二九話 再会
文化祭を二日前に控え、俺は学校を休みギブスを外しに病院へと向かった。
前回のレントゲンで綺麗にくっ付いているのは確認済みだが、ギプスを外した後も腕にはサポーターをしておくようにと説明を受けた。期間にして一週間程度。
お金は全て学校から出ることになってはいるけど、今日までに結構な額になっているし、なるべくならこれ以上余計な出費はかけたくないと思う。
余談だけど、医者はギプスと発音良く言っているけど、一体、ギプスとギブスのどっちがあっているのだろう……、ふとそんなことが過った。
色々な説明を聞いた後、ギブスを外してもらい、軽い診察を受けて、電気治療をした。更に薬の入ったお湯の中に左腕を入れ、手首と指を動かすリハビリをした。
しばらくは無茶せず、一週間はリハビリに通院しましょうと言われた。
と同時に、あとはリハビリだけなので、この病院ではなく家の近くにある診療所に通えるようにと、カルテか何かの入った紹介状を書いてくれた。
軽くなった腕に、念のための専用保護サポーターをされ、院内一階大広間で精算を済ました。一応、一安心。
午前中に家路に着くことが出来たが、凄く暇だ。
洗面所でサポーターをずらし怪我をした腕とそうでない腕を比べる。一まわりは細く、日焼けしたはずの腕なのに、もう片方と見比べると数段白く見える。
鏡に映る自分を見る。
勉強ばかりだと体は衰えるけど、夏の仕事のおかげか体育祭の為にした鬼ごっこのおかげか、怪我した腕とは違い、まだ引き締まっていた。
「大分伸びたな~髪」
夏休みの初日に切った髪も、三カ月とちょっと経つと相当伸びている。整髪料で流していたから気にはならなかったけど、せっかく学校も休んだことだし――。
「切りに行くかぁ」
商店街にいくつかある美容室の一番地味な店へと入る。そこは昔から俺をカットしてくれている、オバチャマと呼ばれるおばさんがいる店だ。
店には数人の若い店員もいるが、俺やお爺ちゃんやお父さんは、店主であるオバチャマが担当してくれている。
ちなみに良治君もこの店で切るが、いつも一番若い新人の子にカットして貰っている。
「今日はどうする、アキちゃん。また短くする?」
「いや、冬だし~、でも耳のトコとうなじは短くして。……あとは長めで。いや、ま、やっぱオバチャマにお任せします」
「はいよ。お任せね。それじゃカッコよくしてあげるわね」
ここへ来るとなぜか眠くなる。頭をいじられているからか、それともオバチャマの話が退屈だからか。とにかく眠い。
話はいつも学校で彼女ができたのかという問いか、自分の近況報告か、テレビの時事ネタか。
コクリと首が落ちるのを、何度も直されながらカットされていく。
悪いなとは思うが、どうしても瞼が重い。
「そう、でね、居なくなっちゃったんだってさ。大変なのよね~。私はまだそんな年でもないけど、ほら、こうやって立ち仕事してると――」
上の空で頷く。聞いてますと演技してたまに愛想笑いも入れる。しかし、それが目の前の大鏡に映っていてなのか、他の店員が笑う。
その笑いで目が開く、毎度のことだ。
「はい。終わったわよ。ダンディに仕上げといたから」
「どうも」
少し雑談しながら会計を済ませる。
お父さんにもそろそろくるように伝えてと言われ、分かりましたと店を出た。
首筋や頭全体がすぅすぅする。指先で髪型を感じながら家へと歩く。
時刻はまだ昼の一時前。
大分お腹が減ってきた。商店街のパン屋さんから良い匂いがする。けど、やはりご飯ものでお腹を満たしたい。
ああ、学校に行っていたら、今日も美味しいお弁当が食べられたのに。
立ち並ぶお店を見ながら家へと着いた。ガレージにお父さんの車があり、なにか忘れ物でも取りに来たのかなと玄関を開けた。
「ただいま。お父さん、居るの~? いないの?」
玄関には確かにお父さんの靴がある。それともうひとつ女性物の靴。
気配を探すようにリビングへと向かうと、途中の客間のドアがスッと開いて俺を驚かすように「ばぁ~」と飛び出してきた。
俺はびっくりして後ろへ仰け反る。
「びっくりした章和ちゃん」
「美織お姉ちゃん? わぁ~美織お姉ちゃん」
ビックリと同時に、違う意味の驚きが体を駆け巡る。
懐かしい笑顔が目に飛び込む。
招かれるように客間へと入ると、お父さんとそれと大きな犬が伏せていた。
犬種はジャーマンシェパードだ。
「よかったな章和、美織ちゃんに会いたがってたもんな」
俺は素直に頷く。照れながら美織さんを見ると、面影はあるけど別人のような、大人の女性になっていた。まぁ元々、俺が小学生当時も、美織さんは大学生の大人ではあったけど。
長かった髪が肩まで切られてて、毛色も薄茶色だったのに、真っ黒。
あれから何年も経っているし、当然と言えばそうだけど、綺麗さが増している。
年齢というか、どこか大人な雰囲気が町下先生と似ている。もちろん違うけど。お化粧というか匂いと言うか……とにかく大人の装いだ。
「章和君は今日、学校お休み? 開校記念日かなにか?」
腕を怪我して、今さっきギブスを外してきたところだと説明した。
開校記念日か何かだと思ってくれたということは、俺がちゃんと高校へ進学したと思ってくれたわけだ。
