第十一話
足の震えは一向に治まらない。着ている薄い洋服すら今だけは鉛の板を纏っているのでは無いかと錯覚するほどの疲労が体を潰しにかかっている。
全身を覆う倦怠感と絶望感が、全身の細胞が必死で訴える苦しさと痛みが、壊れかけた精神に殴りつけられる恐怖と諦観が、何より──思考を凌辱する圧倒的な劣等感が、絶え間なく零夜を苛む。
先程よりも状況は深刻だ。もう彼には気力も体力も集中力も残っていないのだから。
「……詰みだ」
「そうだな」
それでも彼は眼前の男を睨む。
気概だけは負けじと、諦められないと。そう、強く訴える。
アドレナリンが溢れる。痛みが緩和される。弱った右手で弱弱しく刀を握り直す───まだいけると、そう言い聞かせる。
「諦めてくれ。君にはもう勝ちは無い」
「そうかも知れないが、諦めることだけは御免だ」
「具体的にはどうする気だ?」
「決まってんだろ。全部弾く」
馬鹿げた話だ。無謀だとか、そういう次元ではない。それは零夜本人も分かっている。理由を聞いた飛燕ですら確信する。信念があるのは分かっている。だが、ここまで執着するのは、流石に常軌を逸しているとしか言いようがない。
「勇敢と無謀を履き違えている人間を何度か見たことはある。だが、君のそれはどちらかと言えば自縄自縛だ。しかもその縄は解こうと思えばいつだって解ける。流石に諦めろ、君の信念は理解できるが今の君の行動は誰も望んじゃいない」
「でも」
「でもじゃない!!」
どこまでも食い下がり続ける零夜の言葉を遮り彼は激昂する。
「君がここで玉砕して何になるというんだ!!自分は犠牲を払わず他人にばかり損な立ち回りを押し付けて自分は他人の犠牲で手に入れた力を行使することに罪悪感があるのは理解できる、だからこそ最低限逃げることだけは出来ないという主張も納得だ。だがそれで意地を張り続けるのは間違いだ!それで大怪我したら、もっと言えば死んでしまったら、どれだけの人間に迷惑をかけると思っている!!」
彼がそうして死んだとき、彼のために犠牲を払った人間の苦労は全て水の泡と化すのである。
そして残された彼らは彼を縛ったことに罪悪感を感じるはずだ。それでは主客転倒も甚だしい。
どう考えても彼は今は退かなくてはならない。それは恥でも何でもない。
その程度の至極単純な理論ですら今の零夜には判断できないのか。
それとも、やはり何かを隠しているのか。
転式飛燕は感情が無い。
喜怒哀楽を感じない、何故なら彼は万物万象より強いからだ。
故に、彼は今。
零夜のことを。零夜の愚かしさを。感情を超えた所で、嫌悪していた。
そして、ひたすらに苛立つ。
「分かったら……」
「嫌だ」
自分がどれだけ馬鹿な真似をしているのか、どうするのが正しいのか。あまりにそれは明白で、目の前にもう嫌というほど映し出されていて、自分がそれを受け入れられないからただ目を逸らしているだけだと、零夜とて分かっている。
でも──それでも彼は呻く。赤子が駄々を捏ねるように、幼稚な心で喉の奥から拒否の意思を絞り出す。
自分の魂の根幹にある、自分にも分からない未知の何かを、痛みを忘れた体の原動力にして、前を向く。
痛みはアドレナリンで緩和されている、だから体は動く、心は言うまでもない、死ぬ程怖い、勝てるとは全く思っていない、ただ気概だけは一切負けていない。ならまだやれると、彼は思っている。
だが、生憎なことに────それが全て錯覚であるということに、彼だけが気付いていなかった。
その心意気はあまりにも惨めで、あまりにも、痛々しかった。
「このまま……このままで、終われる訳無いだろ……」
どこまでも、執着する。
「……もう止めろ」
「断る」
意地を張って、立ち上がって、縋りつく。
「もう止めてくれ、見るに堪えない……一度冷静になって」
飛燕がそう言いかけて───その言葉は二人の間に割って入った紫苑の存在に遮られる。
「紫苑……何を」
「紫苑さん手出さないで下さい」
「ごめんなさい、零夜君」
手、出します。
紫苑はそう言うや否や、文字通り手を出した。
つまりは。
顔面に渾身の右ストレートをブチ込んだのである。
ドゴォッッッ!!!
