5 アンゲリキ追想
どこまでも深い泥沼の中に沈んゆくような気がした。暗く息苦しい闇の中に引きずり込まれてゆく。
しかしアンゲリキは抗うことを一切せず、ただ流れに身を任せていた。何もかもがどうでもよくなっていた。もう自分の身体がどうなっているのか、今まさに死にゆこうとしているのか、それすらも興味が無かった。
欲しいものは手に入れなければ、生きている意味がない。与えられないなら奪えばいい。そう思いそう行動してきた。それならば、奪われたものは奪い返せばいい。邪魔するものは排除すればいい。簡単なことだ。
それなのに何故こんなにも喪失感を味わい、虚脱してしまうのか。
ニキータがいない。
ニキータが私の側にいない。
アンゲリキは、自分が笑い蔑んだ女の顔を思い出す。
私の子を返してと、涙を流した女の顔を。
ああ、あれは愚か者の代表だった。何の力も無く、子どもを守れず愛も得られず、悲しむことしか出来ないバカな女。
何もかも失って抜け殻のようになったあれは、軽蔑すべき女だった。
だが今の自分はどうだ、あの女と同じではないのか。今まで嫌悪してきたものに、自分も成り下がってしまったのではないのか。
アンゲリキはゆっくりと果てしなく落ちてゆく感覚に、何処か安らぎを感じはじめていた。
王宮に入り込んだあの日のことを思い出す。
アンゲリキの計略は簡単に成功した。癇にさわるほどすんなりと達成された。
なんて容易く、なんて脆いのか。アインシルトを他国に貸し出すなんて、平和なれしすぎて彼らは頭が鈍っていたのだろう。スキをつくる方がいけないのだ、そう思っていた。例の女に入り込むのは簡単なことだった。
王妃アリシア様。あなたの代わりに私が全てを手に入れてあげよう……。
アンゲリキは鏡の前に座った。
美しい金色の髪。まだ年若く、幼ささえ残した白い美貌。細くはかなげな体。まるで妖精のような女が鏡に映る。まだ早い春の風の匂いが似合う、可憐なミモザのような女。魔女が最も嫌う種類の女だった。
頬を暖かい水が伝った。泣いている? 不快げに魔女は首をかしげる。
鏡に映った女に向かって、アンゲリキは言った。
『あなたはもう私の物。勝手に涙を流すことなど許さないわ』
魔女は、強引に涙を止めさせた。
王妃の指が震えている。しかし彼女は自分の体であっても、これ以上動かすことはできなかった。魔女に身体を奪われてしまったのだ。
トコトコと幼い王子が歩いてきた。そして不思議そうに魔女を見上げた。
おいで可愛い子、と腕を広げる。名前はニキータだったわね、とアンゲリキは王妃の記憶を探って内心ほくそ笑む。そして、彼の母を装いうんと優しく微笑みかけた。
「ママ……?」
幼子は舌足らずな声で、魔女をそう呼んだ。
小さな手を差し出して無垢な瞳で見つめてくる。愛くるしい王子を膝に乗せ抱きしめると、彼は満足そうに微笑んで、何の疑いも持たずに頬ずりをした。
今日からはこの子は魔女の息子。アンゲリキも愉快げに笑った。
『やめて……返して、私の子よ』
か細い王妃の悲鳴がアンゲリキの中に響く。でもそれはもう無駄なことだった。
王子を抱いて、魔女は鏡の中の自分を笑ってやった。この姿は本来の自分ではないが、もう王妃のものでもない。そこで大人しく私が何をするのか見ていればいいと、侮蔑を贈った。
朝となく夜となく、王妃は魔女の中で叫んだ。助けて、許して、返して、とさめざめと泣きながら嘆願を繰り返す。アンゲリキはそんな泣き言を、黙れと一喝する。しかし彼女は絶えず訴え続けた。
辟易し諦めたのは魔女の方だった。どうせこの女にできる事はそれくらいしかないのだからと、放っておいた。
魔女は王を意のままに操り、王国を思うがままにする手段を手に入れた。これは、いずれ復活する弟へのプレゼントだった。
後はゆっくりと、宝玉を奪う算段をすればいい。この国を牛耳るも、破壊するも彼の自由にさせてあげよう。全ては順調だ。
