32 少年の名は
『愚かなり! 宝玉を盗みだしたるこの罪、死を持ってあがなうべし!』
ビリビリと壁を震わせて、王宮内に髑髏の騎士の怒りに満ちた声が轟いていた。震え上がった使用人たちが王宮から逃げ出そうとするのを、役人や衛兵が必死になだめている。
突然の事態に狼狽し右往左往する文官を押しのけて、リッケン麾下の兵士と魔法使いたちが声の源である地下へと急行する。
レリーフの髑髏の騎士が叫びだすなど、これまであった試しがない。しかもその内容が只事ではないのだ。
即座に大臣らが緊急招集され、シュミットの執務室がこの異常事態の対策本部とされた。額を集めて問答を続ける大臣たちだったが、誰一人として解決策を見出せなかった。いや、事態の全容の把握さえ、ままならないでいるのだ。
その執務室にユリウスが飛び込んできた。青白い顔に苦悶の色が濃くにじんでいる。
「王宮全体の包む結界壁は、やはり破られてはいませんでした。しかし、地下へ通じる扉の封印が破られて……」
「なんということだ、あなたがいながら! ……ああ、やはりアインシルト様にお残り頂くべきだったか……」
シュミットは、恐怖と苛立ちと後悔でブルブルと震えていた。突き刺すような胃の痛みに、顔を歪める。
内大臣の前に進み出たユリウスは、深く頭を垂れる。
「申しわけございません。弁解の余地もなく……。アンゲリキそれともアンゲロスか……奴らが忍び込んだというのに、気づけなかったとは……」
低い声でつぶやいた。
決して油断していたわけではない。現に、王宮の結界壁は傷一つ付けられてはいない。完璧に守られていたのだ。それなのにと、ユリウスはグッとこぶしを握りしめる。
内大臣の顔は死人のように青ざめている。
「まだ……この王宮内に潜んでいるかもしれないのですか?」
「わかりません……私の知らぬ、新たな魔法を使って忍び込んだのだとしたら、到底感知することも、まして捕らえることも難しいかと」
「本当に、宝玉は盗み出されていたのですか?」
「未確認です。が、盗まれたのでなければ、騎士が叫びだすことはないでしょうから……このような事態を招いたのも、全ては私の至らなさゆえ……」
「責任を感じるのならば、何としても宝玉の行方を、手がかりを探しなさい!」
「はい……」
力なく返答し、ユリウスは退出する。そしてドアの前で、リッケン上級大将と鉢合わせた。
リッケンは無言でユリウスを見つめる。気まずさにユリウスは目を伏せ、沈黙のまま彼の横を通り過ぎようとした。
そのすれ違いざまに、リッケンがつぶやいた。
「タイミングが良すぎる。そう思わないか」
ユリウスの足が止まった。
リッケンの言うタイミングとは何であるか、考えるまでもない。七年前、黒竜王が決起した時もアインシルトは不在だった。
そして決起の引き金になったのは、アンゲリキの王宮への侵入なのだ。
「仰る通りです」
「…………」
リッケンは、ユリウスの反応をうかがっていた。
彼が会議の時、アインシルトが後発隊を率いるべきだと推していたことを忘れてはいない。その意見を後押ししたのはシュミットであり、そして決定づけたのは新米王宮付き魔法使いのテオだった。
リッケンの頭の中には、ジノスとの会話が蘇っていた。誰の書いた筋書きなのか。
「地下の騎士の間へたどり着けるのは、王家の血を引く者またはその許しを得た魔法使いのみ。いかに結界を傷つけず王宮に侵入を果たしても、宝玉の元へはたどり着けないのだ。……だが、奪われた。なぜだ」
「私には……ただ、想定外のことが起きてしまった。そう申上げるしかありません」
ユリウスは再び頭を下げると、逃げるように立ち去っていった。
その後ろ姿を見送り、リッケンはシュミットの執務室へと入っていった。
*
ユリウスは足早に階下へと向かう。
地下へ続く扉のあるホールには、魔法使いや兵士が集合していた。
開け放たれた扉の奥に長い廊下が続いている。幾つもの小さな扉があり、そのほとんどが鍵が掛かっていたり、はめ殺しだったりする。真実の扉を隠す目くらましだったのだろう。
だが、騎士の間に続く本物の扉は暴かれてしまっている。扉の先には長い下り階段が続いていた。
ユリウスがホールに到着すると、先に降りていた兵士の一人が報告に戻ってきたところだった。
「まるで迷路のようで、行けども行けども入り組んだ通路が続くばかりです。騎士の間が何処にあるのか、全く分かりません」
兵士は言った。
右から騎士の声が聞こえてきて角を右に曲がると、今度は背後から声が聞こえてくるのだと言う。引き返せば、またなぜか後方に声が聴こえる。
薄暗い迷路の中をさんざん引き回され、気がつけば兵士は地上へ戻る階段の前に戻ってきていた。
「とても、たどり着けるものではありません」
「そうか……」
ユリウスはうなずく。
やはり地下の守りは破られてはいない。地下には人を寄せ付けぬよう幾十にも魔法が施されたままなのだ。破られたのは、地下への扉の封印、ただ一つなのだ。
ザワザワと浮足立った兵士らをかき分けて、ニコが歩み寄ってきた。驚きに声が上ずっている。
「ユリウスさん、宝玉が奪われたというのは本当でしょうか?」
「騎士がそう言うのだ。この目で確認したわけではないが、そうなのだろう」
「……髑髏の騎士がこの地下にいるのですか?」
「いや違う。ここにはいない。しかし宝玉が奪われたことで、墓所で眠る彼の一部が目覚めたのだろう。地下のレリーフを通して、怒りの声を上げているのだ」
ユリウスが答えたちょうどその時、足元がぐらぐらと揺れた。
おおうううぅぅぅぅ!!!
