表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
黒のドラゴンとブロンズ通りの魔法使い  作者: 外宮あくと
第三部 罪と力と代償と
99/148

5 アンゲリキ追想

 どこまでも深い泥沼の中に沈んゆくような気がした。暗く息苦しい闇の中に引きずり込まれてゆく。

 しかしアンゲリキはあらがうことを一切せず、ただ流れに身を任せていた。何もかもがどうでもよくなっていた。もう自分の身体がどうなっているのか、今まさに死にゆこうとしているのか、それすらも興味が無かった。


 欲しいものは手に入れなければ、生きている意味がない。与えられないなら奪えばいい。そう思いそう行動してきた。それならば、奪われたものは奪い返せばいい。邪魔するものは排除すればいい。簡単なことだ。

 それなのに何故こんなにも喪失感を味わい、虚脱してしまうのか。


 ニキータがいない。

 ニキータが私の側にいない。


 アンゲリキは、自分が笑い蔑んだ女の顔を思い出す。

 私の子を返してと、涙を流した女の顔を。

 ああ、あれは愚か者の代表だった。何の力も無く、子どもを守れず愛も得られず、悲しむことしか出来ないバカな女。

 何もかも失って抜け殻のようになったあれは、軽蔑すべき女だった。


 だが今の自分はどうだ、あの女と同じではないのか。今まで嫌悪してきたものに、自分も成り下がってしまったのではないのか。

 アンゲリキはゆっくりと果てしなく落ちてゆく感覚に、何処か安らぎを感じはじめていた。




 王宮に入り込んだあの日のことを思い出す。

 アンゲリキの計略は簡単に成功した。癇にさわるほどすんなりと達成された。

 なんて容易く、なんて脆いのか。アインシルトを他国に貸し出すなんて、平和なれしすぎて彼らは頭が鈍っていたのだろう。スキをつくる方がいけないのだ、そう思っていた。例の女に入り込むのは簡単なことだった。


 王妃アリシア様。あなたの代わりに私が全てを手に入れてあげよう……。


 アンゲリキは鏡の前に座った。

 美しい金色の髪。まだ年若く、幼ささえ残した白い美貌。細くはかなげな体。まるで妖精のような女が鏡に映る。まだ早い春の風の匂いが似合う、可憐なミモザのような女。魔女が最も嫌う種類の女だった。

 頬を暖かい水が伝った。泣いている? 不快げに魔女は首をかしげる。

 鏡に映った女に向かって、アンゲリキは言った。


『あなたはもう私の物。勝手に涙を流すことなど許さないわ』


 魔女は、強引に涙を止めさせた。

 王妃の指が震えている。しかし彼女は自分の体であっても、これ以上動かすことはできなかった。魔女に身体を奪われてしまったのだ。

 トコトコと幼い王子が歩いてきた。そして不思議そうに魔女を見上げた。

 おいで可愛い子、と腕を広げる。名前はニキータだったわね、とアンゲリキは王妃の記憶を探って内心ほくそ笑む。そして、彼の母を装いうんと優しく微笑みかけた。


「ママ……?」


 幼子は舌足らずな声で、魔女をそう呼んだ。

 小さな手を差し出して無垢な瞳で見つめてくる。愛くるしい王子を膝に乗せ抱きしめると、彼は満足そうに微笑んで、何の疑いも持たずに頬ずりをした。

 今日からはこの子は魔女の息子。アンゲリキも愉快げに笑った。


『やめて……返して、私の子よ』


 か細い王妃の悲鳴がアンゲリキの中に響く。でもそれはもう無駄なことだった。

 王子を抱いて、魔女は鏡の中の自分を笑ってやった。この姿は本来の自分ではないが、もう王妃のものでもない。そこで大人しく私が何をするのか見ていればいいと、侮蔑を贈った。


 朝となく夜となく、王妃は魔女の中で叫んだ。助けて、許して、返して、とさめざめと泣きながら嘆願を繰り返す。アンゲリキはそんな泣き言を、黙れと一喝する。しかし彼女は絶えず訴え続けた。