間違っても女の子の細腕から繰り出されてはいけない鈍い音が響き渡り、零夜は呆気なく後ろに倒れ込む。
「零夜君、これ以上は看過できないので大人しく……あれ、気絶しちゃってる」
零夜、本日二回目の昏倒。
その光景を呆然と眺めていた飛燕だったが、すぐに紅蓮を消し、紫苑の隣に移動する。
「ほら、飛燕さん。社に運ぶの手伝って下さい」
「……すまない、紫苑……もう少しやりようがあったはずなのに」
「こればっかりは零夜君が悪いので、飛燕さんが謝ることでは無いです。……それよりも、考えるべきことがありますし」
二人は昏倒した零夜を見下ろす。
「何者ですかね、零夜君」
「……さぁな」
二人の闘いは、結局なんとも言い難い不快感を残して終幕を迎えた。
▲▼▲
「すいませんでした……」
零夜、渾身の土下座。
あれから、彼は再び社に担ぎ込まれ、先に紫苑が回収しておいたシグと共に寝かされていた。
彼は疲弊こそ凄まじかったが、外傷自体は砂礫の弾幕で喰らった擦り傷と左頬にできた大きな青痣だけだった為、今回は蜉華の出番は無かった。なんと、この矢 殻神社の領域内にあるもの全ては祀られている泉の概念神の加護を薄く受けるらしい。そのおかげで彼の外傷はほとんど塞がり、またぼっこぼこになった地面も治り始めている。
その後暫くして起床、そして過去の行動全てを顧みた零夜が全身全霊で謝罪を初めて今に至る。というか改めて考えると自分自身が阿呆すぎて恥死しそうである。
「皆さんにはとんだ迷惑を……」
「いえいえ、全然気にしてませんからー……あの、それは良いとしてほっぺた大丈夫ですか……?」
「大丈夫か大丈夫でないかと言えば圧倒的に大丈夫じゃないですけど俺がぶっちぎりで駄目なので気にしないで下さい……」
未だ痛む頬を撫でながら零夜は苦笑する。
誰も突っ込まないのが不思議なほどだが、砂礫の掠り傷は治っても紫苑のグーパンの痣は完治していないというのはかなり恐ろしいことである。
どんな威力だ。
ところで飛燕は彼が目覚めた後どこかに行ってしまったので零夜からすれば気まずい思いをしなくてよかったとホッとしていたのだが。
「零夜さん」
「はい……」
「無茶は禁物と言ったばかりですよね?なんで私の言うこと聞いてくれなかったんですか?いいですかいつでも治療してもらえるからもう少しぐらい無茶しても良いやという思考がどんどん人を駄目にしていくんですよ」
それよりも今は正座で睨む蜉華が百倍怖い。
つい数時間前ののいつも何かに怯えているような小動物のような雰囲気も喋り方も、今は欠片ほども感じられない。謎のドス黒いオーラを放っているように見える。なにより目が笑っていない。
穏やかに怒る人が一番怖い。
「別にそういう思惑は無かったんですけど……」
「たった一厘も無かったと断言できますか?感覚が麻痺してませんか?無茶をしていいのはそれ相応の理由がある時だけです。退いて良い状況なら退かなくてはならないんです。それができない人に戦う資格などありません。ですよね紫苑ちゃん?」
「私に飛び火するのはおかしいですよね!!」
「おかしくないです、過去に一回やらかしてますからね」
「はい……ごめんなさい」
勢いよく否定したのも束の間、蜉華の完全に据わった眼で見据えられた紫苑はしゅんとしながら零夜の隣に並んで正座。
「はい、では復唱してください、無茶しません」
「無茶は多分もうしません」
「多分しないです」
「多分で許されると本気で思ってるなら頭を治療しますよ?」
「なるべくしません」
「努力します」
呆れたように溜息をついて、蜉華は立ち上がった。
「はぁ……では、もう遅いですし、そろそろ、準備して香楽庵行きましょうか」
「香楽庵?」
聞き慣れぬ単語が蜉華の口から登場し、首を傾げる零夜。
「ああ、私達が経営している居酒屋ですよ」
「え?居酒屋もやってるんですか?二人で?」
「いえいえ、他にも何人かいますよ。まあ皆半ば道楽でやってますけどね」
紫苑がそう言うと、あはは、と二人が笑う。
「ここいらでは……その、あんまり飲食店とかが無いので……」
「あ、蜉華さんの口調戻った」
「蜉華ちゃんは機嫌が直ったらいつもの奴になるんですよ」
「そういう人って実在したんだな」
穏やかな人ほど怒ったら怖いというのは良くあることだがその範疇を超えていた。
「町の人たちは大抵香楽庵で夜ご飯を食べて、ここの神社の温泉に入って一日を終えるんです。零夜君も行く当ても無いですよね?一緒に行きましょうよ
「すいません……助かります」
言われてから気付いたが、零夜の胃袋が悲鳴を上げている。あれほど動いたせいでカロリーを大量に消費したのだろう。耐え難い生理的欲求に抗う暇もなく立ち上がり、手早く布団を畳み枕元の刀を拾い上げる。
「あっ、そうそう……あの、零夜さん……えーと、その」
幾らかの遠慮の籠った蜉華の声に振り返ると、そこには目を伏せ、何かを口ごもる蜉華の姿が。
一見いつもの彼女なのだが、どことなくそこには口下手という問題以前に何かとても口にするのが憚られるようなことを言おうとしているといったニュアンスがあるような気がして──、ふとある疑問が頭をよぎる。
「……そういえば、うちの幼女女神はどこに行ったんですかね」
「そう、それなんですけど」
すると苦笑いした紫苑が障子を開け、向かい側の部屋をちょいちょいと人差し指で示す。
「では、私たちはちょっと色々準備してきますんで……」
「また後で……」
そそくさと出ていく二人の様子にただならぬ不安を感じつつ、零夜はそろりそろりと歩いて行く。
「おーい、シグー……?」
「おお、零夜か」
(なんだ錯乱してるとかじゃないのか)
少し安心して障子を開けると。
──暗い部屋にはドス黒い瘴気が垂れ流されていて。
「どうも、死ぬ程役立たずのシグです」
部屋の中心の発生源は体育座りから少しだけ顔を上げ、血走った眼を向ける。
「ごめんね、弱くて」
「なんだそのキャラ変の凄まじさ!?」
……零夜の受難は続く。
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