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ロマンチックは遅れてやってくる


作家×女子大生の年の差ロマンス。

ハピエン。






目の前にある背中をじっと見る。肌着を着ない習慣の人だから、夏用の薄手の白シャツは肌の色が微かに透けて見える。

きっと今の私の視線は背中に穴が開くんじゃないかと言うほど熱いと思う。

何時間こうしてるんだろう。私が来たのは2時間前だけど、きっとこの様子じゃ一晩中こうだったんだろうな。畳の上の柔らかな座布団に胡坐を組んで座り、座卓の上のノートパソコンに向かって一心不乱の文字を打つ人は、私が来た事になんか気付かない。

「言葉が逃げる」がこの人の口癖で、一度頭に浮かんでしまったら、すぐに書かないと気が済まない。ロジカルでリアルな文というよりは、甘く静かな文章を好む人だから。

頭でごちゃごちゃ考えて書くよりも、浮かんだ言葉を使って書く方が良いのが書けるのだそうだ。

実際そうやって書かれた文章は、色んな場所で評価されてる。

私だってこの人が書く文章は好きだ。とは言え私は文章よりも先にこの人本人に出会ったので、文章が好きと言うよりもこの人が書いたから好き…と言う方が正しい。

少し離れた真後ろに三角座りで座って二時間。吐き出しそうになった溜息をぐっと噛み殺す。

膝を抱え込んだ腕に収まってる華奢な作りのピンクゴールドのアクセサリーウォッチ。短針と長針は、待ち合わせ時間から四時間過ぎた時間を示してる。

視界に入ったそれに、なるべく音を立てずに立ち上がり、部屋からリビングに出た。多分……もう今日は私の存在を思い出す事は無いだろうし、いくら大好きな人の背中とは言え、今日はもう見たくない。

そのままソファに放置していた鞄を手にして、いつもより高いヒールの靴に足を突っ込んで家を出る。

出てから下駄箱の上に鍵を置きっ放しにしてしまった事に気付いたけど、このマンションは入口も各部屋の玄関もオートロックシステムだから、扉が閉まってしまった以上どうする事も出来ない。

インターホンを鳴らしたところで、彼がそれに気付くとも思えないし。今度こそ殺しきれなかった溜息が漏れた。

鞄から取り出したスマホで予約を入れていた店に電話を掛け、一人分キャンセルになったと告げると、予約した理由を知ってるのだろう……戸惑った様な優しい声で「コースを一名様にご変更ですか……?」と聞かれた。虚しさが心を締め付ける。

暗くなった道をわざとヒールを鳴らし駅まで歩きながら「はい」とだけ答える。電話口の店員さんは幾許かの間の後に、やっぱり優しい声で「心より、ご来店お待ち申し上げております」と言った。

通話を切って鞄にスマホを戻しながら、気を使わせてしまったな……と思ったけど、今の状況じゃ気を使わせない方が無理だと自分でも思う。

いつもよりも念入りに施したメイクも、ネイルも、普段だったら着ない上品なレースのミニワンピースも、値段に一瞬怯んでしまった鞄も、高いヒールも、全部全部無駄になってしまった。

視界が滲むけど、それだけは絶対にしないと堪える。

彼の家の最寄り駅から五駅、待ち合わせをしてた駅から徒歩十五分程にあるそのお店は、個人経営のこじんまりとしたリストランテで、落ち着いた内装と美味しい料理にお酒が口コミで評判のお店。

メインはディナーなんだけど、平日の昼間に短い時間ながらランチもやっている。お値段はディナーよりも安いのにディナーと同じくらい美味しいご飯とデザート、飲み物がセットのランチに私は足繁く通っていた。

とは言えディナーは値段が高いし、お酒を飲むことを前提にしたメニューだから行った事は無かった。

そして今日初めて、ディナーをそこで彼と取ろうと思っていたのに。

時季になると色鮮やかな花を咲かせる薔薇のアーチを潜り、レンガの道を進んだ先にあるダークブラウンの扉を開ける。暖かなオレンジ色の明かりが眩しい。

「いらっしゃいませ、お待ちしておりました」

ランチタイムで顔馴染みになった店員さんが微笑みながら出迎えてくれたのに、肩から力が抜ける。

「こんばんは……予約急に変えてしまってすみませんでした」

「大丈夫ですよ。今日は、百合さんの為にシェフが張り切っているので、楽しみにしていてくださいね?」

席に案内されながら謝る私に軽く首を傾げながら店員さんは笑う。前に聞いたらもうすぐ三十歳だと言っていた店員さんは、男の人とは思えない位綺麗で若い。一度来たお客さんの事は忘れないのが自慢らしく、実際にそれを実感した時は吃驚した。

