36 魔剣と精霊
「なに!?」
アンゲリキがブンと勢い良く振り返る。
キャットを奪い返そうとアインシルトに気を取られていた魔女は、驚愕の声を上げた。力強く立ち上がるテオを穴があく程にらみつけていた。
「なぜっ?! いつの間に見つけた?! ……あああ、忌々しい!」
目を吊り上げ牙をむき、まさに悪鬼の相だった。彼女はテオが左目を取り戻したことに、ひと目で気付いていたのだった。
テオがニッと不敵な笑みを浮かべると、デュークもハッハッハと声をあげて笑い出した。
変化は彼にも起こっていた。銀色の髪がじわじわと黒く染まり、痩身ががっしりとした筋肉質の体躯へと変わってゆく。
喜悦を露わに天を仰ぐ。
「なんという力強さ! なんという開放感! ああ、誠の自分を取り戻せたこの至福!」
両手を大きく広げると、ブシュリと肌の割ける湿った音がした。黒く太い角のようなものが肩の後ろから迫り上がってくる。
再び大声で笑うと、その背に凶々しい黒の翼がザンッと広がった。血と粘液にまみれた翼を二度三度羽ばたかせ、飛沫を飛ばす。
見開かれた紫の目が一層妖しい光を発していた。デュークは少し腰を落とし、アンゲリキただ一人をにらんでいる。
「私、もうイッちゃって良いですか?」
「引っ込んでろ」
「けっ! 焦らしますねえ。ドSですか、あなた!」
デュークの無駄口を無視して、テオは下がれと合図する。
懸命に走りアインシルトが到着した。ひどく消耗している様子だったが、テオの顔を見ると口をほころばせた。
「ようやく、取り戻したか!」
「ああ。――彼女を頼む」
テオは魔女へと近づいていった。
奪われたものは取り戻した。恐れも不安も無い。もう魔女に通用しない魔法などなく、支配は解かれた。
しかし笑みをたたえたテオの顔には、先程のまでの清々しさは無かった。暗く陰湿なものがじわじわとにじみ出てくる、そんな笑みだった。
ここで着ける決着とは、命の取り合いなのだ。
魔女に一歩一歩近づいてゆく。
手にした鏡の中から、ズルリと剣を引き抜く。両手持ちの大振りな剣をいとも簡単に振り回し構えた。
ニッと口角を釣り上げて不敵に笑うと、握った剣がグンと長さと重量を増した。柄から切っ先に向けてバリバリと蒼い火花が駆け上がってゆく。
テオの髪がぶわりと逆立ち、ローブがまくれ上がる。その全身がうっすらと輝いたかと思うと、陽炎のように揺らめいた。
と、黒い矢の如くテオが突進する。
「がああぁぁ!」
真一文字に剣を薙ぐ。銀色の光跡が走った。
しかし、真っ二つに切り裂かれたと見えたものは、魔女の残像だった。
くるくると軽業師のようにバク転でかわし、地を蹴って空高く舞い上がっていた。空を舞う可憐な少女の姿は黒衣であっても天使の如くだった。だがその双眸は悪鬼に禍々しさを放っている。
テオは上空の魔女に大剣を差し向ける。
「火焔槍!」
剣に突如宿った渦巻く炎は、太い槍となって飛んだ。同時に、テオも間合いを詰めるべく走りだしていた。
アンゲリキは彼を見下ろし笑っている。どうということはない、と炎の槍を両の手のひらで受けると、激しい火花を散らして火焔槍は四散した。
そして、ストンと軽やかに彼女は着地する。
「ふん、その程度なの?」
魔女の嘲りなど意に介さず、テオが手のひらを差し向けると数本のナイフが飛び出していった。直線的な動きでは無かった。左右上下から回り込むようにナイフは魔女に襲いかかる。
ガキンッと鋭い音がして、ナイフが弾かれる。障壁が魔女を包んでいた。
しかし、跳ね返されたはずのナイフは地に落ちる寸前にその姿を消していた。そして次の瞬間、忽然と障壁の内部、魔女の眼前に現れていた。
息を飲む暇もなく、咄嗟に払い避ける。白い腕に幾筋もの朱線が走った。
魔女はギリリと彼をにらみつける。
「そんな、バリアなんて意味はないのさ」
テオが薄ら笑いを浮かべている。もう魔女の眼と鼻の先で大剣の振り上げていた。
「面白いわね」
ブンと風を切って、剣が振り下ろされる。魔女は軽やかにそれを交わすも、追撃は止まらない。
しかし彼女も笑みを絶やさない。
「なまくらで、どこを狙っている!?」
アンゲリキの声に侮蔑がこもる。またもくるりと回転して、かわした。
再び、大剣が空を切る。
そしてグサリと地面に突き刺さった。
「ここさぁ……」
