無口な男のはかない純情
「期末の出題範囲だが……。3年で習った範囲全部と……」
世界史の授業が終わった。
チャイムがキンコンと鳴る。
まだ席についたままだが、みんなザワついている。
無理もない、この言い方だと出題範囲は山のようにあるパターンだからだ。
ただでさえ覚えるのが億劫な世界史で、オール出題、問題箇所の指定無し。
これでは平均点が40点代になるのは、火を見るよりも明らかだ。
みんなザワついても、仕方がない。
『オカセン絶対出るとこだけせめて教えろよ~!』
『岡田センセー4択で出して~!』
「今月やったところは必ず出すし、16世紀からも必ず出すからな!はい、お昼行くぞお昼~!」
先生は荷物をまとめて教室を出て行った。
もうこの感じだと、テコでも先生は教えてはくれないだろう。
教室のみんなもこれ以上は食いついても仕方がないと諦める。
各自、お昼休憩にザワザワとおしゃべりしながら、歩みを進めて教室を去って行った。
さて、ボクもお昼に行くとしよう。
ギィ、とイスを引いて席を立とうとした。
「うぉーっすモッちゃん!ちょっといいか?」
話しかけてきたのは、クラスは違うが同級生のリノア。宮田莉乃愛だ。
コイツは自分と同じく、世界史の授業を受けている。
コイツは正直なところ、少し苦手だ。
小学校の時からの腐れ縁なのに、接し方を変える気配がまるで無い。
いつも他人のプライベートの事などお構いなしに、ズケズケと自分の用件を話しては時間を奪っていく。
そのおかげで、いつも時間を割かなければならないハメになっているのに、注意してもちっとも真面目に聞く耳を持たない。
指摘しても、平謝りするだけだ。
明らかにコイツにナメられている。
だが、グッと苛立ちを堪える。
コイツとの、面倒なやり取りを乗り切らないと、『彼女』を助けられない。
高嶺の花、『リンカさん』を。
「なぁーモッちゃんさあ。1週間、テスト前には絶対返すからさあ、世界史のノート貸してくんない!?」
少し頭を下げて、こっちをうわ目で見てくる。
別にリノアを助けるつもりは毛頭ないし、どうせ向こうも感謝なんてしていないと思うが……。
黙ってノートを手渡す。
「さっすがモッちゃん!いいやつだから絶対貸してくれるって思ってたし、マジ嬉しいわ!じゃ、後で返すからまったな~!」
アイツは廊下で待つリンカさんの元へ、あっという間に向かって行った。
もう2年生を過ぎてから、アイツも、ありがとうの言葉すらかけなくなったが、そんな事はささいな事だ。
アイツが彼女に手渡すと……。
そう、お決まりのアレが返ってくる。
イスに座っている自分に、リンカさんが目を合わせてくれる。
そして、ニコリと微笑んで、軽く1つおじぎをしてくれる。
これがノートの代償。
自分が彼女を助けられる唯一の接点だ。
廊下の向こうへ去りゆく彼女は、軽く手を振り消えて行った。
実にささいなできごと。
彼女にとってみれば、ほんの小さな、ただノートを借りるという学校生活の一幕に過ぎない。
だが、それだけで実に幸せな気持ちで満たされていた。
自分はずっと、淡く、決して届く事はない片思いをしている。
リンカさんは優しい。
どんな人とも、接する時には興味を持った姿勢で臨んでくれる。
それに、笑顔がすごく良い。見ていて、笑ってくれるだけで心が安らいでいくのが分かる。
彼女に、明らかに恋をしている。
だけど、そんな素晴らしい人には、既にお似合いの彼氏がいる。
そんなの当たり前だ。いない方がおかしい。
相手はサッカー部のキャプテン。
ただの、何の経験も役員の肩書きも無い自分とじゃ、到底並ぶ事すらできないスクールカーストの超上位。
彼女にとって、実にベストで最高なパートナーだ。
それだけ自分とリンカさんとは、あまりにも取り巻く世界も、景色も違う。
だが、それでも良い。
あのちょっとした微笑みは、大きな大きな喜びに繋がっている。
彼女の勉学の僅かな力になれた、という事実だけで充分な見返りになる。
とてもとても接点すら持てない彼女に、ほんの一瞬だけ、人生に関わり合える、ささやかな至福の時だ。
