十三話 ワルツ
必死に勉強する俺に、相変わらず手紙が投げ込まれる。
左右と後ろからの三方向から。
しかし俺は、それをどうにか読破しながらノートを取れるようになっていた。
人は進化するのだ。
本を毎日読んでいたおかげで、いや、この手紙自体のおかげでか、速読モドキが出来るようになった。
とはいえ、ペラペラめくり読むような、本物はもちろんできない。
あれは神業だし、ホントかどうか疑わしい。けど、半ページを一気に呑み込む。
つまり本で言うなら、見開きを四分割し、その一つが一文字として――、右から1、2、3、4と読む感じだ。手紙なら上下で1、2と二拍で読む。
八行程度を一気に読み取る。
それをあの速読と言っていいかは大問題だが、充分凄いと俺は自惚れる。
なんとか手紙爆弾の処理には成功してるが、休み時間に準備というか心のゆとりが作れない。つまり生活バランスが崩れているのだ。
大して疲労はない。逆にそれが問題で、不安は募る。
俺はその分、勉強に対する何かを削っている。思考というエンジンを軽いギアで流して走っている。限界でつっ込まなきゃ絶対里見には追いつけないのに……。
歯がゆい。
俺の体に、サボり癖や怠け癖が、知らぬ間に滲んでいる。
小さい頃からお爺ちゃんとお父さんに言われていた。やると決めたことは失敗を恐れずとことんヤレと、そして、その分しっかりメリハリ付けて遊べと。
そういうメリハリや裏表をしっかり認識して操ることこそ成功の秘訣で、真面目過ぎるだけの者も、完璧を求めすぎて自滅するし、自分に甘えて妥協する奴もまた論外だと。
何かを実行するとすぐにその言葉の意味を実感できる。
野球の練習や試合でもそうだった。
良治君にバイクや遊びを教わる時もそう、お爺ちゃんやお父さんの仕事を手伝うときだってそう。
きっとレーサーもマシンを操る時だけ、その時だけは完璧を目指す。
スポーツ選手だってアーティストだって、そうに違いない。
緊張に打ち負けそうな時も、辛くて気を緩めて逃げたくなる気持ちを縛り、そのプレッシャーの先に手を伸ばす。その光に届いた時に見える景色を目指す。
絶対に譲れない本当の勝負の時は、それが勝敗を左右する……はず。
それ以外は言い訳で論外だ。
里見は既に眩い光を浴びている。
この特進クラスの者は、他クラスから見れば一見同じに見えるかも知れないが、俺はそうは思わない。一位と二位との差でさえ俺は天と地だと感じている。
それは野球でもレースでも一緒だ。
「でも頑張ったジャン。二位だって凄いと思うよ」これが二位だ。敗者だ。
戦いもしない者から憐みの目で見られる敗北者。いや、二位が敗者かどうかさえ関係ないほど、一位だけが勝者なのかもしれない。
一位とはまぎれもない勝者。一位とはカリスマだ。一位とは光。一位とは……。一位とは……、一位とは……相楽。一位は相楽君。
「相楽君? 相楽君。起きて。もう授業終わったわよ」
「え? 俺? 寝てた?」なんて夢だ。まだ一位の重圧を感じる。
ん? しまった。連日の徹夜ゲームのせいでつい寝てしまった。
三時限目までは気合いで起きていたのに。さすがに手紙をさばきながらの勉強は負担が凄い。自分が夢へ落ちたことさえ気づかないなんて。
俺は一応、本当に三時限目まで起きていたかをノートを見て確認する。
――起きていた。
「あの、安倍さん。俺、どれくらい寝てました?」
「えっと、残り二十分くらいかな。でもすごく揺れてたし、机から転げ落ちそうで先生も心配してたわ。相楽君が机につっぷした後、先生が近くにきて、心配そうに様子見てたけど、相楽君のノート見てびっくりしてて。ミミズみたいな字だけど、私のテスト問題を的確に予想してるって。で、起こしちゃ可哀そうだから皆静かにしましょって」
起こしちゃ可哀そうだからって先生……、それは凄く優しいけど、それが俺には命取りになるかも知れない。
先生は俺が一位を狙ってるのを、一年の時から知ってるのに。
でも、まあ心配してもらうっていうのは凄く嬉しい。
それと、俺の予想がどれくらい当たってたか、教えてくれるともっと嬉しい。
仲根が笑いながら寄ってきた。お昼行こうと。
「随分と疲れてるようだけど、そんなに勉強しているの? これじゃ、今回気合い入れないと俺も抜かれちゃうかな」
「およ、確か仲根君は順位とか勝負は眼中にない的な発言してなかった?」
