39 君の名前
アインシルトがニキータを連れて出て行った後、テオはベイブのベッドに腰掛けてじっと彼女を見つめていた。
ベイブの額には、もう余計な目玉は付いていない。本来の彼女の目である、二つだけだ。
この部屋に彼女を運び入れた時に、アインシルトの指摘を受けてもう一つの余分な目を取り出しておいたのだ。
誰のものか分からないその目玉は、ベイブの体から出た途端、石化してしまった。今はテオのポケットの中に仕舞われている。
テオは飽きもせずにずっと、ベイブを見つめていた。ホッとする気持ちと寂しく思う気持ちが同居していた。
眠る彼女の頬を軽くつつくと、小さな体が身じろぎをした。そしてゆっくりと目を開く。
まだぼんやりしているベイブに、微笑みかける。
「……おはよう。気分はどう?」
「もう平気よ。あなたこそ怪我が……」
「大丈夫。このくらいではまだまだ死にはしないさ」
彼女も笑みを返しゆっくりと起き上がる。
それを待ち構えていたように、テオは彼女の腕を引きそのまま抱きよせた。小さな身体を腕の中に抱え込む。
「君が無事で本当に良かった」
「ごめんね。心配かけて……」
「もう、いい。こうやってまた君に会えたから、もういいんだ」
ぐっと、腕に力がこもった。
「呪いを解こう」
「え?」
ベイブの体がビクンと震えた。
「見つけたんだ」
「呪いを解く鍵?」
「そう、鍵を見つけた……君の名前だ」
「ああ! テオ!」
頬を紅潮させて、テオの首にしがみついた。
「今から、試していいかい?」
「ええ」
ドキドキと胸を高鳴らせてベイブは頷く。
名前を見つけ出すことそれが呪いを解く鍵だったのか、とベイブはうんうんと何度もうなずく。自分の事を一切話せないようにされたのはその為だったのだと、合点がいった。
待ちに待った時がやってきたのだ。やっと、本当に自分に戻れる。期待と希望に満ちた笑顔だった。
テオはくすりと笑って、彼女の顎をつまんで持ち上げた。
「君はミリアルドの王女、ヴァレリア姫だ……」
ベイブの目が輝いた。
すると、テオの顔がすっと近づいてきて、唇が重なった。驚いて逃れようとする彼女の頭を抑えこんで、テオはなおもキスを続ける。
ベイブの体が光始めた。ああ、と唇の隙間から二人の吐息が漏れる。
呪いが解ける。
うっとりとテオに身を任せたベイブの周りに、無数の光の粒が現れた。それはすぐに渦をつくり、キラキラとまたたきながら彼女を取り囲んだ。と、小さな悲鳴を上げて、ベイブが喉を反らせた。
不意にグンと手足が伸びてしなやかな曲線を取り戻した。黒髪がバサリと白くなだらかな背を流れる。
小さな醜いゴブリンが、一瞬にして美しい娘の姿を取り戻したのだ。
テオの目は、腕に抱いた娘に吸い付けられていた。
艶やかな黒い髪。
透き通った肌。
潤んだグレーの瞳。
そしてツンと尖った桜色の唇。
幾度か見た、幻と同じ顔だった。
ゴクリとテオの喉が鳴り、感動に思わずのけぞった。
「テ、テオ!!」
急激な変化に動揺したベイブが勢い良くしがみついてきて、テオはそのままドッと後ろに倒れ込んでしまう。
ズキリと傷が痛んだが、彼女の身体をしっかりと受け止めてベッドに沈み込んだ。
この重みは、猫やゴブリンとは全然違う。人間の大人の女の温かな体温を伴った重みが、とても心地よく感じた。
自分の考えが正しかったことに、安堵感も覚えた。しかし、彼女がミリアルドの王女であるという事実が、ずしりとテオの心を重くしてもいた。
「……私……戻った?」
ベイブは震える声を上げた。前と少しも変わらぬ声だ。
「ひっ!」
体を起こそうとして、ベイブは小さく悲鳴を上げた。
「ベイブ?」
「か、体が痛いの……全身を針で刺されたよう……」
「それなら、このままじっとしていればいい。長いこと縮められていたからな……」
優しく髪を撫でながら言う。
「すぐに楽になるさ」
「ありがとう……テオ。……嬉しい」
「うん、オレも嬉しいよ。君がゴブリンの時とあんまり変わらなくて」
にぃっと唇を釣り上げる。人をからかって楽しんでいる時の顔だ。
ムッと眉間にしわを寄せて体を起こしかけるベイブを、テオは下から抱きしめて離さない。
「どういう意味よ」
ぷうとベイブの頬が膨らむ。
あの醜いゴブリンの時と変わらないとは、どういうことだ。
