三話 惨敗
二年生になって初めの試験期間がきた。
せっかく特進クラスに入れたのに、実力が全く出せなかった。
三日目も終わり、自己採点した結果、国語と英語と数学は、どうにか持ち堪えたものの、社会科が九十点を割ってしまった。
まだ採点していないが、理科も九十点を割るかもしれない。
凄くショックだ。
机にかじり付いて勉強したけど、やはり身に入らなかった。結果として特に暗記が重要視される理科と社会科に影響が出た。
一番の敗因は睡眠だ。
せっかく無理矢理詰め込んだそれを、寝ている間に、脳に整理して欲しいのに、なぜだか上手く寝つけない。
眠れても、本吉愛の夢ばかり見てしまう。
今回の試験は完敗だ。やりきった感が全くない。
今日が試験期間の最終日。
パソコンの情報処理や美術などの選択教科が主なテストだ。
「相楽君、今日はどうだったテスト。調子は戻った?」
仲根博教。特進クラスになってできた友達だ。学年で三番目の成績。
ちなみに前回の俺は四位だった。
「今日の教科は大丈夫。問題は、理科と社会科だよ」
「そっか。そう言えばさ、相楽君は今年モスの試験受けるの?」
俺は電子メモを出し予定を確認する。
「先生に聞いてみないと詳しく分からないけど、もしかしたら三年生になってからになるかも知れない」
「親にさぁ、お前も何かの資格取ればって言われてさ。俺も、取りたいンだよね。でも確か選択授業を二年間取らないと受けれないとか……なんかそんなような条件なかったっけ?」
「ん~。そういう話聞いてないけど」
話しながら食堂へ向かう。
うちの学校は購買ではなく学食がある。
食堂はあまり混まない。基本、皆はお弁当で、教室で友達と食べるからだ。
俺は高校へ入ってから一度もお弁当はない。お父さんはプロの料理人だから一見作ってくれそうだが、お弁当は別だ。料理ができるかどうかじゃなく、お父さんもお爺ちゃんも朝がとても早い。
つまり早起きして支度すると、その分眠る時間がなくなるのだ。
ちなみに俺も無理だ。学校までの通学が電車で約一時間、朝食の用意をするだけでギリギリだ。
お爺ちゃんも昔はお弁当を持って現場に入っていたようだが、俺が生まれた頃にはもう、昼は現場近くの店で済ましている。
お父さんは仕込みや開店準備で朝も夜も時間がない。
「なんかやけに騒がしいな」
昼食を済ませいつもよりゆっくりと雑談していると、廊下を行き交う生徒が増え始めた。
「テスト期間も終わったし、部活再開で活気が戻ったンじゃない」
選択教科によって、午前中で試験を終えた者とそうでない者がいる。ちなみに、俺も仲根も午後はない。
帰ろうかそれとも残って図書室に行こうかと悩む。
図書室以外は試験中なので出入り禁止だ。同じく、部活動も運動部以外、室内を使う文化部はまだ活動停止のはずだ。
「今日は帰って自己採点でもするかな」
「相楽君。せっかく試験も終わったしどこか遊びに行かない? ほら、まだ友達になってから外で遊んだことないじゃん」
確かに。友達になって約一ヵ月、せっかく仲良くなったわけだし、試験終わりにお茶するぐらい当然だ。
「そうだね。遊びに行こうか」
他愛もない会話と試験後の余韻の中、俺は食器やトレイを下げ、仲根は弁当箱を鞄へとしまった。
お互いにどこへ行くかはっきり決められないまま食堂を後にする。
どこにしようかと話しながら下駄箱方面へと歩いて行く。