「いや~、俺、得意なこととかないしさ、何やっても一位になれそうにないから、別に順位とかイイかなって思ってたけどさ……、なんていうの、相楽君見てたら、勉強ももしかしたらガチでレースなんじゃないかと思ってさ。ウチの親って、いい大学へとは言うけど、順番をどうしなさいとか言わなくてさ。でも、普通はさぁ、そうじゃない? イイ高校や大学行きなさいとか、百点を取りなさいはあっても、勉強で順位をあげなさいってのは、あまり言わなくないかな? あげた所で、大学入試の対策がおろそかになったら意味ないしね」
俺は仲根の言葉に考えさせられた。
確かに『学校の勉強は?』と聞く家庭と、塾や予備校の成績などを重視する家庭があると思う。
「確かに。その分、受験勉強した方が……、かも知れないね」
「でもさ、相楽君見てて、なんか知らないけど勝負したくなったというか。たぶん他の生徒でもそういう気持ちの子いると思うよ。何となく感じるもん、今回やる気だなって。遊びか本気かまでは分からないけどね」
マジ? 仲根が言うならそうだろう。
そう言えば前回も先生が似たようなこと言ってたな。
俺が特進入ってからクラスが変わったとも。
仲根がいうように、これは受験勉強とは違う勉強と思ってもいい作業。
その分先に進めるのに、わざわざ、重い荷物を担いでいるワケだ。
それを下ろせばもっともっと先を走れるのに。
これは間違いなく、己との勝負ではなく、一位を狙う俺との勝負を受けている。
食堂に着くと佐伯がお弁当を持って走り寄ってきた。
俺の手を引きテーブルへと誘う。仲根も慣れた様子でジュースを買いに行く。
「食べよう。今日のはね――」
もうずっと佐伯と食べている。
滝沢と望月は、今のところ手紙爆弾で我慢している。
「ねぇ、今日の五、六時限さ、体育館で集会あるでしょ? それってさ」
「うそ、知らないけど。仲根君、知ってた?」俺は驚いて尋ねる。
「ウチのクラスは例の如く、そういうのはパスなんじゃない。聞いてないよ」
仲根も俺も同じ意見だ。
「うそ~知らないの? 全クラスだよ。だって、キャンプのクラス場所決めとか、夏休み明けの、合同体育祭の係決めとかで集まるンだもん。どっちかっていうと、特進クラスに係をさせる為の集会だよ」
椎名の言葉に、俺も仲根もびっくりする。
基本特進クラスは余程のことがないと集会へはでない。授業が潰れるということを避けるためだ。まして今の話だと、午後の授業を全部潰す的な感じだ。
尚更、ありえない。
他のクラスは、よく、先生が休んだとか急用が入って予定を変更したり、自習や潰れることがあるらしいが、特進クラスだけはそれはない。
もっとも時間割に自習という項目があるほど、生徒の勉強環境を重視している。
学校の偏差値や水準を担っているクラスであり、有名大学への合格率に直接関係するクラスだから。学校の係なども、成績上位者は、ほぼ免除されている。
「だって先生言ってたよ。今回は特進にもそれなりのことをさせるって」
俺はどうせ関係ないだろうなと、お弁当を味わう。
それよりも、俺はなんでこんなにもお弁当という物が好きなんだろうと思う。
美味しい美味しいと全身がいう。
お弁当の彩りや飾りが、お子様ランチの様で、刺してある可愛い楊枝も、持って帰りたい。コレクションしたい。食べちゃいたい。
何もない暇な日に、静かな公園でお弁当を食べて、ゆっくり本を読みたい。
カチャカチャとワザと弁当箱の音を立てる。ずっと聞いていた羨ましい音。
自分の出す音で食欲が倍増する。そしてペロリと残さず食べる。
全部食べ終わると、佐伯が自分のお弁当から美味しそうなおかずを俺に差し出してくる。俺は、今日こそは我慢するぞと思いつつ、ぱくりとしてしまう。
まるで犬だ。俺がもし魚なら、すぐ釣れる。
これが間接キスになってしまうことも理解しているし、それがどれほどイケナイことかも知っている。しかしこのお弁当という状況下だとついそうなってしまう。
これがもし、食堂のランチであったなら、絶対にそうはならない。断言できる。ちなみにお弁当といっても、コンビニのものやお弁当屋さんのものは嫌だ。
この手作りのお弁当、おもちゃみたいな宝箱限定。
「相楽君さ、私のも食べてみる? これ、美味しいよ。ほれ、あ~ん」
ぐっ、椎名。ナメやがって。なんか抵抗あるわ。
同じテーブルの者が俺の反応を見てくる。どうせ食べるだろうと。
「ちょっと、さすがに俺だってなんでもかんでも喰らいつかないよ」
「何よそれ、どういう意味? 結理のは食べるけど私のは食べないってこと?」
ん? 確かにどういうことだ? 自分でも良く分からない。
ただ、あっちもこっちもつまみ食いは、行儀が悪く感じるというか……。
ん~、分からない。
「それじゃ私のは? あ~ん」新山だ。
だから食べないってば。俺は……、……俺はなんだ?
