壮大な仕掛けと、意外なメッセージ
ある大学の階段教室で100人を超える聴講者が注目する中、著名なブロックチェーン 技術の専門家が自己紹介を終えた場面を想像していただきたい。
彼(講師)は自分の財布から一枚の千円札を取り出すと聴講者に見えるように両手で押し出すようにしながら声を上げる。
「突然ですが皆さん、この千円札が本物と仮定して答えていただきたい。今ここでなくとも結構だが、この千円札と同じものを持っている方は[1]を、持っていない方は[2]を押していただきたい。」
階段教室は一瞬の沈黙の後、ここかしこで笑い声が漏れはじめる。そして、個々の手元にある回答ボタンが押され、90名以上の[1]が教室の電子表示版に表示され、聴講者の笑いと話し声が湧き上がる。それを制するかのように講師が落ち着いて話を続ける。
「そういうことなんです。みなさんはみなさんが持っている千円札が私の千円札と同じだと断定しています… しかし、それは正しくない。」
「どの千円札も法的に唯一無二でなければならない。だから全ての本物の紙幣には管理番号が印刷してある。管理番号があることは誰でも知っている。しかし、そのことはあまり意識されていない。」
静まる教室に講師の声だけが皆の耳目を引きつける。一枚一枚の紙幣が唯一無二でなければ、価値の保証にはならない。そうなれば貨幣経済は破綻する。
「ブロックチェーン 技術の本質は、分散台帳に電子的に定義される暗号資産が名実ともに唯一無二の資産価値であることを、インターネット空間で初めて実現した技術だということが私の話の核心なんです。」
「では、これまでのネット上のマネーと何が違うのか? それをお話ししましょう。」
以下は日本銀行の公式ウェブサイトに掲載されている「教えて!にちぎん」という質問コーナーの記事である。
『現在発行されている銀行券の記番号は、6桁のアラビア数字をはさんで、アルファベットが頭に1ないし2文字、末尾に1文字組み合わされ、「A123456B」や「CD777777E」というように表されます。アルファベットは全部で26文字ありますが、IとOは数字の1、0に間違いやすいため、これらを除く24文字が使われています。また、数字は「000001」から「900000」までの90万通りが使われています。これらの組み合わせにより、記番号は129億 6千万枚で一巡します。』https://www.boj.or.jp/announcements/education/oshiete/money/c14.htm/
つまり全ての紙幣には背番号が付いていて、基本的には同じ背番号は無いという暗黙の了解で管理している。ところが、何番の千円紙幣を誰が持っているかといった情報管理はコスト高であり、紙幣の移動が激しいから実施できない。
ブロックチェーン の暗号資産管理は、こういった背番号付きの価値の単位(例えばビットコイン)を、物理的な証書を使わずに、ネット環境のP2Pのプロトコル(当事者間の電子的な通信手順)だけで、100%完全に、持ち主という持ち主全てと正確に紐づけることが可能であり、紐付いた暗号資産は正しい持ち主以外は絶対に決済できず、その決済も絶対に二重払いにならない仕組みであり、これを世界で初めて実現して、10年近くの歳月を経た今でも自立して価値管理を実現しているのがビットコインなのである。
………
ブロック 9
東京でも神奈川でも米国のダラスでもないある場所に暗号技術の専門家数が召集された。清楚に制服を着こなした重厚な風貌の男がこのチームのミッションを伝えようとしていた。
「お集まりの皆さん、皆さんは何れも暗号技術の分野では権威でおられる。皆さんに是非知恵を貸して頂きたい謎解きがあります。」
前方のライトが暗転すると同時に、壁面に下ろされた会議用スクリーンに複雑な文字列が表示された。