中庭の見える一本道の廊下、後ろからなにやら騒がしい団体が来る。振り返るとサッカー部だった。
先頭を久保真が歩く。その周りには沢山の取り巻き女子が付き添う。
一年もいれば三年もいる。入り乱れる上履きの色。
ジャージを着た女子マネージャーが、はぶかれたように隅を歩く。
仲根と俺は、避けることのできない一本道を、必死に早歩きするが、段々と追いついてくる。何をそんなに急いでいるのか、テンションも高く慌ただしい。
どうにか下駄箱近くの空間に出て、俺と仲根がそれらを避ける。
「あぶねぇ~食われるかと思ったよ~」仲根君のジョーク。
俺はそうだねと微笑む。すると通り過ぎた女子の何人かが戻ってきた。
「ちょっと、あなた相楽君? アンタが余計なことするからぁ、変なのが増えて、ウザイんだけど」
指さす先に本吉愛がいた。久保真の身近にピタリと陣取っている。
「す、すいませんでした。もうしません」
俺が謝るとなぜかちょっと笑っている。これが許してくれた笑いか馬鹿にされている笑いかは分からない。
「相楽君さ、いや、なんでもない。……ただ、鈍感なトコ治しなね。じゃないと、陰で悲しんでる娘いるかもよ」
何を言っているか分からないけどとりあえずハイと頷いた。すると、なぜかナニナニと他の女子が集まってきた。そしてその光景が気になるのか、サッカー部まで寄ってきた。
「ナンだ、どうした? 揉め事か? お~い真。お前の親衛隊がトラブってるぞ」
それを聞いた久保が泥のついたスパイクを手に持ち、近づいてきた。
なんだかややこしい賑わいになってきた。
「あ? 何? お前ナンなの? 誰?」
関わりたくない。仲根は少し離れた所で下を向いている。
「シカト? 聞いてンだろ、何組?」
帰りたい。
せっかく仲根と親睦を深めようと思ったのに、本当に迷惑極まりない。
「ちょっと用があるから道を開けてくれるかな? いこう仲根君」
まともに会話してもろくなことにならない。こういうケースは流すに限る。
通り過ぎる俺らの悪口でも言えばいい。それくらい耐え忍ぶのは苦ではない。
もう高校生になったわけだから当然できる。さあどいてくれ。
どいてくれない。
「この人は特進クラスの相楽君」本吉愛だ。
「特進? なんだ勉強オタクかよ。それがなんで女に絡ンでんの?」
絡んでねぇよ。しいて言えば絡まれたに近い。いや、なんてことない些細な会話だし、もう済んだから放っておいてくれ。
「だから彼女たちに何か用かって聞いてンだけど」
「別に用はないですけど……」
何度も用はないと言うが久保は一向に引かない。すると俺に声を掛けてきた女子が何となくだが本吉の話を持ち出した。久保はその話をふ~んと聞く。
「で? 要するにこのオタクはそこの愛ちゃんが好きってワケか。で、愛ちゃんはどうなの? 俺に付いて来ながら二股みたいなことしてるワケ? 俺そういう尻軽な感じのコ嫌いなんだけどね。はっきりしないならもう来ないでイイよ」
その言葉に本吉は焦る。周りの女子達もそうよと騒ぎ出した。特に先輩や後輩がブツブツと愚痴っている。
「私、相楽君のことなんて、全然好きじゃないです。一年の時からずっと、真君のことが――」
「そう言ってるゼ相楽。フラれちまったな。お前はどうなんだよ。好きなのか?」
フラれた。コクってもないのに……。ばか。バカ久保。
「俺は……」
俺はなんだ。本吉さんのこと好きなのか?
夢で何度もみたし、惹かれてるのか?
