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名探偵は千夜を駆ける  作者: 夜鳥
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プロローグ 「ヒイロの研究」



 窓の外ではしめやかに雨が降り続けていた。時折稲光が輝き、室内を白く照らす。


 ダイニングテーブルの上は汚れた食器が山積みになっていて、蠅が飛び回っている。流し台も同様であった。何週間も前の新聞紙が雑然と積み重なっており、様々な所からの督促状がロクに確認もされることなく散乱していた。


 男はその部屋を何の感情もこもっていない目で眺めていた。まるで赤の他人の部屋のようだ。しかし、ここは間違いなく彼の住居であった。数か月分家賃を滞納していることが原因で遠からず追い出されることになるだろうが、今はまだ彼の家であった。


 男は椅子の上に立ち、梁から吊るしたロープの強度を確かめていた。ロープはちょうどバスケットボールが通り抜けられる程度の輪をつくっている。


 ロープを両手で強く下方へ引くと梁はメリメリと小さく音を立てたものの、なんとか男ひとりの体重を支える程度の役目は果たせそうであった。これなら問題ない。


 最初に自分の遺体を発見するのは誰になるのだろうか、と男はふと思った。


 窓のカーテンを開いているのは、少しでも早く発見してもらうことを期待したためであった。あまり時間が経って腐乱屍体にでもなると家の価値に支障が生じるだろう。ただでさえ、前の住人が自殺したというだけでも厄介なのだから。


 だが、本当に大家に迷惑を掛けたくないのであればここ以外の場所で死ぬのが一番良い。しかし、死に場所を考えて方法を工夫するのも面倒だった。このロープも元々物置にあったものだ。首を吊るのが一番簡単で確実に思えたのだ。


 疲れた……今はもうゆっくり休みたい。


 遺書は必要ない。もはや誰も自分の死に関心を抱くものはいないのだから。正直にいって、ペンを持ち上げるのも億劫だった。もっと早くにこうしておけば良かった。そうすれば無意味な、本当に無意味な人生を生き続けることもなかった。


 男は輪を首に通して、目をつむった。死の間際に少しでもなにか脳裏をめぐるものがあるかと待ったが、目蓋の裏側にあるのは執拗に塗りつぶしたような暗黒だけであった。


 なにも迷うことはない、と足場となっている椅子を男が蹴ろうとしたその時、リビングへのドアがこちらに向かって音を立てて開いた。


 男の顔が強張った。ドアを開けて見知らぬ男が入ってきたのだ。


「はじめまして。わたしは北目園日色きためそのひいろと申します。暗いですね、明かりをつけますよ」


 日色はそういうとスイッチを押して照明をつけようとした。しかし、明かりはつかない。当然だ。電気が停められているのだから。


「なるほど。電気代も支払えないほど生活が逼迫している。追いつめられてどうしようもない。かといって誰にも助けをもとめられない。それがあなたの自殺の動機なのですか」


 窓から入ってくる微かな街灯の灯りによって、薄闇の中で浮かべている日色の穏やかな笑みを見ることができた。


 いったい何者なのだ。泥棒だろうか。けれども泥棒にしては服装がおかしい。目立ちすぎている。上下ともに高級そうな真っ白のスーツを着て、夜だというのにサングラスを掛けている。警察が目撃したらすぐに職務質問を仕掛けてきそうな恰好だった。


「……」

「少しは返事をしてもらえませんか。寂しいじゃありませんか。なんだかわたしが馬鹿みたいだ」

「なんですかあなたは。勝手に家に入ってきて」

「いやね、夜道をあてもなく散歩していて、たまたまこの家の前を通りかかったら今まさにあなたが首を吊ろうとしているじゃないですか。びっくりして、善良な市民の一員としてあなたの自殺を止めないと、などと使命感に駆られましてね」


 思わず舌打ちをしたくなった。まさかこんな、台風の近づいている真夜中に散歩している変人がいるとは思わなかった。カーテンを開けていたのが仇となったわけだ。とりあえずここは日色の制止を受け入れた振りをして、彼が帰った後に改めて自殺を決行することにするか。


 男がそう考えてロープの輪から首を外したところで、日色は懐から蝋燭とライターを取り出した。火をともした蝋燭をテーブルの上に並べると、室内が明るくなった。それによって日色の容貌がさらにはっきりと確認できた。