ああ良かった、ノートを無事貸す事ができて。
穏やかな気持ちで、お昼を無事迎えられそうだ。
弁当片手、魔法瓶片手に、教室の陽あたりの良い隅の定位置に移動すると、1人でゆっくり食事を摂る事にした。
今日は尋ねて来る人も、一緒に食べようと誘う人も居ない。
誰かが尋ねて来ない限りは、基本1人ぼっちだ。
だが、それで良い。
その方が気楽にのんびり、自分のペースを確保できる。
パカリとタッパーの蓋を開ける。
サンサンと降り注ぐ、ガラス越しの温もりを感じながら、ゆっくりとサンドイッチを噛みしめた。
*****
お昼休みがあと10分で終わろうかという頃。
次の授業を受けるべく、また別の教室に向かっていた。
次の教室は校舎の一番奥、各階を繋ぐ階段の前にある。
少し早く、予鈴の鳴る5分前に着席するのがいつものルーティン。
さて、これから教室に入ろうと、あと数歩分まで近づいたところで、何かの話し声に気づいた。
上の階に繋がる、階段の踊り場から声は聞こえている。
声を聞いた瞬間、なぜかヒヤリと胸を締めつけられる思いがする。
自分の名前が、その声の中から聞こえた気がしたからだ。
だが、とても踊り場にまで顔を覗かせて確認する勇気は、とてもとても、毛ほども無い。
教室には入らず向きを変えて、下の階に向かって2段ほど降りる。
そして、また向きを変えて教室の方を見ながら、ソッと壁に寄り添い聞き耳を立てる。
怖いけれど内容が気になったので、階段を上がるフリをして、話しを伺う事にした。
『ねー、やめなよリンちゃん。なんでまだアイツのノート借りてんのよ』
『そーそー。ガリ勉のキモモギのだよ?ウチらが貸してあげよっか?』
ギュウッと胸が締め上げられる。
バクバクと轟音を立てる心臓を、ソッと押さえつけるように手を当てる。
とにかく呼吸を落ち着けようと、努めた。
「いいじゃん別に、モッちゃんのノート分かりやすいし。てかなんでよ、これまでずっとモッちゃんのノートでやってたじゃん」
『そ、そうだけどさ……。でもキモモギのノートなら……ねえ?なんかさ……嫌っていうかさ……』
踊り場に居るのは、リノアにその友だち。
そして、リンカさんだろうか……。
最初から聞いていた訳では無いが、内容からして期末テストの勉強についての事なのだろう。
階段越しに、薄々察する事ができた。
話す事は苦手だ。
女子と話す事は、特に苦手だ。
うまく会話は続かないし、いつまで経ってもどんな話しをしたらいいのか分からない。
入学したばかりの時は、そんな反応を面白がって、みんな色々と話しかけてくれていた。
だけど、ちっとも話しも対応も進展しない自分の姿に、みんな呆れたり気味悪がったりして、今じゃリノアぐらいしか、女子は話しかけてくれない。
そして、嬉しい事があれば人知れず笑っている変わった癖。
そんな雰囲気と様子から、女子連中は『キモモギ』と、陰でそう呼んでいる。
今、たまらなく辛かった。
キモモギと、自分が陰口を叩かれている事では無い。
自分のノートのせいで、リンカさんが嫌な思いを味わっている事が辛かった。
だけど、とても『やめろよ!』なんて言う勇気は、無い。
勇気が湧いても、いつまで経っても一歩を踏み出せない。
一歩を踏み出したら、自分の周りが、これからが大きく嫌な方向に変わっていきそうな気がして、怖くて怖くて仕方が無かった。
だから今日も、一歩も踏み出せずに、階段越しに、壁越しに盗み聞きする事しかできなかった。
『ねー、なんでよリンちゃん。リンちゃんなら他のキレイなノート、色々借りれるし、みんな貸してくれるじゃん』
『リンちゃんだって、ノートキレイなのに。どーしてキモモギのノート借りてんの?アイツのノート、借りてても何かさ……怖くないの?アタシは怖いよ、何かキモいもん』
胸が痛い。
張り裂けそうな気分とは、きっとこんな気分の事なんだろう。
友だち連中に好き放題言われているうちに、なんだか目尻が熱くなってきた。
リノアも、リンカさんも友だち連中にはなぜか言い返していない。
