碧落まで、共におちる
最早見慣れた天井、聞き慣れた鳥の声。時刻を確認すると、いつも通りに七時半を指す。暦は六月十七日、水曜日。
「七時半……ああ、水曜日か。今日は王宮、に――」
王宮に行く。陛下はもう居ないのに? あの場所は、今頃ただの廃墟だろう。今更戻ったところで、何になるというのか。
この森の家で目覚めて、六日ほど経つ。少しは慣れてきたのだと思う。元々、変化には慣れていたのだから。
一人になる時間が少しだけ増えた。そういったときは、何故か不安になってしまうのだった。昔からずっと付き纏っていた疑問が、頭の中で反芻される。
『この世にある全ての人々は、主より与えられし役割を果たすため懸命に働いています。皆さんもしっかりと、自分に与えられた役割を果たすのですよ』
役割ってなんですか、シスター。
役立たずは、何故生まれてきてしまったのですか。
自分が役立たずなんだという思いは、物心ついた頃からあった。陛下からは期待されているのはわかっていた。恐らく、養うものとして、母として愛されていることも。それでも、自分に自信を持つことはできなかった。
血も繋がっていない癖に。何処の子供かもわからない癖に。推定十五歳という異例の若さで近衛騎士にまでなった私は、先達にとっては好ましくない存在だったらしい。実力も無いのに、実績も無いのに、等という声が聞こえないわけでは無かった。私自身、身の丈に合わない地位だと思っていた。
妬みや憎しみは人を突き動かすらしく、何度か殺されそうになったこともある。だからこそ、思うのだ。
――何故あのとき、助かってしまったのだろう。何故、今も私はのうのうと生きているのだろう。
もしも、私があのとき死んでいたら。そうしたら、陛下が私を逃がすために国に残ることも無かったのに。私の存在が無ければ、大切な人と逃げる選択肢だってあったかもしれないのに。迷惑ばかりかけているなら、死んでしまえば、いいのに。ああそうだ、あの人の代わりに、私が死ねば良かったんだ。
生きていて良い理由が見つけられない。生まれてきた理由が見つけられない。十三年の生活で今更得たものは、そんな虚しさだけだった。
私が何を思っていようと時間は過ぎていくものだから、死ぬことすらできずに夜を迎えるのだ。明日が来なければ良い、と思って目を閉じる。私が居なくたってそう大きな変化が訪れるわけでも無いのだから――どうせ何も出来ないのだから、死んでしまったって構わないだろう。無駄に健康な身体が今は鬱陶しかった。
上手く笑えていないな、と思う。どうしても生きるのが下手だった。できるだけ心配はさせたくないし、迷惑もかけたくない。何事も無いように振る舞えるのが一番だと思うのに、言葉に詰まってしまう。何も上手くできない自分が嫌いで、嫌いで。もう、限界だった。
それは特に変わりない一日だった。いつも通りに、十時頃には各々部屋に戻る。私は扉を閉めた後、灯りを点すのも忘れて、ふらりと壁に寄りかかった。偶然手元に剣があったものだから、特に意味も無くそれを抜いて、暫く眺めた。ただぼんやりと頸に当てる。月の光か、薄く照らされる刃を少しの血が伝って、下へ落ちていく様子に見惚れた。このまま突き刺してしまえば、今なら死ねるのでは無いかと、どこか明るい気持ちになって、嬉しくて、思わず笑みが溢れる。そうか、このまま死ねば良い。人は、こうすれば、死ぬ。夢を見るような気持ちで、両手に力を込めて、そのままこの首を刎ねる――つもりだった。
「こんな時間にごめんなさい。カルヴィン、入るわよ」
礼儀正しく三回ノックが響く。返事を待たずに扉は開き、鮮やかな金髪の少女が顔を覗かせた。
「あ――」
何故、どうして、ここに。
「これは、違」
誤魔化さないと。心配されないように、いつも通りの自分で居なければならないのに、上手く言葉が出ない。
「ごめんなさい。少し、元気が無いように見えたから……気になってしまって」
どうしたら良い? 私は、私はどうするべきだった?
