29 キャット
アインシルトは、ようやく一つの共通点に気づいた。
魔法騎士団のメンバーらから聴取した膨大な量の調査票を精査した結果だった。魔力を失ったとみられる日から四日前まで遡り、その行動を分刻みで報告させた調査票だ。
ニコや他の弟子達とともに全てに目を通した結果、魔力を失った魔法使いたちの共通点がようやく浮かび上がってきたのだ。
共通点、それは古い史跡のある緑地公園にあった。
アソーギの郊外にある緑豊かなその場所は、市民の憩いの場となっていた。史跡は観光スポットにもなっている。
昔、この辺りを治めていた大公の別荘であったという屋敷が、重要文化財として保存されている。通常、屋内に立ち入ることは出来ないが、尖塔の美しさが呼び物になっていて見学客は多かった。
その緑地公園に、ある者は日課のジョギングで、ある者は家族ととも休暇を過ごす為に訪れていた。また多くの者は緑地公園自体に目的は無く、日付もばらばらだったが、移動中に近くを通っていたことが明らかになったのだ。
そしてその日以降、力を失ってしまったという事実に突き当たったのだ。
その時、彼らに特別なことは何も起きなかった。だから本人たちも、まさかその緑地に原因があるとは考えもしないことだった。
「……アインシルト様、きっとここに何かありますね」
ニコは言った。
その指は、緑地公園の地図の中に目立つように描かれた大公の屋敷を指し示していた。
「行ってみるかの」
長いひげをなでつけ、つぶやく。
明日は例の作戦に従って、特使に扮してナタへ出発することになっている。調べるなら今日しかない。昼も過ぎているともなれば、今すぐ行くべきだろう。
自分を見つめるニコに、うむとうなずいた。ニコを伴い、緑地公園の史跡へと向かったのだった。
*
夏の白い日差しが、緑を鮮やかに輝かせている中を、黙々と老人と少年は歩いていた。木漏れ日が小道を白く照らし、爽やかな風が吹くと木の葉も影を揺れていた。
白壁の美しい尖塔が、木々の間から見えてくる。白と青を基調とした涼やかな屋敷だ。あの日の激震エリアからほんの僅かそれていたおかげで、この屋敷は倒壊することなく在りし日の姿を保っていられたのだ。
胸に憂いを含んでいなければ、この風景を堪能できただろうにとニコは思う。景色が美しければ美しいほど、心は重く沈んでゆく。
公園の外周に着いた時、アインシルトはニコに判るかと聞いたのだ。もちろんだった。それは薄れつつはあったが、確かに臭っていた。あの炎の魔物と対峙した時に感じた臭いだ。嗅覚で感じる臭いとは違う、魔法の臭い。それは気配と言い換えてもいいだろう。
二人は木々の中の小道を行きながら、その臭いが僅かづつ強くなるのを感じていた。
この先にアンゲロスがいたのだ――――。すでに立ち去っているであろうが、少なくとも痕跡はあるはずだ。
ニコはゴクリと唾を飲んだ。
眼前が開け、美しく刈り揃えられた芝生の向こうに屋敷が全貌を表した。
さほど多くはなかったが、今日も見学客が屋敷の周りをゆったりと散策している。アインシルトとニコは、彼らの横を静かに通り抜けてゆく。
ニコは屋敷を見上げた。昔の大公の別荘としては少々小振り感はあったが、やはり細部の作りや装飾は見事なものだと思った。取り囲む木々と上手く調和し、華美ではない上質な美しさがあった。
立入禁止の柵を超えて、堂々とアインシルトは屋敷に近づいてゆく。ニコは後に従いながらキョロキョロと周囲を見渡した。
師はなんの術を使ったものやら、他に人もいるというのに咎められもせず、二人は難なく中へと入っていった。
しんと静かな屋内は、外の熱さが嘘のように涼しかった。少しカビっぽい臭いが漂い、古い調度品にかけられたカバーにうっすらと埃が積もっていた。人の気配は感じられなかった。
「ふた手にわかれましょうか」
ニコが言った。
大きな屋敷ではないが、二階や地下室もある。別れて捜索した方が、早そうだと思った。
しかし、アインシルトは首を横に振った。
「離れぬ方がよかろう。何か嫌な予感がするのでの」
「分かりました」
ニコは素直にうなずいた。
玄関ホールを抜け広間を過ぎ、二人は地下への階段を降りていった。石で出来た階段の一段一段に、凹みができていた。永きに渡り幾度となく人が行き来した結果であろう。屋敷に刻まれた時の重みをニコは感じた。
二人は地下室に辿り着いた。といってもここは半地下で、部屋の上部に明かり取りの窓がいくつもついていた。光が差し込む部屋は意外に明るかった。
物置きにしているのか、飾り棚やテーブル等が並び、幾つものガラスの花瓶や異国の陶器の壺などが雑然と置かれていた。
コツコツと足音が響く。二人は黙ったまま観察を続けていた。