気がついたら、壁越しでふるふると自分は震えていた。
なんでこんなに涙が溢れそうなのか。
なんで自分が堪えているのか。
なんでこの場を離れずに、突っ立ったままなのか。
自分でも分からなかったが、今、すごく辛いという事だけは、はっきりと噛みしめていた。
長い沈黙。
廊下伝いに向こうから聞こえる、みんなの声や足音が良く分かる。
そんな、長い沈黙を破ったのは、リンカさんの言葉だった。
「私さ……。茂木くんのノート、すごく気に入っているんだ。先生から、うんうん……。自分の中の家庭教師さんに、教えてもらっているみたいでさ」
友だち連中は、は?とか、えっ?とか返事をしている。
自分の心臓も、思わず一瞬ピタリと止まった。
「ほら、ノートって、普通授業中に聞いた事とか、黒板の内容を書くじゃん。茂木くんのは違うんだよね。ほら、ちょっとこれ。莉乃愛ちゃんから借りたんだけどさ」
『……見やすい』
「でしょ?最低限っていうか、無駄な事は一切書いていないからさ、すごく書いている内容が頭に入ってくるのよ。でもね、『ここ大事だぞ!』ってヤツは、ちゃんと抑えているし……ほら、例えばこことか」
「……なんで奈良とか平安時代の事も書いてんのこれ。この時って唐についてだったじゃん」
「違うの、イメージ付けよイメージ付け。ほら、こことかこことかさ……。数字だけじゃなくて、絵とか他の出来事と絡めて書いてくれているからさ、なんて言うか……」
「歴史の流れ!ってヤツだろ?」
「そそ!すごく掴みやすいし、こんな流れなんだーって分かりの!数学とか、化学もやってる事難しいのにさ、おんなじように流れで分かりやすく書いているの。それが見返して、借りて勉強しているうちにさ。復習した時に、また自然と内容を思い出す事ができてさ……」
……なぜだろう、すごく嬉しかった。
自分のノートを褒めてくれている事がじゃない。
自分のノートが、彼女の助けになっていた事が本当に分かって、すごく嬉しかった。
『……そっか。ま、リンちゃんがそう言うなら良いんだけどさ……』
『でもさ、ウチらはもう放課後一緒に勉強はしないよ。キモモギのノートで何か勉強してるってのは、ちょっと……』
「そっか……。分かった、じゃ、またこれから勉強する時があったら、その時は茂木くんのヤツは使わずに、私のノートで勉強しよっ」
「あ、ウチのヤツでもいいぜ!ちゃんと教えてやっから!」
『あ、リノアのはパス。バカが移るから』
「なんだよそれー!こー見えても学年30位には入るバカなんだぞ!」
4人は踊り場で笑い合っている。
そうこうするうちに、予鈴のチャイムが鳴った。
慌しそうに、友だち2人はお別れの言葉を言い、階段を登って行った。
「じゃ、ウチらも行こっか!」
「……リノちゃん、さっきの勉強のくだり、あれ茂木くんのノートのヤツ丸写しで教えるつもりでしょ」
「あ、バレたか」
「だって、リノちゃんのノート、すごくカラフルでチカチカしてて見づらいもん……」
「え~、メッチャかわいいのに~」
2人もコツコツと、階段を降りて行った。
幸い2人はそのまま廊下の方を進んで、こっちには降りてくる事は無かった。
すごく今は、グッとガッツポーズをしたい気分だ。
1日に2回も、すごく嬉しい気持ちに……。
心臓のバクバクはすっかり収まっていたが、その代わり全身はすごく熱くなっていた。
これはダメだ。
何ボクは勝手に舞い上がっているんだ。
次の授業で粗相が無いようにと、赤くなった顔を手で拭う。
涙の痕跡が誰にも気づかれないようにしてから、まっすぐ教室へと歩みを進めた。
*****
期末テストが残り1日と迫っている、ある日の放課後。
夕焼けで西の空が染まる頃、ボクはロッカーの近くでリノアを待っていた。
この期末で3年の成績はほぼ確定する。
全国共通テストも残り5ヶ月を切っている。
正直、自分のノートがあった方が、やっぱりやりやすい。
今回は、リノアのヤツも本気のスパートをかけるべく、世界史だけじゃなく数学ⅢCのほか6科目を借りて行っている。
本当は2日くらい前に返して欲しかったけれど……。
