4 伝言と嘘
朝食の後、自室の窓を大きく開き空を眺める。それが、近頃ヴァレリアの日課になっていた。
今日も良い天気だ。青く澄んだ空に白い雲が浮かび、ゆるやかに流れてゆく。
細長い雲は鳥が羽ばたいているように見えた。ヴァレリアは耳をそばだてて、羽音がしないか確かめるのだった。
彼女はニコからの伝言を待っていた。
あれはミリアルドに戻って三日が過ぎた頃だった。夜になりベッドに入ろうとしていた時、突然窓ガラスをコツコツと嘴で叩く小さなふくろうが現われ、ギョッとして悲鳴を上げたものだった。
しかし、フクロウは魔法使いの遣いだということを直ぐに思い出し、急いで窓を開けた。すると、ふくろうは部屋に飛び込み鏡台にとまると、ニコの声で話し初めたのだ。
「驚かせてごめんね、ベイブ。君の事が心配だから、これからこのふくろうで連絡し合いたいと思ってるんだ。いいよね?」
ヴァレリアの顔がパッと華やいだ。ずっと落ち込んでいた彼女の頬がうっすらと桜色に染まる。嫌なはずがない。
「テオさんにようやく会えたよ。でもさ、僕の顔を見た途端ものすごい嫌な顔したんだよ……。ホント素直じゃないよね。置き手紙のこと突っ込まれるのが嫌で、ずっと逃げてたんだよ」
ふくろうが喋っているのに、何故かニコが肩をすくめて苦笑しているのが目に浮かんでくる。
ヴァレリアも、ふふっと笑った。
「ベイブを巻き込みたくなくて書いたんだって僕は思ってるよ。他に言い方は無かったのかなって思うけど……あまり気にしないで。きっとまた会えるから。三人でブロンズ通りで……っていうのは無理かもしれないけど……」
ふくろうは少し困ったようなニコの声を伝えた。
彼の言うことは分る。王女である自分が下町のブロンズ通りで暮らすことは、もう叶わぬ夢だろう。
こうしてミリアルドに帰ってしまっては、二度と抜け出せはしない。呪いが解けた直後なら、ヴァレリアなんて名前は知らぬ存ぜぬで町娘に成りすませたかもしれないが。
あの時、テオと一緒に逃げてしまいたかった。身分も国も捨てて、ただのベイブのまま彼の側に居たかった。でもテオはそれを許してはくれなかったのだ。ミリアルドに帰れと、そう言ったのだから。
ニコの言うように、それは自分をアンゲリキたちの策略から守ろうとするが故とも思う。しかし本当にそれだけなのだろうか。なぜ「酷い嘘をついた。真実は何処にもない」などと、突き放すのか。
やはり、私の存在が重すぎるのか……ヴァレリアはまつげを震わせてうつむいた。
「いっそゴブリンのままで居たかった……」
ホウと首をかしげるふくろうを、切なく見つめて吐息するヴァレリアだった。
伝言を聞いた後、ヴァレリアは手紙を書きふくろうに託した。こうして二人は、連絡を取り合うようになったのだ。
それから一週間が経っていた。
あっと声を上げ、ヴァレリアが微笑んだ。
真っ白な雲の中に一点、小さなシミのようなものを見つけた。微かに動いている。そのシミはどんどんと大きくなって、こちらに向かってくる。ニコのふくろうが伝言を運んできたのだ。
*
ニコが官舎の一室に入ると、窓際に立っていたテオが即座に振り返った。
そして待ちかねたというように大股で近づいて来ると、ニコに向かって手のひらを突き出した。口よりも饒舌な手の動き。早く渡せと催促している。
ニコはげんなりとポケットから手紙を出すと、彼に手渡した。
「そんなに気になるなら、自分で連絡を取ればいいのに……」
「やかましい」
ニコには目もくれず、テオは手紙を広げた。それは昨日ヴァレリアから届いたものだった。
彼は、ニコの伝言の内容と彼女からの返事を逐一チェックしているのだ。