朝目が覚めていつも彼女のことを考えていた。学校でも意識している。
よくわからないけど、好きかも知れない。違うかも知れない。たぶん。でも。
「俺はどうしたン? はっきりしろよ、相楽君」
「好きだよ。悪いかよ。別に片思いくらい放っとけよ」
言っちまった。売り言葉につい返しちゃった……クソ。
つい癖で、勝手に口が動いた。こういう時に家柄が出てしまう。
まだ好きかどうかも分からないのに。
俺の言葉に久保の表情が威嚇に変わった。
「だとよ本吉さん。相楽は好きなんだってさ」
「ごめんなさい。私、相楽君は恋愛対象じゃないの」
もう聞いたヨそれ。一瞬で二度もフル? 俺が悪いのか? いや、久保だろ。
こいつが全部分かってて、話を進行してるワケだし。
あ~あ、試験も上手くいかなかったし、お寺でお祓いでもしてもらおうかな。
俺は仲根の方へと近づき下駄箱へと向かう。仲根が俺を心配して優しい声を掛けてくれて、俺もそれにウンウンとすがる。
サッカー部や女子達も下駄箱へと来た。聞こえるように俺を嘲笑う。
「お前さ~、可哀そうだからアイツと付き合ってやったら。お前みたいな軽そうな女は邪魔だし、せっかく好きって言ってくれてるンだからヨ~」
聞こえないようにしていたが、三度目のフラレがきた。
そういう会話は俺のいない所でやって欲しい。何度聞いても心がきしむ。
結局五度もKOされた。普通は三度のダウンでレフリーストップだ。
「ほら~、行ってやれよ。お前みたいなブスでも……あれ? 泣いちゃったよ」
ガラスの扉を二歩ほど外に出た所で、耳に微かに届いた。
ふざけた久保の声と女子の声、そしてサッカー部たちのからかう声。すすり泣く本吉の……声。
「ちょっと仲根君、……ごめん。今日、ちょっと行けそうにない」
俺の言葉に頷くが、ケンカはダメだよと優しく助言してくれた。
その言葉に俺もしっかりと頷いた。
下駄箱へ戻ろうとすると、ちょうどゾロゾロとこちらへ近づいてきた。
「ちょっとお前等さ、なんで女の子泣かしてンの? 言い過ぎだろ」
「は? お前に関係ないだろ?」
関係あるだろ。良く考えてしゃべれよなまったく。お前が無理矢理嫌がる本吉に俺と付き合えって責めたてたンだろうが。
あんなに嫌だって……何度も言ってた……だろうが。バカっ。
「関係? お前さ、久保だかイボだか知らねぇけど、あんま調子くれてンなよ」
「誰がイボだよ。オメェこそ調子乗んなっ。誰に口利いてんだぁ? あ? 特進が勘違いしてっとガチでいくぞカス。ふざけんな、帰って勉強でもしてろボケ」
んだとこのゴミ。誰に口利くだぁ、テメェだよ。
どこでそんなセリフ覚えたンだよムカつくヤローだ。
私立の進学校でちゃらちゃら運動部なんてしやがって。大体うちのサッカー部って都どころか地区でも勝ってないンじゃねぇのか?
それになんでこの学校は、茶髪ばっかりなンだよ。地元の都立校だって、こんなチャラくない。
「そうだな。お前と絡んでる時間がもったいない。お前の言う通り帰って勉強でもするよ。その代り、二度と女子泣かすような真似するなよ。分かったか?」
俺はそういって振り返ると、サッカー部がゾロゾロと俺を囲む。
「待てよ。誰が帰っていいって言ったよ。逃げンのか? ビビッてんのか? あ? どうなんだよ。許して欲しかったらちゃんと謝れよ。ほら」
は? お前が帰って勉強しろ的なこと述べたンだろ? こいつバカだ。
どうやってこの進学校に合格できたンだ? あぁ~そうか。
「久保。お前――スポーツ推薦か?」
「そうだよ。ワリーかよ。なんだぁテメェ、俺をナメてんのか?」
「ナメてねぇよ。そのままじゃねぇか。勉強もダメ、スポーツもダメ、女子に対する態度もダメ、他人に対する口の利き方もダメ、完全にアウトだろ。逆になんだったらできるの?」
久保の顔が見る見るうちに真っ赤になっていく。言い過ぎた。
このままじゃケンカになって停学や退学もあり得る。失敗した。
ついクセで言っちまった。
せっかく仲根も助言してくれてたのに、やっぱ俺はまだまだガキだ。
……反省しなきゃ。
「ッざけんなよ相楽。テメェ、俺がダメ人間だって言いたいのかよ」
「いや、言い過ぎた。久保が先にカスとかボケとか、お前は帰って勉強でもしてろ的ことを言うから、つい心にもないことを言ってしまって。スマン。この通りだ」
「この通りって、頭下げてねえジャン。やっぱ馬鹿にしてんだろ?」
