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お世辞にも綺麗とは言えない髪を一つに束ね、貴族の令息令嬢が通う王立学園の図書館で勉強を終えた少女は物悲しい通路を一人歩く。没む夕日でオレンジ色に染まる世界は彼女の好きな時間だった。
―――――――さっきまでは。
教室に戻り、机の上に用意しておいた鞄に勉強道具を仕舞うと鞄の留め具がカチッと小さな音を鳴らした。それは胸に抱いていた想いまでも鞄に封じ込めた感覚で、思わず留め具をぼうっと見つめる。
オレンジ色に染まる世界の中、一瞬だけ黒い影が過るのが視界に映りハッと我に返る。鳥が窓の外を横切った影が映っただけだが彼女の思考を切り替えるには丁度良かったようだ。
厚みある鞄を持った少女はそのまま教室を出て、学園を出て、一時間程歩き続けた。好きだったオレンジ色の光はとうに地に没み、今は刻々と闇深い世界に変わる。
まるで自分の今の心境のようだ、と思えば手に持つズシリと重い鞄ですら軽く感じる錯覚を起こした。
初めての恋だと気付いた時には、恋だったのだと無理やり過去形にした。
想い人だった婚約者と言葉を最後に交わしたのはいつだったか。はっきりと思い出せない程に他愛もないやり取りだったのだろうと頬が緩む。
(私達らしいな………)
王都のはずれに建ち並ぶ古いアパートメントの3階に着くと、着ている学園の制服の袖口で汗を拭う。呼吸も整えて平常心になるとようやくドアノブを捻る。
「ただいま」
「お帰りミーリア」
出迎えてくれたのは2つ年上の兄ラルフレッド。昨年学園を卒業して王城の騎士団に配属された兄はせっかくの休日をこうして私の為に費やしている。
「屋台で飯を買ってきたぞ」
「ありがとう。でも休みの度に来なくてもいいよ」
「いいわけないだろ。お前だけをこんな目に合わせているのは俺のせいなんだから」
正義感の強い兄は悔しそうに拳を握り締める。それもそのはず。兄が私の近況を知ったのはつい3週間程前だ。
「兄様のせいじゃないよ。それどころか感謝してるくらいなのに」
笑顔で兄が堅く握りしめた拳に触れて指を一本ずつ解く。毎日稽古と警備の仕事をしている兄の掌は硬くなったタコがいくつも見える。
以前の兄の手はここまで硬くはなかった。学園に通いながらたまに剣を振る程度だった兄の手は、本を捲る細い指先が似合う綺麗な手だった。兄ならばきっと父と同じように王城の政務官になるだろう、と漠然と考えていたがそうはなれなかった。
かろうじて騎士団には入れたものの、素がインテリの兄は剣が得意ではなかった。それでも一年近く必死に頑張ってくれた兄を更に困らせたのは私だ。
ダンヴェール侯爵家令息である兄ラルフレッドは家督を継ぐべく育てられた。けれど昨年両親が急死し、直後にダンヴェール侯爵家を引き継ごうと動いた兄を嘲笑ったのは父の弟である叔父のビラルディ・ダンヴェールだった。
侯爵家の広大な領地を管理する父は王城で政務官として働きながら、領地経営を弟であるビラルディ叔父さんと共に開拓してきた。兄弟で競うように街を発展させ、土地を起こした結果、国内でも上位に入る資産と地位を確立した。
思えばそこから既に始まっていたのかもしれない。
毎日王城で働きながら領地も守る父と違い、叔父はのんびりしながら領地経営に専念していた。
それが昨年を境にガラリと変わった。
忙しくも仲の良い両親は年に一度はオフシーズンに領地の外れにある別荘でのんびり過ごしていた。その日もいつものように両親は別荘に向かっていた。けれど道中で盗賊に襲われた父と母は遺体となって予定より早い帰宅となった。
