【第二話】雨の目
流山珠悠は、雨を見るのが好きだ。
無数の水滴が、地面を濡らし、水たまりを揺らし、音を立てる。たくさんの情報が、視界から、鼓膜から、肌から、わっと入ってくる。それが、爽やかな朝にシャワーを浴びているようで、気持ちがいい。実情は思い切り悪天候だけど。
「梅雨だねー」
「わっ」
知らぬ間に、隣に江川麻衣子先輩が立っていて、珠悠は驚いた。
江川先輩は二年生、生徒会の執行部である評議委員で、一番の働き者だった。働き者過ぎて、あまりにも多方面へ働きかけ過ぎている。貢献が大きすぎるために、現生徒会長は彼女の傀儡になっているとかいう噂もある。そんなホットな人物が、平然と隣に立っていた。
もともと、珠悠は部活や委員会活動よりも、学外のボランティアをやりたいと思っていた。具体的には、保護猫の世話だとか、保護犬の里親探しだとか、そういう活動だ。彼女は動物が好きだった。
ある日、印刷室の近くを通りかかった珠悠は、その中がぶちまけられたプリントでエライことになっているのを見てしまった。プリントのフローリングなんて、寡聞にして聞いたことがなかったので、全部回収して、ついでに種類ごとにソートしておいた。
「んーっ、あれ? 見ないふりしてたプリントの海が枯れてる……」
そこへ江川がやってきて、夢見心地で呆然と呟いた。
「も、もしかしてダメでした……?」
珠悠は恐る恐る訊ねる。江川はその手に、書類の束があるのを目にして、目を見開いた。
「ええええっ! あんだけの量を、私が外してた3秒で全部集めたの!」
「えっと……3秒は短すぎだと思いますけど……」
普段から、光速で活動しているのだろうか。
「しかも、種類ごとにまとめ直してある……あのわずかな時間で……」
珠悠がおっかなびっくり渡した書類の束を。江川はバラバラバラッと一瞥して言う。深刻な口調なので、珠悠は不安になってきた。
「私、余計なことしました……?」
「ううん。ねえ、君さあ、一年生だよね」
江川は珠悠を見て、言った。
「もしよかったら、あたしの助手になってよ」
その時は、江川を知らなくて、生徒会周りの人かと思っていたら、ある意味それ以上の人だった。流されるがままにOKしてしまった珠悠は、それ以来、私設秘書みたいな立ち位置で、江川の助手として仕事を回されるようになった。
「つ、梅雨ですね……」
隣に立った江川に、珠悠はオウム返しに答えた。
「髪とか暴れん坊になって、嫌な季節よ」
江川は毛先を弄りながら嘆いた。その横顔を見て、すんごい可愛い人だなあ、と珠悠はぼんやりと思う。アイドル的というか、大きな舞台でも映えるような華のある容姿。なのに、こんな裏方に徹しているのは何でだろう、と考えたりする。敢えて選んでそうしているならカッコいいな。
「どうしたの、人の顔じっと見て」
気がついたら、江川に見返されていた。珠悠はさっと視線を外へと逸らす。見るのはいいけど、見られるのは苦手だった。
「いや、カッコいいなと思って……」
直前まで頭にあったことをごにょごにょ言うと、江川は目を輝かせた。
「ホント! カッコいい、あたし?」
「あ、えっと、そ、そうですね」
そんなところに琴線があったのかと、ちょっと驚く。
「ふふーん」
江川はニコニコした。可愛さ爆弾だ、と珠悠は感じた。
ふと、頭の上が温かくなった。
「ほーんと、流山ちゃんは良い子だねえ」
江川がデレデレした顔で、珠悠の頭を撫でていた。その柔らかい感触に──珠悠は少しむっとしてしまった。
頭上に伸ばされた江川の手を両手で取って、胸の前に下ろした。
「あの、こういうの苦手なので……」
「えっ。そ、そっか……ごめんね」
江川は一瞬、しょんとした表情を浮かべて、ぱっと手を引っ込める。それから気遣うように顔をのぞき込んだ。
「でも、苦手なこと、ちゃんと言ってくれるのは嬉しいかな」
そう言って、小さく笑う。
(先輩、大人だな……)
こんな小さい自分よりも──と、珠悠は羨ましく思った。
ものに見入りがちというか、傍から見ればぼーっとしてるようにしか見えない珠悠は、子どものころから、周りに心配されることが多かった。
まあ、幼少期ならいいけど、今でもその“心配され性”が続いているのは、いただけなかった。特に家族からの過保護ぶりは、昔より増しているのではないかと辟易としている。いつまでも子ども扱いされているような気がして。
だからって、江川先輩のことを拒んでしまうなんて……私は、子どもだ。
江川と別れた珠悠は、気落ちして廊下を歩いていく。
やがて、ある部屋の前で立ち止まった。