気まずそうにしていると、女子達がふ~んとか、そっか~と言い出した。すごく意味深で怖いけど、こっちからそれに触れない方がいい気がして、黙っていた。
やがてチャイムが鳴り昼休みも終わる。
俺は「ごちそうさま。凄くおいしかった」と告げ教室へ戻る。
いつも作って貰ってばっかりで、その内お返しでもと考えた。
席に着き、授業の用意をしていると担任の先生が入ってきた。
「みんな~。ちょっと聞いて。なんかね、体育館であるみたい」
主語と述語が分からない。もちろん生徒達は質問する。
「ごめんネ~なんか。でも私が悪いんじゃなくて、ここだけの話、スポーツクラスの先生とかが企んだのよ。ひどいでしょ~。でね、私もよく分からないンだけど、クラスから一人代表を出して、クラス対抗で勝負するらしいの。先生言ったのよ、ウチのクラスには他のクラスと戦えるような子はいませんって。でもね、向こうが名指しで……」
クラスがざわつく。俺はなんか嫌な予感がする。
もしかしたら……、くる、かも知れないと。でも違う生徒かも知れない。
先生がわざわざ名指しするなら……、俺じゃないかも、と。
「誰なんですかその生徒は」前の方に座る男子が訊ねた。
「ん~とね。相楽君です」
あっ、やっぱり。体育科の先生らしい仕打ちだ。
俺がキーパー断ったり、部活を拒否したことを怒ってるんだな。
「それでなんだけど、スポーツとか普段から運動してるクラスばかりでしょ、私も言ったのよ勇気出して、ウチのクラスはお勉強クラスですって。そしたら、副校長先生が、それなら競技はウチのクラスの代表が得意なのにしなさいって。向こうの先生も渋々それで呑んだわけよ。ただ、ちょっとだけ条件が付いてるけど。どう、相楽君、やってくれる?」
「先生。どうって? これって拒否権あるんですか? もしあるならお断りしたいですけど」
「ないわね。うん。それあったら、私も拒否したもの。ないわ。どうする相楽君。こんな時、皆ならどうする? 私は分からないわ」
ざわつく教室。するとそこへ、隣のクラスの担任が呼びにきた。
「町下先生。ちょっと何をしてるんですか? 他のクラスはみんな体育館に揃ってますよ。もしかして忘れていました? 急いで下さいね」
「忘れてなんていません。ただちょっと取り込み中、いや、はい。分かりました」
困って泣きそうだ。本当に弱い立場なんだな。
「先生。事情は分かったので。とりあえず体育館に急ぎましょう」
俺がそう言うと、いいのと聞いてきた。
良いも悪いも選択肢がないということと、このままじゃ本当に泣き出してしまいそうで見ていられなかった。
バタバタと早足で廊下を歩き、すでに集まる体育館へ入る。
少し遅れただけのはずだが、他クラスがこっちを凝視する。まるで、回転寿司のネタでも見るように。
特進クラス。Aクラス、Bクラス、Cクラス、Dクラス。
スポーツクラスの、Eクラス、Sクラスの計七クラスが並ぶ。
各クラス約四十名。学年数は二百八十人ちょっとだ。
「これで全員揃いましたか? それじゃこれから代表の者に舞台へ上がってもらいましょうか。各クラスの代表者前に」
町下先生が俺の所へ来て「お願いね」という。
俺は「ハイ」と頷くが、何も聞かされていないし、何が何だか全く分からない。
舞台上に上がったのは、体育科の先生と学年指導の先生。
それと各クラス代表の七人。
特進クラス、相楽章和。クラスA、月城明。B、三好啓修。C、前草公彦。D、菊池政基。スポーツE、久保真。S、富永凌。以上七人。
「え~今回競い合う競技は~、副校長先生の配慮で、特進クラスの代表者に選んでもらうことになってます。ただし、前もって省いた競技があります。ので、今からそれをいいます。まずは、テニス。ソフトボール。バトミントン。バレーボール。バスケットボール。以上が~泣く泣く省かれた競技です。相楽君には、それ以外のものから選出して貰うことになります。皆さんもそこのとこ宜しくお願いします」
なんで今の競技が泣く泣く省かれたワケ? まったく意味が分からない。
今のがダメなら他に何があるよ……。卓球? ダメだ。サッカー? 絶対無理。走り? それならいけなくもないけど、つまり走りで勝負したいわけか?