手が震える。体は、うまく動いてくれない。眉を下げて笑う少女が、恐ろしい。どうしてこんなことに。
「驚かせるつもりはなかったのよ。少し、話をしましょう」
「⋯⋯わかり、ました」
逃げられない。そう思った途端、力が抜ける。自分でつけた傷が痛んだ。ああ、こんなことすらうまくいかない。昔からそうだった。
「何があったのかはわからないけれど、話してくれる? なにかが辛いなら、聞かせて欲しいの。私は、他になにもできないから」
何もできないなんて、そんな筈が無いだろう。貴女は、私よりずっと将来を期待される立場だったのに。恵まれている、筈なのに。
「国を出てからは、ずっとあなたに頼りっぱなしになってしまっていたでしょう。他に頼れる人はいなかったけれど、甘えすぎてしまったかしら。⋯⋯こんなに思い詰めているとは、思わなくて」
「私は、貴女に何も⋯⋯」
「私は、あなたに助けられたつもりよ。それが仕事だからだとしても、女王陛下にそう言われたからだとしても! 私を守ってくれたのはみんなの信じる神様なんかではなくて……あなただわ」
「違う、私はまた何もできなかった! また、守れなかった! それなら私に、私が居る必要など――」
言ってからしまった、と気付く。こんなことを言うつもりでは無かった。こんなことを言って、困らせたいわけでは無いのに。今更どうすることも、できないのに。
「そう、そんなことを思っていたの」
何を思ったのか、ソフィーナはどこか纏う空気を和らげて言った。違う、違うと言いたくて声が出ない。
「私がなにかしてしまったのなら、謝りたいと思っていたわ。故郷⋯⋯は、きっと焼かれてしまったし、母さんも行方がわからないけれど、それは私だけじゃ無いってわかってるつもりだった。それでも、あなたになにかこう、負担をかけてしまったのではないかと思ったのよ。だけど、もっと違うことだったみたいね」
「す、すみませっ……こんなこと、言うつもりでは⋯⋯」
「ああごめんなさい、謝って欲しいわけじゃなかったの。あなたを責めるつもりもないわ」
また困らせてしまった。どうしても悪い方向に進めてしまう。そんな自分がずっと、嫌いだった。嫌だ嫌だとそればっかりで、前に進めないのも自分のせいなのに。
「思ってること、聞かせてちょうだい。私は、言われなくちゃなにもわからないわ」
泣きたくなるような優しい声が、耳に響く。逆らえない。どうしてか、従うしか無いと思ってしまう。そうすることが、正しいかのように。
「正しくありたいと、思うんです。誰かの、役に立たなければならないと。⋯⋯結局、私は何一つ守れませんでした。どうして私、のうのうと生きていられるんでしょう。昔からずっとこうなんです。大事な時に、いつも私は、役立たずで」
息が震える。言葉が詰まる。とにかく、謝りたかった。誰に対してかもわからない罪悪感をずっと抱えている。それを、ソフィーナに、彼女になら打ち明けても良いと思えた。いや、彼女にこそ、謝るべきなのだと。
「あなたはもう充分頑張っているでしょう。少なくとも、私が今ここにいられるのはあなたのおかげだわ。私一人では、とても生きていけないのだから」
「そんな、私はこれまでずっとどこかで間違って! もっと良い選択肢が、もっと良いやり方が、どこかにあったはずなんですっ! それを潰したのは私です。私なんです……!」
この少女に言ったって、過去は何も変わらない。そんなことはわかっている。それでも、確かに誰かに聞いて欲しかったのだ。物心ついた頃からずっと、ずっと抱えてきた思いは、一度吐き出したらもう戻らない。
「――間違ってなんかない。正しく無いかもしれないけど……でも、あなた自身まで、これまでの選択が間違っていたなんて否定しないでちょうだい。……さっきも言ったけれど、私は一人じゃ生きていけないわ! 私は人より丈夫な、健康な体を持っているかもしれない。両親に、家柄にだって恵まれたわ。だけど一人では何もできないの。それくらい、私だってわかってる」