悪い事は重なるようで、父と母の葬儀当日は兄の政務官試験の当日だった。当然兄と私はこの事に抗議したが、叔父の決定を覆す事は出来なかった。
結果、兄は試験を諦めて葬儀に出席した。
そんな叔父に不信感を抱いた兄が父の執務室を調べると、既に家督は叔父の名に変更されていた。それは両親が亡くなる半年も前に書き替えられていた。
それは叔父によるダンヴェール侯爵家の乗っ取りだった。
とはいえ両親が亡くなった時、私は学園に入学したばかりで兄は3年生で半年後に卒業の時期だった。兄は叔父の不正を暴こうとするが、我が侯爵家の身内は既に叔父とその妻側の一族しかいなかった。兄に味方する者は身内では私しかいない。
とにかく兄は卒業後の職を考え、助言してくれそうな知人らに連絡した。けれどすぐには良い解決策もなく、兄が就いたのは王城の騎士団だった。
内政官らと違い、夜間も交代で城の警備を担う騎士団の新兵らは最初の一年間は皆騎士団寮に入寮して規律を学びながら訓練し警備をする。叔父を不審に思う兄にとっては邸で叔父と顔を合わせなくてすむので好都合ではあったがそうなると私一人が邸に残る。
兄は叔父に不信感を抱いていたが、当時の私は多少強引なところもあるが普通に優しい叔父だと信じていた。
けれど兄の不安は早々に的中した。
兄が王城に向かった後日、叔父夫婦は侯爵邸に移り住んできたのだ。
『ミーリアが一人で広い邸に住むなんて危ないからね』
そう言って微笑んだ優しかった叔父は半月で態度を変えた。
『こんな野暮ったい内装は変えよう』
父と母が好んだアール・デコ調の内装や家具を次々と変えてしまう。父の執務室も、母が育てた庭園の花までも、全てが叔父夫婦好みに変わっていった。
外から見た邸は何ら変わりないのに足を一歩踏み入れるとそこは知らない邸になっていた。
『今日はお前達の部屋だ』
『お、叔父様?何を……』
既に以前からいた側仕えや執事は皆解雇され、叔父が連れて来た新たな側仕え達が私の部屋を片付けだす。
『この部屋は客室にするからな。全て処分しろ。さてミーリア、お前は学園に行く時間だろう?』
『止めてっ!それは捨てないで!』
慌てて大切な物や着替えをトランクに詰め込むと叔父が私を見下しながら吐き捨てるように告げた。
『それらは餞別にくれてやる。学園には通わせてやるが二度と邸に戻ってくるな!』
『そ、そんなっ!叔父様っ!』
その日、制服姿の私はトランク一つと学園の鞄と共に邸を追い出された。
途方に暮れた私は学園を休んで王都の町中を彷徨い歩いた。何度か父と訪ねた執事のジョーンの家を微かな記憶を頼りに探し回る。
近くの青果店の気の良いおばさまにジョーンの家を尋ねたおかげで昼過ぎにはどうにか辿り着けた。
『ミーリアお嬢様っ!?』
『………突然ごめんなさい。他に行く所が無くて……』
それだけで察してくれた元執事のジョーンは兄へと手紙を書いてくれて、家に私を泊めてくれた。兄が休日には迎えに来てくれたが、騎士団の寮に住む兄と一緒に住める訳ない。息子夫婦と同居のジョーンの家に居座り続ける事も出来ない。
かろうじて持ち出した私の小遣いと兄の多くはない給料で古いアパートメントの一室を借りることにした。今は仕事をしていないジョーンもたまに様子を見に来てくれる事になってどうにか落ち着いた。
それから一ヶ月近く経つ。
生まれながら侯爵家令嬢として育てられた私だが、父も母もとても柔軟な考え方の貴族だった。上流貴族としての教養は勿論だが、幼い兄妹に貴族も平民も同じ人間だと、侯爵家といえど落ちぶれてしまえばただの平民と変わりない、と教え込んできた。