「どうしました相楽君。あっ、そうそう、なお、今回のこの競技の勝敗や順位で、皆さん知っての通り、キャンプのバスや食事位置、係などがクラスごとに割り当てられますので。更に夏休み明けの連合、もとい合同体育祭の係も決まりますので。あとこれは特別ルールなんですが、仮に特進代表者が三位またはそれ以下の場合、競技を決めたハンデとして、罰ゲームがあります。それはサッカー部の試合に数回だけ参加する、もしくは女子バレーボールの練習オア女子ソフトボールの練習に、一日参加という特別ルールを、体育科教師一同で話し合いました。よって皆さんも特進クラス代表を競技で勝たせないよう、死ぬ気で頑張るように!」
は? …………は? はぁっ?
意味が分からない。どういうことよ。特進がターゲット?
いや、特進じゃねぇ、俺だ。間違いなく『俺』が狙われている。
町下先生が副校長先生にお願いしたンじゃないのか? なんで俺が。
こんな一方的なルールが横行していいのか。これじゃますます勉強ができない。
それとも特進の誰かの親が、PTAかなにかの偉い人で、俺の勉強を邪魔しているとか――、ないな。俺六位だし。それはなさそう。うん、ない。
体育科の先生のセリフに、サッカー部や女子達が喜び盛り上がる。
たぶんバレー部とソフト部だろう。
やはり、体育科の陰謀か。スポーツクラスの格をあげたいンだ。
「どうだね相楽君。このルールに異論はあるかね?」
あるよ。大あり。これで成績落ちたらどうしてくれるわけ?
良治君のゲームは、身内だからまだいいけど。これはない。
先生がすることじゃない。……よし、何が何でも絶対勝つ競技を選んでやる。
「それじゃ、ハンドボール投げで」
「あぁ~、それぇ、ダメだぁ。残念。規定に引っかかってる。だってそれ、ソフトボール投げでも同じでしょ? 球の大きさが変わっただけだから。テニスもソフトもバスケも無しだもん。相楽君、球技は基本なしなの。危ない。でも、卓球は平気みたい。球も軽いし、ピンポンだから」
平気みたいってなんだ。危ない? なにが?
そもそも先生が決めたンじゃないのそのルール。
さも公式な、規定みたいな言い方だけど、ズルい。
卓球か。卓球は難しいし、間違いなくヘタの部類だ。チクショー。
どうしたらいいだろう。皆が俺を見てる。どうしよう。
なにか手はないか? なにか度肝を抜く競技。……何か。
「決まりました。球技じゃなければ、いいンですよね? それじゃ、言いますよ。二年生の階の廊下一周雑巾がけレースで!」
俺の言葉に体育館中がざわめく。誰も予想だにしない答えだ。
先生もこれなら言い訳を用意できないであろう。想定外のはず。
しかし苦し紛れに危ないと言い出した。
「危ないですか? それならば、危ないと思う箇所に人を立たせたりマットを立てかければいいのでは?」とにかく決まれ。
答えを待っていると、副校長先生がそれでいいのではと助け船を出してくれた。徒競走よりは安全ではと。それに廊下も綺麗になるしと。
鶴の一声でその競技に決まった。やった。俺の得意なものだ。
お爺ちゃんの仕事場でも、良治君の次に速い。
いや、結構お爺ちゃんも邦茂おじちゃんも速いか。
でもまあ、初心者にはまず負けない。圧勝だ。これで勝ちは貰った。
さっそく体育館から出て皆が移動する。
各クラスが自分のクラスへ戻り、教室から覗く。女子達やミーハー男子は廊下の隅々に立ちこのレースを楽しもうとしている。
代表の七人は体育科の先生の元、コースを確認する。
「相楽。もしかして、ここをぐるりと一周か? これ、四百メートル近くあるぞ。この直線だけでも十分じゃないか?」
「いや、それじゃダメです。ここを大回りで一周です」
「それじゃせめて中央で曲がって半周っていうのはどうだ?」
俺が、ダメですと言おうとした時、代表者達が別に構わないと手首足首をほぐしながらやる気をみせる。
――何も分かってない。
七人がカラ雑巾を手に位置取りをする。
「あ、俺はいいよ。どうぞ皆で決めて。俺、一番後ろから行くから」
六人が必死にジャンケンし、前列のインコースを取り合う。
そしてスタート位置が決まった。
時計と逆回り、つまり左回りにぐるりと一周。
各担任の先生らが、自分のクラスの代表者に声を掛ける。
各クラスの生徒達も、頑張ってと応援する。
さすが、代表選出されるだけあって、凄い人気だ。
特に月城、三好、富永の三人は、男女共に人気。期待されてる。
久保の、一部の女子人気とは大違い。とはいえ、やはり久保への黄色い声援は、圧倒的に感じる。
一方、俺への声援は、仲根と町下先生だけだ。