俺の過去を知っている美織さんなら、普通に考えて、俺は中卒で、お爺ちゃんの仕事を手伝っている的な方向で考えるはず。……俺、超バカだったし。
だから、嬉しい。
美織さんに会ったら専智学院に入ったことや特進クラスだということを言おうと思っていたが、いざ、目の前にしてみると言葉にできない。
美織さんは地方の出身だから、高校名だけで偏差値が分かるほど詳しくないし、自慢げに話したところでしょうがない。
何も分からない美織さんに自ら自慢するのは嫌だ。
そんなヤツに思われたくもない。
俺はただ昔のように褒めて欲しいだけだから……。いや、欲を言えば頭を撫でて欲しいけど。もうそれは無いと分かる。
褒めてもらうのは、有名大学に合格するまでおあずけだな。
自慢せずに色々な話をした。
「でも、突然どうしたんですか美織さん?」
「俺が呼んだんだよ。ちょっと頼みたい用があってな。丁度美織ちゃんもこっちに用があってな、それじゃついでにお願いって」
お父さんの用が何かは教えてくれないが、今の美織さんの状況は話してくれた。
美織さんは大学を卒業後、獣医師になる為に大学時代から専攻していた獣医学を更に二年学び、規定通り六年の課程を経て国家試験に無事合格した。
お父さんの店のバイトを辞めてお金がなかった美織さんは、お父さんの知り合いが務める動物病院で手伝いをしながら、再度学校に通ったのだという。
お父さんは珍しいペットを飼っているから、色んなジャンルのペットショップや獣医師と繋がりがあるようだ。
その手伝いが、ひょんなことから、警察犬を訓練する訓練士の助手をすることになったらしく。更に、なにがどうなったか、美織さん自身が訓練士を目指すはめになってしまい、やむなく今はその修行の途中。とのこと。
訓練士になるのに少なくとも五、六年は軽くかかるという。
「と言うことは、今はまだ見習いというか助手を続けてるんですね」
「ン~、ちょっと違うけど。でもあと二、三年経てば訓練士にされちゃう」
されちゃう?
どうやら、美織さん的には、獣医の国家試験も受かったし、獣医師になるつもりだけど、お世話になった先輩の顔に泥を塗れなくて、今はまだ、流れで、なるべく助手という立場を続けているようだ。
「この犬って、警察犬? それともまだ訓練途中の犬?」
「警察犬。何でもできちゃうわよ」
だろうね。テレビで見たことある。よく腕に噛みついてぶら下がって……。
もしかして、俺の左腕のサポーター見て、その犯人だと勘違いして喰らいついてきたらどうしよう。これも何かの訓練と思っちゃって……コワッ。
たまにチラチラ見てくるし、ターゲットにされてる気が。目が……合う。
「で、でも、またナンで助手の美織さんが一人で犬連れているンですか?」
「それがね。もう大変なの」
先輩である訓練士の英理佳という人は警察の鑑識課、つまり民間ではなく公務員であり警察官。しかもとにかく自由奔放で、おまけに美織さんをどうしても鑑識課に引き込みたくて、ありとあらゆる手を尽くすという。
もちろん美織さんは警察官ではないし、訓練士になれたとしても民間のなんたらという別のなにからしいのだけど、なにより動物の扱いが上手くて、獣医師の国家試験にも受かっている美織さんを引き入れたいのだ。
簡単にいえば、英理佳という四つ上のその先輩に親しまれていて、一緒に仕事がしたいと気に入られてしまったという話。
「実はね、今日ここに来たのは――」
美織さんが自分の方の事情を説明してくれた。
「人探し? 犯人じゃなくて? 警察犬ってそんなこともするンですか?」
「そう。その御婆ぁ様を探すの。今は多いみたい、そういうこと」
どうやら最近では、高齢化にともない、街を徘徊し迷子や行方不明になった老人を探すことが多くなったようだ。もちろん居なくなった子供もだけど。
ある程度の年の子だと、家出のケースが多いらしく、その場合、電車や車を利用していることが多い。当然範囲も広く、一匹で捜査するのは無理らしい。
余程の事件の確証がない限り、他との連携もなく、犬での捜査はそこで打ち切りとなる。もちろん事件となれば、どんなに範囲が広くとも続行し、とことん詰めていくらしいけど。
俺は世の中がそんな風に変わっていることに驚いた。てっきり警察犬は悪い事をした犯人を捕まえる為だけの犬だと思っていた。
でも確かに、警察犬の中には、災害時に活動する犬や、空港などで危ないモノや薬などを嗅ぎ分ける犬などいる。
本で読んだだけだから、そこら辺のところは本当かどうかよく分からないけど、色々あるのかも知れない。……って、警察犬とは別かも知れないし。
「できたら章和君に手伝って欲しいの。ここら辺詳しいでしょ。居なくなった人、実は警視庁のお偉いさんの義理のお母様なんですって。年は――」
なんかさっきどこかで聞いたような。どこだったかな……。
俺が思い出そうと考えていると、お父さんが横から手伝ってあげなさいととんでもなく場違いなセリフを入れてきた。
俺は言われなくても当然手伝う気だったのに、これじゃまるで渋っていたみたいに取られてしまう。それどころか、親に言われたから承諾したみたいになる。
とんでもないことだ。ありえない。
