第四話 「天国の塔殺人事件 その4《解決篇》」
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コンクリートでかためられた床と天井。その殺風景な部屋の中には頭に包帯を巻かれた男と俺しかいなかった。目の前にいる男はずっと押し黙ったままで、包帯の隙間からのぞくふたつの目はなんの感情もこもっていないように見受けられた。
「あなたの名前は久我淳史ですね?」
俺の問いかけに対して男はしばらく沈黙していたが、やがて微かに首を縦に振った。
「あなたが禅定寺兼弘を殺害した。間違いありませんね」
「そうです。わたしがあの男を殺しました」
彼を見つけ出すのは警察に任せた。真相が分かってしまえば彼を探すのはそれほど難しいことではなかったはずだ。しかし、早く探し出さないと決定的な証拠を処分されてしまうおそれがあった。残念なことにひとつは処分されてしまったが、もうひとつ残った証拠は無事だった。
俺は男の両手に目を落とし、それから話を続けた。
「これから俺の話すことに間違いがあったら、訂正をしてください。まず、どこから切り出しましょうか。そうですね。分かりやすく、時系列順にいきましょう。あなたは最初に塔の屋上へ兼弘氏を呼び出した。あの塔、屋上へ続く扉はふたりの人間で押さないと開きませんから、内密の話をするにはもってこいだったでしょう。なんの話をするために呼びだしたのかは分かりませんが、まああなたは精神的に相当追いつめられていたからそれを原因で会社を訴えることを考えているとでも云ったのでしょうか。呼び出したタイミングは式が終わり、披露宴の始まる前」
ちょうその時期にスタッフが塔を出入りする兼弘氏を目撃していた。
「あなたはそこで兼弘氏を殺害した。ネクタイで首を絞め、塔の屋上から兼弘氏を落とした。そして、発見されないように地面に落下した兼弘氏はしばらく近くの茂みにでも隠しておいたのでしょう。これで準備は整った。あとはあなたが兼弘氏として披露宴に参加したのです。その、兼弘氏にそっくりな顔に整形した自分の顔を利用して」
披露宴にいた兼弘氏は偽物。
その可能性は披露宴会場に入る前から想定していた。
――もしかしたら、もう手遅れかもしれない。
もちろん確信していたわけではない。俺はあらゆる物事を常に疑い続けている男なのだ。だからこそ、犯人がどんな手段で兼弘を殺すのかを考える際に《すでに殺されている》という可能性を消去できていなかったあの状況では心中で彼のことを兼弘氏とは一度も断定していなかった。ただ《新郎の男》あるいは《老人》というような見方しかしなかった。
しかし、サウスポーの投手として活躍していた男が右手で自分の伝記にサインをしていたこと。眠そうにしてあまり他人と関わらないようにしていたこと。自分が殺されても犯人を追わないでほしいとわざわざ頼んできたこと。風邪気味で咽喉の調子が悪く、声がおかしいと言い訳をしていたこと。披露宴会場には彼の身内がほとんどいなかったこと。花嫁すら、数か月程度の面識しかないこと。こういったいくつもの条件が《そっくりな他人の入れ替わり》という可能性をかろうじて生かし続けていたのだ。
「とはいえ、本格的に疑いだしたのは結婚式の恰好のまま天国の塔をのぼる提案を花嫁に強いたことがきっかけでしたがね。なぜ、そんなことをしたのだろうと思ったんです。兼弘氏の人物像にふさわしくない。彼は天国塔にのぼることにあまり積極的ではなかったはずです。塔へのぼるのに動きにくい花嫁衣裳のままだと非常に時間が掛かることは火を見るより明らかです。兼弘氏ならそれを避けるために軽装に着替えてから塔へのぼるようにしたでしょう。でも、そのままの格好でのぼらなければならなかったとすると、納得できる答えがひとつあるのです。花嫁にはウエディングドレスを着てもらっていた方が好都合だった。というのも、花嫁は屋上で兼弘氏によってハンカチで薬品を嗅がされて気絶させられた、と証言しているのです。しかし、ここでもし花嫁が抵抗して兼弘氏を引っかいてしまったらどうなるか。そして爪の間にあなたの皮膚片や血などが残ってしまったら。その痕跡を水もなにもない屋上で完璧になくすのは難しい。もしその皮膚片からDNA鑑定でもされて、兼弘氏と合致しないという結果が出たら、一発であなたが兼弘氏になり替わっていたというトリックの証明になってしまいます。ですから、あなたは引っかかれてしまっても大丈夫なように花嫁にウエディンググローブをつけたままでいてもらいたかった。だから、結婚式の衣装のまま塔へのぼるように強いたのです」
人が普段と違うこと、その人の性格にそぐわない何かをした時、そこにはなんらかの理由が存在する。推理術の初歩だ。
