ママにおはようって起こされた?」

「うん」

「それから何をするんだい?歯磨き?朝ご飯かな?」

「パンと、スクランブルエッグとベーコン!スープ!ちっちゃいプリンもたべたよ!」

「それは美味しそうだ。それからどうしたか、覚えてるかい?」

 テディの母──ミキの確認も取りつつ、聞き込む。

 ──朝、起きた。

 ──昼、シッターのジェシカが到着。13:00頃、セントラルパークへ。ジェシカとはぐれ、遺体の一部を発見。それから市警へ。

「手を見つけた時──他に誰かいなかったかな?」

「んー。パークはね、いくと、いろんなひとがいるよ。おかお、しってるひともいる。きのうは、はしってるひとと、ベンチにすわってるひとと、おさんぽのひとがいた」

「顔を見たら分かる?」

「ん!また、いっしょにいく?」

「お願いできるかな?」

 テディはまたシドの手を握る。

 シドは柔くて小さな手を握り返す。

 


 走っている人──ジョンソン夫妻。30代の夫婦。

 ベンチに座っている人──コロネオ夫妻。60代の夫婦。

 散歩をしていた人──ベル夫婦。20代の夫婦。


 彼らはテディの証言の通り、付近にいたことを認めながらも、”右手”を置いた犯人は見ていないと言った。


 ──そしてそれは有り得ないことだった。



 付近の防犯カメラ等に映る彼らの姿とテディの証言を照らし合わせると、彼らがちらりとでも犯人の姿を目撃していないという話自体がおかしい。

 そしてシドが彼らの経歴を調べたところ、彼らが犯人に繋がる証言をするはずがないことも分かった。



 ──彼らは、身内を性被害で亡くしている。


 

 つまり、彼らは──




***



 後日。

 再びシドとテディは散歩の夫婦──ベル夫妻の前に立っていた。

 少し離れたベンチにはコロネオ夫妻がいる。

 ベル夫人はにこやかにテディを見つめ、善人の目でシドを見上げる。ベル氏はどことなく開き直ったかのような印象を与えた。

 テディは夫人を見つめ返すと──



 ──不意に、彼女に抱きついた。



 彼女は目を見開き、しかし腕は失った宝物をなぞるようにテディを抱き締め返した。


 誰も何も言わない。


 それでも彼女はくしゃりと顔を歪め、夫の名を呼ぶ。

 夫は、ダメだ、と制止ながらも、片手で顔を覆った。


 

 近付いてきたのはコロネオ夫妻だった。

 老夫婦は困ったように微笑み、そして、子どもには敵わない、と呟いた。




***



 自白だけが彼らを有罪にする証拠だった。

 つまり、証拠不十分。

 一体、どれだけの人間が、”右手”の事件に関わっていたのかは定かではない。彼ら自身も分からないらしい。


 誰かが仇の情報を集め、

 誰かが仇を前後不覚にし、

 誰かが仇を回収して、

 誰かが無惨に殺した。


”誰か”は彼らの中で共有されていない。

 唯一共有されたのは、仇の監禁場所。



 ベル夫妻達の自白によって発見された”右手”以外は、”右手”以外でしかなかった。



 ──原型を止めていない上に、鼠に集られその糞尿塗れになり──何がどれかは腕利きの検視医に任せるしかない。

 



***



 ──私達の宝物を、命に代えても守りたかった子を、傷付け殺したあいつらが、他の誰かの宝物を、傷付けようとしたのよ。また。

 

 ──許せるはずがないだろう。私達のように苦しむ誰かを、傷つく子どもを、みすみす増やすわけにはいかない。


 ──警察は確かにあいつらを逮捕したわ。……わたしたちの子が、取り返しのつかないことになってから。


 ──だから、俺達は──



 ”被害者”の住居には新たな”獲物”の写真がずらりと並んでいた。その中にはテディのものもあった。




 ──怖い目に遭わないで済むの……だって悪いお手々はなくなったのだから。




***




 市警付近のダイナーは警察官の溜まり場だ。

 テディに声を掛けていく者は多く、老刑事シドを茶化しながらも無理をしないようにと言い含める者もいる。

”右手事件”は警官達も多く知るところだ。テディが早期解決に寄与したことも知られている。警官達は彼にワンコインのジュースやらアイスやらを奢っていき、テディは吸引器のように飲み食いして平らげていってしまう。ダイナーの主人は大忙しだ。


 テディがどのようにこの事件を受け止めたのか、シドには分からない。深い事情までは知らないはず──と思いたいのは、無力な大人故か。


「あのひとたちも、うそ、ついてた」

「そうだね」

 シドは紙ナプキンでテディの頰についたソースやらチョコレートやらを拭いながら頷く。

「でも、ほんとだった」

「──そうだね」

 よくわかんない、とテディは唇を尖らせた。

 シドはテディの癖毛頭を撫でる。テディはとろけるようにわらった。これが孫娘だったら嬉しそうにした後に、かみがたがくずれちゃうーと一端の口を利くのだから、まったく、可愛いが過ぎる。小さな生きものの尊さよ。

「おててのじけんは、おわりなの?」

「うん」

「はんにん、わるいひとっぽくなかったね」

「そんなこともあるよ」


 同情しか出来ない加害者。

 唾棄すべき被害者。


 この渾沌としたニューヨークの街。

 そこで生きる全ての命のために。

 シドは人生を費やした。シドは特別な意気込みを持って警官になったわけではない。しかし目の前の不条理を許せる質でもなかった。 見捨てられないから、辞められない。そうした自身の心の弱さ故に、暴力の前に、銃弾の前に、狂気の前に立った。他人を見捨てる強さを、シドは持ち得なかった。人はそれを正義と呼んだ。

 この目の前の幼い子どもは、どういう道を進むのだろう。

 ……ミートソースをまた頰に付けて。

「テディ、将来何になりたい?」

「テディはピエロになりたい!サーカスする!」

「人の笑顔が好き?」

「えがお、に、したい」

「そうか」

 笑顔にする。それは尊いことだ。難しいことだ。そして、笑顔にしたい、その志はあまりに清々しい。

 

「テディ──良く、育ちなさい」

「うん」


 シドは珈琲を口にしながら微笑み、

 テディはオムレツを食べ尽くしていく。



 それが彼らの最後だった。

  

 


 

 その5日後、シドは警邏中に撃たれて死んだ。

 テディは十数年後、ピエロではなく、警官の道を進むことになる。



 運命の糸がささやかに絡んだだけの彼らは、確かにあの時、相棒だった。




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