黙っていても一向に返す気配が無いので、仕方なく呼びつけて返してもらう事にした。
今日こそはちゃんと返してもらう為に、もうあらかじめラインで連絡はしておいている。
それにしても、遅い。
もうすぐ6時になる。
自主の為の教室開放時間は7時までだが、そんなに長くはこっちも待てない。
早く返してもらい、すぐにおうちに帰りたいのに……。
やっぱりアイツに、なめられているんじゃないのか。
こうやって、アイツは人の時間を奪っていくから苦手だ。
本音を言うとアイツには何も貸したく無いし、時間も共有したくない。
だが、今はとにかく待たないと。
ハア、と大きくため息をつき、少し中腰になった。
ダメだ、全然来る気配が無い。
少しイラだってきたが、アイツが来なければ帰ろうにも帰れないので、催促のラインを送ろうとスマホを開いた。
その時、何かが聞こえた。
廊下の向こうの隅の方から、女子の泣き声。
そして、それを慰めるように誰かが話しているようだ。
いったい何だろう……。
妙な興味がなぜか湧いてきた。
リノアとの約束をほったらかしにして、声のした方向へと進んでみた。
声のした場所は、階段近くだった。
もっと、もっと歩みを進める。
やがて声自体は、あの教室の前の、階段の踊り場から聞こえていた事が分かった。
聞こえているのは、上の階へと繋がる踊り場。
また、例の階段の2段目のポジションについて、こっそり盗み聞きをする事に。
そして、声を聞き、内容を聞いているうちに、強い後悔を味わう事となった。
「……やだぁ……。なんで……?別れたくないよ……」
『ホントごめんって……。言ったじゃん、推薦で大学が遠いからさ、もう付き合えないって……』
にわかに理解はしたく無かった。
泣いているのは、リンカさんだった。
バクバクと心臓が鳴る。
怖い、すごく怖い。
だけど、この時はいつもの怖いとは違った。
もし自分の勘が当たっているのなら、相手はリンカさんの彼氏さんだ。
現実を見たくない怖さと、なぜか止まらなく湧いてくる好奇心から、階段をゆっくりと登ってみる。
「なんで……。遠距離でもいいじゃん……。連絡少なくなってもいいからさぁ……」
『いや、ホントごめん……。オレ、なんて言うか……。その……』
1段上に足をかけて、目線を踊り場に向ける。
背中のシルエット、髪の毛のカタチ。
リンカさんの彼氏さんだ、間違いない。
慌てて足を下ろして、ピタリと壁に横向きに寄り添う。
下から覗かれても気づかれないように、いつものポジションについた。
「……知っているよ、後輩のマネの子と付き合っている事」
「……ごめん」
なぜだか吐きそうになる。
必死で口を抑える。
けたたましくなる胸を抑えて、ギュッと丸くなる。
ここから聞く言葉は、聞きたくは無かった。
だけど、気になって気になってなぜか仕方がない。
この場を離れたくない。
ドクドク響く鼓膜の振動に耐えながら、ジッと話しを聞き続けた。
「別に付き合ってもいいからさ……。どうして別れようとか言うの……。友だちでいようよ、ライン消さないでよ……」
「……いや、何て言うかさ。……ホントごめん。オレ区切りつけたいって言うか、ほら。もうお互い進路別々じゃん。リンカは国立大だし、オレスポーツ推薦でじゃん。な?分かるだろ?」
「分かんないよお……!どうして、どうして……。ライン消さないでよ……!」
もう耐えられなかった。
彼女の泣いている声を聞くうちに、自分は泣いていた。
肩を震わせていた。
懸命に鼻をすする音も、声も殺していた。
でも、その場を離れたくは無かった。
最後まで、なぜか話しを聞き続けたかった。
「マジでごめん……。リンカを捨てるつもりじゃないんよ……。でもさ、ほら……。ミアとちゃんと付き合っているって、オレが区切りつける為にもさ……な?」
「意味分かんないよお……!じゃあライン消さなくてもいいじゃん!友だちでいいから残してよ!もう大学行ったら会わないからさ!」
「だから!それは無理って前言ったじゃん!……絶対、会いたくなるって。オレもう……リンカと区切りつけたいんだよ。別れたいんだよ……」