ちょっと下げたぞ。ほら。よく見ろ。ほらこの角度。
ダメだ。とてもじゃないけど収まりそうもない。
こりゃ、ケンカになって、停学処分とか覚悟しなきゃダメかも……。やれやれ、厄介なことをしちまった。
バカを相手にすりゃこうなるってことくらい分かるのに、ホント俺は、まだまだお子チャマだ。
一触即発。
「ちょっと何してるの? まさかケンカ? やめなよ」
佐伯結理だ。
久保と俺の間に走り寄り止める。俺を囲んでいたサッカー部も少しばらける。
制止した状態で佐伯が近くにいる女子から事情を聞いている。
その間も久保は俺を睨み続け、怒りを露にしていた。ちょっと泣いているようにさえ見える。
「そう。事情は分かったけど、久保君。相楽君と喧嘩しない方がいいわよ。私さ、小学校からずっと同じ学校だったけど、相楽君は強いわよ」
佐伯はそう言うと久保の袖を引っ張り、少し奥へとズレる。
そしてなにやら話し込んでいる。数人のサッカー部もそれを聞きに行っている。そして数分して戻ってきた。
「相楽……、相楽君は元ヤンなのか?」久保が少しだけ怯えて見える。
「元ヤン? 違うけど。ごく普通の少年だったけど」
佐伯がなにか言ったんだ。喧嘩にならないように嘘ついてくれたんだ。
せっかく気を利かせてくれた訳だし、ここはちゃんと乗るべきだな。
「いや、佐伯さんが、相楽君は昔、よく、人を刺殺してるという噂があったって。皆から狂犬だって恐れられてて、その筋じゃ有名だったって……」
どんな嘘だ。さすがに乗れない。人殺しじゃないか。
ここで否定しないと、とんでもない噂が流れて絶対もっと大きな事件が起きる。というかヘタすりゃ退学になるよ。
「佐伯さん。喧嘩止めてくれてありがとう。でもさすがにそれは」
「だってホントでしょ? 私、小学校の頃からよくその噂聞いたよ」
ん? そんな噂ないよ。庇ってくれるのはありがたいけど、退学は嫌だ。でも、やけに真剣な目をしている。
そんなにこの喧嘩を止めるのに必死なのか……。いや、俺も真面目にしないと。これで喧嘩するようなら、それこそ停学が相応だ。
「相楽……君。提案がある。喧嘩じゃなくここはスポーツで勝負しないか? 俺も女子達の前であれだけボロクソに蔑まれた訳だし、簡単には引っ込みがつかない。ここは謝ってもらうか、スポーツで勝負するかのどっちかでお願いしたい」
勝負? 遠慮しておくよ。俺はそんなに暇じゃない。
「それじゃ謝る方で。んじゃ謝るよ。スマン。ではこれで一件落着ということで、帰って勉強でもします」
「ちょっと、ちょっと待ってよ。それじゃ俺の気が済まないンだけど、なんで勝負してくれないワケ? 喧嘩じゃないとダメなのか?」
なんでそうなる。ケンカをしたがっているワケないだろ。こいつ変。
話がどんどん久保に都合良く変化してンじゃん。お前が一人でイキがって騒いで女子を泣かして――ばか。バカ久保。
「だから、俺は喧嘩も勝負もしたくない。謝ったジャン今。どっちか選べっていうから選んだよ俺」
「ならば改めて言おう。今からサッカーで勝負してくれ。いいだろ。勉強もダメ、スポーツもダメ、女子にもモテないカスだって言ったのは相楽君だろ?」
……。なんか俺、超悪者? それになんで俺を君付けしてるワケこいつ。
「分かったよ。でも俺サッカー体育でしかしたことないけど……勝負って?」
久保は俺にいくつか質問してきた。リフティングは何回ぐらいできるのかとか、ドリブルはちゃんとできるのかとか。
「ドリブルできない。リフティングは去年のテストで二十八回が最高かな。まぁ、基本は三回くらいだと思う」あの時はグランドの端まで行ったなぁ。
サッカー部の連中が笑っている。さすがに話にならないようだ。サッカー部は、ドリブルはもちろんリフティングは百を超える。
これじゃ勝負もなにもあったもんじゃない。
「分かった。それじゃPK勝負といこうか。PKは分かるよね」
分かるよ。反則を受けた時に蹴るか、同点で試合が終了した時に蹴り合うアレでしょ。一応、知ってはいる。
俺は久保やサッカー部に連れられてグランドへと入る。
短パンにド派手なユニホーム、スパイクの裏を見せながら屈伸や柔軟する姿は、スポーツマンだ。
一方俺は、訳も分からず連れられてきて、ただ立ち尽くしている。
ブレザーに革靴……サラリーマンか。
スポーツマン対サラリーマン。勝負になるのか?