「半分は250行の16進数 の文字列です。これらは全て32バイト長であり、言語としての意味を持たない16進数の乱数です。これをAグループと呼びます。」
「残り半分は、やはり250行の文書の短冊の集まりです。長さはランダムですが、明らかに人が書いた文章をバラバラに切り刻んだものです。これをBグループと呼びましょう。合計で500のデータになります。」
「出どころは機密事項ですが、我々はこの500のデータが何らかの暗号文であると断定しています。しかし、内容の解読に難航しているのです。」
1人目の技術者が口を挟んだ
「これだけの事で我々を集めるとは意外ですね。こんなのは最も簡単な複合課題じゃあないですか。Aグループは、Bグループの文字列を一つづつハッシュ化して32バイトに暗号化しただけでしょう。総当たりで調べれば1時間もかからずに複合できるはずです。」
リーダーは即座に、しかし冷静に応答した。
「確かにAグループはハッシュ関数の出力と思われます。しかし、総当たりで解読を試みても一行も複合出来ません。Bグループの文字列をひとつひとつハッシュ化してみたのですが、ひとつとして32バイト暗号と一致しないのです。それにAとBの関係が判っても短冊を繋ぐ順番の解決ができません。」
2人目の物静かな女性暗号学者が割って入った。
「こういう場合はB群の短冊の先頭にプレフィックスとして番号を振ってハッシュ化してみてみるのが手順ではないでしょうか? 250件ですから単純に16進の0x01から0xFAまで1バイトのプレフィクスを付けてハッシュ化するのです。総当たりは250のハッシュを同数の32バイト数値と比較するだけですから62500回チェックすれば済みます。プレフィックスを変えながら250回ですから合計1562万回程度のルーチンです。」
リーダーは微動だにしない。
「ご指摘の順番符号も試したが、全く符合しない。順番をリニヤに整理したのでは複合しないのです。ここにあるデータ以外の何らかの既存の数列や文字列に紐付いているのかも知れなものません。例えば合衆国憲法、聖書の一節、ベートーベンの交響曲に使われた歌詞です。それを探るのが今回の皆さんのミッションなのです。既にAI機能を動員して数千のリファレンスを試してみたがまだ複合できていません。」
専門家グループはその後数十分の協議を終えて解散した。継続審議は暗号化された電子会議を採用することが合意された。説明会で紹介されたもうひとつの着目点はBグループの250の短冊の夫々先頭1文字が0、1、2、3、4、5の何れかであり、0が圧倒的に多く、3から5と数が上がるほどそれらを頭に持つ短冊は少ないという事であった。そして、暗号情報には以下のとおり引用文が書き添えてあった。
The Times xxx/xxx/2009 Chancellor on brink of second bailout for banks
暗号学の専門で無くとも、ブロックチェーンに興味を持つ老若男女ならこの一文には馴染みがある。2009年1月3日にサトシナカモトがビットコインの最初のブロック(ジェネシスブロック)をビットコインネットワークに放った際、彼がブロックの電子データに密かに、そして永遠に、埋め込んだメッセージである。つまり、課題である暗号パズルはブロックチェーンと関連がありそうであったが、このA郡とB群の関係や短冊の順番は電子工学や暗号技術の研究者達の取り組み対象となった。
ブロック 10
警察庁が記者会見を実施したのはFBIがサトシコインの横領容疑の公開捜査を始めた1週間後になった。FBI は日本のメディア情報や一般の投書から得た情報を基に平塚アパート事件とサトシコインの関連を捜査し始めていた。当然ながら警視庁のネット犯罪捜査課にも捜査の手が伸びており、この会見の数日後にはFBI捜査官が直接警視庁に乗り込んでくる段取りとなっていた。