「……グスッ。会わないからさぁ……消さないで……。ゥェエェ……」
もうやめてくれ。
そんな言葉が頭をよぎる。
「……ホントごめん。オレ、帰らないと」
「や、やだぁ……!待ってよ……ライン!ライン消さないで……!」
彼女はえずきながら、必死で呼び止めている。
だけど、足音は止まらない。
とっさに廊下の方をクルリと向き、慌てて少し逃げた。
元彼氏さんに、自分の盗み聞きを、存在を気づかれないように。
足音は階段を降りて行き、そして聞こえなくなった。
踊り場からは、彼女の鼻をすする音だけが聞こえていた。
彼女をとにかく慰めたかった。
少しでも早く、この苦しみから助けたかった。
でも、話す言葉も励ます言葉も無かった。
いや、彼女との接点も無かった。
あくまで自分は、彼女にノートを貸しているだけ。
高嶺の花には手は届かない。
ただただえずいて、泣いているだけの彼女を黙って聞いている事しかできなかった。
「……モッちゃん。行ってあげなよ」
ソッと後ろから聞こえた声に、ハッと振り返る。
「……リノア……」
「ノートはちゃんと返すからさ、ほら。行ってあげなよ」
何も言えない。
うつむく事しかできない。
この状況下でボクの言葉なんて、何を言っても薄っぺらい上っ面だけの言葉になってしまう。
きっとそうだ、言ったところで……。
「ウチが見てるからさ。自分の言葉で言ってあげなよ。……好きだったんだろ?リンちゃんの事がさ」
胸がドキリとした。
リノア、オマエ気づいていたのか。
「ウチを経由してさ、ノートをダシに使ってもごまかせないぜ~。いっつも嬉しそうだったもんね~、リンちゃんの笑顔見てるアンタさ」
…………。
うん、嬉しかったよ。すごく。
でも、不安だった。
ここで声をかけたら、下心からの慰めなんじゃないのかと、そんな事を思われそうで。
いや、下心ももちろんあるかもしれない……。
でも、今はそういうのじゃなくて。
「ほら!話しかけておいで!まずは行動行動!」
ドンとリノアに背中を押された。
おっとと、とバランスを崩し、1段目に手をついてしまった。
ソッと顔を上げる。
リンカさんが、瞳を濡らしてこちらを見つめていた。
口がガクガク震える。
言葉がでない。
せっかくリノアの背中を押してもらったのに、何も言えない。
頑張れ、勇気だせ。
ふーっ、ふーっと何度も呼吸しながら、震える足を抑えて、一歩一歩、階段を登っていく。
言わなきゃ。
背中押してくれたんだ。
これが言葉にして、本音を伝えるチャンスなんだ。
自分からアクションを起こす、一世一代のチャンスなんだ。
とうとう、彼女と一対一となる。
ジッと、涙を手で拭わず、彼女はこっちを見ている。
沈黙。
鼻をすする音した聞こえない沈黙。
ガクガクと震える口を、ギュッと噛みしめ大きく息を吸う。
言うんだ。
本音を言おう。
彼女を思うのなら、アクションを、自分から起こさなきゃ。
真っ白な脳で、口を開く。
「ボ、ず、ずっと……。リンカさんの事が、好きでした……!」
やっと、やっと言えた本音。
自分から、勇気の一歩を踏み出せた。
この状況で、言えるのは上っ面の励ましなんかじゃない。
率直な自分の、心の本音と思いなんだ。
彼女は何も言わない。
表情も、瞳の様子も変わらない。
ジッと、黙って見ている。
もう一度、深く呼吸をして、言葉を懸命に紡ぎ出していく。
ノートをいつも借りてくれて、ボク、すごく嬉しかったです。
本当はずっと不安でした。
ボクのノートや気持ちが、リンカさんの邪魔になってくれていたんじゃないか、って思って。
でも、リンカさんの助けになっていたって事が気づけて、すごく嬉しかったんです。
ボクのノートは、邪魔なんかじゃなかったって分かって、すごく幸せだったんです。
だから、ボク、リンカさんの力になれて、とっても幸せでした。
今日、こうやって本音を人に話す事ができたのも、きっと、ノートの、リンカさんのおかげだと思うんです。
だから、ありがとう……。リンカさん!