今まで散々お世話になった美織さんに、やっと恩返しが出来るとこだったのに。一生懸命教えてくれてもバカ丸出しだった俺を見捨てずに優しく教え続けてくれた美織先生に、ついに俺の成長を見せれるチャンスだったのに……。
なんってセリフを吐くんだお父さん。
「いや、もちろん喜んで。引き受けるよ」もう。お父さんのアホ。
「ありがとう章和君。ごめんね~。助かる」
ふう。悲しい。
とりあえず昼食を食べた。お父さんはすぐに店へと戻っていく。
俺と美織さんと警察犬は、一度俺の部屋へと向かい、近所の地図をパソコンから印刷した。
「この子なんて名前?」
「あ、そうね。この子、ノブマサっていうの。話せば長くなるけど、簡単に言うと名付け親である英理佳さんの元彼の名前……。悪しからず」
なんも言えない。ツッ込む腕もない。それに誤魔化す為に「ノブマサ~」なんて言ってヘタに警察犬を撫でる勇気もない。
俺にできるのは、ただじっと笑顔で呑み込むだけだ。
地図を持ち、俺と美織さんとノブマサはある御宅へと向かう。
ウチの近くの商店街を渡った別の地域。さほど遠くはないが、学区域は違う。
俺と美織さんの、いや、ノブマサの探索は、こうして幕を切った。
「ここですか?」
「そうここ」
磯島と書かれた名札と、高級な門。そこから奥に、手入れされた庭が見えた。
美織さんがインターホンを押すと中からお手伝いさんらしき人が出迎えに来た。佐伯の家ほどではないけど、どう見てもお金持ちと分かる。
玄関まで着くと、身なりの良いおばさんが出てきた。手には着物や写真があり、説明しながら美織さんへと渡してくる。
「それでは、これとお写真をお借りします」
美織さんは、ハンカチと肌着の様な物をそれぞれ別々の袋へと入れ大きなカバンにしまう。そして相手の焦りをさっしてか、急いで捜索を開始した。
片膝を付き、ノブマサに匂いを嗅がせ、サーチさせる。
俺はそれをただただ見守るばかりだった。
ノブマサが早速玄関から動き出した。鼻を地面に這わせ、何度も嗅ぐ。テレビや映画とは全く違う感じだ。
こんな普通な街で本当に辿り着くのかと、半信半疑でノブマサを見ていた。
動き出すノブマサの後を黙ってついていく。
警察犬の気を散らさないように、動作に気を付け、敢えて少し離れてみた。
ここは美織さんとノブマサに普段通りの状態で探索してもらうべきだと思った。なにせ人の命がかかっているかも知れない。
ゆっくりと進んでいく。犬を見ながら地図を確認していく。そしてポケットから預かった写真を取りだし、視覚でも探す。
俺としては公園を探したい。しかし犬は、はいそうですかとは行かない。
ま、公園といっても、近場の公園や思い当たる場所はとっくに家族が捜しているに決まっている。きっと心当たりを見て回り、それでも見つからず当ても外れての警察犬ノブマサの出動だ。
色々と考えた。清水に飼ってもらった、あの子猫の居た神社ではないか、とか、もしくは別の場所を想像する。駅ビル。図書館。憩いの家など。
しかし、これがもし、すでに主を亡くし空き家となった知り合いの家などに勝手に上がり込んでいるのなら、とても見つかるとは思えない。
そういう特別な何かが起こっているとも考えられる。
美織さんとノブマサが見えない糸を手繰るように進んでいく。
必死に頑張るノブマサと美織さんをずっと見ていたら、なぜか、志星館のことや専舞女学園のことが浮かんできた。皆、本に出て来る主役のようで羨ましい。
合同体育祭の時も同じようなことを感じたことを覚えている。
志星館日体。どんな生活を送っているのだろう。
専舞女学園もそう、生徒会や風紀委員、得体の知れないブス部やサバイバル部、他にも色々と。
体育祭で皆を見た時、あまりのカリスマ性に正直ショックだった。まるで一位に君臨する里見的存在がゴロゴロしていた。
それに比べて俺は、なんてちっぽけで華がない。
美織さんがこうして特殊な職業について頑張っているのに、俺はといえば将来が漠然としている。
ついこの間渡された進路希望表にも、東京大学と記入したけど、実際、何科、にするのかも決まっていない。
無理に東大じゃなくても、東工大だって、お爺ちゃんの好きなロボットや機械を作れるだろうし、本当ならもっとしっかりと考えなければいけない。
お爺ちゃんだって、昔はバンドを組み、人前でロックしていたけど、本当の夢を見つけて今は重機のパイロットをしている。
それだって、ただしているワケではない。資格や免許、パソコンでの設計とか、一から学んだらしい。
そして、今から何十年も前に、お爺ちゃんが設計した最安値の省エネオール電化ハウスや左利き専用ハウスは、きちんと特許も取って、今では他社も当然のように左利きハウスを設計している。
バリアフリーは気付けても、左利き専用の家なんて想像もつかない。
今じゃ、駅の改札や公共施設にも、左利き用が溢れている。
確かにドアノブ一つとっても右利き用だし、トイレも風呂場も、左手では微妙に扱いにくい。ただ、ウチは俺もお爺ちゃんもお父さんも右利きだから、よくそういったことに気付けたと思う。なぜだろう。
もしかしたら、お婆ちゃんが左利きだったとかなのかな?