 細身の長身。髪は金髪で後ろに撫でつけてある。脚がちょっと驚くくらいに長い。両手に革の黒い手袋をはめている。


 どうして蝋燭なんて持ち歩いているんだろうか。


 男の疑問に答えるように日色は「わたしは蝋燭のセールスマンなんですよ」などとそれで納得させられると思っているのか、ふざけたことを云った。


 男は椅子から降りて日色を無視して後片付けを始めた。


「おや。もう自殺はやめるのですか」

「……ええ。ですからもう心配していただかなくとも結構です。どうぞ、お帰り下さい」

「ああ良かった。これでわたしも気兼ねなく本題にはいることができます」


 どういう意味だ、と男が怪訝そうな顔を向けると日色は壁にもたれかかって懐から一枚の写真を取り出した。そこに映っている人物を見て、男の顔は怒りで紅潮した。拳が固く握りしめられ、今にも写真を奪い取ってバラバラに引き裂いてしまいそうであった。


「すごい反応ですね。あなたの自殺の原因は、生活難などではなくこの男なのではありませんか? あなたの精神をここまで追いつめ、蝕んだ害虫」


「分かったぞ。あんた、この家に電気が来ていないことを知っていたんだな。だから、蝋燭なんて用意していたんだ。何者なんだ、あんたは。なにが目的でそいつの写真を俺に見せたんだ」


「選択肢をお知らせに来たのですよ。あなたが自分を削って死を選ぶのはご自由にとしか云えませんが、それだけではないということを知っていただきたくてね。あなた自身を削るナイフの切っ先を、この男に向けることもできるのですよ。そして、わたしならばそれを手伝うことができます」

「あんた正気か。それはなんだ、この男を殺す段取りをあんたがやってくれるとでもいうのか。ああ?」

「その通りです」


 こいつ、間違いなくあぶないヤツだ。相手にしない方が良い。

 男はそう思ったが、憎いヤツの顔を目にして考えが少し変わりつつあった。


 どうして俺が死ななければならない。このままあてつけのように死を選んだところで、アイツはなにも感じず、なにも変わらずのうのうと生きていくだろう。もしかしたら家族に囲まれて、さも悪いことなんてなにもしてこなかったなんて聖人面をして、自分は天国に行ける人間だと、そんな風に幸せに死んでしまうのかもしれない。


 そんなこと、決してさせてやるものか。


「具体的に、なにを手伝ってくれるというんだ」

「ええ。この北目園日色が用意するのは《機会》と《手段》です。あと必要なのはあなたの強い《動機》だけです。場所も、凶器も、容疑を逃れるためのトリックも、すべてわたしが準備いたします。ですが、あくまでも殺すのはあなたの《殺意》です」


 機会と手段、だと。


「ただ殺すだけなら人気のない夜道に背後から刺せばいい。案外、これが一番警察に捕まったりしない、良い方法なんですよ。でも、それでは味気ないでしょう。あなたとしてはもっとこの男に自分のしたことを分からせるだけの時間を持って、殺してやりたい。それも、あなたが警察に捕まっては意味がない。ましてや、殺害後に自殺なんてとんでもない。なぜ、あなたが不幸になる必要があるのです。悪いのは、あなたを自殺するところまで追いやったこの卑劣な男なのに。この男を徹底的に絶望させて、後悔させて、みっともなく跪いて泣いて謝ってくるところを、あなたは笑顔で殺す。そして余生を幸福に生きる、それでこそ復讐は成り立つのです。憎いなら、あなたは幸せにならなければいけません」


 日色と名乗るこの怪しい人物の言葉は、不思議と男の心に深く浸透した。一種のカリスマめいたものが目の前の日色からは感じられたのだった。もはやこれ以上失うものが男にはなかった。金を巻き上げることが日色の目的ならば、こんな回りくどいことをする必要はない。


「話を……聞かせてもらえるか」


 日色は口元を歪ませて、笑った。


「ええ! ええ! ですが、強い動機を持つ者はそれだけで疑われてしまう。まず、あなたに新しい顔と身分を与えましょう。そうすることであなたは滾るような《動機》を自らの内に秘めたまま標的を殺害できる。安全に、安心して、ね。話はそれからです」


 目の前の人物は果たして神か悪魔か、それとも――




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