 辟易へきえきし諦めたのは魔女の方だった。どうせこの女にできる事はそれくらいしかないのだからと、放っておいた。


 魔女は王を意のままに操り、王国を思うがままにする手段を手に入れた。これは、いずれ復活する弟へのプレゼントだった。

 後はゆっくりと、宝玉を奪う算段をすればいい。この国を牛耳るも、破壊するも彼の自由にさせてあげよう。全ては順調だ。


 ニキータはアンゲリキを母と慕っていた。小さな手できゅっと魔女の指を握り「大しゅきよ」と愛らしく微笑みかける。眠る時も、魔女の胸に顔を寄せて安心しきっていた。

 彼は無防備に愛を求め愛を与えてくる。それは彼女にとって新鮮な驚きだった。戸惑いながらも抱きしめた。


 そして、惜しみなく魔力を分け与えた。この子は、必ず将来役に立つことだろう。この私、アンゲリキの息子となったのだから。早く王位につけたいものだと、会心の笑みを浮かべる魔女だった。


 早く大きくおなりニキータ。

 いつかお前に素晴らしい世界を見せてあげよう。


 ニキータと過ごした三年。

 それがこんなにも私を変えていたかと、魔女は眠りの中で思った。単なる道具だったずなのに、彼の存在が自分の中で何よりも大切なものになっていたと、ようやく気付いたアンゲリキだった。





「姉上よ。呆けるのも大概にしてもらわねば、我とて許せぬものもあるのだ。……なあ、アンゲリキ。お前は我で、我はお前だ。二人で一つなのだ。忘れるな」


 アンゲロスのつぶやきは魔女の耳に届いているだろうか。昏々と彼女は眠り続けていた。

 それを、黒い影の男が抱きしめている。死にいこうとするものを必死に止めようと、持てる力を注いでいた。

 死を恐れているのは、彼女自身ではなく男の方だった。





 アンゲリキは、なおも夢の中を彷徨さまよい続けていた。

 真っ暗な沼の中を這いまわって、ニキータを捜し続けていた。


 愛しい子、私の愛しい子、とぶつぶつとつぶやいて泥の中をかき分ける。何処にいる、出ておいでと、不毛と知りつつ泥の中を漁り続ける。

 魔女の目から涙がこぼれ、ニキータに再会した日の記憶が脳裏に浮かんできた。


 あの日、迷霧の森で彼に会った。

 王妃から奪った幼子は少年になっていた。その成長した姿に、堪らない程の懐かしさと愛おしさが込み上げてきた。七年前、もう用済みと捨てたはずだったのに、一目見ただけでもう離れられないと思った。


