旅の始まり
頬を撫でる爽やかな風。
まだ日の昇りきらない時間。
荷物は膨らんだ背嚢が一つ。
できるだけ減らしたつもりでも、やはり荷物は増えてしまう。
仕方の無いことだ。
三日前、女王陛下に隣国での調査を頼まれた。
私は話の真偽を確かめる為にも、陛下の頼みを引き受けることにした。
元々断るつもりなど無かったが、この国に害が及ぶ可能性、ひいては陛下に害が及ぶ可能性を無視する訳にはいかない。
ついつい考え込んでしまうな。
駄目だ駄目だ、少なくともこの国にいる間は険しい顔をせずに、ただ旅行に行く体でいなければいけない。
そこまで私の顔を知っている者が居るとは思えないし、第一今はいつもと全く違う格好をしているので心配する必要は無いのだが。
それでも気にしておいて損は無い……はず、である。
心地よい風を浴びつつ石畳を歩く。
王宮へ近付くにつれて道は広くなっていく。
王宮の近くに住んでいるため、まだまだ時間には余裕がある。とはいえ今やりたいことがある訳でもないので、まっすぐ陛下の待つ場所へ行く。
時間に余裕を持つのは良いことだ。
「……約束の時間まで、あと二十分以上ありますね」
余裕を持ちすぎたかもしれない。
王宮には様々な部屋があるが、この時間だと陛下が居るのは書斎だろう。光の良く入る、開放的な通路を歩き書斎へ向かう。書斎は謁見室に比べれば装飾の少ない扉だが、やはり豪華に飾られている。
ドアの近くには誰もいない。
いつも通りに扉を叩いた。
「只今参りました。カルヴィンです」
「あら? 予定よりは早いですが、どうぞ、入ってください」
お決まりのごとく重い扉を開き、しっかりと整理されているだろう部屋に入る。せめて一人くらいは護衛をつけるべきだと思うが、どうにも陛下は他人が近くにいるのがお嫌いらしい。何度提案しても却下されてしまう。
「随分と今日は早いのですね」
「気合いの現れ、とでも思っていてください」
実際気合いに溢れているので、嘘はついていない。別に、初めての旅行だから浮かれていた訳ではない。
「かなり時間もあるようですし、この間ちゃんと説明できなかった分も話しておきましょうか。昨日も一昨日も忙しかったでしょう?」
「ええ、まあ……。しかし、陛下に比べればまだまだですよ」
謙遜ではなく、本当に陛下は忙しい。私なんか比べものにならない。
「仕方がありませんわ、それが王の仕事なのですから。さて、出発の前に、貴方にはソフィーナについて少し話しておきますね。会ったことは無いのでしょう?」
「そうですね。存在は知っていたのですが、どうにも私は運が悪いようで」
この国に十四年は住んでいるが、一度も会ったことがない。彼女は十六歳になったと言うし、すれ違ったことくらいはあるはずなのだが。
「確か彼女は、長い金髪が特徴的でしたわ。ああ、そう言えば、瞳が赤かったわね。そちらの方が目立つかもしれませんわ」
「赤い瞳ですか? 珍しいですね。それにセラフィカの血筋で金髪というのも……」
セラフィカを姓に持つ者は赤い髪を持ち、金の瞳を持つことが多い。金髪――染めている者がほとんどだが――の多いこの国で赤髪はかなり目立つ。赤髪であること自体が血筋を証明しているようなものだから、人集りができていたりもする。まさか私がソフィーナ殿にすれ違ったことが無いのではなく、金髪だから気付かなかっただけ、ということなのか?
「私も、赤い瞳というのは初めて見ました。とても美しいですわよ、彼女の瞳は。ああ、分かっているとは思うけれど、くれぐれも粗相のないようにしてくださいね」
まるで子供を心配する母親のような言い方に、私は思わず笑ってしまった。
心配せずとも、陛下の顔に泥を塗るようなこと、私がする訳ないでしょう。
「もちろん、わかっていますよ。ふふ、陛下は時々、母親のようなことを仰いますね」
「あら、そうかしら? いっそ本当に、貴方の母親になれたらいいのだけれど。まあいいわ、そう言えば交通手段について話していませんでしたね」
交通手段? 馬やロバで行くものだと思っていたのだが、何かあるのだろうか。時間はかかるが、馬車や徒歩よりはマシだろう。
しかし、ソフィーナ殿が馬に乗れないかもしれないな。
「交通手段といいますと、やはり動物を使うものではないのですか?」
「やはり、貴方は知りませんのね。では、術具と呼ばれる物があることは知っていますか?」
「術具、ですか?」
どこかで聞いたような気はするのだが。
「ええ。例えば、街の灯りは、火を使っていますよね。当たり前にある為誰も気にしていませんが、あの火は魔法で灯っている物ですの。そして、その魔法の元となる物が術具と呼ばれる道具ですわ。」
「そうだったんですね……。昔学んだはずなのですが、すっかり忘れていました」
「仕方のないことですわ。人間は忘れる生き物ですから。今回は、瞬間移動の術具を使っていただきます」
瞬間移動の術具。そんな便利な物が存在するのか。
陛下、初耳なんですが。
「では、その術具を使ってグリッセ公国まで行くのですね」