そんなことは無い。貴女は生きていける。一人でも、決して立ち止まらない。貴女は私なんか比べ物にならないほど意志の強い人で、私が縛って良い人ではなくて。私のために使っていい時間なんて、貴女には無いはずなのに。間違いではないと認められて、この単純な心は勝手に救われたような気持ちになってしまう。
「ねえ、あなたの悩みがどんなことなのか、聞くことはできても私には理解してあげられないし、一生に悩んであげることもできない。でもね、私、誰かを見捨てることなんて、もっとできないわ! 私は……もう、誰も失いたくない」
ぎゅっと手を握って、ソフィーナは俯いた。金の髪がさらさらと落ちる。
――私を、救いたい誰かに。見捨てられない誰かに、含めてくれるのですか。
いつか、似たような思いを誰かに抱いた。思い出せないその人は、ソフィーナにどこか似ている。重ねてしまう。
「だって、だって私、知ってしまったわ。人が死ぬってどういうことなのか、わかってしまった。通りの向こうに住んでいたお姉さんも、隣の敷地の老夫婦も、知ってる人も知らない人も、みんなみんな居なくなってしまったのよ」
少し震えた声が聞こえる。貴女は――貴女は、どうして幸福に一生を過ごせないのか。無知なように見えて、誰よりもこの世の不条理を知っている。だからこそ、強い人。私がずっと、探していた人。
「これは私のわがままだわ。それでも私、あなたを失いたくない。あなたまで、失いたくなんかないわ。あなたは優しいから……付け込ませて、くれるでしょう?」
自分を下に見てまで救う価値なんて、私には無いだろうに。他ならぬ貴女がそうやって手を差し伸べるから。縋ってしまう、じゃないか。
「生きていたっていいのよ。自分を殺す必要なんて無いじゃない。そんなの、あまりにも酷い話だわ」
そっと近付いて私を抱きしめる、傷一つ無い、農具も持ったことがないような手は、他の何よりも暖かくて。生きていて良いんだと言われて、それだけで言葉が溶けて、鼻の奥のツンとした痛みを初めて感じた。歪んだ視界の向こう、変わらない色彩の少女は少し微笑んで、
「大丈夫、きっと大丈夫。生きていればきっと、これから思い出だってまた作れるわ。夜が来たら、きっと朝がまた来るもの」
まさに人の言う、天使のように。無邪気な希望を浮かべた。
絞るように声が出て、罪の意識とか喜びとか、混ざり合ったままの感情が流れる。これから何年生きるかはわからないけど、いつか息を止めるその時までは。今度こそ本当に、貴女のために生きたいと思えた。
どこかで冷静な頭が違和感を訴える。誰かの顔を思い出す。頭が痛い。
『わざわざ君が、君を殺すことは無いじゃないか。そんな酷い話、あってたまるか』
知らない誰かの声。長い時を共に生きた筈の、思い出せない誰か。私は、知らない。思い出せない――思い出したくない。忘れたくも無い。
『一緒に、明日を迎えよう』
「一緒に、生きましょう」
重なる。はるか昔――過去なんて無いのに? ――いつかの記憶と重なる。私は何も知らない、知らないはず。頭が、痛い。
「断れるはずが、無いでしょう」
自然と笑顔が浮かぶ。笑おうとしなくても、笑えることに気が付く。また助けられた――前回、なんて無いのに? ――いつか恩を返したいと、そう思っていたんだ。何かがおかしいのに、何がおかしいのかわからない。違和感の正体がわからない。知りたくない。
「……カルヴィン? 急に頭を抑えてどうしたの……大丈夫?」
頭痛が止まない。思考が止まる。急速に意識が離れて、理解の追いつかないまま世界は暗転した。
その日も、暑い暑い夏の日だった。