18 卑屈なゴブリン
トントンと足音が聞こえ、ニコが振り返るとベイブが階段を降りてくるところだった。
「ニコも眠れないのね」
彼女は階段の途中で腰掛け、ニコに微笑む。
目がうっすらと赤い。一人で泣いていたのかもしれない。彼女も不安で堪らないのだろう。
次に狙われるのは、ニコとベイブかもしれないとテオは言ったが、獣が彼自身を襲わないとは言い切れない。双子の魔法使い達が裏で手を引いている以上、簡単に獣を倒すことも捕らえることもできはしないだろう。テオの身が心配でならないのだった。
ベイブはテオが行こうとした時、彼のローブの裾を掴んだ。地震の日と同じように。違っていたのは、何も言えなかったことだ。
「行かないで」
その一言が言えなかった。
言えばきっと泣いてすがって、好きだと叫んでしまったことだろう。何処にもいかずに、側にいてくれと。だがそうしたところで、止められはしないことも解っていた。
テオはそっと彼女の手からローブを引き離し、何も言わずに出て行った。扉の閉まる音がした時、もう二度と会えないような気がして、涙がこぼれた。無事に帰ってきて欲しい、それだけを願った。
ベイブは階段に座ったまま、ぼんやりとニコを見つめていた。
彼は十一歳のころから、ここでテオと暮らしてきた。単なる弟子や、使用人などではない。見ていればすぐにわかる。もうニコは、テオの家族のような存在だ。テオにとって、絶対に守らなければならない大切な人間なのだ。
ベイブは、また目がじんわりと熱くなるのを感じた。
今度は卑屈な思いが湧いてきたのだ。あれは冗談だったのだろうか。からかわれただけなのだろうか。ゴブリンにキスなど本気のはずもない。所詮、自分はただの居候なのだ。
ポロリと涙がこぼれる。
顧みられなくてもいい、無事に帰ってきて欲しい。ニコの為に。
「ねえ、ニコ……」
少し口ごもりながら、ベイブはポツリポツリと話し始めた。
「……シラーさんの娘のことだけど……テオは居場所をとっくに知ってるんだと思わない? 知っててわざとシラーさんから隠しているって……。探さないのは彼女の為だって言ってたけど……彼女のこと……どれだけ知っているっていうのかしらね」
「は?」
何故、今そんな話題を持ち出してきたのか、理由がわからないとニコはきょとんとベイブを見た。持って回した言い回し。何かを含んでいるようだ。
「父親の願いを無視して……彼女のことは……放ったらかし。この家には入念に結界を張って行くのにね」
「どうしたの、ベイブ」
「…………」
ベイブはキッと下唇を噛んで膝を抱えた。
ニコはベイブの唐突な発言に首をひねった。言わんとすることが、理解できない。妙な違和感を感じる。
時折ベイブは話の引き合いに、突然とシラーの娘を出してくることがある。テオが目覚めた時、黒竜王の結婚を話題にしていた時もそうだった。
君は顔も知らない男と結婚できるかと聞かれて、ベイブはシラーの娘はそれが嫌で逃げたのかもしれないと答えたのだ。したくないという個人的な思いを口しながらも、シラーの娘を例に上げ王族の立場を語った。
ニコは、この時も少し違和感を覚えていたのだ。今思えば、単に話をすり替えようとしていただけでないような気がしてきた。
そして唐突に、ガツンと殴られたようにあることに気づいた。
ベイブが言った『彼女』とはシラーの娘のユリアではなく、ベイブ自身を指しているのではないか、そんな考えが閃いたのだ。
ベイブは以前、ユリアの行動を妄想たくましく語ったことがあった。彼女の話した内容をよくよく思い出してみる。
『彼女は』を『私は』に置き換えてみたとしら――――。
ニコの心臓がドキンと鳴った。
『私は逃げたの。結婚なんてしたくないの』
『私は結婚相手を試そうと思ったのよ。相手をよく知るために』
『でも、途中で私にハプニングが起こったの。だから、帰れなくなって……』
この時、どんなハプニングかと尋ねたら、咳き込んで喋れなくなったのではなかったか。呪いの為に、それ以上話せなくなくなったのではないのか。
ベイブは、あえて三人称で自分の素性を伝えようとしていたのかも知れない。いや、伝えようとしていたのだ。
なぜ、こんな重大なことに気づいて上げられなかったのか、悔やまれた。
テオにも伝えなければと思う。いやそれよりも、早く彼女に確認しなければならない。
「ごめん、ベイブ! 今やっと気づいたよ! 君が伝えようとしていたことに」
ガタンと立ち上がったニコを、ベイブが驚いた顔で見上げる。
「え?」
「教えて。もしかして君は、ユリアさんなの?」
探るようにニコは言う。
ベイブは微笑んだ。
「ありがとう、ニコ。あたしの言ったこと、ちゃんと聞いてくれてたんだ」
「じゃあ!」
ニコの顔がパアーっと赤らむ。
しかし、ベイブは悲しげだった。口を開くと、ゴホゴホと咳き込んだ。
「……やっぱり話せないみたい。身振り手振りもできないし」
ニコは考えこむ。
呪いは巧妙で、彼女が誰であるか決して明かさせはしないようだ。もしもユリア本人であっても、イエスとは言わせないのだ。素性を探る質問には肯定も否定もさせない。
ベイブはまだ少し咳き込んでいる。
「そうか……そう簡単には教えてもらえないって訳だね」
ニコは、悔しそうにつぶやく。
部屋はしんと静まり返った。