 ニキータはアンゲリキの知らぬ少女と共にいた。馬に乗ったその少女は、年の頃は十七、八といったところか。身なりも良く、黒髪の美しい娘だった。

 彼女は、アンゲリキが霧の中で道に迷っていると思ったらしい。一緒に行こうと微笑みかけてきた。


 アンゲリキは露骨に顔を歪めた。嫌な匂いがするのだ。少女がなんとも言えない嫌な匂いを発している。本能的に邪魔だと思った。


 魔女は少女を無視して、ニキータにおいでと手招きした。手綱を引いていたニキータは、きょとんと首をかしげるばかりだった。

 私を覚えていないのだろうかと、魔女は落胆した。そして猛烈に怒りが湧いてきた。

 さっきまで笑っていた少女が突然顔色を変え、ニキータに行ってはダメと囁いていたのだ。


 アンゲリキの思考は単純だった。殺してやる、と。

 邪魔な女。嫌な匂いをまき散らして、ニキータを引き止める不愉快な女。

 魔女は薄暗い色をその目に宿し、少女に向かって手を差し向ける。

 青い火柱が彼女に向かって飛んだ。しかし、放った攻撃は全て、アンゲリキに跳ね返ってきた。


 どういうことだとますます怒りがつのり、馬から引きずり降ろしてやろうと、魔女は少女の足首を掴んだ。

 その途端に、手のひらに衝撃が走った。シュウシュウと煙を上げて皮膚が溶けてゆくのだ。慌てて身を引いたが、手のひらから腕に肩にと侵食は広がってゆく。


 足を掴まれて、少女は驚き身を震わせていたが、魔女の反応を見るとポカンと口を開いてそれを見下ろしていた。

 アンゲリキの身体が溶けだしている。ジュウジュウと吹き出る煙の量が増えてゆくのだ。このままではいけないと、とっさに大きく飛び退き、少女から距離を取った。


 その時、魔女は大事なものを手放してしまったのだ。切り札である二つの玉を。

 玉は、まるで意志を持つかのように腹を突き破って飛び出していった。そして、少女に向かって吸い寄せられるように転がってゆくのだ。

 取り戻そうと手を伸ばしたが、近づけなかった。それ以上近づけば全身が溶けてしまう。アンゲリキの顔が鬼面となって歪む。


 馬から降りた少女が、玉を拾おうとしていた。

 やめろ! それに触るな!

 アンゲリキは、少女に呪いをかけた。







「おーいニコ、何をモタモタしてたんだ。お前が持って来ないから、こっちから来てやったぞ!」


 アインシルトの幻想の森にテオの大声が響き渡った。ドカドカと近寄ってくると、ニコに手のひらを付きだして、例のものを催促している。

 アインシルト、そしてニコの兄弟子たちの冷たい視線が、彼に集中した。


 今日は珍しく朝から老師の指導を、ニコ達弟子一同は受けていたのだ。この後、師は仕事があるので、ニコはそれまでの間はみっちりと講義を受け、その後テオのもとに手紙を持って行こうと思っていたのだ。


 昨日は気まずい雰囲気になってしまったこともあり、訪ねるのが少し億劫で先延ばしにしていたということもある。まさかテオの方から出向いてくるとは思わなかった。


「ほらニコ! 早く出せよ」


 テオに怒っている様子は無かった。昨日のことなど忘れたと、いつもの尊大な態度でホレホレと手を振る。


「……朝っぱらから騒がしい奴じゃのお……お前は借金取りか」

「うるせー」


 うるさいのはテオの方である。アインシルトは杖でテオの肩をグリグリと突いた。下がれ邪魔だと押しのけようとするのを、テオは振り払ってなおもニコに手を差し出す。


「ニコ、ほら早く」


 ニコは呆気に取られながらもポケットに手を突っ込んだ。無い。部屋の引き出しにしまったままだったことを思い出し、アインシルトの小屋の方を振り返る。


「取ってきます」

「行かんでよい」


 アインシルトはニコを止めて、再びテオに向かって杖を振り回す。


「テオドール! 大体なんでお前がここにおるんじゃ。リッケン閣下はどうした。待たせとるのか? この不埒者が」

「手紙が先だ」

「時間が過ぎとる。さっさと行け! わしももうすぐ行くから」


 バシバシと杖で地面を叩いてテオを追い立てる。


「ちきしょう! オレは羊じゃねえぞ」

「羊みたいに可愛げがあれば怒鳴らんわ! ほれ、行かんか! 閣下を待たせるな」

「やかましいわ、この老いぼれめ。ニコ! お前のせいだぞ!」


 喚き立てると、アインシルトの棍棒制裁がテオの頭上に落ちた。

 ゲッと頭を押さえてしゃがみこむ。


「行けと言うとるんじゃ」


 ギロリとにらまれドスの利いた声で命令されると、テオは恨めしげにニコを一瞥し、口を尖らせて立ち去っていった。


 それを兄弟子達が笑いを噛み殺しているのを見ている。ニコは思わず赤面してしまった。こんなことなら、朝一番に手紙を持って行って上げてればよかったかなと、思うのだった。


 ニコはヴァレリアの手紙の内容を思いだす。森で魔女に遭遇した時の事が書かれていた。


――怖かったわ……。まさかあんな小さな女の子がアンゲリキだったなんて……。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