「いいえ、術具で移動できるのは国境までですわ。そこから先は、貴方が言った通り動物に乗って移動していただきます。私の許可がないと使えない術具ですから、貴方が知らないのも無理がありませんわ」
確かに簡単に瞬間移動なんてできてしまったら、フロスタのような小さい国は簡単に制圧されてしまう。国王の許可を得ないと存在すら知らされないのも、国を守るためだと思えば納得がいく。
「その術具とは、どのようにして使えば良いのですか?」
「この王宮の庭に、大きな石碑があります。貴方も見たことがあると思いますわ。その石碑には穴が空いていて、その穴に魔力石、と呼ばれる石を埋め込むことで魔法が発動しますの。石一つで二人とも、グリッセ公国まで最も近い関所に飛べるはずですわ」
「魔力石?」
「名前の通り、魔力の込められた石です。貴重品ですから、丁寧に扱ってくださいね」
「わかりました。ありがたく使わせて頂きます」
陛下は私に、二つの薄く光を放つ石を手渡した。
「本当に気を付けて行ってきてくださいね。……そして、楽しんできて下さい」
そう言った陛下の顔は、子を思いやる母のようにも、どこか葛藤しているようにも見えた。陛下の声を聞いて私は、何故だか不安を感じて、普段気恥しくて言わないようなことを陛下に言ったのだった。
「本当に、ありがとうございます。いつでも貴女を、尊敬しています」
「ええ、ええ……。私は、そんなに良くできた人間でもありませんわ。ええ、本当に……。王としては、私など……」
「陛下?」
絞り出すような陛下の声は、弱々しくて、自分達がこの国を守らねばならないと強く感じさせられた。王であっても、陛下も人間なのだ。守られるべき存在なんだと再確認する。
「ああ、すみません、今のは忘れてちょうだい。さあ、話も済んだことですし、中庭まで行ってあげてください。本当は私も見送りに行けたらいいのだけれど」
「いえ、そんな。こうして話す機会を下さっただけでも充分ですよ。では、本当に行ってきますね」
少々名残惜しいが会話を切り上げ、廊下へ出る。初めて見る国の外の景色。国や陛下のことは心配だが、それ以上に外国への期待は強く、軽い足取りで中庭へ向かった。
中庭は花が多く咲いていて、いつも人は少ないが美しい景色になっている。はっきりとした四季のないフロスタでも、季節によって様々な花が顔を見せる。花々は特に夏、この時期の青空に良く映え、休憩時間に訪れた者へ癒しを与えている。
静まり返った中庭の中心。一瞬で目を奪う、鮮やかな金が立っていた。
恐らく、彼女がソフィーナ・セラフィカだろう。そっと近付いていくと、足音に気付いたのか凄い勢いでこちらを向いた。
「きゃっ! ……あら、ごめんなさい! そこの大きな石碑を見ていたものですから、足音に驚いてしまったの。初めまして! 貴方が騎士さまかしら? 私、ソフィーナ・セラフィカと申します」
とてもキラキラとした瞳で見つめてくる。じっと見ていると引きずり込まれそうだ。
「初めまして、ソフィーナ様。私はカルヴィン・キャヴァリアーと申します。私はただの護衛ですから、そのように扱って頂いて構いませんよ。」
「あっ、そうだったわね。ごめんなさい、私ったら! ええ、そうさせていただくわ。よろしくお願いしますね、カルヴィン」
ハキハキとよく喋る。
邪気のない、可愛らしい少女だ。
ここまで純粋に育てられるとは、親の教育が気になるところだ。もっとも、一般的な親とセラフィカ氏では頭のできが違うのかもしれないが。
「こちらこそよろしくお願いいたします。ソフィーナ様は、乗馬の経験はありますか?」
「馬? 一応経験があるわ、あまり上手くはできないのだけれど。外国へ行くというなら、馬に乗るものなのでしょう? それよりカルヴィン、貴方にも気軽に接して欲しいわ。旅の間、私たちは対等な関係じゃない?」
対等ではないのだが。
偉大な学者の娘に対して、大した実績もない騎士がそんなに偉ぶってはいけないだろう。
「対等……いえ、私はあくまで護衛――」
「例えば、様を付けないで呼ぶとか。私だけ呼び捨てにするのは、あんまり良い気がしないわ」
話を遮られてしまった。例えばと言うが、他に何をしろと言うのだろう。
従った方が良いのだろうか……?
「……わかりました。では、ソフィーナと。準備はできていますか?」
「もちろん、直ぐにでも出発できるわ」
「それは良かった。ここの術具を使うというのは聞いていますか?」
そんなつもりは無かったのだが、質問攻めになってしまった。陛下はたまにうっかりしているから、念の為確認しておきたいだけなのだ。
「ええ、聞いたわ。カルヴィンに魔力石を預けるとも」
「そこまで聞いているのですね。それなら、早速出発しましょうか」
はい、とソフィーナが頷く。動く度に伸ばされた髪が揺れ、光を反射し美しく輝いている。
陛下に預けられた石を手に取る。理由は分からないが、手の中ではより輝きを増している。そっと石碑のくぼみに充てがい、そのまま押し込むとするりと石は嵌った。
「……!」
「まぶしっ……!」
突如視界を埋める青い光。
眩しさに思わず目を細める。
光が消えるとそこは、今まで立っていた中庭では無く、南の国境にある関所だった。