お爺ちゃんは他にも、ある制度を独自に作った。これは他社には受け入れられてないけど、社員には好評だ。
それは、育児休暇復帰後出世制度。育児休暇をしっかりとって戻ってきた者に、必ず出世待遇で迎えるという制度だ。
他にも妊娠発覚で部署選択という特権を貰えたりする。
つまり子供ができた時点で、昇格&好きな持場へ移動。念願の重機に乗ることも現場監督にも、危ない現場を離れ本社の事務にもなれる。
良治君や邦茂オジちゃんの部署でも、ハーフ優遇雇用制度というのを作ったようだけど、残念ながらイマイチうまく機能していない。
それは制度というより、人だ。つまり、優遇してもだらけたり辞めてしまう。
お爺ちゃんは数年様子を見ればというが、良治君は現状にうんざりしている。
当初、同じ国籍なのに、ハーフなどの見た目や偏見で働きづらいだろうと思ってのことだったが、頑張る者は頑張るけど、そうでない者は優遇しても辞めてしまう悪循環が起こっていた。結局は人それぞれだった。
俺は、お爺ちゃんや良治君達の仕事ぶりや会社に対しての生き方を、本気で尊敬している。お父さんももちろん、美織さんの様な、親元を離れてお金に不自由している人を優遇してバックアップしているし、皆、誰かの為に一生懸命だ。
それに比べて俺は、誰かの為に何かをしているだろうか。……できていない。
美織さんの後姿をぼんやりと見ながら、学校の皆のことを思い出す。
ノブマサが少しずつ進んでいく。
しかし、車が通るような道では相当苦戦している。交通量のせいでイチイチ匂いのラインから避けて、また戻るということを繰り返す、これではノブマサの集中が途切れてしまわないか心配だ。
公園を抜け更に国道を渡る。何度も迷いながら消えかけた痕跡を辿っている。
古びた店が並び、シャッターの閉じた寂れた商店街へと来た。
すると、廃業となったパチンコ屋の前でノブマサの動きが止まった。
「え? ここが怪しいの、ノブマサ。本当?」
美織さんがノブマサを撫でながら問いかける。ノブマサは頷く。
俺は後方から、複雑なやり取りを新人アルバイトのように見ていた。
きょろきょろと辺りを見渡し、出入り口を探す美織さん。
正面の自動ドアは反応しない。
ノブマサのサーチが再度始まり、匂いの糸を辿る。
「章和君は待っていて」
そう言ってパチンコ屋の裏側へと入って行った。
しばらく経ったが、なかなか戻ってこないし反応がない。
待てと言われて、じっと待っていられるほどの名犬ではない俺は、徐々に心が、かゆくなる。それでも言いつけは守った。
「おかしいな。そろそろ出てきてもいいのに……」
人を待つことになれていない。デートで待たされている子はどうやってこの暇を持て余すのだろう。
あと十数えて戻ってきたら今日はラッキーなことがあるという遊びも終えたし、あと百以内で出てきたら、美織さんが俺のことを好き、という賭けをして、負けも味わった。
他にも色んな数え遊びをしたけど、まったく出てくる気配がない。
ノブマサの調子が悪いのかも知れないけど、もう我慢できない。
かれこれ、もう四十五分はゆうに待っている。
俺は美織さんが向かった裏側へと歩いた。建物沿いに細い道をぐるりと回る。
小さな門扉を抜け、石の階段を上がる。許可を得ていない侵入はドキドキする。きっとこれは不法侵入だ。
いくら警察犬の捜査とはいえ……家宅捜査的な書類が必要なのかも。そんな感じのやり取りをテレビドラマで見た。
こいうケースはやはり、裁判所から書類を貰うのかも。
ただ、人などいるのだろうか……。随分とほったらかしな感じだけど。
美織さんはノブマサが勝手に入ってと言い訳が出来そうだが、俺はそういうわけにはいかない。自分の意思で、自分だけの足で侵入してしまっている。
しかも美織さんは『待っていて』と俺を止めたにもかかわらず。
三階まで上がると錆びた鉄扉が開いていた。
小声でお邪魔しますと言いながら足を踏み入れると、奥の方に気配がする。
怒られたら怖いと思い、隠れながら中の様子を見る。
パチンコ屋さんに入ったのは生まれて初めてだが、自分が想像していたのと全然違った。
パチンコ台というよりカジノにあるようなスロットマシンばかりが並んでいる。はっきりと見えていないけど、外からイメージした雰囲気より高級な空間だ。
薄暗い中、人の気配を避けるように隠れて移動する。気分は既に泥棒だ。
もしかしたらノブマサに怪しまれて、それこそ噛みつかれるかも知れない。
「あ!」
美織さんと目があった。
しかし俺の目に飛び込んできた美織さんは、なぜか縛られていた。
状況が把握できなくてじっくりと眺める。やはり縛られている。
たぶん不法侵入として捕まったのだろう。
その内お巡りさんが来て、ああでもないこうでもないと言い訳をしなければいけなくなるだろう。ま、警察犬ノブマサもいるし、ちゃんと依頼主もいる。
しかも依頼内容は警視庁のお偉いさんの義理のおばあ様だというし、誤解はすぐに解けるだろう。
俺も実際、依頼主の御宅まで行って、話も聞いたし写真も借りたし……。
ん? なんだ?
美織さんのだいぶ奥に、年老いたお婆さんが座っている。
よく見ると縛られている。
薄暗さに目が慣れてきたおかげか、なんとなく顔も分かる。
写真で見たお婆さんだ。服装からいっても間違いなくそう。でも……。
なんでだ? 迷い込んだ老人を縛るか普通?