左右の壁を見ると、大きな鏡が一枚づつはめこまれていた。その二枚の鏡はピッタリと向かい合い、あわせ鏡となっていた。無数に重なる鏡像が不気味な奥行きを創りだしている。
アインシルトは眉をピクンと吊り上げて、鏡に歩み寄る。ピリピリと静電気のようなものが、彼の肌の表面で弾けていた。
ニコも同じ感覚を味わい顔をしかめた。この鏡には何かある、そう思うと同時にゾクリと毛穴が逆立った。
アインシルトはニコを遠ざけ鏡をのぞきこむ。そして鏡の中に幾重にも連なる自分の顔と背中を見た、その瞬間、鏡面がブルブルと波だった。
「アインシルト様!」
ニコが叫んだ。
鏡の中から、人が疾風の如く飛び出してきたのだ。アインシルトにぶつかると見えたその寸前で、鏡から出てきた人物はさっと身を翻した。
「……ちっ!」
俯いた金髪の影から、舌打ちの音が聞こえた。アインシルトをギロリと下からにらみ上げる、その顔はキャットのものだった。
ニコの体が強張った。
こんなところに、なぜ行方知れずになっていたキャットがいるのか。しかもその形相は悪鬼のようだった。自ら姿を隠した彼に、この怪しげな場所で再会してしまったことの意味は、どう考えても喜ばしいものではなかった。
キャットは不味いところを見られたと言うように、憎々しげにアインシルトをにらんでいる。
ただごとではない、とニコはゴクリと唾を飲んだ。
アインシルトもまた、全身を緊張させて少年を見つめていた。亡霊でも見ているような、信じられないといった表情でつぶやいた。
「……まさか、ニキータ……」
「あなたは……誰?」
キャットは、アインシルトの言葉に目を瞬かせた。警戒は解かず、不思議そうに彼を見ていた。
大きく息を吐き出し、アインシルトは探るように声を絞り出した。
「王にお仕えしている、魔法使いのアインシルトでございます。あなたはニキータ、ニキータ様でございますね」
「うん、そうだよ」
キャットは、あっさりと答える。
その瞳が、異常な収縮と拡張を開始していた。瞳孔が極限まで開き、そしてすぐに針で刺した点のように収縮するのだ。
「!?」
アインシルトの背に、ゾクゾクと冷たいものが走った。氷の矢が尾てい骨から脳天に突き抜けたような気がした。疑う余地もなく彼は魔女に支配されている。
「大事な用があるんだ……邪魔、しないでくれる?」
コツリと音をたてて、キャットは一歩踏み出した。
偶然にも自分を知る者に遭遇し、それが王に仕える魔法使いだと知ったのに、それを全く意に介さず立ち去ろうとしている。
ニコは何がなんだか分らず、居たたまれなくなって叫んだ。
「キャット! 僕だよ、ニコだ。君の事を心配してたんだ。今まで何処で何をしてたんだよ!」
キャットは魔に取り憑かれた瞳のまま、ゆっくり彼に向き直り微笑みかける。
「ニコ。楽しかったね、あそこは……」
「……い、一緒に帰ろうよ。ね、キャット」
ニコの心臓は、破裂しそうなほど激しい鼓動を繰り返していた。
彼の知るキャットでないことは明らかだ。足に擦り寄り、にゃあと甘えた声でニコを見上げた黒猫。そして地震の日、自分の手で人間に戻してあげた美しい少年。
それが悪魔の顔に変わり果て、自分を見ている。
なんてことだ。テオやベイブがこの事を知ったらどうすだろうか。彼をアンゲリキから解放する手立てはないのだろうか。
「そうじゃったか。あの黒猫が……」
アインシルトが恐ろしげにつぶやく。
「ねえ、二人ともそこをどいてくれない? アンゲロスに文句を言ってやらなくっちゃ」
不気味にうごめく瞳が、金色に光りだす。
今、彼は確かにアンゲロスの名を口にした。ニコの背がブルルと震えた。恐ろしい絶望感が沸き上がってくる。
「アンゲロスじゃと!」
「そうだよ」
「何処におるのじゃ!」
キャットは、あははと喉をそらせて笑った。
「そんなこと、教えるわけないじゃん!」
そして、背中を曲げて前かがみになった。
変化は急激だった。
キャットの全身に黒い獣毛がザワザワと生えだす。瞬く間に腕は前足になり、口と鼻が前にせり出して牙を剥く、美しい少年は野獣へと変貌したのだ。
うっと、ニコは口を手で覆った。
こんなバカな事があってたまるかと思ったが、現実は非情でキャットはほんの数秒であの黒い獣へと姿を変えてしまったのだ。そして、二人を突き飛ばして、疾風のように走り階段を登っていった。
呆然とする暇もなく急いで追いかけるも、広間にも屋敷の外にも獣の姿はもうなかった。
ニコの顔は真っ青だった。
「……キャットが、あのキャットがみんなを襲ってたっていうのか……?」
信じられないと首を振ったが、今自分が見たことは紛れもない事実だ。あの黒い獣の正体は、キャットだったのだ。
どうして、こんなことになってしまったのか。なぜこんなにも、無残な出来事ばかりが続くのか。
気が付くと思い切り唇をかみしめていた。うっすらと血の味が口の中にひろがった。