日米の操作の焦点は阿部博のデスクトップパソコンにあったが、警察庁側としては既に証拠が消された後のパソコンを明け渡すことに躊躇はなかった。問題は阿部が隠していたペーパーウオレットである。
FBI は阿部のペーパーウオレットの存在を知らないが、岡崎と島部が確認したとおり、不意に動き始めたサトシコインの滞留先は紛れもなく阿部のウオレットにある3つのアドレスであった。警視庁はこれを公表するかどうか数日躊躇ったが、自国の殺人事件の解決を優先すべきとは言え相手がFBIとなると下手に隠蔽して敵対的に見られるのは得策ではない。まして、日本のマスコミもいつかはウオレットの存在を突き止めるであろうから、その際の対応も考えねばならなかった。
記者会見当日、日本記者クラブは感染症の緊急対策下にもかかわらず、国内外の報道機関の代表者で立錐の余地もなかった。2020年末から高騰を見たビットコインの開発者であるナカモトサトシの所蔵コインが大量に動いた事実と、平塚のアパートで怪死した阿部博の繋がりについては世界中のメディアがこぞって憶測を闘わせはじめていた。そして阿部のパソコンからの情報について発表を拒んできた日本の警察への不信感も頂点に達していた。
会見の口火を切ったのはネット犯罪捜査課の岡崎だった。岡崎はネット系の捜査官としての技能もあったが、もとは北米で学位を取った帰国子女であり語学にも堪能であったからサトシコイン事件の記者会見の主役として警視庁の推奨を受けていた。きっちりとした深い紺色の制服に身を包んだ若い女性の捜査幹部がネイティブに近い英語で会見を始めると、記者クラブはにわかに静まり返った。
「本日の会見の最大の目的であるサトシコインと平塚アパート事件の関連について警視庁から何よりもまず具体的な文章を公開することと致します。スクリーンに投影します。」
スクリーンに文章が映し出されると同時にメディアの一部から驚きの声が挙がった。そして会場のそこかしこで「ウオレット」という単語が飛び交った。
正面と側面のスクリーンに大きく投影されたのは阿部が屋根裏に隠し持っていたペーパーウオレットのうちの1枚である。画面はウオレット全体を移しており、サトシコインが流れた先のアドレスが明確に記載されていたが、秘密鍵に相当する部分は黒く塗りつぶされていた。報道陣の動揺が静まるのを待って岡崎が説明を始めた。
「この書面はビットコインなどのブロックチェーンで活用されている暗号鍵を記載したもので、一般にペーパーウオレットと呼ばれています。恐らくは被害者である阿部博さんの自作のウォレットです。暗号鍵は2種類あって1つは公開鍵、もうひとつは秘密鍵です。公開鍵は暗号資産を保有するための電子的な住所を設定する情報で、文字どおりアドレスと呼ばれています。暗号技術に詳しい皆さんはすぐに確認できますが、この書面にある公開鍵とアドレスは実際にサトシコインが流された先のアドレスと一致します。」
サトシコイン問題と平塚アパート殺人が結びついた瞬間であった。岡崎の説明が終わるか終わる前に会場は騒然となり、激しいカメラのフラッシュの点滅が数秒間続いた。岡崎は報道陣を制するように立ち上がり、沈着冷静に説明を続けた。
「サトシコインが流れたアドレスは3つありますが、このウオレットはそのひとつです。警視庁は殺害された阿部博さんのアパートから3種類のウオレットを回収しており、それらは全てサトシコインが取引された先のアドレスであることを確認しました。」
「次に殺害された阿部博さんのデスクトップパソコンですが、このパソコンについて警視庁が分析を行った結果、記憶媒体であるハードディスクは、殺害事件当日に全く新たなものに交換されており、事件の鍵となる情報が入ったハードディスクは殺害犯である人物ないしはグループにより持ち去られたものと思われます。警視庁は現在このハードディスクの行方を捜査しています。」
