34 邪眼
ほんの数瞬、全ての物音が消えた。
ここが戦闘の場だとは信じられない程の静けさだ。痛い程に空気が張り詰めている。
大魔法使いアインシルトは、音もなく魔女に向かってゆく。
「老いぼれは、大人しく棺桶で寝てればいいのよ!」
魔女の雑言が静寂を破ったその時、テオの腕が大きく振り下ろされた。
辺りは突然と暗闇に包まれる。しかしアインシルトとアンゲリキの姿だけは、くっきりと浮かび上がっていた。
ジノス達騎士団や特使に扮していた兵士達は目を伏せて、退却を続ける。決してアインシルトの目を見てはいけないのだ。
そんな中、テオはしっかりと敵を見据えて老魔法使いへと近づいていった。彼が再び呪文を唱えると、キュイーンという音を発して魔女を取り囲む、透明なドームが出現した。
囲われたアンゲリキはチッと舌を打ち、アインシルトをにらみ続けた。キャットを奪い返す算段をしているのか、キューブをしまった老師の胸元を凝視していた。
アインシルトは、ひるむこと魔女に接近してゆく。
「もうよいテオドール」
温かみのあるいつもの声音とは全く違う声音だった。全身にゾワリとする異様な空気をまとい、それをゆらゆらと周囲に拡散させていた。
そしてちらりともテオを見ることなく、スルリと滑るようにドームのすぐ手前まで移動してゆく。
テオは、援護をと言いかけて沈黙した。全身を毒に冒された今の自分では、足手まといになることを承知していたのだ。
しかし万が一にも師が不覚をとることがあれば、いつでも飛び出すつもりでいた。
「何をする気かしら?」
アンゲリキは、憎々しげに呟く。
ドームに閉じ込められたことが、余程悔しいらしい。炎の刃をバシン! バシン! と叩きつけていた。
ピシリとヒビが入る。
テオの魔法がアンゲリキに対して十分な効力を発揮できないことは、もとより承知のこと。ドームは魔女を捕えるためのものではなかった。
「お主とわしの一騎打ちじゃ……」
深くうつむき顔を隠したアインシルトが、音もなくドームに侵入した。そこに壁など無いかのように。
その瞬間、墨が流れ込んだようにドームの内部は真っ黒になった。
もう外からは、二人の姿は見えない。しかし、テオの頭にだけは、内部の様子が手に取るように伝えられてくる。
このドームはアインシルトのイービルアイを遮断し、回りの人間を守るためのものなのだ。老魔法使いが、その邪眼を開いている間だけ保てばよい。
アインシルトは、事を急ぐ。
魔女の炎の刃を杖で払い避け、バッと顔をあげた。
「見よ!」
アインシルトの瞼が、極限まで開いている。
露出した眼球からは黒目が消失していた。
そして、尋常ならざるその邪眼からは、妖しい紫の光が放たれていた。
「う、う、うわああぁぁ!!!!」
叫び声を上げ、顔を覆って魔女がうずくまる。
その背に向かって、アインシルトは杖を差し向けた。
雷撃が魔女打つ。
強い衝撃を受け、アンゲリキはドームの端まで転がってゆく。壁に全身が叩きつけられた。
が、そのダメージよりも、今脳内を食い荒らそうとしている、イービルアイの妖力の方が彼女を苦しめていた。
爪を立てて頭を掻きむしり、言葉にならない絶叫を発していた。
アインシルトの黒目の消えた不気味な目が、一層強い光を放つ。
「ふがああぁぁぁおおおおおぉぉぉ!!!!」
怖い。アンゲリキはただひとつの感情に支配されていた。
怖い。怖い! 怖い!!
