プロローグ
本のページを捲る音が好きだ。
与えられた休日を最大限楽しむには、紙の匂いが欠かせない。
金属がぶつかる音に囲まれて過ごしていると、体が鉄臭くなったような気さえしてくる。
生憎とこの国の識字率は低いが、剣術やら体術やら、指南書であれば探せば探しただけ出てくる。戦争などめったに起こりもしないが、それはそれとして武芸に励む者も多いのだろう。
有事に備えて、こうして数少ない休暇でありながら王宮で待機しているわけだが、一人で何かに没頭できるのはありがたい。
「失礼致します、サー。女王陛下がお呼びです」
コンコンコン、と控えめなノックが響く。
私は手に持った本を置き、閉められたドアへ目を向けた。
「おや、ありがとうございます。入って構いませんよ。陛下は何か仰っていましたか?」
「何か、ですか……?」
声は小さく、震えてしまっている。この様子だと、最近兵士になったばかりの者なのだろうか。もっとも、そのような者が王宮勤めになるとは思えないのだが。
「ああ、言葉が足りませんでしたね。呼び出した理由について何か……」
「あっ、はい! ……あっ、もっ、申し訳ございません、遮ってしまって」
しかし、やはり新人なのだろう。初めて見る顔ではあるが見たところ自分と歳も近いようだし、あまり怖がらないで欲しい。
まあ、慣れない内は仕方がないか。
「いえ、大丈夫ですよ。続けて下さい」
「はい。その、本当にすみません。ええと……確か、『少し頼みたいことがあるので来てほしい』との事でした」
「頼みたいこと……? 分かりました。直ぐに向かいますね」
少し頼みたいことがある、か。陛下がこのような内容をぼかした言い方をするのは珍しい。近衛騎士である私を信用して、であれば嬉しいのだが、恐らくは陛下自身が回りくどい言い方を好まないからだろう。陛下はいつも要件を簡潔に伝えてから呼んでくださる。今回は何か事情があるのか、単なる偶然か。
恐縮しきった様子の兵士を後目に部屋を出る。決して遠くは無い距離を歩き、豪華に飾られた扉を軽く叩いた。
「失礼致します、陛下。頼み事があるとの事でしたが……入ってもよろしいでしょうか?」
「カルヴィンですわね。どうぞ、お入り下さい」
陛下の穏やかな声が扉越しに聞こえてくる。見た目は豪華でも建物が古いせいか、力を込めて押すと扉はギイギイと大きな音を立てる。
陛下は大変美しい方だが、それに見合うように謁見室も美しく飾られている。
本来であれば正装で訪れるべき場所だ。そんな暇は無かったので、仕方ないと言えば仕方ないが。
「普段はっきりと物事を仰る陛下ですから、このような言い方をするとは珍しいと思ったのですが。何か問題でもございましたか?」
普段なら所用のある際は、他の近衛騎士や長くこの王宮に勤めている使用人が呼びに来るのだが、今日は珍しく新人だったことも気になる。
「あら、それは嫌味かしら?……ふふ、冗談ですよ。ところで、しっかり扉は閉めましたね?」
陛下は悪戯っぽく微笑んだ。
「え? ええ、いつも通り閉めておきましたよ」
「これからも戸締りはしっかりとして下さいね。さて、本題に入りましょうか。今日貴方を呼んだのは、言った通り頼みたいことがあるからなのだけれど……そうね、貴方はレイシー・セラフィカという人を知っていますか?」
当然知っている。むしろ、この街では知らない者など居ないだろう名前だ。
私が知らない方がおかしいと思うのですが。
「当然知っていますが……。彼女がどうかなさいましたか?」
「貴方には彼女の娘、ソフィーナ・セラフィカの護衛を頼みたいのです。引き受けて下さいますか?」
護衛を必要とするということは、もちろんこの国を離れるのだろうが、仮にも近衛騎士、この国の防衛のトップに近い私が簡単に国を離れて良いものなのだろうか。陛下の仰ることだ、何か考えあってのこととは思うが、黙って引き受ける訳にはいかないだろう。
「護衛、ですか? お言葉ですが陛下、その程度ならば何も私を動かさなくとも……」
「ええ、分かっていますわ。貴方にはもう一つ、頼みごとがあります。聞いてくださいますね?」
「それはもちろん、お聞きしますが」
「正直に言いますと、護衛というのは、実は建前なんですの。先日、レイシーが……いえ、セラフィカ氏がそろそろ娘を旅に出しても良い頃だと言っていたので、それを利用させていただくことにしました。」
ふ、と一呼吸おき、少女のような笑みを浮かべていた目の前の女性は、人が変わったように硬く真剣な王族らしい表情を浮かべた。
「ここから先の話はまだ大衆に向けて発表されていない話ですから、部屋を出たら絶対に口に出してはいけませんよ。」
口の前に指を立て、しーっと身振りを交えながら陛下は話す。
「ソフィーナ・セラフィカと共に、最近近隣の国で起きているという事件について調べてきて下さいませんか? これは命令ではありません。私の個人的な頼みですから、断っても構いませんよ」
「事件ですか? 陛下、それはどういった内容なのです」
「そうですね。正確な内容は伝わっていないのですが、近頃天使達が理由も告げずに人を攻撃している、と聞きました。」
天使が、人を攻撃する?
本当にそんなことがあっていいのか。陛下は真剣に話しているが、誰かの作り話では無いのだろうか。
「幸か不幸かこの国は天使の守護を受けていないのでまだ被害が出ていませんが、どのような影響があるかわかりません。それにまだ正しい情報も得られていない」
重力に逆らわず落ちる美しい白銀の髪が、動きに合わせてさらさらと流れ、思わず視線を奪われているうちに口を挟むタイミングを見失う。
「そこで、貴方に調べてきて欲しいのです。どんな些細なことでも構いません。実際には何が起きたのか、攻撃されたという人はなにか共通点があるのか、はたまた完全に無差別なのか、少しでも良いので情報が欲しい」
「わかりました。俄には信じ難いことですが……」
「もちろん私も、最初に聞いた時は耳を疑ったわ。天使は人を守るはず。いいえ、守るために造られ、必ずそのように存在するはずなのですから」