「殺害した犯人やグループの特定は出来ていません。どのような目的でサトシコインが取引されたかの手がかりもつかめておりません。ただ、殺害の方法は北米で実施されている薬剤による死刑執行の手法と酷似しており、専門家が巧妙に準備したものです。被害者のアパートには今投影しているウオレット3枚とダミーとしてタンスに隠されていた別のウオレット3枚、そしてハードディスクが新品と交換されたデスクトップパソコンだけが残されており、文書文献の類は全て処分されていました。」
「警視庁は米国連邦捜査局からサトシコインに関わるマネーロンダリング疑惑に関する捜査への協力要請を受けています。数日後にこれら殺害現場での物証について全てを開示する予定です。」
その後の質疑は、かなりの数の基本的な確認事項が含まれていたが、この話をお読みの読者にとって周知の部分は割愛する。報道機関が強い興味を持った部分について質疑応答をまとめると次のとおりである。
1 発見されたペーパーウオレットがどこにも開示されていないというのであれば、3つのアドレスに流れたサトシコインはこれ以降取引できないということを意味する。取引が出来るのは秘密鍵の情報を知っている日本国の警察関係者だけである。
2 FBIはサトシナカモトと称するビットコイン開発者のコインの所有権を北米民間人と法的に定義して捜査しているため、警察庁は3枚のペーパーウオレットについて秘密鍵を含む内容をFBIに開示せざるをえない。従ってペーパーウオレットの情報を受け取ったFBIは、その瞬間からサトシコインを動かすことが出来る。
3 上記のとおり日本の警視と米国連邦捜査局以外に阿部博が受け取ったサトシコインを取引できる人物なり組織は存在しないと思われる。
4 持ち去られた阿部博のハードディスクの中の情報については何も判明しておらず、この中に秘密鍵情報が紛れている可能性はゼロではない。警視とFBIは協力して持ち去られたハードディスクの回収に全力で取り組むこととする。
5 阿部博を殺害した犯人について警視庁は捜査を続けているが、FBIからは、警視庁が所持している資料やパソコンの提供を条件に、平塚アパート殺人事件の捜査に協力する用意があるとの連絡を受けている。
尚、3か所のアドレスに持ち出されたサトシコインの総量は、サトシナカモトの手で2009年6月までに採掘された1万8千件以上の古いブロックの内、昨年末までにサトシやその関係者が取引した記録の無いブロック、いわば「塩づけ」になっていたブロック(1件あたり50ビットコインのコインベース)1万8千件以上だった。その総計は88万BTC以上であり、1BTC当り4万㌦換算で時価総額345億ドルを超える暗号資産であることが判明した。日本円で3兆円以上の価値である。何者かがこの巨額のトークンを阿部博のペーパーウォレットのアドレスに打ち込むと同時に阿部博を殺害したというシナリヲが明らかとなったのだ。
これほどの大金を犯人グループはどうやって運用しようとしたのか?そして殺害された阿部博の正体は?彼はなぜ殺害されたのか?
この時点で判明していることはごく僅かであり、阿部博の衣服に隠されていた数字のあるメモ書きの意味もぼんやりした情報となってしまった。
この後、事態は全く以外な方向に大きく進展して結末を迎えるのである。その内容をお話ししよう。
ブロック 11
「サトシコインを取引した組織の主犯格はすでに検挙済みです。平塚アパートの被害者のヒロシ・アベを殺したのも、我々が逮捕して取り調べている組織幹部と武装グループです。」
FBI捜査官、ミッチ・メイガンは、還暦を過ぎた初老の風貌の奥から鋭い目線を真正面に向けながら、厚手のコートを脱ぐこともせずにネット犯罪捜査局の応接に入って来た。そして自分の認識証を見せながら流暢な日本語で口を開いた。シールドを隔てた2人の日本人は岡崎警部と島部技官だ。
「警視総監には10分程度挨拶しました。詳細は担当が捜査一課に全て説明しています。マスコミには出ません。よってこの件は極秘扱いです。捜査一課の皆さんが言うには詳細をあなた方が知りたがるはずだというわけで…」