頭の中を無数の冷たい死人の指がかき回す、そんな幻覚が浮かぶ。
身体が分子にまで分解され消滅してゆくのを妄想する。
けばけばしく暴力的な光が脳内で点滅を繰り返し、キィィーキィィーと嫌な高音が鳴り響いた。
とっくに捨てたはずの恐怖が、泥沼の底からボコリボコリと沸き上がってくるガスのように、止めどなく襲ってくる。ガタガタと身体が震え、歯の根も止まらない。
怖い……。
ダラダラと冷や汗をかき、アンゲリキは涙さえこぼしていた。己の身体を抱きしめて、胎児のように縮こまる。
得体の知れない恐怖に、震え続ける。一体何が怖いのか。
アインシルトなど怖くなかった。魔物も悪魔も怖くなどない。むしろ自分が他者にとっての恐怖の対象なのだ。怖いものなど何一つ無いはずだった。
それなのに、この恐怖感はなんなのだ。理解不能な恐怖感。これは生命が持つ根源的な恐怖というものなのだろうか。全てが破壊される。全てが否定される。全てが消滅してしまう。
認識できる範疇を遥かに超えた圧倒的な存在を感じる。その存在に、砂粒のように踏み潰される己が見えた。抗うことは無意味で、それの前では自分は一欠片の意義も持たないものだった。
次第に恐怖は虚無感へと変化していった。
のたうち回りそして突然脱力した魔女から、一瞬たりとも目を逸らさず、アインシルトは後一息だと拳を握った。
と、突然ズンと胸の辺りに鋭い痛みを感じた。
アインシルトの額に汗がにじむ。ぐぅぅぅと、隠しきれないくぐもった声を発した。
彼の胸元で、ピシピシとキューブにヒビの入る音がしていた。懐の中で、それは震えるように動いている。
確認せずとも解る。捕らえられた黒猫が、残された渾身の力を振り絞って一撃を繰り出したのだ。
小さな黒い前足が、アインシルトの胸を刺していた。
「や、めろ。こ、ろす、な……」
胸をぐっと押さえるアインシルトの耳に、微かな声が届く。彼の眉がわずかに歪んだ。
懐の中でもぞもぞと力なく動く猫を、左手で優しく抱きとめ、更に胸に押し付ける。魔女の支配から、彼をなんとしても救い出さなければならない、その思いが強くなる。
『どうした、アインシルト』
テオの問いかけに、何でも無いと片手を振る。
早くかたをつけなければ、こちらも身が保たないかもしれない。アインシルトは全身全霊をかけて臨んだ。
黒目の消えた眼球が淡黄色に濁り、不気味に光を放つ。
懐の猫がブルブルと震えていた。
「ま…まま、を、ころ、すな」
その言葉に、思わずアインシルトは目を閉じた。ズキリと胸の傷とは違う痛みを感じる。
あの魔女を母と呼ぶのか! 哀れとも、愚かとも思う。そして、いじらしくも。
その一瞬の物思いは、魔女にとってチャンスだった。邪眼の魔力がほんの少し途切れたその時、彼女は正気を取り戻したのだ。
「この! 腐れじじぃがあぁぁ!!」
魔女が下劣な怒声をまき散らして顔を上げた。
彼女の体が白光した次の瞬間、ドームは轟音をたてて四散した。
「アインシルトーー!!!」
テオの叫びは、爆発音にかき消された。
砕かれた透明な壁はブワっと上空に吹き上げられ、キラキラと輝いては次々に蒸発してゆく。
テオの作った防壁は、完全に破られた。
辺りを覆っていた闇が去った。
期待の眼差しを送っていた兵士たちは、眩しさに目を押さえ一斉にどよめいた。アインシルトの邪眼を持ってしても、魔女は倒せないというのかと。
舞い上がる土煙の向こうに、うっすらと人影が見え隠れしていた。
その影が、こちらに走ってくるのを見とめると、テオはふうと安堵の息を吐き出した。そして、自分も駆け寄ろうと足を踏み出す。
と、ポケットの中で手鏡がピシリと音を立てた。
構わず走りだすテオの肩をグイと、引き止める者があった。
デュークがウインクをして得意げに笑っている。
*
王宮の地下迷路の最深。
何人たりともたどりつけないはずのその場所に、黒い影のような男が立っていた。うなる騎士のレリーフを前に、超然と笑みをこぼしている。ローブが深い影を作り、その笑みは闇に溶け込んでいった。
レリーフの壁は押し開けられ、奥に小部屋が見える。男にとってそこはもう用済みの場所だった。
「しばし、静かにしてもらおうか」
男の声に反応してか、水晶の髑髏にはめ込まれたルビーの瞳がギラギラと真紅の光を放つ。ガチガチと水晶の歯が鳴った。髑髏が口を開き、憎々しげに呟く。
『盗人めが……』
「お前のものでも無いのに、何を言う」
『私は守り人だ』
「では、役立たずと言うわけだ」
男は低く喉の奥で、くっくと笑った。そしてさっと腕を振るい、人差し指で髑髏の額を突く。
途端に透明な水晶が灰色に濁り、ルビーの輝きが消えた。
「お前が目覚めるにはまだ早い……」
男はさっさと踵を返す。
コツコツと響く足音が暗い地下通路に反響し、不意に無音と化した。
男の姿は忽然と消えていた。