19 ベイブがいない!
恐ろしいテオの剣幕に、ニコの背筋に冷たいものが流れた。
先ほどの嫌な考えが蘇る。しかしほんの十数分前、確かにベイブはテーブルの席に座って眠っていたのだ。玄関を開ける音など聞こえなかった。それなのに、突然ベイブが消えてしまうなんて……。
「なんで彼女を外へ出した!」
テオはニコの襟首をグイグイと掴みあげ、一方的に怒鳴り続ける。
「結界は完璧だ! 蟻の入り込むスキもない! 侵入の痕跡だってない! なぜ、彼女だけがいないんだ!」
ニコのつま先が床を離れ、喉が詰まる。
そのまま、ガンガンと食器棚に叩きつけられた。
「ニコォ!! ベイブがいない!!」
ガチャガチャと皿が鳴り、グラスが床に激突し激しい音を立てる。
そして、荒い呼吸音。二人はお互いを凝視する。
ベイブの姿が消えてしまった。
恐ろしい現実。するどいツメに引き裂かれた彼女の姿が脳裏に浮かぶ。
テオの力が緩むと、ああとニコは声を上げずるずると沈み込んでいった。襟を離したテオも、数歩よろけて尻を着く。
「なぜだ……」
顔を手で覆い、その指の隙間から見える大きく開かれた目が小刻みに揺れていた。唇もわなわなと震えている。
テオの動揺をみせつけられ、ニコに恐ろしい程の後悔が沸き起こる。
「……すみません。ぼ、僕が目を離したから……僕のせいだ」
テオはふらりと立ち上がる。
ニコの声は耳に届いていない。
青白い顔で足元を見つめている。
「アンゲロス……」
つぶやいて、側の椅子の背を掴んだ。
「アンゲロスーー!!!」
思い切り床に叩きつける。
バキンと音を立て、椅子が砕けた。
「がああああ!!!」
壊れた椅子を力任せに放り投げる。
そして、別の椅子をめちゃくちゃに振り回した。
激しい音が響く。
花瓶や水差しをなぎ倒し、棚のガラス戸を割り、テオは叫び続ける。
「ああ!! うあああああ!!」
激しい怒りと恐怖に囚われて、言葉にならない絶叫を発していた。
ニコは、唇を震わせて彼を見つめるだけだった。これほどまでに取り乱すなんて。昨夜、ベイブに言った言葉がこんな形で証明されるなんて。
ニコの顔がぐしゃぐしゃに歪んだ。どうすればいいのか解らなかった。
「いけませんねえ」
不意にデュークの声が聞こえた。
いつの間にか、ニコの隣でしゃがんでいる。
「彼は短気でいけない。そう思いませんか? 早く止めないと、何しでかすか分かりませんよ、あのお方は。ほら」
頬に手を当て、呆れたふうに言う。
テオの左手がペンダントを握っている。
まさか、ここでドラゴンを……。ニコは息を飲む。しかし、どうやって止めればいいのか。
「で、でも……」
「ふん。あなたには荷が重いですか? しかしねえ、私が口を出すと火に油を注ぐかもしれませんよ?」
「…………」
「仕方ないですね」
デュークは立ち上がった。
片手を頭の上にあげさっと振り下ろすと、暴れるテオの頭上に大量の水がザザッと降り注いだ。
「頭を冷やしなさい。このすっとこどっこい」
ギリギリと鋭い目で、ずぶ濡れのテオが振り返る。動きは止まった。しかし、激しく肩を上下させ、一層息が荒くなっていた。
ハッハッハッハッハッとせわしなく短い呼吸。異常な早さだった。
デュークをますます睨めつけ、胸を掻きむしり、ガクリと膝をつく。
苦しい。苦しい。苦しい。
空気が足りない。
どんなに息を吸っても吸っても、息苦しさは消えない。
ベイブがいない。
体に力が入らない
ベイブがいない。
息が出来ない。
ベイブがいない!
体がしびれる。目が回る。
ベイブがいない!!
ああ、彼女がここにいない!