メイガンは20分で彼が担当した事件の顛末を説明したが、岡崎と島部は、ミッチ・メイガンの説明が終わって暫くは動くことも、話すこともしなかった。これまでも想定外の事象が続いてきたが、今回はスケールが違っていた。
☆☆ ☆ ☆☆
FBIは違法集団がサトシコインを狙っている事も、ヒロシ(被害者の阿部博)が犯罪組織の一員である事も知っていたのだ。そして、ヒロシがサトシコイン強奪計画を阻止するための決め手になると判断した上で、密かに「囮捜査」の取引をしていたのだ。取引には、ヒロシが組織の情報を引き渡す代わりに、組織のメンバーであることは公表せず、訴追しないという超法規的な条件が含まれていた。そして、ヒロシは最終的に3つのアドレスにアウトプットされたサトシコインを全てFBIに引き渡すという条件だった。
FBIはヒロシがシンジケートから脅されていたことを知っていたが、主犯格を逮捕すればヒロシの命の危険は無いと判断していた。ヒロシは条件通り、サトシコインを狙う組織の所在のヒントになる地理的情報、幹部数名の呼び名や、暗号電文の内容、そして、サトシコインの強奪計画の内容をメイガンに伝えていた。計画実行は2021年の1月と決まったが、日取りは最後まで明らかにされていなかった。FBIが実行組織を逮捕する為には計画実行の事実を抑えた現行犯逮捕が最も有効と判断された。一網打尽である。
ヒロシは、いよいよ組織から計画実行のシグナルが出た瞬間にそれをメイガンに通知するとともに、全ての証拠を彼のパソコンのHDに収めた上で、そのHDを持って平塚のアパートを出るとともに北米の集合地点に向かう手はずになっていた。
しかしながら、ミッチ・メイガンはヒロシの本心を見抜いていなかった。
ヒロシがメイガンの指示にも犯罪組織の計画にも従わず、双方を欺き、自ら組織の毒牙に身を晒し、死際にヒロシ自身の目的を果たす最後のトリックを仕掛けていた事に誰も気づかなかったのだ。
ヒロシはメイガンを100%信用していたわけではなかった。彼は米連邦捜査局がサトシコインを押収することを良しとせず、メイガンを欺くためにHDにはフェイクデータを流し込んでいた。その代わりに、別目的の告発文をHD内に暗号電文として保存したのだ。そして、サトシコイン強奪が開始された日から徹底して組織の計画を無視し、予定した取引を全てストップした上でメイガンにも計画が動いた事実を通報しなかったのだ。数週間の後にダラスでサトシコインの突然の動きが発表されるまで、FBIがヒロシの最終シグナルを待っている間に犯罪組織はヒロシの裏切りに気づいてプランBであるヒロシ殺害を実行した。
メイガンはヒロシがあっけなく、しかもプロ集団の手で殺害されたことにFBIとしての責任を強く感じた。そして、サトシコインが既存のアドレスから流出し始めた事を知り、直ちに犯罪組織の逮捕に動いた。ヒロシの3つのアドレスに集まったサトシコインはピタリと動きを止め、全ての注目はヒロシの3つのアドレスの「秘密鍵」に集まったのだ。
メイガンは犯人グループから押収したヒロシのHDの中に暗号化された告発文らしきデータを発見し、暗号学の専門家を集めて2ヶ月を費やして阿部の暗号電文の複合に取り組んできたのだった。
「今のところ犯人グループも我々もヒロシの暗号文を解明出来ていない。あなたがたなら、複合のアイデアを見つけられるかもしれない。どんな事でも良いので、アイデアがあれば私に知らせてほしい。」
放心したような岡崎達にメイガンは依頼内容を告げると、腕時計に目をやりながら応接室をさっさと立ち去った。テーブルにはヒロシの暗号文が入ったUSB端子が無造作に置かれていた。
メイガンが警視庁のネット犯罪捜査局に殆ど期待していないことは、彼の挙動からして明らかだった。しかし、その後の日本での展開がメイガンの予想を裏切ることになった。