ずっと、好きでした。
息がハアハアとあがっている。
全身の血が、隅々を巡りまくっているのが分かる。
鼓膜のドクドクはすごくうるさいし、頭はギュウギュウ締めつけられるように痛い。
それに顔は真っ赤っかですごく熱い。
だけど、言えた。
リンカさんに、本音が言えた。
やっとひと呼吸できるような気がして、ふーっと、大きく息を吐いた。
彼女は、涙を軽く拭った。
そして、ニコリと、あの笑顔を見せてくれた。
「ありがとう、茂木くん……。本音が聞けて、私も良かった……!」
びっくりした。
彼女が、ボクに、ボクを……!
優しく包み込んで、抱きしめてくれた。
ダメだ。
すっかり硬直して、動けない。
全身のバクバクも全然聞こえない。
ど、どうなってんの。
「ありがとう茂木くん……。…………じゃあ、私も帰らないとね!……私も、私の道を進まないと……ね!」
パッと腕を解放した彼女は、またニコリと微笑んでくれた。
そして、タッタッタッと、リズム良く階段を降りて行ってしまった。
ぼうぜんと、立ちすくむ。
これが、脱力感ってヤツなんだろうか。
「あーあ。フラれたな、モッちゃん。でも良かったじゃん!本音伝えれてさ!」
「……フラれたの?」
「ったり前よ!アレがフラれたじゃなきゃ、上手くいったは何だと思ったのさ」
「…………」
「分かんねえだろモッちゃん!だって上手くいった試しが無いもんな!へへっ」
「う、うっせえ……。それが、さっきまで泣いていたヤツにかける言葉かよ……」
リノアにからかわれながらも、ボクは一緒に階段を降りていく事に。
自分も学校を帰らないと。彼女の言った通り、道を進まないと。
真っ赤な顔をゴシゴシと、手で拭い涙を取り払った。
「モッちゃん!ノート返すわ!今回もめっちゃ勉強になったわ!」
「……いや。ここで返されても……。ボク、まだ勉強できてないし、その……」
「……なんだよ~そのもったいぶった言い方~。なんか企んでんのか、モッちゃん~」
「も、もったいぶってねえよ。こ、こういう言い方なんだよ、こういう……」
すごく新鮮な気持ちだ。
こうやって、自分の本音を伝えるという事ができて。
階段を降りきり、カバンを持ちながら校舎を離れていくたびに、だんだん勇気と気力が湧き上がってきた。
すごく不思議な気持ちになってきた。
「でさ。なに~モッちゃん?勉強できてなくて?の後はさ」
「ノ、ノートはまだ返さなくていいからさ……」
「……さ?」
きっと、生まれて初めて、大きな一歩を踏み出し、自分からアクションを起こす事ができたから。
だからだろうか。
「な、久しぶりにさ……。勉強、教えるから一緒にやっていかない、かな?」
「お、個別指導ってやつ!?テスト前にガッツリ気合い入ってんじゃん!いいよ、どっかスタバとかでやろうぜ!」
「……うん。でも、飲み代は折半だからな」
「んだよ、ケチケチすんなよー!モッちゃんセンセー!」
なんだか晴れやかな気持ちで、学校を後にする事ができた。
足取りは軽い。
本音を伝えるという、自分にとってとても疲れる事をやり遂げたのに。
いつもとは……いや、これまでの自分とは、もう違う。
今日はすごく、まっすぐ前を向いて帰りたい気持ちでいっぱいだった。
沈んでいく夕陽は、サンサンと背中を、黒い影の向こうに消えていくまで。
いつまでも、いつまでも照らしていてくれていた。
-完-
・とあるスレに上がっていた、ちょっとした提案から題材にして1本書いてみた作品。
初めての青春モノになりました、買いているうちに思いのほか熱が入って楽しかったです。