警察に届けるとか……しないかな。
急に嫌な予感がした。お婆さんが居なくなったのは昨日の夕方辺り、つまり最低でもこの状態で一泊……。いや、お婆さんもついさっき来たのかもしれないし。
これってちょっと怖い状況なのでは、と心が身構える。
しかしそうと決まった訳ではないし、そう思いたくはない。絶対にヤダ。
目の前の光景を信じたくない。
焦りが急に、床に敷かれた絨毯を冷たく感じさせる。
このフロアーは本当に暗くて、どこかにある小さな小窓から入る外の薄明りが、美織さんのいる辺りを辛うじて照らす程度。
俺は隠れながらそこに居る者達の会話を聞こうと耳を澄ます。しかし一向に誰も話さない。
テレビや映画なら、とっくに何か話して情報を得られるのに、煙草を吸う音や缶ジュースを飲む音だけがフロアーに響く。
どうする? 俺は刑事じゃないし、ましてや主役じゃない。
ここは一度外に出て警察に連絡を入れるべきだ。それが唯一俺にできること。
それが俺のミッションだ。
なんでこんなことになったンだろ? 怖い。
来た道を這うように戻る。しかし、先程入ってきた扉がなぜか閉じていた。
これではすんなり出られない。
ばれるのを覚悟で開けて、ダッシュするか……っダメだ。
そんなことしたら追いかけられるだろうし、へたすればこの場所から美織さんとおばあさん連れて移動される。
ヤバイ。ウソでしょコレ。
もしかしたらお父さんやお爺ちゃんの仕掛けたサプライズってこともあるよね。ドッキリとか。美織さんも一緒になって……。
いや、それにしては、磯島邸の雰囲気がリアル過ぎる。名演技過ぎる。
でもお爺ちゃんは会社で遅刻や無断欠勤の過度な者の罰ゲームに、重機を使って改良版逆バンジーをしたり、ロケット砲や地獄のメリーゴーランドという罰を与えたり色んな遊びをするから、もしかすると、これもそういう何かかも知れない。
いや、その考えには無理がある。全然雰囲気が違う。
お爺ちゃんも良治君もこういう雰囲気のものは好きじゃない。お父さんもそう。邦茂オジちゃんならやりかねないけど、する意味がない。
……ヤバイ、考えていたら恐怖が倍増してきた。
所々に差し込む光を避け、移動しながらもう一度様子が分かる所へ移る。
美織さんは手足を縛られて床に座っている。紐ではなくテープか何かをグルグルと貼られている感じだ。ノブマサはその横で良い子に伏せる。
その奥にぐったりとした感じで、お婆さんが座っている。
――ドッキリじゃない!
外で待っている時は、お婆さんがパチンコ依存症か何かで、つい懐かしくて来たのかなと、建物の外観を眺めていたけど、これはヤバイ気がする。
早とちりだといいけど、俺の鼻には事件の匂いしかしない。
どうにかして逃げ出さないと。俺が連絡をしないと。
ん? 待てよ、俺、携帯持ってるし!
お父さんとお爺ちゃんにメールして、警察に連絡して貰おう。
そうすればドッキリかどうかも分かるし、一石二鳥だ。
物陰に隠れながら二人にメールをした。
状況を説明し、メールの最後に、今は返信しないでと何度も念を押した。マナーモードにしているとはいえ、あのウ~ウ~ってバイブ音は普通にバレそう。
本当なら電源を切りたいけど、携帯を使いたくなっていざ電源を入れた時、音が鳴ったり何かしらの反応しては怖いからそのままにした。
隠れながら美織さんを覗きに行く。
美織さんは完全に俺のことを気にかけてくれていて、すぐに視線が合う。暗くて分からないけど、見ているのは分かる。
それとノブマサも、完全に俺の気配に気づいている感じだ。
俺は地面を這いながら、この場所にどんな感じの者が何人いるのかの確認をすることにした。ゆっくりと慎重に動き、一人目を見つけた。
心臓音が工事現場のようにドドドドと床を掘る。
とてもじゃないが、全員を確認する作業をできない。怖い。
見つかりそうで無理だ。
それに、同時に確認しない限り、本当の人数確認にならない気がする。
諦めて安全な場所を探す。
警察がどれくらいで来てくれるか分からないけど、とにかく身の安全を最優先で動いた。すると、俺の隠れている奥に、下へと降りられる大階段があり、俺はバレないように這いながら下りた。
まるでこっちが、恐怖映画の化け物みたいだが、見つかる訳にはいかない。
一つ下の階に下りた。
地面を這った姿勢のまま、この階に誰も居ないかを確認する。
このフロアーは、上の階より更に暗い。
下の階からの光と、どこかから差し込む光だけ。
良治君とお父さんとネットでやる、コンバットゲームのように見回る。
どうやらこのフロアーには誰も居ないようだ。まさか、パソコンゲームの経験が生かされるとは……。
一体どうしたらいいだろう。
こんな時、映画なら格好よく戦うのだろうけど、俺には無理だ。
習い事もしてないし、ケンカさえ三度しかない。しかも三連敗。つまり、弱い。
そう言えば良治君と喧嘩がどうという話になった時、ケンカは絶対にしない方がいいけど、どうしてもそうしなければいけない時があったら、迷わず武器持って、思いっきり頭以外の急所を破壊しろって言ってた。
なにも格闘競技の試合してるわけじゃないと、大切な人を守る為とか自分の命を守る為なら、迷わず武器で仕留めろって。
自分が純粋な被害者であるなら、敵側はただの犯罪者。異常者。
敵の暴力や殺意には、きちんと正当防衛を行うべきだと。
その時は、なんてとんでもないことを言ってるんだと思った。けれど、いざこうなってみると、凄く正論に聞こえる。
まぁ、素手や正攻法で華麗に倒せるわけもないけど。
ただ、俺には絶対無理な話だ。やれっこない。
迷わずにってところがまず無理。絶対に躊躇するし手加減する。
俺は臆病だから。
俺は腕時計を見た。メールしてから十五分位経つ。
ん~。ぬ? この時計……。この時計をこの階の更に下の階に隠して、アラームを鳴らしたらどうなるだろう? 上にいる変な奴らはどうする?