また、足元を震わせる騎士の怨嗟の声が沸き起こってきた。
『返せ盗人よ! 生きながら喰われる、地獄の責めを覚悟せよ!』
*
テオの放った爆炎が獣を包み、ゴウゴウと燃え上がった。
獣は狂ったように跳ね回り、地を転がった。魔法の炎は安々と消えることはない。獣はガアァと吠え立てながら、なおも地に体を擦り付けて炎を消そうと躍起になっていた。
テオは大きく肩で息をしていた。
上着の肩口から袖にかけて大きく裂け、血のしたたる腕が見えていた。獣をかわしたはずが、あまりのスピードに追いつかずその爪に引き裂かれてしまったのだ。ガクリと膝をつき、荒い息を吐いた。
魔女はそれを横目で見ながら、取り囲んでいる兵士や魔法使いらを蛇の尾でなぎ倒す。彼女の下半身は、大蛇に変化していた。
テオが獣と激突するのと同時に、魔法使いたちも魔女への攻撃を開始していた。
いくつもの捕縛の鎖と光の矢が魔女を襲った。しかし、その内の一つもアンゲリキに届くことはなかった。
細い腕の一振りだけで、全て跳ね返されてしまったのだ。
数では圧倒しているはずなのに、押されているのはこちらだった。
この隊は魔法使いとそうでない兵士の混成だ。魔力を持たぬ兵士たちは、遠巻きに見守ることしかできずにいた。
頼りにしていた、城塞の騎士団と合流を果たす直前に戦闘の火蓋が切られ、兵士たちは浮き足立っている。この異変に騎士団が気付き到着するまでには、まだまだ時間がかかることだろう。
大蛇の尾が地面を叩く度に、蜘蛛の巣のような光が地を這い、兵団の足を絡めとって動きを封じる。バリバリと電流が流れ、一人また一人と苦悶の叫びをあげて倒れていった。
魔女の蛇の尾がズルズルと伸びてゆく。
うねうねと身をくねらせて、魔女の頭が上へ上へと登ってゆく。
高みからアインシルトとテオを見下ろして、耳障りな甲高い声を上げた。
「今度こそ、お終いよ! 髑髏の騎士も手に入れてやるわ!」
指を鳴らすと、無数の小蛇が彼女を取り囲んだ魔法使いたちに向かって跳びかかっていった。
絶叫が起こる。蛇に噛まれ、兵士は次々に倒れてゆく。
その間に、ようやく炎を消し止めた獣がよろよろと立ち上がってきた。
テオは霞む目をこすりながら、拘束の呪文を唱え始める。
爪の毒が回ってきているのだ。傷そのものよりも、毒の方が大きなダメージを与えていた。早くケリを付けなければならない。
キーンと乾いた音が響くと、よろめく獣の足を地面から湧き出た氷のようなものがガッチリと固め、自由を奪った。
同時に彼の後方にいたアインシルトが杖をふるう。獣の足元にオレンジ色の円陣があらわれた。
以前テオを捕らえたあの封印の魔法陣だ。キューブの壁が上下、四方から迫り、獣を内部に閉じ込めてしまった。
獣はもがき怒りの唸りを上げるが、逃れることは出来なかった。
「終わりだ……」
獣に向けられたテオの手のひらが白熱する。
「テオドール! 捕らえるだけでよい!」
アインシルトは小蛇をはたき落とし、叫んだ。
次々と、まとわりつく蛇を焼き払い必死にテオに近づく。
「何を言う。生かしておく必要はない!」
獣から目を逸そうとしないテオの掌に白光が発生し、膨張を続けている。
よろけるようにアインシルトが走ってきた。テオの腕を押さえつけて叫ぶ。
「アレはニキータじゃ! 魔女に操られておるだけなのじゃ!」
「!!」
途端に、白光のエネルギーが消滅してゆく。
「ニキータ……あれが……?」
獣が苦しげに這いつくばっている。
しつこく攻撃をしかけていた魔法使いを振り払ったアンゲリキが、ずるずると蛇の尾を引きずって、獣の隣に立った。
「そうよ。お前にこの子が殺せるかしら?」
美しい顔を、老婆のように歪ませて魔女は笑った。
アンゲリキがキューブに手を乗せると、それはいとも簡単に砕け散った。そして、獣の頭を優しくなでた。獣を拘束していた氷もはじけ飛ぶ。