クラスの為に戦うというのに、静かなもんだ。
まあ、特進はこういうことで取り乱したりしないクールなクラスかもしれない。
熱い試合に慣れている俺にはちょっと違和感あるけど、勉強にはそのクールさが丁度いい。なんてね。
「それじゃスタートするぞ。準備はいいのか?」
体育科の先生が渋る。なぜか俺をチラチラとみる。この勝負は、生徒同士のものではなく、まるで俺と体育科の先生との戦の様に感じる。
「いいか? 特進さえ三位にできればいいんだ。そしたら他クラスは楽になるぞ。ちゃんとそこ分かってるのか? そこが一番重要なん……」
なかなかスタートしない先生に、副校長先生がいい加減にしなさいと注意した。
「それでは、位置について。レディッ、ゴー」
一斉にダッシュしていく。どんどんお尻が遠ざかっていく。
俺はゆっくりと疲れないように、軽々と進む。なるべく負担のないように。
俺が思っていた以上に皆は速い。あっという間に差は開く。
六人のお尻が遥か遠くにある。それでも俺はマイペース。
これこそが勝ちパターンであり、この競技の本質だ。
前を行く彼らは最初の直線で疲れ切るだろう。たぶんこの四百メートル近くあるコースを辿り着けさえしない。当然だ。
普通に二足歩行で走っても、五十メートル走のように走れば後半グダグダ。
とてもじゃないけどへばる。
この距離感を上手く掴み、しっかりとしたスタミナ配分でゴールする。
それも、最高のタイムを意識して。
前を行く者達が角を曲がり、姿が見えなくなった。
確かに少し焦るが、最初の直角にさしかかった所で前草が疲れて止まっていた。俺は悠然とそれを抜いていく。
スピードを速めずとも勝手に向こうから抜かれてくれる。
自分のペースを崩さないように、体の負担だけを意識して腕と腰と足を労わる。
皆の姿はない。次の角を曲がってるのだろう。
トイレの横を抜け、水飲み場も抜ける。焦る気持ちを抑えながら角を曲がった。その途端、遠くに居ると思っていたそれらが、へばりながら廊下でもがいている。
ここまでかな。それでも百数十メートルは来ている。通常じゃありえない。
皆が見ていたからこその頑張りだろう。モモを押さえる三好を抜く。
少し先で菊池を抜く。更に長い直線をゆっくりと進みながら月城を抜いた。
よく頑張ったよ。
生物室を横目にペースを守る。
少し先をスポーツクラスの富永と久保が行く。
さすが体育会系。一般の高校生との違いを見せる。
疲れてスピードは落ちているようだけど、スタミナは在るようだ。ただ、いくらスタミナがあっても、あのスタートダッシュはいただけない。大失敗だよ。
俺は徐々に差を詰める。
一気に抜き去りたい衝動を抑え、残りのコース距離を考える。この雑巾がけは、敵とのタイム勝負じゃなく、最後までゴールできるか、というレースだ。
どんなに気合い入れても、この前を行く二人はゴールできないだろう。見ていていつ力尽きてもおかしくないほどフラフラだ。
すると体育科の先生が、中央の廊下から飛び出してきて、二人に声を掛ける。
「どうした? ヤバイのか富永。温存しろ。とにかくこのままでいいから、相楽に勝て、勝てばこの前の赤点の補習チャラだ。何が何でも行け。頼む、勝ってくれ。うちの女子ソフト部の未来がかかってる」
「久保、お前もだぞ。へばるなよ。富永一人が勝ってもしょうがない。お前が負けたら三位以下って条件が……。頼む、気張ってくれ。コレに勝てれば、キーパーもゲットだからな」
随分ととんでもないことを。無理なのに。
踏ん張ればそれだけ寿命は縮むよ先生。
頑張るのはラストの直線、二十五メートル。
そこまでは、体の負担だけを考えた速度で、無駄なく進む。ノロ過ぎてもダメ。力み過ぎてもアウト。
幼児が手押し車で遊ぶように、勝手に前に進んでしまうような角度でゆくのみ。
「ワリいな久保。先に行かせてもらうぜ」
久保が悔しそうにしている。久保にはかつて土下座させられている。
これでチャラとは思わないが、少しは気が晴れた。
先生が、久保、久保と連呼している。俺は次のカーブ前で富永と並んだ。
知り合いじゃないから声はかけないが、もちろん抜かせてもらう。
ようやくトップ。
でも問題はこれからだ。こんなにもセーブしてるというのに、モモが悲鳴を上げ始めている。二の腕もプルプルしてきた。さすがにこの距離はキツイ。
まったく力を入れないで、滑るように拭いてきたのに。後ろの二人は余程限界を超えているに違いない。ちょっと見直した。
うちのスポーツクラスも捨てたもんじゃない。
けど、ならなんでウチの学校は弱いンだろ?
