【第六話】パラレルな隣同士
日曜日。学校説明会が開かれて、流山珠悠はその手伝いに従事していた。
『受付の子が急病になっちゃって……流山ちゃん、頼めないかな?』
と、江川から連絡が来たので、急遽請け負ったのだ。その日はちょうど暇で、適当に動物園でも行こうかと思っていたところだったので、気楽に引き受けた。なんで、江川先輩がフォローしてるんだろうと思いつつ。
仕事自体は、来場者にパンフレットを渡す程度の軽いもので、午前中には自由の身となった。皆森の様子を見に行ったが、クレートに引っ込んで出てこないので、学校を出て、近くの河川敷に向かった。
そこは公園として整備されていて、野球場があったり、自由に遊べる広場もあって、賑わっている。今も、小学生の子たちがフリスビーで遊んでいた。
珠悠はのんびりと、その脇の遊歩道を歩いていき、川べりに立った。梅雨なので、川は普段より水量が多い。いつもよりも強い水の流れを、ぼんやりと見つめる。
川の流れは永遠に見られるくらい好きだし、野鳥や、野生の亀を見ることができるので、そこはお気に入りの場所だった。
自然に溶け込んだような心地の中、珠悠はまどろむ。
「あーっ!」
ふいに遠くで、甲高い声が聞こえた。
何気なくそちらに目をやると、ショッキングピンク色のフリスビーが、珠悠めがけて飛んできていた。珠悠は、あぁ手元が狂ったんだろうな、と思った。
風向きとか気圧とか、軌道を決めるランダムな要素はあるんだろうけど、飛んでいくフリスビーの挙動にはあんまり惹かれない。どうせ、すぐ落っこちて終わってしまうんだろう、と白んでしまうからだろうか。
まあ、問題はこのまま突っ立ってたら、自分の身体のどっかしらの部分に当たるのが終着点、ということだったけど。
「あぶなーい!」
小学生の危機を知らせる大声が聞こえる。視界の中でショッキングピンクが、みるみると広がっていった、その時。
横からひゅっと伸びた腕が、フリスビーを捉えた。パス、と軽い音が鳴る。
「ひゃっ」
珠悠はむしろ、その予想外な出来事の方にびっくりした。
「ふーっ、セーフ! 大丈夫?」
ひゅっと、フリスビーを投げ返しながら、助けてくれた人物が言った。
誰かと思って顔を見ると、それは常政律郎だった。これまた予想外な登場に、珠悠は息が詰まってしまった。
「えっ、常政くん……何で?」
「何でって。全然避けようとしないから……」
どうしてここに、の意図の「何で」だったが、律郎はそうやって返してきた。
そのちょっと呆れたような物言いに、珠悠は反射的に口を開く。
「違うの、も、もうすぐ見るのに飽きて、ちょうど避けようとしてたとこだったの」
「ええ……ちょうど避けようって思うことある?」
律郎は困惑したようだった。その顔を見て、珠悠はハッとする。せっかく助けてくれたのに、これでは嫌な奴だ。やっちゃった、と思って、慌てて言い繕う。
「あ、今のもまたちがくて──えっと、ごめんね、ありがとう……」
幸い、律郎は笑ってくれた。
「ま、大丈夫そうだね」
「本当にごめんね……」
常政くん、大人だな、と思いながら、珠悠は謝る。
こんな小さい自分でごめん、と。
律郎は、学校説明会があるとは知らず、元文芸部室に休日出勤しようとして、締め出されたらしい。説明会の日は、関係者以外は校舎内には立ち入れないことになっている。
そこで、せっかくだし気になっていた喫茶店でも行こうと思ったら、その途中で川辺に佇む珠悠を発見し、あの救出劇に至るということだった。
「喫茶店……」
「あの道の先にあるんだけど」
と、案内されるがままにのこのこと、珠悠はその店の前までついてきてしまった。
想像していたよりもカジュアルな店構え。「学生限定!飲み物全品200円」と宣伝するのぼりが躍っていて、まさに律郎とか珠悠みたいな面々をターゲットにした店らしい。
