終章
どのくらい眠っていたのだろう。
ベイブはぼんやりと目を開けた。見慣れない天井に、ここは何処だと首をひねる。何があったのだったかと、夢見心地で考えた。
目をこすると、土色の枯れ枝のようだったゴブリンの指が、白く柔らかな肌に変わっていることに気づき、ハッと顔を赤らめた。
自分は元に戻れたのだった。テオが呪いを解いてくれた……。
そうだ、彼に話さなきゃ、戻れたら言おうと思っていたことがいっぱいあるのだ。
彼はどこだとキョロキョロと部屋を見回し、体を起こすとドアノブに手をかけたテオの背が見えた。
途端にベイブの頬が上気する。指でそっと唇を撫でた。
「テオ」
呼びかけに彼は振り返らず、カチャリとノブを回す。出かける所だったのだろうか。
ベイブはもう一度声をかけた。
「テオ? すぐに戻るの?」
彼は動きを止めたが背を向けたままだ。返事はない。
この距離で聞こえないはずがない。どうして返事をしてくれないのか、と不審に思う。ベイブの胸に不意に不安が湧いてきた。
「待って、何処にいくの? ……私、一緒にまたブロンズ通りに帰ってもいいわよね?」
「…………」
ドアノブを握ったまま彼は動かない。おかしい。いつもの彼なら、振り返ってちゃんと答えてくれるはずだ。
心臓がドキドキと不安な鼓動を打ち始めた。
「……あたし、きっと役に立てると思うの。魔女たちを倒せば、また三人で……」
「ヴァレリア姫」
テオは彼女の言葉を遮った。彼女の本当の名前で呼んだ。先ほどまではずっと、頑なにベイブと呼んでいたのに。
「ミリアルド王や兄君がお待ちです。国へお帰りにならなければ……」
今までにない丁寧な口調。
他人行儀で、突き放すような声だった。
「……ど、どうしたのよ……」
どうしてそんなに余所余所しいのか。ベイブは困惑した。
扉が開かれ、彼はさっと出て行ってしまった。
バタン――――。
扉の閉まる音が冷酷に彼女の耳に響く。
テオは一度も彼女を振り返ることなく、部屋を去ってしまったのだ。
ベイブは呆然と見送った。何が起きたのか、理解出来なかった。
後を追おうとベッドから足を下ろした。
と、水色のワンピースがふわりと床に広がった。一歩踏み出した途端に、力が抜けてしゃがみ込んでしまったのだ。
まったく力が入らず、太ももがガクガクと震えている。痛みは無かったが、まだ体の自由が効かない。
それでもベッドにつかまりながらやっとのことで立ち上がると、ベッドサイドに手紙がおかれているのが目に入った。
直ぐに手に取り、たたまれた紙を広げた。
テオの字だ。短い手紙だった。
みるみるうちにベイブの目がうるみ、大粒の涙がこぼれ落ちた。
彼女の手から、滑り落ちた手紙がひらひらと床に舞い降りてゆく。
『オレは嘘つきだ。君に酷い嘘をついた。真実は何処にもない。だから、さようなら』
ベイブは震える足で必死に立ち上がり、何度も転びながらも、夢中で扉を開いた。
予想していたことだがテオの姿は無かった。
自分を一人置いて、どこかへ言ってしまった。ブロンズ通りに帰ったのか、王宮へ行ったのか。一緒に連れていってはくれなかった。
どうしてなのか。
何度も手紙を読み返したが、彼の言わんとするところが解らない。
解りたくない。
酷い嘘をついた、真実はない、と彼は言う。それはなんのことなのか。先ほどまでの、優しい時間のことなのか。眠りに落ちる直前まで、彼は優しく頭を撫でてくれていた。それなのに、と思う。
恐ろしさに震えた。
涙がまたこみ上げてきた。ベイブは、自分で自分を抱きしめて、嗚咽する。
日は沈みかけ、オレンジ色の光が差し込む部屋は薄暗く、濃い影が次第に広がっていった。
*
「これで、満足か……」
扉にもたれたまま、うな垂れたテオがつぶやく。
夕暮れの薄闇が彼の部屋を支配している。ガランとした官舎の部屋は味気なく空っぽで、ここに住む住人でさえ拒否するような冷たい空気を漂わせていた。
テオは気が抜けたようにズルズルとしゃがみこんでゆく。
「おんやぁ? これはまた心外なことを仰る。私はただ、本当にそれでいいのですか、と尋ねたまでですがねぇ。あなたの好きにすればいい。宿望よりも女を取るというなら、そうすれば良かったんです」
ポケットの中で、残忍な悪魔がささやいている。
「あなたが決めたことです」
*
コンコン。
扉をノックする音に、ハッとベイブは顔を上げる。期待をいっぱいに彼女は駆け寄った。とりすがるようにノブをつかむ。
上手く握れずにから回り、もどかしさに声を震わせて去って行った男の名を何度もつぶやていた。
戻って来てくれたのだと信じたい。
扉が開いた。しかし目の前にいたのは、ニコだった。
彼は面食らったように口も目を大きく開かれている。
「え? あれ? え? ……ど、どなたですか?」
ニコの声はひっくり返っていた。
「ああ……ニコ! ニコ!」
ベイブは現われた人物がテオでは無かった事に落胆した。しかし彼以外で、今会いたいと思う人物はニコしかいない。これはせめてもの幸いなのだろう。
ベイブは彼にしがみつき、ポロポロと涙を流して哀願する。
「お願い! テオのところに連れてって! 私を置いて行かないで」
「えぇっと ちょ、ちょっと待って。僕はベイブを迎えに来たんですけど、ここにいるって……あれ? え? あの、貴女がベイブ……なんですか?」