ブロック 12
柿崎の息子、貞彦が組みする某大学のサークルに話を戻そう。
学生が集まりヒロシの暗号課題について白熱した討論を続けてきたのだが、しかし、答えは無く、夜8時を過ぎるとサークルはすっかり意気消沈して、そろそろ解散の声が聞こえてきそうな雰囲気となっていた。
講義室の隅にひとり座っていた新入部員が、静まり返った会話を捉えて弱々しく口を開いた
「僕はこれだと思います…」
サークルメンバーが意外なものを見る目で新人に眼をやると、彼は一枚の数字の羅列を書いた紙を差し出した。縦軸は1月を示すJANから12月のDECまでの12段、横軸は1から31までを最上段に置いて、マトリクスを形成している。一見してカレンダーであるが曜日の表現は無く、月と日が交差するセルには二桁から三桁の数字が埋まっている。
「それは去年1年の何かの統計かな? 君は今話し合ってる課題の意味解ってる?」
3年生メンバーのひとりが半端苛立ちながら新人を質すのを制して貞彦が声を上げた。
「おい、それ、もしかして2009年じゃね?」
新人が頷くとどうじに貞彦がカレンダーを引き寄せつつ数字の羅列を凝視した。
「1月3日のセルに1、飛んで9日に10、年末に掛けて数字が賑わったり減ったり…」
「2009年にサトシが採掘した月次のブロック数です」
貞彦たちの顔色が変わり始めた。
「おーい、誰かこの紙を人数分コピーして来てくれ、新人君、君はこっちに来なさい。名前は?」
「財善です」
それから小一時間の間はサークルのメンバー全員がワンチームになり切った。新人の財善はラップトップを開くと、被害者の阿部博の電文の切れ端と任意の32バイトのハッシュ値を次々に一致させて見せた。最初の5問を複合したところで、皆が声を上げた。大歓声が研修棟の廊下まで鳴り響いて、帰途につく通りすがりの一般学生が何事かと首を傾げた。
件のカレンダーは「財善テーブル」と命名され、FBIが解明できなかったヒロシの遺言が遂に複合された瞬間だった。
ブロック 13
以下は複合されたヒロシのメッセージである。
『
日本国警視庁官、米ビットコイン・ファウンデーション各位、各国司法当局の皆さま
この告発文が読まれているということは、私が殺害され、私の執務机のパソコンに搭載されていたHDのデータが読み出され、暗号文が複合されたことを意味する。関係者の尽力に感謝申し上げたい。
サトシナカモトが採掘した大量のビットコインが3つのアドレスにアウトプットされて、多くの関係者に多大な影響を及ぼしているはずである。以下に告発するとおりこれは違法行為であり、再発防止にあたっては不断の国際協力が不可欠である。私はこの違法行為に関与した人間として、自らの死をもって贖罪する選択をした。そして、このような犯罪を阻止すべく私が関与した実行計画の全容が分析され、再発防止役立つことを祈念する。
先ず、私の死に伴うビットコインの動静について説明したい。次に、サトシナカモトの真意を伝えたい。
違法に取引されたサトシナカモトのコインをSNCと略す。
■3箇所にあるSNCは今後取引されることは無い
SNCを集めた3箇所のアドレスは私が借りていたアパートの屋根裏に貼り付けた3つのウォレットに記載されいる。ウォレットは見つけ難いように天井板の裏にピタリと張り付けてある。私の関与の証である。但し、3つのウォレットにある秘密鍵(プライベートキー)は偽装である。従って―アドレスの元になる正しい秘密鍵は開示されていない。私の執務室の如何なる書類にも、パソコンの如何なる記憶媒体にも、これらの秘密鍵は記録されていない。全て私自身が完全に消去したからである。
私は自らの死と同時にウォレットにあるアドレスのSNCの秘密鍵を永久葬り去った。これら3つのアドレスにあるSNCを取引することは永久に不可能である。2009年1月からのサトシナカモトが採掘したSNCは我々シンジケートが扱うまで有効取引勘定(UTXO)として取引可能であったが、私が用意した3つのアドレスに有る巨額のSNCは秘密鍵を失った(いわば死んだ)UTXOとして完全に凍結された。