「全く、呼吸の仕方まで忘れてしまったんですか? 世話が焼けますねえ」
大儀そうに近づいたデュークの大きな手が、テオの鼻と口をガバっと塞ぐ。狂ったようにテオが暴れ、精霊の手を引き離そうとするがびくともしなかった。
「苦しいですかぁー? そうですよねぇー。いっそこのまま、息の根止めちゃいましょうかね?」
ニコを振り返って、ニヤーっと笑った。
「デューク! やめてくれよ!」
パッと手を離すと、テオはガハッと息を吐き出した。
デュークは嘲笑を浮かべながら、テオを見下ろしていた。
「ほら、まずは吐くんです。ゆっくり吐いて、ゆーっくり吸うんです」
ニコが駆け寄り、テオの背をさすった。
両手を床につき、呻きうずくまる。呼吸は乱れたままだ。
「ノンノン。ゆっくりです。静かに吐いてー、吸ってー、吐いてー」
デュークは低く落ち着いた声で、何度も吸って吐いてと呪文のように繰り返した。
ニコは震える背をさすり続ける。いつも頼もしく見つめていた広い背が、こんなにも弱さを見せつけるとは。いつの間にか、ニコの頬を涙が伝っていた。
長い時間をかけて、テオの発作は徐々に収まっていった。
そして、デュークは軽蔑を込めた声を発した。
「クソ弱っちい貴方に、いいものを見せてあげましょうか?」
気取った仕草で玄関の前まで歩いてゆき、まるでお辞儀でもするかのように、床から何かを拾い上げた。
俯いたまま、テオが食い入るように見ている。キラリと紫色が光る。それはベイブのイヤリングだった。
テオはあっと声をあげて駆け寄る。しかし、足がもつれて転倒してしまった。
その手を掴みあげたデュークは、そっとイヤリングを握らせた。
「解りますか? 彼女の波動が感じられるはずです。生きています」
テオはイヤリングを見つめ、そして胸に押し付けた。うなだれて、声も出せずに嗚咽する。
ベイブは生きている、デュークのその言葉に、ニコの全身を強ばらせていた力がふっと抜けた。安堵がひろがる。
「それにしても、なぜゴブリンは自分から出ていったのでしょう。いえ、誘い出されたと言うべきでしょうが。しかし、彼女は冷静でした。イヤリングをここに残して行ったのですからね」
「ベイブがわざと……」
ニコが尋ねた。
「ええ、そうとしか考えられないです。アンゲロスや、その手の者は、ほんの数ミリだってこの中には入れませし、その形跡もない。だから、争ったはずみで落ちたとは思えません。ならば、彼女は自ら外へ出たことをイヤリングで示したのです」
デュークの解説に、ニコはなるほどとうなずいた。
しかし、一体なぜベイブは何も告げずに一人で外へ出たのだろう。あれほど、テオにここから出るなと念を押されたのに。何が彼女を誘い出したのか、まるで見当がつかなかった。
デュークはうずくまるテオの周りを、カツカツとわざとらしく足音をたてて回った。
「それにしても情けない男ですね。その気になれば何だって手に入れられるくせに、たった一人の女の為にこのザマとは。しかも、ゴブリン! 悪趣味だなんだと言う前に、脆弱すぎるこの性根!」
テオをあざ笑うセリフに、ニコは怒りを覚えた。
「テオさんを侮辱するな!」
一瞬で、デュークの顔が鬼面に変わる。
紫色の目が光った。
「……あなた、うざいですよ。私に指図できるのは、この方だけだということを忘れちゃぁいませんか?」
彼の声に怖いものが含まれている。
じっとりと、ニコをにらんだ。
「私はねえ、このお人が魔王になるのを見てみたいんですよ。その力があるからこそ、私は主と認め僕に甘んじているんですからねえ。こんな無様な姿、虫唾が走ります。さっさと立ち直っていただけないなら…………絞めっ殺すぞ!」
*
シュミットのもとに、侍女頭が慌てて駆け込んできた。
「大変でございます!」
シュミットは、ミリアルドの王子フィリップを迎える為の準備を、部下に指示していた。
午前中のうちに王子を出迎え、昼食会を兼ねた会談を行う予定だった。突然の訪問に、王宮内は大勢の人間が朝から忙しく立ち働いていたのだった。
シュミットは眉を潜め、侍女頭に目配せをする。さっと席を立ち、壁際に移動した。
「シ、シュミット様。入らぬようにと言われていたのです。で、でも、お着替えを……わ、私は……」
侍女頭はひどく狼狽していた。
せわしなく髪を撫で付けては、何度も手を擦る。
「落ち着いて、端的に話して下さい」
「……へ、陛下が、お倒れになりました」
シュミットの目が見開いた。
眼鏡をカチャリと持ち上げる。
「解りました……この事は口外せぬように」
侍女頭はカクカクとうなずいた。
シュミットは部下たちに指示通り準備を始めるようにと告げ、すぐさま部屋を出た。悪い予感が当たってしまったと、臍を噛む思いだった。
黒い獣による襲撃事件を追って、王も独自に探索魔法を使っていた。寝る間も惜しみ、天使の顔を持つ双子の魔法使いをあぶりだそうとしていたのだ。
王の部屋には、何枚もの大きな姿鏡が並べられていた。鏡には、一つづつ違う景色が映っている。蟻の目となり鳥の目となって町中を、いや国中を探査していた。高い集中力が必要な作業だった。それを王は何時間も続けていた。
シュミットは常々、王の身を案じていたのだった。
王の居室に入ると、侍女頭の言った通り黒竜王が床に倒れ伏していた。
思わず胃を押さえこんだ。キリキリと差しこむように痛む。ひざまずき、王の肩に手を添えたが、ピクリともしない。
「陛下……お気を確かに……」
王を抱き起こした。
全く反応はない。血の気のない人形のような顔色だった。
大柄な王をようやく寝室に運びベッドに横たえた時、アインシルトが現れた。
「……戻りませんか?」
「はい。これでも、いつもの発作だと?」
「そうとも言っておれぬようですな。……一体、何事が起こったのか」
「いずれこうなるのではと、ご心配申し上げていましたのに……」
カチャカチャと眼鏡をいじり、シュミットはつぶやく。少し非難めいた口調だった。
アインシルトはそれには答えず、じっと王を見下ろした。眉間に深いしわが刻まれる。
「そろそろ、フィリップ殿下がお着きになるころでしたなぁ」
「……はい。なんとか時間を稼いでみます」
「すまんが、頼みますぞ」
王をアインシルトに任せ、シュミットは不安げに部屋を後にした。
その後、黒竜王とミリアルドのフィリップ王子との会談が始まったのは、予定より大幅に遅れた夕刻になってからの事だった。