こわっ。絶対無理だそんなこと。ソレした時点で俺の存在がバレる。
でももし成功すれば、一階に向かう間に美織さん助けて、お婆さんをおんぶしてドアから逃げ出せばいい。
そんな都合よくいくか~。行かないだろ。
普通に考えても見張りが残るし、ドラマや映画なら、結局戦って倒すジャン。
……無理。じゃあ無理。
迷いながらもとりあえず一階まで下りてみた。
下りてみると、先程、外から見ていたガラス張りの正面出入り口から明るい光が差し込んでいる。
シャッターが半分ほどしまってるが、それでも上の階に比べれば普通に見える。
自動ドア前まできて、警察が来てくれているか外を覗き確認する。
人気が全くない。ここは不況で朽ちた寂れた商店街。誰も通っていない。
どうしよう。
フロアーが明るいので、人が来そうな方向から死角になるよう物陰に潜む。
腕時計を外し、眺めたりポケットにしまったりを繰り返す。
臆して全身が震える。先ほど立てた安易な計画を実行に移す勇気がない。
ポケットを探るが財布しかない。普段仕事の手伝いをする時は、工具や七つ道具的な物を持っているが、今はない。肝心なものがない。
そう、それは美織さんを縛るテープを切り裂くカッターかハサミがない。
時計を出し入れしながら焦る。そして探す。いざという時の為に探す。
結構な広さのあるホールを中腰で歩き回る、がもちろん床にもパチンコ台らしきものにも役に立つモノはない。……何かが落ちているはずがない。
段々と焦りで足早になり、忍者のように動き回る。
トイレに行く通路をまたぎ、更に奥へと進む。すると正面に大きなカウンターが見えた。
何かありそうだ。
俺は透かさずカウンターへと潜り込む。引き出しを開けると、色々な物に名前を貼れるテプラがあり、ボールペンやセロテープなどがあった。
順番に引き出しを探る。
「あっつ」
思わず声がもれてしまった。あった。はさみもカッターも両方ともに。
俺はそれらをポケットにしまい。もう一度時計を見る。
上から物音が聞こえる。上で何か大きな動きがあったのか?
それともただの物音か。
早く様子を見に行かなければ美織さんが心配だ。
でも待てよ、果たしてこの腕時計のアラームが三階まで聞こえるか?
確かにシーンと静まり返ってはいるけど、さすがに一階からでは無理か?
これが目覚まし時計なら確実に届く静けさだけど、腕時計となると危うい。
無理かもしれない。
かといって二階にセットするのは意味がなさ過ぎる。どうにかして一階まで誘うしかない。となると、まずは二階に誘いだして、そこから更にアラームで一階へと導くしかない。
俺は必死にピタゴラ装置を考える。
三階から紐を引き椅子か何かを倒し敵を誘う。更に一階へと腕時計のタイマーでひきつける。いやもっといい方法を……。
凄く怖い。ゲームならとりあえずやってみるけど、これはリアルだし怖い。
予想外のことが起きたり、いきなりフロアー全体の電気がついたらどうしよう?
――ないない。ここに電気なんか通っている感じじゃない。
落ち着け俺。ドキドキと震えを抑える為――いつも集中する時の行いをした。
よし、とりあえずもう一度、お父さんとお爺ちゃんにメール連絡して、ちゃんと警察に通報してくれたか確認しよう。怖い作戦よりもまずお巡りさん。
送信し、二分ほど待つとお父さんから返事が来た。
俺は画面の光とバイブ音にビビり、お腹に隠す。
少しでも消音になればと丸くなる。抱え込む。
ブルブル震えながら階段の方を意識し、バイブでもバレそうだからアラームでも平気かもと怯える。
お父さんからの返信を見ると、仕事中で今携帯を見たとのことだった。
連絡はすぐ入れると短く書いてあった。
文の短さで急いでくれているのは分かったけど、それと同時にお爺ちゃんは仕事中で携帯を見ていないだろうと想像がついた。
恐ろしい。やはりドッキリやサプライズでもなく、そして、警察への連絡さえもされていなかった。ただ、今確実に通報されるのは確か。
こうなると、警察に連絡が入った所で本当に動くのかも不安だ。メールを送れば相手が見ると思ってたのと同じで、何でもかんでも上手くいくとは限らない。
最悪を想定して動かないと足元すくわれそうだ。これで退路は一つ絶たれた。
俺は一階奥の裏扉の前に来た。鍵のかかったそのドアを解除し、ゆっくりとドアノブをひねり一度表に出ようとした。しかし次の瞬間、全身に寒気が走る。
もしこのドアを開けたと同時に警報ベルが鳴ったりしたらアウトだ。ベルでなくても、何かしらのトラップが仕掛けてあったらマズイ。
外に出られたところで、策もない。逆にロックがかかって戻れなくなると困る。
俺はゆっくりドアノブを戻した。
冷静に考えられているのか、それともパニック状態か分からないけど、気付けた不安材料は避けておく方が吉だ。
カウンターへ行き、ビニール紐やセロハンテープなどをポケットに入れた。
他にも使えそうな物を手当たり次第に探り、手に取る。