「迂闊……だった。ちょっとした安全策のつもりだったのに。あんたがそこまで見ているとは……思わなかった」
「名探偵を相手にするというのはそういうことです。俺たちはなにかを疑うと決めたらすべてを疑う」
「だが、兼弘氏がわたしと入れ替わっていたということはあくまでも可能性のひとつであり続けたのではないか。常識的に考えて、被害者がすでに殺されていて、そっくりに整形した男が披露宴会場で何食わぬ顔をしているなんてありえないことだ。想像したとしてもそれが本筋だなどと、どうやったら確信できる」
「アリストテレスに倣ったんですよ。あり得るが納得できないことよりも、納得のできるあり得べからざることを優先せよ、ですよ。とはいえ、決め手になったのはビデオカメラに映っていた落下する人影です。たまたま塔の屋上から人の落下する瞬間を撮影していた人がいたのですよ。ですが、その撮影者は塔の南側にいた。ちょうど塔の正面入り口側です。そして、兼弘氏が落下していたのはその真反対の位置、北側だった。すると撮影者の捉えた落下する人影は必然的に兼弘氏ではなかったということになります。しかし、塔にのぼったのは兼弘氏と花嫁だけ。花嫁は塔の屋上にずっといた。するとこの落下する人影は兼弘氏でも花嫁でもない別の誰かと云うことになりますが、塔に上ったのは花嫁と兼弘氏のふたりだけだとなっている。而して! 塔にのぼった兼弘氏は、そっくりな別人だという結論に至るわけです。どうです。子どもでも分かる理屈でしょう?」
人影は塔の右側から落ちた。南から見た右なので、東側。塔の東側には池がある。
「あなたは花嫁を昏倒させた後、塔の屋上から池に飛び込んだ。池の周りの地面にはひどく濡れた形跡がありましたよ。誰かが池からあがってきた証拠です。そして、池から出たあなたは隠しておいた兼弘氏の遺体を茂みから引きずり出した。あとは逃亡し、誰かが兼弘氏の遺体を発見すれば花嫁の犯行に思わせられる」
あとは久我自身の顔と手を焼けばそれですべての証拠は消滅するはずだった。顔の方は薬品ですでに焼かれ、ふためと見られない姿になっているが、両手の指紋はまだ残っている。自伝に彼がサインした時、本に指紋が残っている。それがあの時披露宴にいた兼弘氏が目の前の久我淳史であることを証明してくれるだろう。
「これで俺の推理は終わりです。なにか、違っているところがありますか」
久我は小さく首を振った。
「完敗だ。君にさえ出会わなければ、きっと完全犯罪にできただろうに。いったい……どこの世界に、披露宴の新郎が別人にすり替わるなんて真剣に考える奴がいる。そんな計画が上手くいくはずないと最初はわたしも考えた。それなのに、実際にやってみたら誰もがわたしのことを兼弘だと信じた。いくら顔がそっくりに整形されたといっても、仕種や喋り方でばれるだろうと思っていたのに。そして分かった。誰も、兼弘のことなど真剣に見てはいないのだ、と。兼弘の周りにいる連中は全員、彼の肩書と地位にひれ伏していただけで、彼と云う人間についてなにも興味を持っていなかった。それなのに勘違いして自伝なんて書いて、なんて馬鹿な男だったのだろうか、アイツは。哀れな男だ」
低い声で静かに久我は笑った。狭い部屋の中で響くその声はまるで、今にも息絶えようとする小動物の喘ぎを思わせた。
沈黙。俺は椅子から立ち上がって、男の両手を取り上げた。
「あなたがこの計画を立てたわけじゃないだろう。闇医者にあんたの顔を整形させて、別の戸籍まで用意した。そんなことができるやつ、そうそういない。ましてやタダの会社員だったあんたにそんな伝手があるはずもない。後ろで糸を引いていたやつがいるはずだ。全部話してもらおう」
「ひゅっ、ひゅっ、無理だ。無理なんだよ。それがね、ひゅっ、うっ、ううう」
突然久我は目を剥き、両手で胸を抑えた。青筋が額に浮き上がり、顔色が突然真っ赤になった。
「ど、どうした!」
「暗示、だ。あの人は俺に、最後、暗示をかけていった。俺が警察に捕まって、誰かが俺にあの人のことを話させようとしたら、呼吸がとまる、暗示を、を、を――だが、これでいい……これでいいんだ……」
白目を剥き、久我は椅子から崩れ落ちた。俺は急いで警察医を呼んだが、特殊な薬品と技術を使って掛けられた強烈な暗示であったため、どうにも手の施しようがなかった。
その夜、久我は死んだ。
結局北目園につながる手がかりはなにもつかめないままであった。
「…………畜生」
やられた。いつもあと一歩で逃げられる。また俺は手をこまねいて、あいつが、北目園日色が次の殺人の種をまくのを待たねばならないのか。
次に北目園が動いたのは、その翌日であった。