自分を特別に美しいと思ったことはないし、眼を見張るような美女は他にいくらでもいることも知っている。しかし、醜いと思ったこともない。
一国の王女として社交界にでて恥ずかしくない程度の器量はあるし、そこそこに可愛い方なのではないかと自己評価していたのだ。
それをゴブリン並と言われては、女心が傷つくというものだ。
キッとテオをにらんで口をとがらせる。
「ほらその表情。この目、声、全然変わらない」
「……中身まで変えられてたわけじゃないもの」
「うん。君は全くお姫様らしくない、小生意気なゴブリンそのものだった」
「もう、ゴブリンじゃないわ!」
「でもオレ、ゴブリンすきだよ?」
「……バカ」
クスクスと笑われて、ベイブはどう対応すればいいのか全く分からず、ただ顔を赤らめるばかりだった。
テオは彼女の髪を撫で、背をさすっている。
「痛みはとれた?」
「うん……」
うなずいて、もじもじとテオの肩に頬を寄せてみた。
ずっとこのまま一緒にいたい、そんな思いが自然に湧いてきた。
「ああ……この重みいい感じだ。ゴブリンじゃ軽すぎだったからな。それに、このムニムニボヨンな柔らかな感触がたまらなく気持ちいい。もっと味わっていたいのは山々なんだが、そろそろどかないとオレの理性が……」
とぼけた口調だった。何だと? とベイブは顔を上げる。
彼女が慌てて体を起こすと、テオの眼前に白い裸身が露わになった。
当然のことだが元の姿に戻ると同時に、それまで着ていた小さな服はちぎれてしまっていた。
「おおぉぉ……ナイスおっぱ……」
「いやーー!」
叫ぶと同時に、バッと両腕で胸を隠す。
「見ないでよ! ドスケベ! あっち行って!」
「そうは言っても、君がどいてくれないとオレは動けないんだけど?」
ベイブはハッなる。
彼に馬乗りになっているのは自分の方だったのだ。
なお慌てて、ベイブはベッドの端まで転がっていった。
「見ちゃダメ! 来ないで!」
真っ赤になって喚く彼女の背に、パサリとシーツがかけられた。
即座に体に巻き付け、ちらりとテオを振り返る。耳まで熱い。
ニタニタ笑っているテオに、思い切りイッーと歯をむいた。
「あんた、今、すっごくスケベったらしい顔してるわよ」
「そりゃあそうだろう。一糸まとわぬ生まれたままの姿を見せつけられたら、誰だって……」
「バカーー!」
お構い無しに、テオがにじり寄ってくる。
何する気なのよと、ギョッとしてベイブは逃げる。彼を避けようとしてますます端に追い詰められていた。壁際で小さくなって身を固めていると、不意に髪をくしゃりとかき回された。
温かい手がよしよしと彼女の頭を撫でる。まるで小さな子どもを宥めているみたいだ。彼を警戒していたくせに、子供扱いされたのだと思うと、なんだか不満を感じてしまうベイブだった。
真っ赤な顔をした彼女に、コツンとおでこをくっつけ合わせ、テオがつぶやく。
「四つ目も魅力的だったけど、人間に戻った君も見てみたかった。ホッとしてるよ。良かった……」
あまりに顔が近すぎて、激しい鼓動が彼に聞かれてしまうのではないかとベイブは心配になった。別の事を考えないと、心臓が破裂してしまいそうだ。
えーとえーと、とベイブは心の中で無理やりしゃべり始める。
そうそう、四つ目が魅力的だなんて相変わらず悪趣味な事をしれっと言うんだから。人間のヴァレリアよりも、四つ目のゴブリンのベイブの方が可愛いとでも言うわけ? そう言えばさっき、全然変わってないなんて言ったし!
と、突然ニコの言葉を思い出した。
『ゴブリンだろうが四つ目だろうが、そんなことどうでも良くなるくらい、君のことを大事に思っているんだよ』
ベイブの心臓はますます忙しく鳴り続ける。唇がじんじんとした。
「……さ、さっき、なんでキスしたの?」
「あれ? そんなことしたっけか? どさくさに紛れてなんかしたかな?」
「…………しなかったかもね」
薄らとぼけるテオを思わず殴りたくなったが、ベイブはただシーツを握りしめて俯いただけだった。問い詰めたら切ない言葉を聞かされそうな気がして、それ以上何も言えなかった。
すると、またよしよしと頭を撫でられた。
上目遣いに見上げると、今までに見たこともない優しい笑顔が彼女の視界の全てを埋めた。
再び、唇に柔らかい感触。
「ベイブ、もう少しお休み……」
パチンと指が鳴る音がして、淡い水色のワンピースがふわりとベイブの膝に降ってきた。