汚れると嫌なので上着だけは脱いだ。それを帰らずにいてくれた仲根に持っててもらう。一応手首足首をほぐし少しだけ柔軟をする。
なんでこんなことになったのか全く分からない。久保がゴール前で運動していた他の部活にズレてくれと事情を説明する。すると快くどいてくれた。
しかし、なぜかそれらがこの勝負の行く末を見る為に集まってくる。その光景にテニスコートにいた生徒まで集まってきた。
行列ができると並びたい心理が働くのか、どんどんと人数が増えていく。
午後の試験があってくれてありがとうと、本気で思った。これがなかったら今頃ここは……。
校庭から教室の窓を眺め身震いする。半端ない数の生徒達が、何事かと見物しに集まっていた。
「そろそろやるか相楽。俺から先に蹴るぞ」
呼び捨てか? 久保のヤツ凄いテンションだ。さすがにこれだけ生徒が見てるとそうなるか。
俺はちっとも燃えない。とんだとばっちりに嫌気がさすだけ。
久保が定位置に着きこっちを見る。俺はゴールのド真ん中で棒立ち状態だ。
ボールを手に持ちキスをする久保に、女子がキャーキャーと騒ぐ。
「行くゾ相楽」
そういうと久保が勢いよく走りシュートしてきた。
俺の居る右手下側へと速いシュートだ。
一歩だけ動くが、俺の心も体もすぐ諦めていた。ボールがゴールネットを揺らすのを見送る。砂埃がたち、俺は制服が汚れてないかの方が気になった。
女子達の歓声に久保が右手を挙げる。俺はゴールに転がるボールを取り、久保とポジションを入れ替わる。
「どうした相楽? 俺のシュートに反応できなかった? まだ全然本気出してないけどな。まあこれが俺の実力だよ」
なんか久保のヤツ、日本語おかしくないか?
定位置に着くとやけに距離を感じる。届くかな? 周りの女子の声が気になる。これが俗にいうアウェーってやつか。一人くらい俺を応援してくれてもいいのに。
いやいる。仲根君がさっきから笑って見てくれてる。ホントに助かるわ。
もう少しで一人ぼっちだ。
俺は構える久保を見て頷く。向こうも頷くのを確認して走り出した。
そして、ボール目がけて蹴りあげる。狙いは久保と同じあのコース。
アレ? 感触が……ほとんどない。やっちまった。
ちょろちょろとグランドを変な方へ転がるボール。それを見ている生徒達が爆笑している。思わず教室の窓から先生方が顔を覗かせるほどの爆笑だ。
「ナンだよ相楽。これじゃ話にならねえ。もっと真面目にやってくれ。そうだそれじゃなにか賭けようか。そうだな……本吉愛でも賭けるか? お前が勝ったら一日デートっていうのはどうだ?」
久保が本吉にお願いしてやるという。
他の生徒達が固唾をのむ。俺は本吉の方を見る。下瞼が少しだけ腫れている。
悲しそうにこっちを見ている。泣いたからか? 幼い少女のようだ。
「いや、それなら条件がある。俺が勝ったらお前が本吉さんとデートしてあげろ。今日した暴言もちゃんと謝って、ちゃんとプレゼントとか食事とかおごってな」
俺の言葉に女子達が騒ぐ。しかしそれを久保が手を挙げて制止する。そして皆に向けて俺が負けると思うかという。
周りで見ているサッカー部もヘラヘラとあざ笑う。
「いいぜ。その勝負受けた。その代り、もしもお前が負けたら、皆が見てる前で、土下座な」
俺は頷いた。次の瞬間物凄い後悔が胸を貫く。なんだこの条件はと。
勝っても負けても俺に得はない。それより何より俺は一体こんなトコで何の為に戦っているンだ。
それにさっきボールを蹴ってみてはっきり分かったが、俺はサッカーが……得意じゃない。