黒髪の美しい女性にいきなり抱きつかれ、ニコは戸惑っていた。
ニコはアインシルトから、ベイブを王宮に連れてくるようにと指示されていた。呪いが解けたらしいということだけは聞いていたが容姿までは伝えられていなかったし、経緯などは全く知らされていなかったのだ。
ドキドキと心臓が高鳴った。
泣きじゃくるこの女性が、本来の姿に戻ったベイブなのだろうと思うのだが、小さなゴブリンとのあまりのギャップと、状況の見えなさに困惑している。
「ええ! ベイブよ! 私よ!」
彼女は、テオの手紙をニコに押し付けた。
「これはどういうことなの? テオはどこ?」
人間の娘に戻ったベイブに見つめられると、ニコは顔が熱くなるのを感じた。
慌てて手紙に目を通す。
「…………嘘。何のことだろう……。テオさんは多分王宮にいると思います。でも僕もまだ会って無いんです」
何故か緊張して、口調が丁寧なものになっていた。いつものタメ口をきいてはいけない相手のように思えたのだ。
ズルズルとベイブはしゃがみこんだ。
「そう、あなたにも会ってないの……。本当にさよならなの……。あたしを国に返して、もう会わないつもりなのね……」
「ベイブ?」
「お兄さまと一緒にミリアルドへ帰れって言われたわ。あたしに見向きもしなかった……」
「ミリアルド? ……あ! まさかミリアルドの王女の……」
ベイブがコクリと頷く。
ニコは絶句した。
ベイブこそが、行方不明のミリアルドの王女ヴァレリア姫だった。
驚くとともに合点がいった。以前ベイブが言った、結婚を嫌がって逃げたとか相手を試そうとしてハプニングにあったとかいう話は全て真実で、王女である自分自身の事をユリアに託して語っていたのだと理解できた。
魔法使い達がミリアルド中を捜しても見つからないはずだ。彼女はずっとテオの元に匿われていたのだから。
そして今、ようやく魔女のもとから救い出し、呪いを解くことに成功したということのようだ。
しかし、どうしてベイブを置き去りにして王宮に戻ってしまったのか。こんなに彼女を泣かせてしまって、後悔しないのだろうか。
拐われた時あんなにも動揺し心配し続けていたのに、再会した途端に理解不能な手紙を残して、一人で行ってしまうとはどういうことなのだろうか。
ニコは、いつにも増して彼の行動を不可解に思った。
うつむくベイブの肩に手を置いた。
「行こう、ベイブ。……ベイブって呼んでもいいよね」
「うん」
「大丈夫だよ。戻ったらちゃんとテオさんと話そう。納得がいくまでね」
ニコが微笑むと、ベイブも真っ赤な目を細めて笑みを返した。
なんて可愛らしいんだろうと、ニコは見とれると同時に怯んでしまった。彼女がこんなに、愛らしい娘だとは思いもしなかった。側に立っているこそすら不釣り合いに思えて、気が引けてしまう。
まさかテオもこの彼女を見て怯んでしまった、とでもいうのだろうか。いやそれは無いだろう、あのテオに限って、とニコは思う。
しかし王女であるという点は見過ごせない。一介の魔法使いとミリアルドの王女とでは、とても釣り合いが取れないのは事実だ。
テオがついた嘘とはなんだろう。結局はそこに、彼のとった行動の理由があるに違いない。
「酷い嘘……か。テオさんはホント嘘つきだからね。酷い嘘っていうの自体が、嘘かもしれないよ? 僕らを煙に巻いて、ニヤニヤ笑ってる顔を想像してみてよ。とんでもない人だよね。さあ! 二人でとっちめに行こう」
本当は少しもそんな風には思っていなかった。でも、ニコはなんとかベイブを笑わせたかった。
日が落ちて、部屋の中は青く染まっている。
悲しげにベイブは笑った。
ああ、失敗だなと、ニコは視線を逸らした。彼女を本当に笑わせることができるのは、一人だけだ。それなら、さっさと彼女を泣かせた罪を購って貰わなくてはと、ニコは思う。
扉を開け、ベイブを誘う。
ふと、これから僕らはどうなっていくんだろうと、不安を感じた。三人でブロンズ通りで過ごした日々が懐かしい。あの頃に戻りたいと、そう思う。
「あたし……ブロンズ通りに帰りたい。もうミリアルドに帰れなくたっていいの」
ニコの物思いに同調するように、ベイブもつぶやいた。
扉が静かに閉まる。
ニコとベイブが去った部屋は静まり返り、更に濃い闇が室内を侵食していった。
この古い城塞に残るのは重症者と看護人のみで、今は皆休んでいるのか建物自体が静寂に包まれている。
魔女討伐は叶わなかった。その敗北感が沈黙の中にこめられている。
そして、先ほどまでベイブが居た部屋の静寂には、別の重苦しさがこもっているようだった。
部屋の片隅で、丸めて捨てられていた紙が、カサカサと音を立てて中途半端に開いた。
それは書き損じの手紙だった。途中まで書いてぐしゃぐしゃと乱雑な線が文字を隠している。
『ごめん、ベイブ。これ以上君を巻き込めない。もしもまた君に危害が加』
紙の端に青い火が灯った。静かにチリチリと手紙が燃え始めた。
火はあっという間に手紙を飲み込み、すぐに燃えつきて真っ白な灰だけが残った。空気が小さな渦を作り灰を巻き上げると、開け放たれたままになっていた窓から外へと出て行った。
日は沈み濃い藍色になった空に、灰は一瞬キラキラと輝いてそして散っていった。