時計を見ながら浅はかな作戦を実行するのか悩む。怖さだけしかない。
まるで成功するイメージがない。
もしこれが俺でなくお爺ちゃんやお父さんならどうするだろう。良治君ならどうするだろう。邦茂オジちゃんは――まずいくだろうけど……。
でもお爺ちゃんもみんなも、俺と違って強いし知識もあるし。こんなちっぽけな俺に何が出来る? やっぱ失敗して大変なことになるかもな。
そういえばお爺ちゃん、俺が腕と肋骨を怪我したこと悲しんでたな……。
もう二度と無茶なことはするなって言ってたし、約束だぞって……言われた。
無茶だよなやっぱ。無理があるよ。でも、三階の出口も塞がれたし。
それに俺だけが逃げる訳にはいかない。お爺ちゃん、ごめん、俺、男だから。
出来ることしなきゃ。
約束破る時点で男じゃないけど、美織さんを見捨てられない。
俺にとってお姉ちゃんだし先生だし、家族同然。絶対に助ける。
例え何と引き換えることになっても。
俺は作業時間を計算してアラームをセットした。腕時計を一階のトイレ前の床に置き、ピタゴラスイッチの準備に入る。更に様々なトラップも仕掛けた。
二階へ上がり、一階へと誘うようにトラップを仕掛ける。
一生懸命、球の流れを想像する。ここで言う球とは――上に居る奴ら自身だ。
それらが自ら罠にハマり音を立て一階へと行くように簡単な流れを作る。
ドミノ倒しをイメージする。
作業しながら色々なことを考えた。日々起こるニュースのこと。
絶えず続いた虐めのこと。
世間に知られているニュースなんて、交通事故や事件、火事や行方不明者の数と比較すれば、氷山の一角程度だろう。
毎日残酷な事件は繰り返される。テレビや新聞に載るけど、それは一部。
世の中はイジメと一緒で残酷だ。そしてそのほとんどが……闇の中。
これも間違いなく事件かも知れない。
なるべくトラップにかかりそうな仕掛けを心がけた。簡単でいてパニックになるような。奴らが引っ掛かり、喰らい尽ような……。
そしてついに三階へと戻ってきた。
美織さんやお婆さんの置かれている様態が気になり、早速確認した。
先ほどと少し変わった位置にいる。やはり、先ほど物音がした時に何かあったのかも知れない。
カッターの刃を少しだけだしすぐに切れるように用意した。深呼吸するくらいの余裕はあるけど、セットしたタイマーからいってもう行動に移すべきだ。
球が一階まで辿り着かないと意味がない。
スカイダイビングはしたことないけど、きっとこんな感じかも知れない。
凄く怖い。震える手足が止まらない。急がないと……。
勇気を出せ。飛べ。抗え。絶対に助けるんだ!
俺は早速ポケットに忍ばせた乾電池を階段の下へと放り投げた。それと同時に、地面を這いながら移動する。
階段の下辺りからは、カンカンと何とも言えない物音が響いた。
「おいっ、なんだ今の」
予定通り。怖過ぎて心臓が不整脈を打つ。
バタバタと慌てたようにそれらが動く。何人いるのか分からないけど、願うは皆で下へ向かってくれということだけだ。
話声の中に日本語ではない言葉も混じっていた。中国語ではない。韓国語?
はっきりと分からないけど言葉尻やイントネーション、それと雰囲気がそうだ。
這いながら大回りして美織さんの元へ向かう。何度も覗いたが見張りはいない。ただこのフロアーには残っているかも知れない。それでも始めたからには一か八か行くしかない。後戻りはない。俺自体もドミノ倒しの一つなのだから。
キョロキョロとしながら美織さんの元へと着いた。
正面から近づく時にノブマサの口元が完全に吊り上っていたが、俺は止まる訳に行かず、噛まれるのを覚悟で突っ込んだ。
美織さんの「ノー」という声で、ノブマサの牙はクリアしたけど、俺は息継ぎも忘れて必死に美織さんの手に貼られたテープだけを切り裂く。
そして美織さんの自由になった手にカッターを渡すと、すぐにお婆さんの方へと向かった。
下の階からは慌てたような声や、時に怒鳴り声もした。
そして、トラップが倒れる音も響く。間違いなく球は動いている。
全ての意識はトラップへと向かっている。
俺はお婆さんのテープをはさみで切ると、おんぶして、最初に入ってきたドアへと向かった。
美織さんはとっくに用意できていた。身振りで合図を送り、俺は走り出した。
無我夢中でドアを開け外へと飛び出す。
自分が上手に立ち回れているか迷いながら、ひたすらに階段を下りる。
見張りが付かなくて良かったと、今頃実感する。全員がトラップに気を取られていることは、本当にラッキーだ。きっと向こうだってパニック状態だろう。
外階段を駆け下りていく。
震えているのか、階段を踏みしめる足がガクガクする。
二階にさしかかると急に恐怖が押し寄せてきた。逃走に気付いて後ろから追って来るのではと。更に、いきなり二階や一階のドアから飛び出して来たらどうしようと最悪なビジョンが過る。
お婆さんの体が小さくて軽いので、おもいっきりジャンプしてしまいたくなる。