■ SNCを動かしたのはマネーロンダリングを目的とするプロの国際シンジケート
私はシンジケートの一員として、ビットコインを利用したマネーロンダリングに関わっていた。私の担当範囲はビットコインのフルノードとしてSNCの一次的な受入れと、次のアドレスへの送金である。そして、SNCの送金側に居たシンジケートの幹部は10年の歳月と資金をかけてサトシナカモトの秘密鍵を密かに強奪し、私以外の他の受取ノードの担当範囲を含めた無数の仲介アドレスへのアウトプットを計画し、2020年12月下旬に実行した。
私と同じ立場のフルノードオペレーターがシンジケートのメンバーとして世界に点在している。それが誰なのか私にはわらないが、一部のアウトプット先アドレスはこの告発の最後に列記した。
告発文を作成している2020年12月の時点では、私のアドレス以外の宛先にSNCはアウトプットされていない。それらの無数の宛先は私がアウトプットする予定であつた12件のアドレスから順次、そして巧妙にカスケードダウンされる予定であった。
■シンジケートの指示に従わない者は殺害される
私は担当アドレスにアウトプットされたSNCを次のアドレスにアウトプットするミッションを与えられていた。言わばSNCのハブである。任務完了期限はSNCの受け取りから1週間であったが、私はこれらの貴重なSNCがシンジケートに奪われることは決してあってはならないと確信していた。そこで、複数回アウトプットされて来るSNCを期限一杯まで貯め込むこととした。そして私が1週間というごく短期間活用する予定のアドレスの秘密鍵を抹消した。
ここには「成功報酬」か「死」の選択があった。
私がシンジケートと交信し始めて半年も経たない内に、近隣に住む善良な老人、ペットとして飼われていた番犬等がそれとは分からない方法でつぎつぎに殺害されている。全ては私への圧力であり予告殺害である。つまり、ある老人が亡くなる前にシンジケートから死因と日日時が克明に予告されるという段取りだ。
当初はシンジケートがビットコインの新しい国際研究機関だと聞かされ、専門的な議論をしながら彼らのマイニング活動にも関わっていた。マネーロンダリングのシンジケートだと知ったのは前出の近隣の殺害予告が始まった2020年の夏である。
シンジケートの計画を阻止した私は北米諸州で実行されている死刑執行方法で殺害されることになる。否、この告発を読む諸氏の立場に立てば私は既にこの世には存在していない。
■サトシナカモトの想い
ビットコインを取り巻くメディアや暗号資産業界は異口同音にサトシナカモトが姿を隠したことの不思議を興味本位で話題にする。
しかし、サトシがビットコインを世に生み出して1年後に自ら完全撤退した本当の理由について正しく理解している人は少ない。
何故サトシはネットスペースから見えない存在になる道を選んだのか?彼が生きて活動しているなら、何故彼の膨大な資産となったSNCを運用しないのか?そのことに正面から向き合う人は余りに少ない。
ブロックチェーンに詳しい皆さんなら解っていただける筈である。ビットコインは預金や利殖のために開発されたのではない。このシステムは銀行や国や権威者を必要としない「究極の取引」のプロトコルであり、それだけがビットコインネットワークの価値であるという事実なのだ。
もしサトシがマスメディアに姿を表さずにネット環境で密かにビットコインネットワークを「管理」していたなら、専門家集団が即座に感知するだろう。サトシが出来る最大の関与は未公開の暗号鍵をもって目立たない少額の取引活動に密かに参加することだけだ。
この告発をより多くの関係者に配信願いたい。
阿部博
』
ブロックチェーン殺人事件 完