二年間・週二回もランチに通っている私は、このお店ではそこそこ有名らしい。シェフやパティシエの人が密かにサービスしてくれることもある。そんな彼らが張り切ってくれる料理。私は状況が状況なのに心が浮き立った。

案内された先にあった席は、落ち着いた照明に照らされたイングリッシュガーデンが良く見える窓際の席。

私が予約変更の電話をした時に変えてくれたのだろう、本来は窓を横にした二人席は今日だけは庭に向かい合うように椅子が一つあるだけ。その心遣いに、泣くまいとしていた涙腺が緩みそうになる。

小さなフラワーアレンジメントがテーブルの中央奥に飾られ、添えられたカードには「Happy Birthday YURI 20th」の文字。

椅子に座り視界に入ったそれに、斜め後ろに立った店員さんを見上げる。

「お誕生日おめでとうございます。これは、当店よりのお祝いです。可愛らしいお嬢さんが綺麗な女性になられたことを、とても嬉しく思っております」

「嬉しい……ありがとうございます」

両掌に収まってしまう大きさの籐籠はシルク地のリボンが巻かれ、活けられてる花は私の名前でもある百合を中心に、華やかというよりも可愛らしい印象の花ばかり。

二十歳の誕生日。

家族や友人がパーティーを開いてくれるというのを断り、自分でこのお店に二人分の予約を入れた。

彼と一緒に来たかったから。

彼と一緒に二十歳の誕生日を祝いたかったから。

彼と一緒に初めてのお酒を飲んでみたかったから。

だから一生懸命バイトして今日の為の服を用意して、メイクを友人に習って。「子供は相手にしない」って彼が言ったから、大人になった私を見てほしくて。

分かってる。

彼がわざと約束を破るような人じゃないって。仕事と私どっちが大事? なんて言うような馬鹿じゃない。それでも、子供だと言いながらも大事にしてくれてると思っていた。

合い鍵を貰った時は本当に嬉しかった。

他の約束の日だったら、いくらでも彼の背中を見て待ってた。


でも。


それでも。


今日だけは、私を見て欲しかった。

私の事を考えて欲しかった。

仕事と私どっちが大事? なんて言えるわけない。

だって到底同じステージに立ってると思えないもの。

「アルコールは初めて…とのことでしたので、本日は度数の低い甘いシャンパンをご用意させていただきました」

細長いグラスには細かい気泡が浮かぶシャンパン。

促されるまま口にしたそれは、確かに甘くてとても飲みやすい。友人たちの中には成人する前からお酒を飲んでる子もいたし、大学ではある意味それが普通だった。でも私は家がそれなりに厳しいのと、彼に嫌われたくない一心で毎回飲み会でも断っていた。

なので正真正銘、初めてのお酒。

「美味しい……」

ぽつりと落とした声に店員さんは微笑んだ。そこではたと気付く。店員さんは私を入口で出迎えてから、シャンパンを取りに行ったとき以外はずっと私の斜め後ろに控えている。常ならありえないことだ。

「あの……」

気付いたは良いものの、なんて声を掛けて良いか分からず迷う。

だって別に迷惑じゃないし、逆に余計な事は話さなくても側に居てくれるのをとても嬉しいと思っているし。

私の戸惑う雰囲気を察したのか、しぃー……と内緒話をするように人差し指を唇に当てた店員さんは悪戯っぽく笑う。

「実は店長に悪戯がバレてしまいまして、見つかったら怒られてしまうのですよ。なので避難中なんです」

助けていただけませんか? そう首を傾げながら言われた台詞に、堪え切れずに声を出して笑ってしまった。

多分、嘘だと思うんだけど、その気遣いが嬉しい。笑いながら頷くと、空いたグラスにそっとシャンパンを注がれる。

そうやって静かに始まったディナー。

コースの始まりは前菜から。帆立貝とサーモンのタルタル。

薄くパリパリに焼かれた皮と帆立貝とサーモンのタルタルをまるで薔薇の花びらのように盛った一皿。

サラダはトマトのカップサラダ。

くり抜いたトマトをカップに、バジルとレタス・カッテージチーズをドレッシングで和えたものを詰めていて、程良い酸味が食欲を沸かせた。

次は温かいスープ。

今までは赤色が印象的な二品だったけど、スープは真っ白なポテトポタージュ。

ジャガイモのスープはヴィシソワーズが有名だけど、あえてポタージュ。丁寧に裏ごしされたジャガイモと生クリームにコンソメの風味がとても優しい。

パンは薄らと均一に焼き色が着いたスライスされたソフトバゲット。

 ランチでも出されているこのパンが私は大好きだ。外は香ばしいけど歯切れが良く、中はモチモチ食感。どんな料理とも相性抜群のパンなのだ。

魚のメインはトリュフ塩で食べる鯛のソテー。

皮がパリッと身はしっとりと焼かれた鯛と、初めて食べるトリュフ塩の風味の良さに本当に吃驚してしまった。

肉料理の前には一度口の中をリセットさせるために、キュウイとレモンのグラニテ。

 さっぱりスッキリとした味わいは、シャンパンと一緒に口にするとにんまりと笑ってしまう程美味しい。これが口直しだなんて、なんて贅沢なんだろう!