スポーツ推薦もあるし、学校自体、相当力を入れているのに。原因はなんだろ?
俺は先頭に立ち一人旅を始めた。
自らの体を労わりながら、最後のカーブを曲がる。やっと戻って来た。
残りは百メートル弱。皆が俺を見て驚いている。
最初に来るであろう予想と違ったのだろう。
皆が羨ましい。まるで他人事のように、誰が勝つだの凄いだのと、面白おかしく話していたに違いない。
例え勝てても、この全身の疲れや痛みは、誰も代わってくれない。
残り三十メートル。よしそろそろ行くか。俺は徐々に加速していく。
まるで飛行機が離陸するように、上体を上げて、そして全速力でゴールラインを走り抜けた。
「速ぁ~。なんだ今の。ヤバくない」皆が口々に言う。
そりゃどうも。
それよりも、誰か椅子でも用意して欲しい。今にもモモとふくらはぎが攣りそうです。座ることも立ってることもできない金縛り状態だ。
かといって、そのままいても、徐々に足腰が悲鳴を上げる時限爆弾。
みっともないけどここはぶっ倒れて、足の負担を取り除くのがベスト。
俺がそうしようとした瞬間、仲根が大丈夫と肩を貸してくれた。
「ありがとう。助かった」
俺は肩を借りながら床にお尻を付けた。それでも攣りそうだ。
この攣るか攣らないかのやり取りを何度したか。
どう動かせばいいのか探りながらストレッチする。痛みと不安に顔が引きつる。最後走らなければ良かったとも過るが、それは違う。どの道限界は来ていた。
この方がゴールできる可能性が高かった。そんな気がした。
それにしても四百メートルは異常に長い。もう二度としたくない。
結局俺以外誰もゴールできない。
更に言うと、ラストの直線に顔を覗かせることが出来たのは、富永だけだった。これなら先生が言うように、中央廊下で曲がっての半周で良かったかも知れない。
でも、もしものことを考えると、やはり念には念を入れる方が安全策。
――結果論は、あくまで結果次第。
寝転がるそこへ町下先生が来た「大丈夫? よく頑張ったわね」と突然俺の足をマッサージした。
その瞬間、力んだ俺の右ももの裏と左お尻と左足の裏が同時に攣ってしまった。俺は激痛にもがく。びっくりした先生が慌てる。
信じられない激痛の中、先生を落ち着かせるために気を使う……、だが、痛みが凄過ぎてそれも上手くできない。
体育科の先生がそれに気が付いて寄ってくるが、今の状態で触って欲しくない。
「どうした、どこだ相楽、どこ攣った。足か? 腰か? どこだ?」
「ちょっと、あの、お静かに……、今、ちょっと、そっ、としておいて下さい」
俺に構わないで。絶対触れないで。話しかけないで。
あまりの痛みに廊下でもがく。仲根は、俺が冗談で痛がっていると思ってるのか分からないが、ちょっと笑っている。
本気で痛がっている友達を見て――笑ってる。なぜか町下先生も「大丈夫?」と訊く声が笑っている。
それとも俺が錯乱していて、そう感じてしまっただけなのか? 錯覚?
のたうつ俺を皆が見ている。俺は子供のように痛がりながら、もう一度見る。
やはり、笑ってる気がする。
回復するのに三分はかかった。
まず俺は、足の裏を治す為に指を自分の方へ倒し、ストレッチした。激痛の中、更に右ももの裏をストレッチでほぐす、その間もお尻がボコってなっている。
最後がお尻だ。でも何をどうしていいか分からない。ひたすら筋を伸ばす。
ポーズを変えながら続けていると、どうにかおさまった。
しかし、またいつ攣るか分からない。怖い。
しばらくそこへ座っていると、なぜか荷物を運ぶ台車が来た。他にも数台。
その上には、久保や富永などの代表者が乗っている。どこへ運ぶ気なんだ。
「さあ、皆、もう一度体育館へ戻って~。競技の結果を発表します」
先生のその言葉に生徒達がゾロゾロと教室から出てきた。
俺は仲根に肩を借り、台車へと座る。……少しお尻が痛い。
生徒達が体育館に向かう中、台車組はエレベーターを使う。
俺は町下先生に運ばれながら体育館へと入った。
全クラスが整列する中、舞台前に台車が並んだ。
「え~、先程の雑巾がけレースなんですが、皆も見ての通り、選手全員が負傷してしまったということでね、非常に残念ですが、無効、ということに、なりますね。ホント残念です。相楽君しかゴールできなかったという結果、何も、決まりませんでした。非常に残念です。悔しい限りです」
あんだって? どゆうこと? うっそだろ。
体育科の先生や担任らが集まり話し出す。とそこでチャイムが鳴り、五時限目が終わってしまった。
五時限目終わりの休み時間。
俺はトイレに行きたくなり、町下先生にこの場を離れていいか尋ね承諾を得た。
台車のまま仲根に押してもらいトイレにいく。
なぜか月城、三好、富永も台車で付いてくる。
トイレの前でどうにか台車から下りる。恐る恐る歩くが、別に攣る気配はない。
が、無理をすると攣るかも。ゆっくりを意識する。
どうやら大丈夫そうだった。
無言のまま、月城と三好と富永と並ぶ。なぜか笑いが込み上がる。
笑っちゃいけないと思えば思うほど何かが込み上がるが、それを必死に堪えた。
一体この緊張や笑いはなんなのか?
