【第五話】今日の模範解答
学校の敷地内には柴犬がいる。名前は「皆森ヒロシ」。ミナとかヒロとか呼ばれる。保護犬だったのをもろもろの手続きを済ませて、学校で飼っていたのだった。
世話は環境委員会が担っていて、餌付けや散歩は許可がないとしてはいけないことになっている。また、皆森は保護犬だった来歴からか、そこいらの生徒から安易に餌をもらったり、なびいたりしなかった。
その辺りの手続きの面倒さや塩対応から、生徒たちの皆森に対する扱いは、マスコットというよりも用務員さんのような感じだった。
「ありがとう~、助かったぁ」
流山珠悠が頼まれていた書類を手渡すと、江川麻衣子は嬉しそうに受け取った。
「18時までは学校にいるので、何かあったら呼んでください」
「また、元文芸部室?」
「それか図書室です」
「そっかぁ」
江川は意味深な笑みを浮かべつつ、自分の作業に戻った。手紙を作っているようだったが、あて先にはOGとか書かれていた。卒業生とのコネクション……陰謀の気配を感じつつ、見なかったことにしながら珠悠はその場を後にした。
外では急な雨が降ったようだった。曇り空のもと、ぬかるんだ校庭には誰もいない。
雨の残り香を感じながら、珠悠が一階の廊下を歩いていると、窓の外にひょこひょこ動くこげ茶色が見えた。
「ミナ」
珠悠が雨粒まみれの窓を開けると、皆森ヒロシがぴょんと顔を覗かせた。校舎のすぐ裏側に、皆森を飼うためのスペースが用意されているのだ。
「うわ、びしょ濡れ。雨に降られちゃったの?」
皆森はブルブル身体を振り回して、水滴を飛ばした。それから、何ごともなかったように、嬉しそうな顔を向けてくる。かわいくて、珠悠は小さく笑った。
「そっちいくからね」
皆森ヒロシは、珠悠にとても懐いていた。環境委員にちゃんと許可をもらって、何回か餌をあげて散歩しただけで、こんな塩梅だった。
そのことを知った江川が、「いつも手伝ってくれるお礼」と手回しをしてくれて、今では顔パス(?)で、皆森と接することができる。ここにもまた陰謀の気配がするが、珠悠はありがたくその特権を享受していた。
珠悠が飼育スペースに入っていくと、皆森が一目散に駆け寄ってきた。
「はい、大人しくして……」
珠悠は持っていたタオルでその身体を拭く。拭かれて、というか、撫でられて嬉しくなった皆森はじゃれついてきた。制服を濡らされては困るので、珠悠は密着されないように駆け引きしつつ、濡れた毛の水分を取って、ついでに肉球の汚れを取ってやる。
「好きつ好かれつね」
と、声が聞こえて振り向くと、スペースの外側に北梓が立っていた。ジャージ姿で両手をポケットに突っ込んでいる。この辺で雨が止むのを待っていたのだろう。
「あっ、アズ……わっ」
腰を上げた珠悠に、皆森が両足立ちになって甘えてきた。尻尾がバサバサゆれている。
「珠悠、やたら動物に懐かれるね」
「信頼を築くコツっていうのがあって、それをちょっとやってるだけなんだけど……こんなに寄ってこられるのは、ちょっと嬉しくないかなあ」
皆森は珠悠の周りをぐるぐる回っては、温和な柴犬がしがちな無邪気な顔を向けてくる。
「人じゃなくても、やたら干渉されるのは苦手?」
北が訊く。珠悠は皆森の首周りを撫でた。
「別にいいけどね。でも、どちらかというと、私のことなんか認識してないで、自由に自分のしたいことしてる子たちを見てる方が好き。動物園の展示室の植物になりたい」
「珠悠らしい」
「それで、たま~に、私にだけしか見せないような仕草をしてくれたら、言うことなし。ほら、ミナ、お手」
珠悠が皆森に手を差し出す。皆森はおやつと勘違いしたのか、両前足でつかんで甘噛みしてきた。珠悠は憮然とした顔をした。
「お前はなんにもわかってないよ」
「ふふ」
その様子を見て、北は微かに笑った。
◇◇◇◇