ニキータはアンゲリキを母と慕っていた。小さな手できゅっと魔女の指を握り「大しゅきよ」と愛らしく微笑みかける。眠る時も、魔女の胸に顔を寄せて安心しきっていた。
彼は無防備に愛を求め愛を与えてくる。それは彼女にとって新鮮な驚きだった。戸惑いながらも抱きしめた。
そして、惜しみなく魔力を分け与えた。この子は、必ず将来役に立つことだろう。この私、アンゲリキの息子となったのだから。早く王位につけたいものだと、会心の笑みを浮かべる魔女だった。
早く大きくおなりニキータ。
いつかお前に素晴らしい世界を見せてあげよう。
ニキータと過ごした三年。
それがこんなにも私を変えていたかと、魔女は眠りの中で思った。単なる道具だったずなのに、彼の存在が自分の中で何よりも大切なものになっていたと、ようやく気付いたアンゲリキだった。
「姉上よ。呆けるのも大概にしてもらわねば、我とて許せぬものもあるのだ。……なあ、アンゲリキ。お前は我で、我はお前だ。二人で一つなのだ。忘れるな」
アンゲロスのつぶやきは魔女の耳に届いているだろうか。昏々と彼女は眠り続けていた。
それを、黒い影の男が抱きしめている。死にいこうとするものを必死に止めようと、持てる力を注いでいた。
死を恐れているのは、彼女自身ではなく男の方だった。
アンゲリキは、なおも夢の中を彷徨い続けていた。
真っ暗な沼の中を這いまわって、ニキータを捜し続けていた。
愛しい子、私の愛しい子、とぶつぶつとつぶやいて泥の中をかき分ける。何処にいる、出ておいでと、不毛と知りつつ泥の中を漁り続ける。
魔女の目から涙がこぼれ、ニキータに再会した日の記憶が脳裏に浮かんできた。
あの日、迷霧の森で彼に会った。
王妃から奪った幼子は少年になっていた。その成長した姿に、堪らない程の懐かしさと愛おしさが込み上げてきた。七年前、もう用済みと捨てたはずだったのに、一目見ただけでもう離れられないと思った。
ニキータはアンゲリキの知らぬ少女と共にいた。馬に乗ったその少女は、年の頃は十七、八といったところか。身なりも良く、黒髪の美しい娘だった。
彼女は、アンゲリキが霧の中で道に迷っていると思ったらしい。一緒に行こうと微笑みかけてきた。
アンゲリキは露骨に顔を歪めた。嫌な匂いがするのだ。少女がなんとも言えない嫌な匂いを発している。本能的に邪魔だと思った。
魔女は少女を無視して、ニキータにおいでと手招きした。手綱を引いていたニキータは、きょとんと首をかしげるばかりだった。
私を覚えていないのだろうかと、魔女は落胆した。そして猛烈に怒りが湧いてきた。
さっきまで笑っていた少女が突然顔色を変え、ニキータに行ってはダメと囁いていたのだ。
アンゲリキの思考は単純だった。殺してやる、と。
邪魔な女。嫌な匂いをまき散らして、ニキータを引き止める不愉快な女。
魔女は薄暗い色をその目に宿し、少女に向かって手を差し向ける。
青い火柱が彼女に向かって飛んだ。しかし、放った攻撃は全て、アンゲリキに跳ね返ってきた。
どういうことだとますます怒りがつのり、馬から引きずり降ろしてやろうと、魔女は少女の足首を掴んだ。
その途端に、手のひらに衝撃が走った。シュウシュウと煙を上げて皮膚が溶けてゆくのだ。慌てて身を引いたが、手のひらから腕に肩にと侵食は広がってゆく。
足を掴まれて、少女は驚き身を震わせていたが、魔女の反応を見るとポカンと口を開いてそれを見下ろしていた。
アンゲリキの身体が溶けだしている。ジュウジュウと吹き出る煙の量が増えてゆくのだ。このままではいけないと、とっさに大きく飛び退き、少女から距離を取った。
その時、魔女は大事なものを手放してしまったのだ。切り札である二つの玉を。
玉は、まるで意志を持つかのように腹を突き破って飛び出していった。そして、少女に向かって吸い寄せられるように転がってゆくのだ。
取り戻そうと手を伸ばしたが、近づけなかった。それ以上近づけば全身が溶けてしまう。アンゲリキの顔が鬼面となって歪む。
馬から降りた少女が、玉を拾おうとしていた。
やめろ! それに触るな!