おかげで平民の生活に憧れた時期もあった私には、側仕えのいない今の環境でも不満はなかった。とはいえ、いきなり慣れない家事等は多少苦労したけど。
今日は兄が屋台で買ったチキンをメインにして簡単に夕食を食べられた。
『もう少しだけ我慢してくれ』
と毎回必ず告げて寮に帰る兄を見送った。
狭い部屋で"休学届"と書かれた書面を眺めていると、帰り際に見た光景を思い出していた。
図書館から教室のある館舎にのびる通路の窓から見えた光景。
誰にも見つからないようにこっそりと隠れてまるで逢引きしているような一組の男女。その男女の姿は私がよく知る二人だった。
男性は多分私の婚約者。
女性は私の親友。
二人は一度私が紹介しただけでそれ以外に接点はほとんど無かったはずだ。いや、私が知らないだけで二人はこっそりとあんな風に会っていたのだろう。でなければあんなに親しげに微笑んではいないだろう。
次々と降りかかる不幸はきっと今まで幸せ過ぎた分の代償なのかもしれない。
オレンジ色の世界に自分の婚約者と親友が楽しそうに笑い合う姿を見ても怒りすら沸かない。
親友のシャルルは伯爵令嬢で学園のクラスメイト。あまり愛想のない私に気さくに話しかけてくれた優しい彼女。
『貴方は婚約者とはあまり親しくないの?』
問われた言葉に愛想笑いで誤魔化し続けた私。その後、彼女は私といる時には婚約者の話をすることはなかった。
婚約者のマクベスは公爵令息だ。我がダンヴェール侯爵領とマクベスの父が治めるドストル公爵領が隣り合っていて、領地の境目にある街は国内でも王都に次ぐ大きな街だ。その為、父同士は親友のように親しかった。当然のように私とマクベスは幼い頃から何度も顔を合わせていた。まるで兄妹のように親しくなったマクベスと私。
互いの両親らは正式に私とマクベスの婚約を取り決めた。それは私が7歳の誕生日だった。
『今日からマクベスとミーリアは婚約者同士だ』
婚約者というものがよく分かっていなかったが、婚約者はずっと一緒にいられる存在と認識していた私は父の言葉が素直に嬉しかった。
一つ年上のマクベスが当時にどう思っていたかは知らないが、はしゃいでいたのは私だけ。
婚約者になっても私とマクベスの関係は変わらなかった。
幼い頃は勉強を教えてくれたり、湖で魚釣りをしたり、街の祭りに一緒に行ったりと毎日のように遊びに来てくれて楽しかった記憶。
だけど私が婚約者となった時には既にたまにしか会えなくなっていた。久しぶりにマクベスに会えて嬉しくて、更に婚約者になれた誕生日にはしゃいでしまうのは当然。でもマクベスは微笑んでいるだけで真意が分からなかった。
(やっぱり私が婚約者になってもあまり嬉しくなかったんだろうな……)
久しぶりにマクベスの微笑む姿を見て、当時の事を思い出していた。
幼い頃に親が勝手に決めた婚約者。親しくしていても今日までマクベスは私を婚約者としては見てくれなかった。兄妹のように親しかったが多分それ以上の感情は無かったのだろう。
この数年、ずっとそう考えていた。
別に急に態度を変えられたわけでもない。マクベスは私に対して態度を一貫している。
私が学園に入学して同じ構内にいるというのに、学園内でマクベスと会話をしたのは数えるくらいしかなかった。
私が入学してすぐの頃、一つ年上のマクベスの側には時折親しく言葉を交わす女性がいた。マクベスと同じ学年の女性だ。その女性がマクベスの婚約者だとクラスメイトが話しているのを聞いた時には言葉が出なかった。
――――――私はマクベスの婚約者じゃなかったの?