テオがニーっと笑い返すと、魔女の顔色が一変した。
愛らしい唇から、ゴボリと血を吐き出した。
その腹部から大剣の切っ先が、血をまとわせて覗いていたのだ。地に突き刺さったはずの剣先が。
テオは更に、剣を深く地に差し込む。
その動きに完全に同調して、魔女の腹から生えた剣がグシュリと伸びてくる。
「ぐぅ……はあぁぁぁぁ……」
魔女の身体が震えた。
視線を落とすと、魔剣が彼女の影を貫いているのが確認できた。
空間をねじ曲げたのか、と戦慄を覚える。
完全に魔力を取り戻している。これは手痛い失敗だったと、ギリリと奥歯を鳴らした。
「心臓を狙ったんだけどなぁ」
呑気なつぶやきは場にそぐわず、返って不気味だった。
そのテオの胸にも血が滲んでいた。裂けたローブが重たく湿っている。再び出血を初めていたのだ。
容赦の無い暗い笑みを浮かべる彼を、アンゲリキはにらみ上げた。
動けない。
魔剣によって影は大地に縫い付けられ、足はわずかにも動かせない。このままではなぶり殺しにされるだろう。焦りが、彼女に舌打ちをさせた。
額にブツブツと玉のような汗が浮かんでいる。
魔女は腹から突き出た刃を一気に握りしめた。手のひらから鮮血がこぼれ落ちる。構わず剣を腹の奥へと押し戻す。意図せず、くぐもった嗚咽のような声が喉からこぼれた。
「終わりさ」
テオの声は冷厳だった。
左手は魔女に向かって開かれた。その掌が白熱している。
そして右手は、剣の柄を握りしめしっかりと押さえ込んでいた。
「女をいたぶる趣味は無い。一気に決めてやるよ」
左手の光球が膨れ上がった。目を貫く強烈な光。まるで小型の太陽のようだった。
死力を尽くして、魔女が叫ぶ。
「ニキーターーー!!」
その声の消えぬうちに、テオの胸にガンと衝撃が走った。
傷口がガッと広がった。力を弱めたはずの毒が、急速に濃度を増して全身を駆けまわる。悪寒が突き抜け、激痛が走る。
次いで、太陽の如き光球が突然彼の手の中で爆発を起こした。コントロールを誤ったのだ。
障壁作り出す余裕もなく、テオは吹き飛ばされていた。
「うおぉ!」
十数メートルをふっ飛ばされ、ゴロゴロと転がるその身体は爆炎に包まれている。皮肉な事に、彼は自らの魔法に焼かれているのだ。
この予期せぬ事態に、アインシルトが叫んだ。
「消せ! テオドール!」
懐で暴れる黒猫を必死に押さえつけ、テオに駆け寄る。
黒猫は魔女の為にテオに与えた毒の威力を強めたのだ。その目が、いやらしく脈動している。
「テオ……」
火だるまになったテオを呆然と見つめ、ベイブはその場に座り込んでしまった。
「いやはや、ニキータ君やってくれましたね。ナイスアシストってヤツですか?」
デュークが指をパチンと鳴らすと、猫はぐったりとおとなしくなり、再びアインシルトのキューブの中に収められた。そして、もう一度鳴らすと、テオを包んでいた炎がシュウと音をたてて消えてしまった。
アインシルトが抱き起こすと、テオの肌はところどころ赤く腫れていたものの、恐れた程の火傷は負ってはいなかった。
「私の咄嗟のシールドも、なかなかのアシストでしょう?」
デュークが笑うと、テオはうっすらと目を開いた。
「一足、おせーんだよ」
「感謝知らずここに極まれり……まあ、期待なんてしてませんでしたけどね」
肩をすくませるデュークには目もくれず、テオは魔女へと視線を送る。
アンゲリキはこの間に、剣を抜き去ってしまっていた。よろよろと膝を着き、苦しげに身体を震わせている。彼女は淡いクリーム色の光の粒に囲まれていた。光はどんどんと魔女に吸収されてゆく。
テオは頬を歪めた。
「まさか……」
「アヤツ、魔力を吸い取っておるのか?」
アインシルトが光の粒の出処を目で追ってゆくと、それは彼らを遠巻きにしていた騎士団を含む魔法使い達だった。ジノスが目を吊り上げて、下がれ下がれと号令をかけていた。
アンゲリキは彼らの魔力を吸い上げて、自分に回復魔法をかけいるのだ。
更にテオの頬が歪んだ。
これでは一気にとどめを刺さない限り、何度でも魔女は息を吹き返してしまうではないか。
「テオ」
今にも泣きそうな顔をしたベイブが、震える足でよろめきながら彼の側にたどり着いた。そしてぎゅっとしがみつく。彼女はありったけの力を振り絞って、温かな光を彼に与えた。