激しい後悔が全身を巡る中、ゴール前へと戻る。ざわつく生徒達の中で本吉愛が指を組み何かを祈っている。きっと俺が久保を倒して夢にまで見たデートをしたいのだろう。当然だ。
これでこの場所にたった二人、仲根と本吉が俺のサポーターだ。
久保が例の如くボールにキスをする。女子の歓声が凄い。
俺は中腰になり踵を地面から浮かす。
久保がどこへ蹴るか分からないが、ただ無心にボールだけを見る。久保や周りの全てを消し、ボールだけを見る。
――来た。左手下の隅だ。激しい砂埃をたてて、俺はボールに飛びついていた。ギリギリだけど、どうにか掴まえた。
一瞬静まる校庭。高く舞う砂埃が俺の制服を完全に汚した。
じゃりじゃりと口元に砂がつき、鼻からは懐かしい土の匂いが脳へとくる。
ボールを持ったまま久保とすれ違う。所定の位置につきボールから離れた。
本吉を見るとまた祈っている。俺は久保を見た。余計な小細工はせず、まっすぐ思いっきり久保を撃ち抜くつもりで蹴ることにした。
思いっきり。
俺は軽くステップを踏むように走り、ボール手前で速度を上げた。
「行けぇ」良い感触だ。
するとボールがとんでもなく高く、ゴールポストの遥か上を飛んでいく。
少し離れた所にある金網をも越え、テニスコートへ入った。失敗した。
やはりサッカーは向いてない。
こんな事ならバスケやバレーボールと同程度にはしておくべきだった。
当たり前だけど、手は使えないし、難しいし……、挫折した。
シーンとしたまま俺と久保はすれ違う。
ゴール前に着くと、久保が何度もボールを地面でクルクルと回し、位置を直す。
俺はボールに集中する為、雑念や周りの景色を消す。
見えるのはボールの柄や汚れだけ。
こんなに離れているのに、目の前に見える。
――来た。右手斜め上。俺はジャンプしてボールに手を伸ばす。
届かない。いや、辛うじて中指と薬指が触れた。
少しだけ弾き押し出すと、ボールがゴールポストに当たる音がした。
地面に転がる俺はボールの行方を探す。とりあえずゴール内を見る。……ない。決まったのか防いだのか分からない。
砂だらけのまま立ち上がりボールを探す。すると久保がボールを手渡してきた。俺は頷き入れ替わる。
シーンとしたままだ。鼻の奥と喉にミクロの砂が張り付き痛い。息をするだけで辛い。俺は何をしているンだろ?
集中して置いたボールを見る。今度こそ決めるとゴールを見て久保を見る。
絶対に決める。
思いっきり走り思いっきりボールを蹴り上げた。しかし、ボールは自分が思っていた方向とは真逆の方へ曲がって飛んでいく。
ゴールポストの脇を遥かに外れて見知らぬ彼方へ。
ダメだ。勝てる気がしない。サッカーをしているのに、素人のゴルフスイングが思い出される。ダフったり浮いたり曲がったり……。
皆が笑っている気がする。ヘタクソ過ぎて恥ずかしい。
残りはいくつだ。あと……二球か。
俺はゴール前で腰を落とし構える。
久保は思い出したかのようにボールにキスをする。しかし誰も騒がない。
久保はボールから離れると、シュートコースを決め悩んでいる。
俺はただ集中してボールだけを見る。俺にできるのはボールを止めることだけ。勝つ為のチャンスがあるとすれば、それはゴールをわらせないこと。
来た。俺はただボールの動きに合わせて飛びつく。抱え込み地面を転がる。
嫌というほど砂埃が上がる。
出来ればスプリンクラーか何かで水を撒いて欲しかった。とはいえ、水浸しじゃズボンとシャツが逆に大変なことになるか。
淡々と位置を入れ替わる。久保とすれ違う時、久保が何かを言ってきた。
俺はボールを置き助走位置まで下がる。なんて言ったんだ? ん~?