そして、獣の姿がかげろうのように揺らめき、一瞬にして金色の巻き毛の少年に変わった。
苦しげに胸を押さえて、テオをにらんでいる。
「ニキータ……」
テオは呆然とつぶやく。確かにあの少年だった。黒猫の姿で数ヶ月、ともに暮らしたキャットだ。
彼を人間に戻した時、似ていると思った。もしかしたら、この子はあのニキータなのかと驚いたのだ。しかし、確かめる前に少年は姿を消し、しかも魔法を使ってその痕跡を全て消し去っていた。
キャットがニキータならば魔法を使えるのはおかしい、自分が知るニキータは魔法使いではなかった。だから、きっと人違いなのだとテオは思っていたのだ。
しかしアインシルトは、少年をニキータだと断言した。
「いつから知っていた?」
「済まぬ……昨日、獣に変化するところを見てしもうたのだ」
ギリリとテオの奥歯が鳴った。
アインシルトが黙っていたことも、自分が見落としていたことも、少年が魔女の手に落ちていたことも、全てが腹立たしい。
「くそ! 捕獲だ!」
テオの号令と同時にアインシルトの杖が大きく振り下ろされる。
ニキータの足元に、再びオレンジ色の円陣が現れる。だが、アンゲリキの尾が、バシンと地面を叩くと、円陣は粉々に散ってしまった。
「さあ、行くわよ。アインシルトなど怖くもない。お前の魔法も私には通じない。そしてこの子も殺せない。……さあ、どうする? ドラゴンに助けてもらう?」
魔女はニヤリと笑った。
と、ニキータが猛スピードで走りだした。一直線にテオに向かっていた。
「テオドール!」
アインシルトは叫んだが、テオは動かなかった。
微動だにせず、少年を待ち受ける。ドンと、ニキータがその胸に体当たりした。鋭い爪がめり込んでいる。
激痛にテオが低い唸り声をあげた。しかし、ニキータを振り払おうとはしなかった。むしろ少年を抱きとめる形になっていた。
ニキータはテオを見上げて微かに笑う。
「……彼女は鏡の中」
唇を殆ど動かさずに、テオにだけ聞こえる小声でそう言った。
「……!」
テオは目を見開き、よろよろと膝を折った。
彼女は鏡の中、という少年の言葉を胸の中で反芻する。
彼女とは誰だ。ベイブのことなのか? いやそれしかあるまい。黒猫のキャットはいつでもベイブの味方だった。彼女を守ろうとしていた。
ニキータはテオをじっと見つめている。澄んだ瞳をしていた。いやらしく、膨張と収縮を繰り返す魔の瞳ではない。
テオは確信した。魔女に完全に支配されているわけではないのだと。
そっとアインシルトに目配せをする。この事を魔女に悟られてはいけない。
ニキータが爪を引き抜くと、テオは呻いて背を丸めた。
それを見てアンゲリキは高笑いを上げる。
続いてニキータも邪悪な笑みを浮かべる。先ほどまで苦しげにしていたのが嘘のようにしゃんとして、テオの背後に立った。
「ブロンズ通りの魔法使いさん。世話になったね。とても楽しかったよ。でも、もうさようならだね」
魔女と同じように高らかに笑った。
アンゲリキと目を合わせ微笑み合うと、一瞬にして獣に変じ牙を剥いた。そして、なぶるように前足でテオの体を押さえつける。
魔女はそれを満足気に眺めていた。獣がいつものようにいきなり喉笛を食いちぎらないことに、彼女は気付いていないようだった。
獣の足の下でテオは、そのことに安堵する。今すぐ捕らえなければならない、いや、彼を取り戻すのだ。
獣は真っ赤な口を開いて唸り、テオの腕がその喉に向かって伸びる。
「ウガアア!」
雄叫びが突然悲鳴に変わった。とっさにテオは腕を引き戻す。
獣の背に、何本もの光の矢が突き刺さっていたのだ。
仰ぎ見れば、空に飛竜に乗った魔法騎士団が到着していた。幾十もの飛竜が、頼もしく羽ばたいている。赤い胸甲の騎士団。矢を放ったのは彼らだった。
その最前中央で、不敵にジノスが笑みを浮かべていた。