ベイブの小さな頭を撫で、テオの顔からようやく険が消えた。
「オレが……怖くはないか?」
「全然」
何を言うのかとベイブは首を振る。一層傷ついたテオを痛ましげに見上げて、微笑む。
先程の彼は確かに鬼神のようだと感じた。命の取り合いに喜びを感じているかのようにも見えた。まるで、別人のようだと。しかし、それでも彼は彼だ。怖くなどあろうものか。
ベイブは、はっきりと言った。
「これっぽっちも怖くなんてないわ。あんたなんて、ただの気まぐれな我がまま男だもん」
「……そ、そう」
思わずテオは苦笑する。
その傍らにデュークがしゃがみこんで、仏頂面を二人の間に割り込ませてきた。
「ちょーっと油断すると、そうやってイチャつくの止めにしてもらえませんかね。私はもう欲求不満が爆発しそうなんです。選手交代して頂けませんか? どうせもう、あなた役立たずでしょう?」
いやみったらしく精霊はウインクをする。
舌打ちをしてテオは、顎をしゃくった。その先には、しっかりと立ち上がったアンゲリキがいる。
裂けたドレスの下に白い肌が覗いていた。この短時間の間に、傷は僅かな痕も残さず消えている。他人の魔力を存分に利用しているとはいえ、恐るべき回復の仕方だった。
ニヤリとデュークは笑い、立ち上がる。
「思い切り暴れさせてもらいます」
「……行け」
テオが命令すると、喜色満面でアンギリキへと突進する。
地を一蹴りしただけで、魔女の眼前に躍り出ていた。
唐突に、ナイフのような長く鋭い爪が魔女の喉めがけて弧を描くと、空中に朱色の飛沫が飛んだ。
しかし、傷は浅くアンゲリキは歯をむいて笑う。
デュークも笑みを返した。今のは、ほんの挨拶代わりだった。この程度で倒れてもらっては、お楽しみにならない。
翼の羽を一本引き抜き、軽く振り回すと黒薔薇が現れた。キザな精霊は花に口づけして、魔女にむかって放り投げる。
「あなたステキですよ。ゾクゾクきます。……喰っちまっても、いいですか?」
「お前に、くれてやるほど私は安くないわ」
不意にデュークの横っ面に、蛇の尾がブンと唸りをあげて叩きつけられた。一瞬にして魔女の足は大蛇に変化していた。
強烈な一撃に、デュークの首がゴキンと嫌な音を立てた。百八十度を超えて後を向いてしまったのだ。
「やりましたね」
ギチッ、ゴリッ、ゴキッと不気味な音と共に、壊れたおもちゃのように首が回ってくる。
目撃者達の背がぞくりと震える。息を呑み、更に彼らからじわじわと後退してゆく。手の出しようもない。兵士も魔法使いたちも見守るばかりだった。
首が元に戻りきらぬうちに、デュークの腕がガッシと魔女を抱きしめる。
ギリギリと締め上げると、魔女の背骨が悲鳴を上げ始めた。
「ぐはあ!」
アンゲリキは首を振りたくり、締め上げる腕をかきむしったが、逃れることは出来なかった。
蛇の尾が、ドガンドガンと地を打つ。
デュークの周りでは、パチパチと小さな火花散っている。
魔女が火焔の魔法を放っているのだが、その効力のほとんどを無効にされているのだ。
デュークの爪が五十センチほどにも伸び、グサリと魔女の背に突き立てられた。
「ぐぐぐ……」
苦痛に顔を歪める。
「いいですねえ。その顔。涎がでてきちゃいましたぁ」
突き刺したまま、ぐじゅりと爪をひねる。
「ぎゃあ!」
絶叫を上げると、口から鮮血が溢れだした。
パシン、パシンとフラッシュのような光が閃く。
魔女の魔法は、全くデュークに通用していない。
「いい音楽、いい香りだ……」
恍惚とした表情を浮かべて、黒い精霊は爪を引き抜く。そして、爪からぼたぼたと滴る血を長い舌で受け止めるのだった。
ぐったりとした魔女から蛇の尾は消え、少女の姿に戻っている。その彼女を抱えたまま、顔を血で濡らした精霊はますます陶然と酔いしれていた。踊るようなステップでアンゲリキを振り回し、ヒヒヒと笑う。
「ギャラリーがいなければ、二人きりでもっと楽しいことができたんですけどねえ」
不意に右手を、魔女の腹に突き刺しそのまま地面に押し倒した。
ジノスはうっと小さく唸った。
いたいけな少女にしか見えない魔女の上に覆いかぶさり、ゲラゲラ笑いながら内臓をまさぐる悪魔の姿に、吐き気をもよおした。
遠巻きに見守っていた兵団にも怖気が走り、一様に青ざめた顔をしていた。