200円ならいける、と珠悠は勇気を出して言った。
「……お、おごるよ」
さっきのフリスビーの件のお詫びのつもりだったが、律郎は手を振った。
「えぇ、いいよいいよ。気にしないで」
「でも……」
「あーっと……それじゃあ、付き合ってくれるだけでいいよ。最初に来る店って、ひとりじゃ入りにくいし」
「えっと、それじゃあ……うん、そうしていい?」
結局、珠悠はその懐の広い一言に甘えてしまった。
氷のたくさん入ったコーヒーに、砂糖とガムシロップを入れて、かき混ぜる。渦巻く表面。あっという間に黒と白がまじりあって、変化はおしまい。珠悠は物足りなさを覚えた。
4人掛けの席を贅沢にも2人で向かい合って座る。対面を見ると、律郎がそわそわしていた。つられて、珠悠も落ち着かない気分になる。
ラップトップを間に置かないで律郎と向き合うなんて、珍しい状況だった。出会ったばかりの頃、一度くらいはあった気がするけど、その時はテンパってしまって、何を言ったのか全然覚えていない。
その時の気まずさが蘇ってきて、なんとも口を開きにくい雰囲気になっていた。
やっぱり、私たちには、媒が必要だ。
「いいよ、パソコン出しても」
珠悠は言った。律郎の背筋が伸びた。
「え? でも、せっかく来たのに悪いよ」
「ううん……私が、見たいから」
口にしてから、何言ってるんだろう、とすごく恥ずかしくなった。顔のほてりを消すように、あるいは隠すように、珠悠はほろ甘コーヒーをストローで飲んだ。
律郎は、ぽかんとした顔をしたのち、「じゃあ……」と照れくさそうに、いつものラップトップを取り出す。そのシルバーの筐体を見て、珠悠は少しほっとする。
──これで、落ち着いて、常政くんの隣にいられる。
と、思っていたのも束の間だった。
対面で座っていると、ディスプレイに隠れて指の動くところが見えなかったのだ。
(そんな……)
珠悠は衝撃を受けた。元文芸部室では隣に座るのが当たり前だったので、こんな事態は初めてだった。これでは、幕が閉じたままの演劇を見ているようなものだ。
でも、だからといって、隣に座るなんて途方もない大冒険に感じられた。学校では平気なのに、喫茶店ではダメって、どういうことなんだろう。聖域みたいに感じられて、おいそれと踏み入るのははばかられた。
珠悠は、せめてもの抵抗というふうに、律郎のはす向かいに移動した。一応、片手はちょっと見えたけど、指先は見えない。一番忙しない、そこを見るのが好きなのに。そこがマグロでいう中トロなのに。
どうしよう、と珠悠は考え、ひっそりと立ち上がった。
店の人に許可をもらって、近くの椅子を運んでくる。
それを、誕生日席になるように机の端に置いて、座った。視界は良好だった。珠悠は満足した。
欠点は、はた目から見れば、1人しか集まらなかった誕生日会でしかないところだけど。
「……どうしたの、そんなところで」
そして、当然のように、不審に思った律郎に声をかけられて、珠悠はびっくりした。
「あっ、いや、その、指が見えなくって……」
「ああ。それなら、隣に来れば」
「と、隣……」
律郎がなんてこともないふうに言ってきたので、珠悠は気が抜けてしまった。
──まあ、確かにいつもしてることだけど……常政くんは、別に気にしないんだ。
「うん、そうする……」
変に気を回していたのは自分だけかと悔しく思いながら、珠悠は腰を上げた。
◇◇◇◇
律郎は、隣に珠悠が座った瞬間、それがどういう意味を持つのかを知った。
元文芸部室で隣に座るのとはわけが違う。飲食店で敢えて隣に座るなんて──カップルのやることじゃないか。
と、いう邪念に反応して、律郎の心の目が、かっ開いた。