そして大本命。肉のメインは和牛フィレ肉のコンフィ。

コンフィされた柔らかくジューシーな子牛。仕上げに表面を軽く炙られているのがまた素敵。お肉そのものでも充分おいしい厚切りそれに合わせるのは、粒マスタードをベースとしたソース。肉の甘さと粒マスタードの相性は抜群で、今まで食べたお肉の中で一番美味しいと断言できる。

ここでコースは締めに差し掛かり、チーズの盛り合わせと赤ワインが共に出される。

白地のお皿の縁には青の縁取りがされていて、そこに三種類のチーズ。

ブルーチーズ、蜂蜜をかけたセミドライチーズ、ドライフルーツを混ぜてジャムを添えたクリームチーズ。

一緒に出された食後酒の赤ワインは、お酒を初めて飲む私に合わせてくれた軽い口当たりの物。ワインとチーズは合うって知識としては知っていたけれど、実際に自分で味わうと聞いていたよりもとても合っていた。ブルーチーズも、前に食べた時は全然美味しく感じなかったのに、今日食べたのはすごく美味しかった。たしかにクセはあるんだけど、それも旨味に感じるというか……。やはり良いお店で食べる物は良いんだなぁ。

そうやって胃も、料理で上がりに上がった気分も大分落ち着いてきた頃に出されたのが、フルーツとデザートのケーキ。

そこでまたしても視界が滲みそうになってしまった。

フルーツはメロンにオレンジに桃・葡萄。夏が旬の果物が綺麗にカッティングされてガラスがキラキラと輝く器に盛られ、デザートのケーキは小さなホールケーキ……とでも言えば良いのかな?

ショートケーキよりは少し大きいけど、ホールケーキよりはずっと小さなストロベリーオンザショートケーキ。

丸いケーキに生クリームと苺が花のようにデコレーションされていて、お皿には砂糖漬けの薔薇の花びらが散ってチョコレートで「We hope your happiness」の文字。

私だけの、小さな誕生日ケーキ。

恐る恐るフォークで掬ってみたら、スポンジが驚く程軽い。口の中でふわりと解けていくそれは、スポンジと言うよりもシフォンケーキに近く、生クリームも口内の温度でとろりと蕩け濃厚なのにしつこくない。

フレッシュフルーツもケーキも、このお店で食べた中で一番美味しい。いや、このお店だけじゃなくて人生でかもしれない。

このコースが終わってしまうのが悔しくて、自然とケーキを食べる手はゆっくりだった。それでも、いつかは食べ終わってしまうもので。最後のひとかけらを食べ終わると、空いたお皿と交換で暖かいストレートティーが出された。

 本来ならば、コースの最後の飲み物はコーヒーか紅茶か選べるのだけど、私の前には聞かれずに紅茶が置かれる。以前、私が体質的にコーヒーがあまり得意じゃないって言ったのを覚えていてくれたからだ。今日何度目かの嬉しい気遣いに笑みが漏れる。

 本当は来るまでずっと「一人じゃ楽しめないかもしれない……」と不安に思っていた。でも、来て良かった。

 確かにあの人がいない寂しさは有ったけど、ちゃんとお料理も楽しめたし、全部終わった今では来て良かったと心から思っている。

「今日は本当にありがとうございました! 素敵な誕生日のディナーになりました! またランチ食べに来ますね」

「此方こそ、二十歳の誕生日のディナーという記念すべき日に、当店を選んでいただきありがとうございます。またのご来店を心よりお待ちしております」

「はい!」

 外のアーチまでわざわざ見送りに来てくれた店員さんに笑顔で別れを告げて、駅に向かって歩き出す。来る時はコツコツ鳴るヒールが苛立たしかったけど、今はそんなことは無い。なんだかヒールがハッピーバースデーを歌ってくれてる気さえしてくる。

 ふわふわとそんなことを考えてしまうなんて、多分私は酔っているのだろう。

 初めて飲んだ美味しいお酒にテンションが上がって、そこそこの量を飲んでしまった記憶がある。まぁでも足取りはしっかりしているし、記憶も正常だ。ただ、少し、いつもよりも思考がふわふわとしているだけ。

「あ、スマホ……電源落としたままだったっけ……?」

 電車の時刻表を調べようとスマホを取り出して、そこで気付いた




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