アンゲリキは、少女に呪いをかけた。
*
「おーいニコ、何をモタモタしてたんだ。お前が持って来ないから、こっちから来てやったぞ!」
アインシルトの幻想の森にテオの大声が響き渡った。ドカドカと近寄ってくると、ニコに手のひらを付きだして、例のものを催促している。
アインシルト、そしてニコの兄弟子たちの冷たい視線が、彼に集中した。
今日は珍しく朝から老師の指導を、ニコ達弟子一同は受けていたのだ。この後、師は仕事があるので、ニコはそれまでの間はみっちりと講義を受け、その後テオのもとに手紙を持って行こうと思っていたのだ。
昨日は気まずい雰囲気になってしまったこともあり、訪ねるのが少し億劫で先延ばしにしていたということもある。まさかテオの方から出向いてくるとは思わなかった。
「ほらニコ! 早く出せよ」
テオに怒っている様子は無かった。昨日のことなど忘れたと、いつもの尊大な態度でホレホレと手を振る。
「……朝っぱらから騒がしい奴じゃのお……お前は借金取りか」
「うるせー」
うるさいのはテオの方である。アインシルトは杖でテオの肩をグリグリと突いた。下がれ邪魔だと押しのけようとするのを、テオは振り払ってなおもニコに手を差し出す。
「ニコ、ほら早く」
ニコは呆気に取られながらもポケットに手を突っ込んだ。無い。部屋の引き出しにしまったままだったことを思い出し、アインシルトの小屋の方を振り返る。
「取ってきます」
「行かんでよい」
アインシルトはニコを止めて、再びテオに向かって杖を振り回す。
「テオドール! 大体なんでお前がここにおるんじゃ。リッケン閣下はどうした。待たせとるのか? この不埒者が」
「手紙が先だ」
「時間が過ぎとる。さっさと行け! わしももうすぐ行くから」
バシバシと杖で地面を叩いてテオを追い立てる。
「ちきしょう! オレは羊じゃねえぞ」
「羊みたいに可愛げがあれば怒鳴らんわ! ほれ、行かんか! 閣下を待たせるな」
「やかましいわ、この老いぼれめ。ニコ! お前のせいだぞ!」
喚き立てると、アインシルトの棍棒制裁がテオの頭上に落ちた。
ゲッと頭を押さえてしゃがみこむ。
「行けと言うとるんじゃ」
ギロリとにらまれドスの利いた声で命令されると、テオは恨めしげにニコを一瞥し、口を尖らせて立ち去っていった。
それを兄弟子達が笑いを噛み殺しているのを見ている。ニコは思わず赤面してしまった。こんなことなら、朝一番に手紙を持って行って上げてればよかったかなと、思うのだった。
ニコはヴァレリアの手紙の内容を思いだす。森で魔女に遭遇した時の事が書かれていた。
――怖かったわ……。まさかあんな小さな女の子がアンゲリキだったなんて……。