いやいや、そうではない。自分と彼女は、指の走りと眼差しで繋がっているのであって、隣同士、これが適切なフォーメーションなのだ。下心はない。スポーツマンなんだ、俺たちは。
「なんか、常政くん、いい匂いする」
ぽつりと珠悠が言った。汗にまみれたスポーツマン表象はどこかへ行った。
「そんな、女子に近づいた男子みたいなことを……」
「だって、ほんとに女の子みたいな匂いするんだもん」
普段、自分で感じないだけに改まって言われると恥ずかしい。
律郎は言い訳をするように言い立てた。
「あー……姉と妹がいるんだけど、父親が在宅仕事してて、家に加齢臭散らすの嫌がって、フレグランスにめちゃくちゃ凝っててさ。その煽りを食らってる感じ」
姉はもう家を出たので、正確には妹がレガシーを継いだ形になる。説明しながら、なかなかにひどい話だな、と思った。
「へえ。じゃあ、お父さんもいい匂いなんだ」
「あんま感じないけど、そうかも」
珠悠はくすくす笑ってくれたので、まあ、よしとする。
(いや、何もよくないが……)
身体の匂いを感じられるほど、近くにいるということだ。
その事実に律郎はうろたえてしまった。頭が全く回らなくなる。次に何を書くべきかを見失う。しかし、何かを書かなければ、珠悠が隣に来た意味がなくなって、ただ隣同士に座りたい人たちになる。
必死に言い訳をするように、律郎は指を走らせる。
がむしゃらに、この場を引き留めるように、キーボードをタイプしていく。
やがて、頭が空っぽに近くなった時、ひとつの疑問が浮かんだ。
そういう風に見られかねない状況を、珠悠はどう思っているのだろうか。
その瞬間、律郎の心に凪が訪れた。
そうだ、こんな変に緊張しているのは自分だけ、と考えた方がいい──なにせ、俺にそういう風が吹いたことはなかったから。
そう思いなしたからか、少し気が落ち着いた。そう、期待するのが悪い。自分と珠悠は、ただの元文芸部の部員同士でしかない。それ以上でも以下でもない。
珠悠にバレないよう小さく息を吐いて、文章の続きを始めようと、改めて指をキーボードに載せる。そして、ディスプレイを見て、声が出た。
「ってなんだこれ!」
文字化けを起こしたような、意味不明な文字列がずらっと並んでいた。
律郎は思わず自分の指を見る。さっき悶々としていた間に、無意識のうちにタイプしてしまっていたらしい。珠悠の眼差しに応えるためだけに動かしていたので、本当に適当な怪文章ができあがっていた。
「え、なに?」
律郎の反応を見て、珠悠がひょい、とディスプレイをのぞき込んだ。「待って」と声をかける暇もなかった。彼女は「ひっ……」と小さく悲鳴を上げた。
「ど、どうしたの、これ……」
観念する、とはこういうことなのだと、律郎は深く噛み締めた。
「いや、流山が隣に来るから……なんというか、緊張して」
なんてうぶな弁明かと、変な汗が出る。これには、珠悠も困惑するだろうと覚悟していたが。
「えっ、常政くんも──」
パッと口にしかけた言葉を、珠悠は慌ててひっこめた。
律郎は、彼女の顔を見る。珠悠は、言おうとしたことを察されていませんように、というような視線を向けてきていた。
「流山も?」
その一言で、珠悠はにわかに動揺を見せ始めた。
「だ、だって、なんか場所が変わるだけで、いつもやってることなのに雰囲気が変わってきちゃって、でも、常政くんはいつも通りだから、変に意識してるの私だけかなって思っちゃって──」
もごもごと心情を並べ立てていく珠悠に、律郎は温かい気持ちを抱いた。
(……かわいい)
さっきまで、自分には風が吹いたことがないから、とか考えていたことは、とうに忘れていた。もしかして──と、予感めいたものが、律郎の胸中に微か、閃いていた。
(いつか、タッチタイピングって口実がなくても……)
──こうしてゆっくり話せたらいいのに、と、律郎は思ったのだった。
(第六話・終わり)