そんな中、どうにかま用をたせた。
ゾンビのように歩き台車に戻る。
「それじゃ戻ろうか相楽君」
「悪いね、押してもらっちゃって」
体育館へ入るといきなり担任の町下先生が寄ってきた。少しうろたえている。
「どうしよう相楽君。なんか知らないけど大変なの」
どうしたんですか、と聞き返しても『変なことになっちゃったの』とばかりで、何も分からない。先生のパニックぶりに仲根も戸惑っている。
そのままチャイムが鳴り、六時限目が始まった。生徒達はすでに整列している。
「え~、先ほど先生方で話し合った結果、クラス代表の生徒達もこの通りですし、ここは、大人である私達担任が戦おうではないかと。条件は先ほどと同じ雑巾がけということで。ただし、さすがにあの距離は無理なので、教室側の直線、のみと、させていただきます。それとルールや条件は先ほどのまま、ということで、ねっ、特進は三位以下ならば『罰』ということでよろしいでしょうか?」
副校長も生徒達も異議がないようだ。なぜ?
仕方ない、ここは俺が出しゃばるしかない。
「あの、先生。異議があるんですけど」
「どうした相楽。さすがにその体では無理だぞ。先生として、そんな状態で競技をやらせる訳にはいかない。例え相楽が町下先生の代わりに出ると言い張ってもな」
くそ。くそ~。なんだこのルールは。考えろ俺。とんちを使え。何か閃け。
閃け、閃け、何か策を……、閃け。
悩みあがく俺は、台車から転げ落ちた。あっ、これだ。閃いた!
「先生。特進とクラスBの担任は、女性じゃないですか? それでこのルールは、いただけないと思います。まして先生は体育科ですよ。ウチの担任は英語ですよ」
「つまり相楽君はなにが言いたいのかな? 男とか女とか以前に私達は各クラスを受け持つ担任だ。その責任の全てを担って当然。違うかな? それに男女均等法」
「違います。今回の件の代表は俺です。そしてそこの台車に乗る六人です。そこで提案ですが、担任と生徒と協力して、ペア勝負にしませんか? それなら男女差も大分減りますし、それでも公平ではないですけど」
すると先生が、その体では無理じゃないかという。そして――。
例え相楽が平気でも、他の代表はそういうわけには行かないと。
「だからペアなんじゃないですか。先生、競技は、雑巾がけではなく。ペア運び、にして下さい。この台車を使って、先ほどのコースを、先生もしくは生徒が相手を乗せて運ぶんです。その共同作業で勝利したクラスこそ、真のトップでいいんじゃないですか?」
俺のセリフに生徒達が盛り上がった。面白そうだと。
副校長もその光景に、それはいいと拍手をしている。
先生と生徒の協力がカギになるとは最高だと。
体育科の反応は迷っているが、完全にこれと決まる雰囲気だ。
「よし分かった。俺も男だ。それで行こう。台車運びな。よーし」
どこが男だよ。町下先生半泣きしてたゾさっき。どんだけだよ。
皆が先ほどと同じように教室へ戻る。
俺は町下先生に押されて、エレベーターへ向かう。
「相楽君。私、ダメよ。足遅いし、運動苦手だもの」
俺は小声で大丈夫ですと言い、間違えてウインクしてしまった。
それを見た先生が、あらと口を『ら』の形にした。
先ほどの階に着くと、先生方が生徒を乗せて軽く押す練習をする。
町下先生もちょっとだけ真似て俺を押す。急ぐとなると重いわねと笑う。
「先生。レースが始まったら、先生が乗って下さい。俺が押しますから。俺、台車押すの慣れてて、うち相楽工務店ッスから」……工務店じゃない。
どんだけ重い荷物運んできたか。それも天井スレスレまで積んだりして。
運びづらい物も運んできたし。そんな中でも一番得意なのが、他人運び。
よく良治君と遊んだ。
「それじゃ始めようか。本当にいいんだな相楽。ハンデはなしだぞ。負けても文句なしの一回勝負だ。こっちも本気で行くぞ」
半周の二百メートル弱か。丁度いい。さっきのじゃ長過ぎてキツイ。
生徒達の殆どが、廊下でレースの行方を見る。さっきより興味があるようだ。
先生頑張ってねと生徒達がねぎらいの言葉を掛ける。それに先生方が自信満々に答える。こっちが女性だから、そして手負いの生徒だからの余裕だろう。
