黄昏時
何処からか、蜩の声がする。
なんとはなしに大きく息を吸うと、冷たい緑の匂いが、夜がすぐそこまで来ているのだと教えてくれた。
二、三度瞬きし、ゆっくりと目蓋を上げる。
予想通り、部屋はすっかり赤みがかった黒に染まっていた。
随分と眠っていたようだ。
箪笥の取っ手が当たっていた背中の部分が少し痛んだ。大学生最後の夏休みとはいえ、だらけ過ぎではないだろうか、と思いながら、畳の上でチカチカと点滅するスマートフォンヘ手を伸ばす。
『お父さんと買い物へ行ってきます』
と、母からのメッセージが入っていた。一時間前のものである。
ふっと息をついて、窓を見上げた。
網戸の向こう側は、慣れ親しんだ小さな林がある。
小さい頃、遊びに来た従兄弟たちとあの林の中でよく鬼ごっこをしたものだ。
先ほどまで聞こえていた蜩の声はどこにもなく、代わりに蟋蟀と鈴虫たちが歌っている。
それを教えてくれた祖父はもういない。
けれど、この部屋で色んな話を聞かせてくれた祖父の優しい声は鮮明に思い出せる。
祖父にとって、自分は初孫で随分可愛がられた。
当時のままの祖父の部屋は、幼いころの心地良さがどこか残っていて、ついつい訪れてしまうのだ。
――ふと、窓の擦り硝子の向こう側に、人が立っていることに気がついた。
いつの間に、という疑問が湧く。
自分が幼かった頃のように近所の子供たちが林で遊ぶことがある。
けれど、子供の背丈ではない。小柄な大人といった風だ。
夕日が逆光となって、子細が窺いしれない。
泥棒だろうか、と身構える。田舎の、さして裕福でもない家だ。盗むものなどないだろうに。
腹に力を込め、言った。
「どちら様ですか?」
返事はない。
泥棒であれば、声を掛けた時点で居なくなるのではないか。この間やっていたテレビ番組へ内心罵倒を吐く。
相手はピクリとも動かない、ただ佇んでいる。それが非常に不気味である。
友人が悪ふざけをしているのならまだわかる。けれど、地元の友人に似たような背格好のものはいない。
如何したら良いのかわからず、険しい顔で見つめる。
まさか――と思った。
目の前の人物には、どこか現実味がない。
今は盆である。祖霊が生前の家に帰ってくる盆だ。
――もしや、祖父ではないか。
祖父は少々小柄だった。目の前の人物と然程変わらなかったと記憶している。
都合の良い解釈だとは分かっている。けれど、心のどこかで淡い期待が湧き上がる。霊だとしても、あの祖父に会えるならば、と思わず立ち上がった。
刹那、擦り硝子の向こう側で変化があった。
異様に遅い歩みで歩きだしたのだ。擦り硝子から、網戸の方へ。
「おじいちゃん?」
変わらず、返事はない。
思わず、一歩足を踏み出したことで、或ることに気が付いた。
――相手が、長い黒髪をしているということに。
何故、今になって気付いたのか。
いつの間にか、相手と網戸ごしに向き合う形になってしまっている。
女は俯いている。
己の心音が妙に大きく聞こえた。
どうすべきか考えあぐねているうちに、女は、おもむろに顔を上げた。
どくりと心臓が跳ねた。更に、鼓動が早くなる。
顔は見えない。けれど、見ている。自分の顔を。
視線がどこに注がれているのかは不明瞭なのに、なぜかそれだけははっきりとわかった。
握り締めた掌がぬめりとした。
どこからか蚊の飛ぶような音がした。耳障りなあの音が。
――いや、蚊ではない。
音の出ている先は目の前からだ。女の喉の奥から漏れ出た、か細い声。段々とその声が声量を増すことよりも、別のことに恐怖していた。
女の顔から闇が薄らいで、その表情が、目が、口が、血がーー
――もつれる足で部屋から飛び出した。
廊下を走り居間まで辿り着くと、リモコンを手に取り、電源ボタンを押す。笑い声が聞こえたのを確認すると、今度は照明のリモコンへ手を伸ばす。
明るくなった部屋で呼吸を整える。恐る恐る振り返る。がらんとしたいつもの部屋がそこにはあった。
どうやら追いかけては来なかったようだ。
段々と落ち着いてきた頃合いに、「ただいまー」と玄関からよく知る声がした。
母が帰ってきたんだ、と思わず玄関へ向かって駆け出していた。
「おかえり」
母さん、と続けようとした声は喉から出ることなく消えた。
玄関の擦り硝子の先には、先ほどと同じ人影があった。
気がつくと、蒲団の中にいた。
まず、空が明るいことに驚いた。
目覚めたことに気が付き、駈け寄ってきた母と父が言うには、自分は玄関のそばで倒れたらしい。
起きなかったらどうしようかと、と心配そうな声で言う母と、ただ、良かったと呟く父に、女のことを尋ねてた。
二人は顔を見合わせ、首を横へ振った。
――そんな人物はいなかった、と。
病院へいこうという二人を宥め、自分は風呂を沸かすために家の裏へ来ていた。未だこの家は薪で風呂の湯を沸かしているのだ。
気を紛らわせようと買って出たが、それは間違いだった。
玄関には盛り塩をしてくれたが、ここからだと、あの林が見える。
昨日、女が最初に現われた林が。
空はまだ明るい。
さっさと終わらせてしまおう、と父が割ってくれていた薪を焚口へ放り込む。丸めた新聞紙にライターで火をつけ、同じように放る。
しっかりと薪に火がつくまで、団扇で扇がなけれなならない。そう時間は掛からないだろう。
――だが、こんな時に限って火がつかない。しゃがみ込み、薪に直接つけてみようとするが、今度はライターがつかなくなった。油が切れてしまったのだろうか。仕方なく、代わりを取りに行こうと立ち上がると、思わず息を飲んだ。
――林の中に、あの女が居た。
女は俯き、佇んでいる。
あることに気付いて、冷や汗が噴き出る。
女の後ろ――また別の人影があったからだ。
だが、それは、願っていた人物で――祖父はゆらりと体を揺らすと、女の傍へ。
そして――手に持っていた包丁を女に突き立てた。
女が呻く。
何度も。
何度も何度も何度も何度も――
やがて、女は動かなくなった。
祖父の顔は血で濡れていた。
助かったことより、その行為の、人が殺される瞬間の生々しさに打ち震えた。
突然、何かが弾けるような音がした。焚口を見ると、いつの間にか薪に火がついていた。
すぐに視線を戻すと、二人の姿は消えていた。
もう安心して良いというのに、胸の辺りが妙に落ち着かなかった。
ふと無造作に置かれたシャベルが目に入った。
「………………」
焚口の扉を閉め、シャベルを手に取った。
荒い息で、地面を見下ろす。
目の前には、深い穴が開いている。先程まで二人が立っていた場所だ。
肩で息をしながらシャベルを放り、その場に座り込む。
乾いた笑いが出た。
目から零れでた雫が、頬を伝う。
暗い穴を見つめたまま、昨夜の女の顔を思い出していた。
カナカナカナーーと蜩が鳴いていた。