それ程に恐怖に追い詰められ、全身を負の念が包んできた。
走るほどに冷静でいられなくなる。
足を踏み外すことなく一階まで下りることができた。
しかし、まだまだ油断はできない。
俺は寂れた一本道の商店街を避け、すぐに細道へと入った。その道を少し行き、またすぐに曲がる。
ジグザグに行くことで、後ろ姿を見られるのを避けた。
「み、美織さん。大丈夫でした? と、とりあえず、民家に入りましょう。ここは出歩かない方が絶対にいい」隠れるんだ。
息を切らした美織さんが苦しそうに頷く。
よく見ると、唇に渇いた血の塊が付いていた。
クソ。酷い仕打ちを受けたンだ。
なるべく細い道を進みながら、良さそうな家を探す。
しかしなかなか見つからない。
ノブマサが居なければ、そこら辺のマンションに飛び込むのだけど、ペット不可だと絶対注意されて、そのやり取りで逆に目立ってしまう。
階段や踊り場でさえ隠れられない。同じ理由でお店にも入れない。
こうなると逃げ続けるしかなくなる。
今の考え方はたぶん最善ではない。焦りで我を忘れている。
必死に考えて動くが、心はギリギリの状態だ。動揺で気持ちが揺れる。クソ。
キョロキョロと隠れられそうな家を探すが、すでに自分の家のすぐ近くまで来ていた。今更他人の家に行くより自分の家の方が遥かに安全だ。
ただ見つからずに無事に辿り着ければだけれど……。ここまで来てもまだ怖い。
目立たぬ道を選び走る。そして見慣れた場所へ。
ホント、ここらが地元で良かった。
――無事に着いた。
何も分からない恐怖の中、どうにか辿り着くことができた。
家にはお父さんが二度目の帰宅をしていた。
「大丈夫だったのか章和。警察には連絡しておいたけど、一体なにがあった?」
「俺も説明できない。何も分からない。とりあえず、カギ閉めてよ。ここじゃ怖いから上に行こう。話はそれからで」まだ怖い。
二階リビングへと上がりお婆さんを下すと、弱り切ったお婆さんが有難うとお礼を言ってきた。
着物からは異臭がする。もしかしたら、お漏らしした状態で置かれていたのかも知れない。美織さんにそのことを伝えた。
しかし美織さんは、お婆さんに構う余裕がないのか、震えながら俺に抱き付いてきた。そして有難うと涙を流した。
余程怖かったのだろう。俺も死ぬほど怖い。当然だ。
ただの人探しだと思っていたし、もちろん目的もそうだった。
なのに、これはさすがに不運だ。
飲み屋で些細な口論から、殺人事件に発展した現場に居合わせてしまったくらいの地獄絵図だ。ヤバすぎる。
家に着いて冷静に考えると、間違いなくあの状況は誘拐だ。突発的な犯罪というより、狙い澄ました感じだ。
これが無差別に行う振り込め詐欺的なものか、それとも、明確に、磯島邸のお婆ちゃんを狙ったものかと考えた。なんにしても怖い。
お金持ちそうな着物だし、狙われてもおかしくはない。ただ、これがもし警視庁の偉い人に関係していたら凄くヤバイ気がする。そんな映画みたいなのは御免だ。
家に居ると余計なことが次から次へと浮かんでくる。まだ落ち着くには早い。
ちゃんと犯人が捕まるまでは、安心できない。
美織さんが俺にしがみ付いたまま、お父さんの入れたコーヒーを飲む。
お婆さんはソファーではなく、床に座りお茶を飲む。
どうにか落ち着くように飲む。
お父さんは冷静なのか、ノブマサにもお水をあげて「よしよし」と撫でながら声をかけている。
しばらくして、お爺ちゃんと警察から連絡が入った。お父さんは、無事脱出したと連絡が入ったとだけ告げたが、なぜかウチに居るとは言わなかった。
そして美織さんには、依頼してきた人や身内の者にのみ、直接安否説明した方がいいという。
――まだ誰も信用していない、ということかな?
美織さんも頷く。磯島家に連絡を入れ、更に先輩にも連絡を入れたようだ。
外ではサイレンやヘリコプターが騒がしく飛び回る。
まるで大きな火事でも起こった時の様な騒がしさ。
少し落ち着いた今、逃走経路を思い返すと、実はウチの付近ではすでに大勢の人が行き交っていて、セーフティーゾーンだったかもしれない。
なにが正解かは分からないけど、もっと多くの人が行き交う道の方が安全……、いや、そんなセオリーはないか。
ただ、人通りの少ないあの道は、今となって考えれば危うい。なにかあった時、誰も気づかないし救急車さえ呼んでもらえない。
それに、隠れると逃げるのどっちつかずでパニックだった。
結局家まで帰ってきちゃったし、やっぱ俺は詰めが甘い。
しばらくすると、磯島家の者が着替えを持って迎えに来た。
玄関まで行くと数台のパトカーが並んでいる。
サイレンは鳴っていないが、赤ランプがグルグルと辺りを照らしている。
そんな中、支えられたお婆さんが、何度かお辞儀をし帰って行った。
無事に家族の元に戻れて本当に良かった。俺も美織さんと再会できたし。
この事件が何かは分からないけど、後は犯人が捕まることを祈るばかりだ。