その真意を確かめたくても、既に亡くなった両親には確認出来るはずもない。戸惑いと疑惑が消えぬ私は今まで以上にマクベスと言葉を交わす事を避けた。
『あ、ほら、マクベス様!隣りの女性が先日マクベス様の従兄弟と婚約したらしいの。これでマクベス様の婚約者が誰なのかまた謎になったわね』
シャルルは私が婚約者だと知る唯一の親友。学園で会話をしない私達を思ってそんな事を言ってくれたのだろう。
私もマクベスも互いに婚約者だと周囲に言い触れる事がなかったので、優しくて格好良いマクベスの婚約者が誰なのか?という話題は度々耳にしていた。
入学した当時こそ、私ではないかと噂された事があったがそれもすぐ消えた。直接誰かに聞かれた事はなかったので何も言わなかった。きっと両親が亡くなったから皆遠慮して聞かないのだろう。
自分自身ですら私は本当にマクベスの婚約者なのか疑心暗鬼になっている。婚約者だったはずだが、それが今も尚継続しているのか解らないから何も言えなかった。
言わなくて正解だった。
今はまだ学園では侯爵令嬢と認識されている私。
けれどそれももう長くは続かないだろう。
叔父には娘が二人いる。二人とも私より年上だがまだ結婚していない。叔父がダンヴェール侯爵となった今では、ダンヴェール侯爵令嬢は私ではない。
私はダンヴェール侯爵の姪っ子というだけの存在になったのだ。
こうなってはマクベスとの婚約もたち消える。今のダンヴェール侯爵家にはミーリアという名の娘はいないのだから。結局は、私に婚約者はいない、という事になったのだから。
婚約者だったマクベスと親友と思っていたシャルルの親しげな姿は、どうにか繋ぎ留めていた私の意地を脆くも崩し落とした。
――――――もう、やめよう
頬を伝う涙を拭うとペンを持ち、震える手で自分の名を書き込んだ。
***
「いらっしゃいませー」
来客の姿が見えると口が開くようになった私はテーブルの上の食器類を急いで片付ける。何枚も重なった重い皿を落とさないように厨房へ運ぶとそのまま水を張ったシンクの中にそっと入れてから洗い始めた。
休学届を出した私は近所のパン屋のおねえさんの伝手でこの大衆食堂で働きだした。働きだして2週間も経てば店のドアが開く音で自然と声が出るようになった。けれどあまり重い物を持った事がない私は平民の女性よりも力が弱く、料理が乗った大皿一枚を運ぶ事が出来なかった。
なので空になった皿やグラスをさげて洗うのが私の仕事になった。ほぼ一日中、立ちっぱなしの仕事はキツいけど、兄様の稽古と夜の警備を考えれば楽な方だと思う。
今は兄様が叔父と対立してしまったけれど、兄様は我がダンヴェール侯爵家唯一の令息。いつか必ず家督を継ぐだろう。それが叔父の指示か、兄様が正当に引き継ぐかは分からないけれど。
そんな兄様にこれ以上負担はかけたくなかった。自立を決めた私は兄に手紙を残してアパートメントを出た。
――――――信じられるのは兄様だけ。
ーーー
「っ、いらっしゃいませー」
店のドアが開く音で反射的に声を出す。視線をそちらに向けると一組の男女が入店して来た。途端、慌てて厨房に逃げ込んだ。
(な、何でこんな大衆食堂にマクベスとシャルルが?!)
隙を見て2階へ駆け上がり、店主のバスクに具合が悪いと嘘をついて休ませてもらう。
間もなくバスクの娘で気の優しいアミルが私達のいる2階の部屋に来た。
「ああ、ミーリア、ここにいるという事は気付いていたのね……。何処かでうちの店にミーリアという女性がいると聞いた方達が貴方に会いたいと訪ねて来たわ」
バスクとアミルは私に何か事情があると感じていたのだろうが何も聞かずに仕事を一から教えてくれた。その優しさに付け込んで何も話さなかったのは私だ。
「貴方の婚約者と友人だと言う女性なのだけど……」
「私には婚約者も友人もいません」
きっぱりと告げるとアミルは悲しそうな表情をした。
二人に何を聞いたのかは知らないが、アミルの表情が私を追い込む。
「知らない貴族の方と会うつもりはありません。それでも会えと言うなら今すぐ荷を片してここを出て行きます。……私に信じられる人はいない」
信じられるのは兄様だけ。それを今言ってしまうときっとすぐにでも兄様が来るだろう。それだけは避けたかった。
「分かったわ。そう伝えるわ。だからミーリア、突然いなくなったりしないでね」