ニコからふくろうを送ったと聞いた時は、自分の知らないうちに勝手な事をするなとムッと膨れていた。しかし少し考えた後、自分の添削済みの伝言なら送ってよしと、許可を与えた。どこまでも俺様だった。
そしてあくまでも、このやりとりはニコとヴァレリア二人のもので、自分は関知していないという体裁を取らせている。だからヴァレリアは、テオに手紙を読まれていることは全く知らないのだ。
「聞きたい事があるなら直接聞けばいいじゃないですか。ちゃんと答えてくれますよ。って言うか、ベイブはそれを望んでいます。何も僕を通さなくてもいいのに」
「うるさい。黙れ。しゃべるな」
思わずニコはイーッと歯を剥いた。ガタンと少し乱暴に椅子に腰掛ける。
毎度のことだが、人を何だと思っているのか。頬杖をついて、斜にテオを眺めた。
テオは手紙に二度三度と目を通している。少し目を細める彼の表情は穏やかだった。ようやく納得したのか、手紙をニコに返し、わざとらしい咳払いを一つした。
「ま、なんだ。元気そうでよかったじゃないか」
「…………そうですね」
テオの感想は昨日と全く同じものだった。
ニコは、照れ隠しが下手ですねと、言ってやろうかと思ったが止めておいた。
この何日かのやりとりで、キャットもといニキータとヴァレリアの関係が明らかになってきた。
テオの推測通り、ニキータはヴァレリアと共に迷霧の森で呪いをかけられたのだった。王宮を抜けだした彼女の従者として、一緒にインフィニードへ向かう途中の出来事だったらしい。
ヴァレリアがニキータと知り合ったのは、その一年程前のことだ。彼はミリアルド王宮の馬方の息子として暮らしていたのだ。
ヴァレリアはお茶会を開くよりも、馬で野山を駆け回る方が好きだった。ある日、遠乗りに出かけようと厩舎にやってきたところ、見慣れぬ少年に出くわした。初めて馬の世話を任せて貰えるようになり、彼は嬉々として初仕事に励んでいたところだった。
ヴァレリアが馬を引いてちょうだいと声をかけると、彼は真っ赤な顔をしてうなずいた。これをきっかけに、二人は親交を深めるようになったらしい。
――なんだか弟みたいで可愛いから、放っておけなくなったのよね。一緒に遠乗りに出かけたり、庭園で本を読んであげたり、字を教えてあげたり……。ニーカはね、小さな頃の記憶が無いのよ。馬方のスミスさんも本当の親じゃなくて、一人で町をうろついているところを拾って貰ったんだって。それより前の事は何も覚えていないって言ってたわ――
ヴァレリアはニキータのことをニーカと呼んでいた。彼がそう名乗っていたのだ。ニキータを縮めてニーカとしただろう。フルネームを名乗らなかったのは故意なのか、愛称しか覚えていなかったのか、定かでは無い。
ニーカという名から彼はミリアルド人ではないと、ヴァレリアにも直ぐわかった。インフィニードかその東のミデンの生まれだろうと推測していた。
例のミリアルド脱出の折に一緒に行こうと連れ出したのは、もしもインフィニード生まれなら、町を見て何か思い出すかも知れないと思ったかららしい。
――それがあんな事になるなんで……。ニーカは今頃どうしているのかしら。彼が見つかったら、必ず教えてちょうだいね――
ヴァレリアは、彼がインフィニードの第二王子であること、そしてあの黒い獣の正体であることをまだ知らない。
ナタでの戦闘の折にアンゲリキがニキータの名を叫んだが、それが彼の名だとは分からなかったし、アインシルトの懐の中で黒猫が抱かれていたことも、あの混乱の中では気付きようがなかったのだ。
テオは、今はあえてこの事実を伝えないように、ニコに指示している。
ニコは、緑地公園の史跡で彼が変化した時の事を思い出すと、今でも悔しさと悲しさで胸が苦しくなってくる。