常政律郎は、そんな珠悠と北の会話の一部始終を、近くの窓の内側から聞いていた。下世話な目的はなく、律郎の抱いた感想はひとつだけ。
(流山ってあんな喋るのか……)
北とは幼馴染と知ってはいたが、流石付き合いの長さを感じた。北はいつも通りだが、珠悠はフランクにはきはき喋っている。いつもとのギャップに、律郎はそんなつもりはなかったのに立ち聞きしてしまった。
距離もあったため、会話の内容はほとんど入ってこなかったけれども、聞いてはいけないことを聞いたような気がして、律郎はそさくさとその場を去った。
元文芸部室に辿り着いた時、律郎の頭には邪念が芽生えていた。
いつか、俺も流山とああいう風にフランクに語り合う関係になれるのか──なってどうするとか、そういうわけではないけど、どういう会話をするのか、ただ想像した。
恥ずかしくなった。
ラップトップのディスプレイが、前回に書いたお話を表示する。律郎は逃げ込むように、その続きに文字を連ねていく。努めて、没頭していく。
やがて、指の動きに流されるように、律郎の考える「邪念」は、どこかへ消えていってしまった。
◇◇◇◇
流山珠悠は、元文芸部室の前に立った。江川先輩の頼みをこなして、犬を世話して、一息吐きたい身体が、勝手にここにやってきていた。
中を覗くと、いつものように、律郎がキーボードを叩いている。相変わらず、珠悠が来たことに気が付く様子はない。
珠悠は彼の隣に座って、そのタッチタイピングに目を向けた。今日の指の勢いはふつう。最近は、バックスペースを、タッタッタッタ、と叩く回数が増えた。書く文字の量は変わらないが、リテイクが多くなったのだ。
エンドマークの約束をしたせいで、読まれることを意識して、文章の書き方が変わってしまったのかと、珠悠はちょっと申し訳なく思う。
ただ、ずるいことに、そうして生まれたリズムも、珠悠には新鮮に感じられた。
無心で、鍵盤の上の指の踊りを見る。次々押し寄せるタッチ音も、どこか柔らかみを感じられて、ほっとした。
(とても、いい……)
少しだけ時間が経った。
律郎の指が止まって、「うぅ~ん」と集中の切れた声がする。ほどなく、視線が交差する。どんな動物とも違う眼差し。珠悠を認めて、驚いたようにちょっと見開く。
珠悠はハッとする。いつも挨拶もなく、隣でぼーっとしているものだから、この瞬間はちょっと気まずい。
そして、律郎は口を開いた。
「あ、いたの」
いつもとは違う、素っ気ない口ぶりだった。
「え、うん……」
珠悠は少し驚きつつ、頷いた。驚きはしたけど、全然嫌じゃなかった。
いや、むしろ、なんだろう、今日は私にあんまり興味なさそうで──悪く言えば、どうでもよさそう。
でも、意識はこちらに向いているこの感じ。
(……これも、いいかもしれない)
と、珠悠は不意のときめきを感じた。
が、次の瞬間には、
「あっ、あっ、ごめん、なんか疲れた声出しちゃって」
律郎は慌てた顔でフォローに入っていた。
「あはは、ほんと疲れてたね」
その落差が面白かったので、珠悠は笑う。
そして、そうだよね、と心の中で呟いた。
そう、常政くんはこういう人。
だけど、こういう人だからこそ今の振る舞いが──。
「うん。わかってるよ、常政くんは」
律郎はきょとんとした。
「え? 何を?」
「あっ、えっと……」
まっすぐに訊ねられて、珠悠は口ごもる。何を、だなんて恥ずかしくて言えるわけがなかった。
私のことをわかってる、なんて──私は、何者のつもりなんだろう。
「えっと……何だろうね」
目が泳いでいることを自覚しながら、珠悠は答えた。もちろん、律郎は納得しない。
「んん? えっ、もしかして遠回しな悪口?」
「ち、違うって。なんでもないから、忘れて」
このまま追及され続けたら、本音を言ってしまいそうだった。
珠悠は、はやく江川先輩からの連絡きて……と内心願ったけれど、その祈りが通じることはなかった。
(第五話・終わり)