ベイブがユリアなのか確かめる事は出来なかったが、彼女が自分の事を話していたのは確かだろう。
さっきのベイブの言葉を思い出す。
――探さないのは彼女の為と言うけれど、どれだけ彼女の事を知っているのか。父親の願いを無視して、彼女のことは放ったらかし――
『彼女』を『私』に変換し、大胆に思い切った意訳を施すと、『テオは私に関心がない』ということになる。
ニコは、あああとため息をついた。
「ねえ、どうせ眠れないし、コーヒーでも飲まない?」
「……そうね」
香ばしいコーヒーの香りが漂っている。
二人は静かにカップを傾けた。
「ベイブ、今テオさんは獣を探しているんだろうね。殺された人たちの敵を討つためと、これ以上被害者を増やさない為に」
俯いたまま、ベイブは耳を傾けている。
「僕には家族がいない。テオさんは謎だけど、家族がいるような気配はないし、君も今は家族と離れ離れになっている。一人ぼっちの僕ら三人がこの家で一緒に暮らして、今ではお互いに代えがたい存在になっている、そう思わない? テオさんは、ベイブのことを大事に思っているよ」
ニコは、テオに対するベイブの誤解を解きたいと思っていた。
ベイブに関心が無いなんて、とんでもない話だ。
「……あなた程では無いわ。あたしは新参者だし」
「時間の問題じゃないよ。テオさんが言ったこと忘れたの? 三人での暮らしが幸せで大切だっていってただろ?」
「もしあたしが殺されたって、きっとあなたを失う程には悲しまないわ。醜いゴブリン一匹いなくなったって……」
ベイブは寂しそうに言った。
が、ニコはダンとテーブルと叩いた。頭にカッと血がのぼり、思わず怒鳴っていた。
「やめろよ! それ以上バカなこと言うんだったら、引っぱたいてやる!」
「……ごめんなさい」
驚いて見開いた目から、ポロリと涙がこぼれた。
それから、両手で顔を覆ってわっと泣き出した。
「テオさんの気持ち、解らない? ゴブリンに変えられていようが、四つ目だろうが、君が何者であってもどうでも良くなるくらい、大事に思っているんだよ」
テオの赤裸々な告白を思い出す。
彼女に口付けようとしたのは、冗談などではなかったと、自分は知っている。ガリガリと頭をかきむしった。もどかしくなって、全部伝えてしまいたくなった。しかし、これ以上は自分が勝手に口をはさむべきではないだろう。
「テオさんは僕らを守ろうとしてくれてるんだ。信じようよ」
「うん。……ごめんね、ニコ。あたしどうかしてる。テオが殺されたらどうしようって。それくらいなら、あたしが殺される方がマシだって思って……いなくなれば、テオが危険を冒す必要もなくなるんじゃないかって思って……バカよね」
ベイブは真っ赤な目で、自嘲する。
ニコならきっと彼の力になれる。アンゲロスとあれだけ戦えたのだから、とベイブは思っている。
役に立たない自分が、テオの足を引っ張って重荷になっているのだ、そう考えて卑屈なことを言ってしまった。それを恥ずかしく思う。
「信じよう」
ニコが繰り返す。
ベイブは小さくうなずいた。
*
ニコがハッと気が付くと、朝の光が差し込んでいた。いつの間にか眠っていたようだ。ベイブもテーブルに頬をつけて眠っている。スースーと静かな寝息を立てていた。
ニコは立ち上がり、大きく伸びをした。
朝の七時を過ぎている。テオが戻ってきた様子はない。
ニコは重苦しい胃をさすり、ベイブを起こさないように静かにキッチンに向かった。
やかんに水を入れ火にかける。戸棚からコーヒー豆を取り出し、ミルに入れた。豆を挽きながら、考える。
あの双子の魔法使い達はなぜ、テオの周りの人間を襲っているのだろう。
彼を追い詰めて何をしようとしているのか。
アンゲロスに遭遇したあの日、ヤツは確かに黒竜王の体を狙っていた。王を守る要となるテオを崩すことで、王の体を手に入れようとしているのだろうか?
豆を挽くニコの手が止まる。
ヤツはベイブの命も狙っていた。何の為かは解らない。しかし、邪魔だと言っていた。
まさかと思う。本当に次は、自分や彼女の番だというのだろうか。
ドキリと心臓がなった。
ニコは大きく頭を振って、またミルのレバーを回し始めた。大丈夫、テオさんの結界があるんだから。
挽き終えた豆を、サラサラと漏斗に移した。
やかんがしゅうしゅうと蒸気を上げ始めた。
と、バタンとドアの開く音がした。
ニコはすぐさまキッチンを飛び出し、玄関を見た。そこにテオが立っていた。
「テオさん! 良かった、無事に帰ってくれて……獣はどうなりました?」
「見つからない……」
髪は乱れ、少し隈のできた顔。
疲れきった様子だが、目だけは鋭かった。足を引きずって中に入ってくる。手に持った大剣を、乱暴に床に放ると、ガシャンと大きな音が響いた。
そしてぐるりと部屋を見回した。
「……ベイブは? 上か?」
テオの質問に、ニコはテーブルを振り返る。
彼女はいなかった。
「あれ……? さっきまでそこにいたんですけど」
聞き終わらぬうちに、テオは階段を登っていった。
そしてすぐに、飛び降りてきた。
「いない!」
大声で怒鳴った。
青い顔の中で、目がつり上がっている。
「ニコ! ベイブがいない! どこへ行った!」
「え!? そんなはずは……」
「絶対に外に出るなと言ったはずだ!!」
テオの怒声が爆発した。
「ベイブがいない!!」