表札を剥がされ、無名になった部屋。数か月前までは、文芸部の部室としてあった場所だった。
戸をちょっと開く。カチカチカチカチ、と、いつもの音が漏れてきた。珠悠は戸を押し開けて、元文芸部室に入った。
常政律郎は今日も、ディスプレイを凝視して、キーボードを叩いていた。入ってきた珠悠には気がつかない。珠悠はその隣に座って、よく働く指に目を向ける。
不規則に揺らぐように見えて、実に整然とした動作、柔らかなタッチ音。
ふと、迷うように止まった指が、また新しい興味を見つけたように、動き出す。
指が弾き出す、律郎の創造した世界を想像しながら、珠悠はその多忙な様子にじっと視線を注ぐ。その様子を見ていると、心が落ち着くのだった。
これは聞いた話。
入学したての律郎は、極めて当然の帰結として、文芸部に入ることを決めていたという。
新入生の部活動解禁後、真っ先に文芸部室へやってきた彼は、目の前で「文芸部」という表札の剥がされるのを目撃した。
目の前で廃部になったのだ、と律郎は言う。本当は管理の都合上、たまたまその日に表札を取ることになっただけで、部自体は昨年度に最後の部員(幽霊)が卒業していたようだ。
それで、ある部活が廃部になると、その翌年、すぐに復活させることはできないという不思議な規則があるらしく、律郎がどう足掻こうと、その年に文芸部が戻ることはない。
そんなちょっとした不運を聞いた律郎は、悲しむかと思いきや、こう訊ねたそうだ。
「でも、別にこの部室は使ってもいいんですよね」
律郎は、ただ純粋に、文字を打ちに来ただけだった。
その態度が気に入られたとかなんとかで、こうして空き部屋となった元文芸部室で、元文芸部員として、物語を書き続けている。
その一心不乱な指先が、珠悠は好きだった。
いつまでも見ていられる。そう、雨よりも、ずっと無心に──。
その時、窓に光が差した。
珠悠は立ち上がって、窓辺に寄った。雨脚は弱くなっている。薄灰色の空気が、陽光によってほぐれていた。そこへ現れたものに、珠悠は思わず声を漏らす。
「あっ、虹……」
「えっ?」
間の抜けたような反応に、珠悠は振り向いた。律郎はぽかんとした顔で、珠悠を見ていた。
珠悠は窓の外を指さして、
「虹だよ!」
「虹って……ああ、ほんとだ」
律郎も外に目を向けて、少し驚いたように言った。
「実際に見ることって、なかなかないよね」
「確かに。イラストとかだと、よく見るけど……」
珠悠は律郎の横顔を見た。その瞳は外を向いてはいたけど、何か別のものを見ているような気がした。心ここにあらずというか、猫がたまにやるような、眼差し。
珠悠は彼の目の前に、ぱっと手のひらをかざしてみた。
「うわ、何!」
律郎は目を丸くして、珠悠の方を向いた。思ったより大きな反応をもらい、驚いた珠悠はつい直前まで頭にあったことを口にする。
「猫みたいだなって」
「猫?」
「うん。あ、虹消えちゃった」
というか、思い出したようにまた雨が降り出した。気まぐれな晴れ間だったようだ。
「“目”に入ってたみたいだな」
律郎がぼそっと言う。珠悠はハテナを浮かべた。
「雨の“目”?」
「そう」
「目があるのは台風だけだよ」
なんとも言えず、面白みもない返答をしてしまった。
「まあね」
律郎も特にこだわりがなかったのか、あっさりとした言うだけだった。
珠悠は窓辺から離れ、椅子に座り直した。
「それじゃ、続き」
「え? まだ見たいの?」
律郎は意外そうに言いながら、ラップトップの前に座る。
「まだって、何で?」
「だって、外、見てたから」
言っていることがわからず、珠悠は首を傾げる。
「外? 晴れるまで常政くん見てたけど」
「え? あ、ふーん……そうなんだ」
それは、嬉しさを隠しきれていない返事だった。
それを聞いて、ピンと来た。なんで猫みたいに、ぼけっと外を見ていたのか。
「もしかして、私が常政くんの指じゃなくて、雨見てたと思って、嫉妬したの?」
足ツボを思い切り押されたように、律郎の背筋が伸びた。
「そんなことはない」
そのピンと張った声音が本音を告げていた。珠悠は笑った。
「ふふふふ」
「無邪気に笑うなよ」
「ちゃんと見てるから大丈夫だよ」
「別に頼んでないからね」
「あははは」
「楽しそうに笑うなって……」
やがて、律郎は逃げ出すようにキーボードを叩き出した。
その滑らかで、ランダムなのに意味のある指の運びに、珠悠は安らかな居心地を感じる。
──ちゃんと見てるから大丈夫だよ
耳に届く雨の音に打たれながら、珠悠は胸の内でもう一度、そう呟いた。
(第二話・終わり)