更に自分らは、仮にも体育科の教師、体力にも足にも自信があるのだろう。
普通に考えたら百パーセント勝てない。
「それでは位置について――」
俺と町下先生は一番後ろのスタートだ。先ほどと同じ条件ということらしい。
仲根も特進クラスも不安そうにしている。
「町下先生、それじゃこの台の上に乗って下さい。あ、座らないで」
「え? 立つの? 無理よそんなの」
「いいですか。こっちを向いて、軽く膝を曲げて。柔らかく柔軟に、そして、俺に掴まって」
説明していると、途中で体育科の先生がスタートの合図を始めた。
「レディ~、……ゴォォー」
一斉に押す。ガラガラと激しい音を立てて押していく。先ほどのお尻と同じように遠ざかっていく。
しかし上手く操れないようで、壁にぶつかったり、他の台車と接触している。
「町下先生。膝だけに集中して下さい、後はイイですから、柔らかく」
俺はそう言い、反対に向けた台車の上で、町下先生を左腕で抱きしめた。そして右手でバーを持ちスケボーのように蹴りだす。廊下中がそれを見て騒ぐ。
四輪すべてが稼動する小回りタイプだ。他の台車は前輪稼動タイプだった。
さっき色々ある中から、得意な物に取り換えておいた。
新品だし音も静かで滑りもいい。荷重量三百キロのノーマルタイプ。懐かしい。
敵さんのは荷重百五十キロタイプ、残念だよ。見た目が同じでもその質や性能が違うのだよ。
俺はあっと言う間に前を行く先生方に追いついた。そして隙間を狙いアタックを掛ける。
「お、おい相楽、なんだその運び方は、ず、ずるいぞ。待て」
息切れでぜぇぜぇ言っている。
必死にしがみ付く町下先生。すごくバランスが上手い。ちゃんと棒立ちせずに、膝を柔らかく使ってくれているのだろう。
それじゃサービスで、ちょっとだけトリック技を。
俺は片輪を浮かせてカーブを曲がる。その後、蹴って進むのではなく、それこそスケボーのように横振りで進んだ。
先生が耳元でキャアといってしがみ付く。俺はそれをしっかりと抱えて進む。
「先生? 町下先生? 着きましたよ。ゴールです」
「う、うそ。ホント。もう着いたの、終わり?」
先生は怖くて、途中、目を瞑っていたようだ。俺は終わりましたと返答したが、なぜか他の先生方が、なかなか戻って来ない。
すると、大分遅れて、向こうの廊下奥から、疲れた感じで台車を押してくる。
そしてようやくゴールした。
「なんダァ相楽ァ、ハァ、コース間違えたのか? ザッきと、同じコース、だぞ。間違えたな」
何を言ってるか分からない程息が上がっている。
ただ、この執念にはさすがに勝てないと思った。どんだけ卑怯なんだ。
間違いなく半周って言ってたくせに……。でも、俺ももう限界だ。
もう一レースしても勝つ自信はある、けど、この執念には……負けそう。
「分かりました、俺の負けです。ただ、クラスの皆に迷惑が掛かるとアレなので、そこを考慮してくれるのであれば、ソフトボール部の練習に一日付き合いますよ」
「本当か~。絶対だぞ」
別の場所からも、体育科の先生が寄ってきた。ほぼゾンビ歩き。
「はい。ただし試験が終わってからですけど。あとソフトだけですよ」
「全然良いよ。そうか、練習見てくれるか。助かるわ~。ウチは今年、地区大会でベスト8を狙ってみたい……」
他の体育科の先生は全然納得していないようだが、これだけの生徒や先生の前で完全な公約を交わしたらそうそう覆せない。今更、口を挟めない。
なにより、レースに参加した体育科の先生は、反論しようにも疲れて果てて今はしゃべれない感じだ。
そしてこの話に決着がついた。特進クラスは、係ナシ。基本は勝者ということ。ただ、俺がソフト部の練習に付き合うというだけだ。
体育館へは戻らずそのまま教室へと入り、チャイムが鳴るのを待つ。
席に着き体の疲れで机につっぷした。まるでこれ自体が夢で在ったように。
俺はただ勉強したいだけなのに、俺の目指すべき敵は、里見信吾であり、友達の仲根博教だけなのに。いや安倍雅も。それどころか、滝沢玲奈であり、清水梢でもある。このままでは絶対に勝てない。
どうにかして、勉強に集中しないと……。