確か、これを決めないともう勝ちはない的な……。ん?
マジか。そっか、一点取られてンだった。賭けをした時からだと思ってた。
ヤバイ。これを決めないと勝ちはない。最高で引き分けになっちまう。
パスでもするようにとりあえずゴールに蹴ろうと思ったけど、それじゃダメだ。例え枠を外れてでも、本気でいかないと可能性はない。
……って、可能性あるのかこれ?
力まず集中して、蹴る時のインパクトをしっかりと意識して。
よし、いくぞ、集中しろ。
俺はゆっくりとステップを踏み、蹴る瞬間にスピードをマックスに上げた。
そしてゴールに立つ久保を睨むように見る。
「うらあァ」行け、俺のファイナルショット。
あら? ボールが見当たらない。
すると湿った土と一緒に俺に降りかかってきた。
俺の手前一メートルくらいに落ちて転がるボール。
ボールを置いていた位置の土が抉れている。気付くと片方の靴がない。
キョロキョロしていると見ている生徒達の近くに無残に転がっていた。仕方なくケンケンして取に向かうと、気を利かせて仲根が途中まで持ってきてくれた。
「あ、ありがとう仲根君」
「いや、いいよ。それより平気?」
「全然ダメ。靴もこんなになっちゃったし」
お気に入りのローファーが砂と土とシワが入ってしまった。
勝ちを失くした俺はこの勝負を引き分けに導くべく歩く。
本吉の願いを叶えることはできなかったけど……、ここからは俺の土下座だけを賭けての勝負だ。
俺は集中し構える。久保は一連の流れでボールにキスをして離れる。そして滑走位置で手首と足首をほぐしている。やけにリラックスしている。
負けがなくなったからか?
来る。ゆっくりとしたモーションから蹴ってきた。ゆるい。ふわりとした感じ。これは誰がどう見てもワザと引き分けにするつもりのシュートだ。
こんなとこで余裕みせて、格好つけてこんなシュートしやがって。
もちろん俺は土下座なんて御免だとボールを取にいく。
だが、なぜかボールが揺れる。ヤバイくらいにぶれる。ありえない動きだ。
魔球としか言いようがない。定まらない。
よくみるとボールのマークがずっと俺を見ている。無回転? なんぢゃこれ?
目の前で右に左に曲がりどうしていいか分からない。
そのままブルブルと変な動きをするボールが、俺の顔の横をすり抜けていった。
――クソ。負けちまった。……ヤバイ、土下座だ。
久保がニヤニヤしながら寄ってきた。
「どうよ俺の無回転シュート。ビックリしたろ? なっ、スポーツできないダメなヤツじゃないだろ? でさ、土下座の件だけど……ひとつ許してやる条件がある。それはうちのサッカー部に入って、キーパーやってくれるのなら――」
「断る」
俺はそう言うと皆が見ている前で地面に正座し、地面に額を擦りつけ謝った。
「数々の暴言、申し訳ありませんでした。ホントごめんなさい」
以上。俺は立ち上がり久保を見ずに仲根の元へ歩く。
目を合わせなくても皆の視線が俺を見ていることは分かる。早くこの場から立ち去りたい。最悪だ。
仲根様が俺の服に付いた砂を叩いてくれた。俺もズボンの汚れを叩く。惨めだけと仲根君の優しさが痛いほど助かる。こんな最悪な時に友達のフォローは暖かい。
テストに失敗し、女子にフラレ、同級生に土下座……惨敗だ。
「仲根君、さっき断っちゃったけど、やっぱ……遊びに行きたい」
「別にいいよ」