自分でさえこうなのだ。ヴァレリアがこれを知れば、受ける衝撃はとても大きいだろう。そう思うと更に息苦しい思いに苛まれた。テオの指示がなくとも、伝えることはできなかっただろう。
ニコは手元に戻ってきた手紙を見つめる。
文字では表されていない、ヴァレリアの思いをもう一度テオにぶつけてみる。
「あのドアの魔法を使えば、一瞬でベイブの部屋に行けるじゃないですか。直接会って話したいって、ベイブは今でも待ってるんですよ」
「ほっほう、お前は随分と女性心理に詳しいようだな。オレにはさっぱり解らんが」
「テオさん!」
ニコはバンと机を叩いた。いい加減に茶化すのは止めてもらいたい。
ギッとにらみつけると、テオは直ぐに目を逸らしてしまう。
「ベイブを二度と危険な目に合わせたくないから、ミリアルドに帰したんでしょう。それは解りますよ。でも他に言いようがあったはずです。ちゃんと話して納得させてあげれば良かったじゃないですか。何もあんな誤解を招くような手紙を残す必要なんて無かったんです!」
ニコはますますテオをにらみつけた。
しかし内心では自信が無かった。自分で言っておいて、あのベイブを納得させるなんて出来るだろうかと疑問に思ったのだ。押し問答になるだけのような気がする。
「誤解?」
「嘘をついた、真実はない、だからさようならって書いてたでしょう。意味わかりませんよ」
ニコはそう言いつつも、もしやテオは納得させるのではなく、強引に従わせる為にあの手紙を書いたのではと思い始めていた。
「それは事実を書いたまでだ。お前も知っている通り、オレは嘘つきだからな」
「嘘つきが『嘘をついた』って言ったら、それは『嘘をついた』という嘘を言ったことになりますね。つまりテオさんは何も嘘なんかついてないんだ」
「……屁理屈だな」
「あの手紙が嘘なんだ。演出しただけなんだ」
一瞬、テオが息を飲んだ。ピリッと緊張した空気が流れ、ニコは核心をついてしまったことを悟った。
「……だったらこういうのはどうだ。嘘つきは嘘しか言わないんだ。オレは『嘘をついた』という嘘をついた。と言えば、それも嘘になるんだ。嘘しか言わないっていうのも嘘かも知れない。嘘。嘘。嘘! ほら! 真実は何処にある?!」
「テオさん!」
「全部、嘘まみれなんだよ!」
「そうですか! そう言い張るんならそれでもいいですよ! でもね、ベイブについた酷い嘘ってのだけは言ってもらいますよ! ベイブを泣かせた手紙の真意を聞かせて下さい!」
本当はもう、聞くまでもないと思っていた。
自分はただ意地になっているだけじゃないかと、自身に嫌気を覚える。テオの目が泣いているように見えるのだ。
いつものように意地の悪い薄ら笑いを浮かべて、見下すように腕を組んでいるというのに、追い詰められて崩れそうなのを必死に堪えているように見えてしまうのだ。
ニコはまだ恋の切なさを知らない。でも、こんな愛情の示し方もあるのかと思うと、胸がぐっと痛んだ。なんて不器用な愛し方なんだと。
「……オレが今何か語ったとして、それが信じられるのか? オレを信じるなんて大バカ者のすることだ」
「信じますよ」
「そうか、じゃあ教えてやろう! 愛していると嘘をついて彼女を抱いて、重荷になったから捨てたんだ。……さあ、信じろよ」
「……ええ、信じます」
「お前も、嘘つきだな」
「僕はテオさんを信じてるんです!」
ニコはテオに謝らなければと思うのに、言葉に出せなかった。恥いって、もうまともに彼の顔が見れない。涙がこぼれそうだった。
「帰れよ……」
テオの呟きが消えると、しんと部屋は静まり返った。
そして、ニコは震える足を無理やり踏ん張って立ち上がった。テオに背を向ける。深くうつむき、彼を振り返ることもできまいまま、ニコは部屋を出て行った。