その言葉に素直に頷くと、アミルは店へと戻って行った。そして店主のバスクに兄様が迎えに来たら帰ると告げた。
マクベスとシャルルが店に来た日から3日後に兄のラルフレッドが私を迎えに来てくれた。傍らには執事服を来たジョーンがほっとしたような表情を見せていた。
兄様とジョーンと一緒に馬車に乗り、到着したのは懐かしいダンヴェール侯爵邸だった。
「兄様……」
「大丈夫。叔父達はもういないよ。今は俺がダンヴェール侯爵家当主だ」
その声に驚く私をエスコートした兄様は邸の中へと歩き出す。
(ドレスでなく町娘のようなワンピースじゃ様にならないわね)
兄様のエスコートは嬉しいが、以前のように素直に喜べない私がいた。
邸の中に入ると思った通り、慣れ親しんだ室内ではなかった。叔父達の悪趣味な内装は見るに耐えない。
以前と同じ私の部屋に入っても新調された家具達は違和感しかなく落ち着かない。
「昨日、叔父達が連行されたばかりでまだ室内を元に戻せてはいないんだ。すまない……こんなに邸の中が変わっていたなんて知らなかった」
私に謝罪する兄様。けれど兄様は何も悪くない。
「兄様のせいではありません。私の事なら気にしないでください」
「いや、お前に何も言わなかったのは俺だ。ちゃんと説明していればお前が俺の前から消える事もなく、働く事もなかったのに……本当にすまない」
兄様は学園を卒業後、あえて騎士団に就いたらしい。理由は叔父達に屈したように見せる為。水面下ではマクベスの父ドストル公爵や個人的に親しい王太子と共に叔父の不正を暴く準備に勤しんでいたようだ。
ドストル公爵は私の両親が亡くなった日より前から叔父の動きに注視していた。ダンヴェール侯爵家からの報告書に父の名前が消えて叔父の署名が書かれるようになっていたから。その事を父に確認しようとした矢先に父と母が亡くなった。二人の死を聞いた公爵は、事故を未然に防げたかもしれないと今尚悔やんでいるようだ。
叔父達はというと、私達の両親であるダンヴェール夫妻の殺害依頼とダンヴェール侯爵領の横領に公証の偽造等いくつもの悪行から、王族の騎士団らによって連行された。
兄が産まれた事で次期侯爵の座を奪われた叔父は、兄の力を知ろうともせず軽視していた。その時点で叔父の敗北は最初から決まっていたのかもしれない。
けれど何も知らなかった私は貴族でなくなった事に絶望して一人で生きていく決意を固めた。侯爵令嬢でなくなった私は生きる為に仕事を探してアパートメントを出た。
兄様は私がそこまで考えるとは思っていなかったようで、私がアパートメントを出た直後から私を探してくれていたようだ。
「ここはもう俺とミーリアの家だ。ミーリアはダンヴェール侯爵の妹なのだからもう安心していいんだ」
叔父が連れて来た側仕えは全員解雇。再び以前の側仕えらを邸に戻したようだがまだ皆揃っていない。それでも戻ってくれた以前の側仕え達に囲まれて少しだけ気が緩んだ。
でもやはり私は以前の私には戻れなかった。
「兄様……お願いがあります」
私は兄に願い事を述べた。
それが叶わないのであれば即刻家を出て修道院に行く、と侯爵である兄に対して半ば脅迫めいた願い事だ。
「どうしてお前がそこまでするんだっ?!」
「ごめんなさい。けれど、もう兄様以外は誰も信じられないの。侯爵の妹である私があの店に戻って働くことは無理でしょう?だから修道院しかないの。お願いします………」
苦痛に歪むような兄様の碧い目ををじっと見つめる。
「………少し、考えさせてくれ。………時間がかかるかもしれないぞ」
「きっとドストル公爵様なら許してくれるわ」
兄に手を貸してくれた公爵様なら、兄の今後を考えてくれるだろう。もう無理に我がダンヴェール侯爵家と繋がりを強化しようとは思わないだろう。
「どうして………。俺はお前に幸せになって欲しいのに………」
「……兄様が父様母様の敵を討ってくれて、私を迎えに来てくれた。それだけで今の私は幸せよ」
微笑んで本心を伝えても兄様は笑顔を見せてはくれなかった。
私は本当に幸せだ。
一年の寮生活を終えると邸に戻ってくれた兄様。領主となった兄だけでなく、叔父が抜けた分の仕事を私が手伝う穏やかな毎日に何の不満もない。
願わくば、兄様には素敵な奥さんを見つけてきてほしい。
そして私は兄の子供達の世話をするの。
そんな楽しげな日を夢見て毎日を過ごす。