16 蹂躙する獣1
薄暗い部屋の中に月の明かりが差し込んでいる。
眠れずに、テオは大きく目を見開いていた。手足を広げてベッドに横たわり、天井を見上げている。
雨漏りのシミがオルガの笑顔のように見えて、幼い日々が思い出されて止まらない。あの頃、アインシルトに叱られる度に彼女に泣きついたものだった。彼女はよしよしと優しく頭を撫でてくれた。どんな下らない話でも、ちゃんと最後まで聞いてくれた。そしていつも味方してくれた。
その大切な人が今はもういないのだ。
「……テオ」
薄水色のカーテンが開き、小さな声が聞こえた。
おずおずとベイブが近づいて来る。
「……ん? どうした?」
テオは微笑みを浮かべて彼女に手を伸ばす。それに呼応するように、ベイブも手を差し出した。その小さな手に、テオはそっと指を絡ませる。無性に人肌のぬくもりが恋しくてたまらなかった。
昼間の不埒な一件のせいで、しばらくは口を聞いてくれないだろうとあきらめていた。しかし、彼女は態度を変えずにいてくれる。オルガの死の重大さを、理解してくれている。そのことをありがたく思うと同時に、負債のようなものを感じた。
ベイブは、静かな声で語りかけてくる。
「余計なお世話とは思うけど……悲しい時は、ちゃんと泣いた方がいいわ。我慢しても悲しみが積もるだけ……」
ドキリとして、さっと手を離した。
心配げに自分を見つめるベイブ。胸の奥が痛んで、テオは目を開けていらなくなった。
「あたし、下で寝るから……」
「……いや、そこに居て」
「でも……」
「何も聞こえないフリしてればいいから」
「……うん」
ベイブは、自分のクーファン戻っていった。カーテンを引き、テオの視界から消える。そして、頭からシーツを被って体を丸めた。
窓から差し込む月明かりが、静かにゆっくりゆっくりと移動してゆく。
微かな嗚咽は風の音がかき消し、顔を覆った手の隙間から流れでたものは、一筋の線を描いて枕を濡らした。
*
店を休業にして、テオは朝からずっと探索魔法を試していた。あの金髪の主を探すためだ。嫌な予感がしてならない。ムズムズと首の後がむず痒く、落ち着かない気分だった。早く見つけなければと思う。
一本の髪が鏡の前に置においてある。テオは真剣な顔で鏡面を睨んでいた。
そこにニコが飛び込んできた。食料の配給を受け取りに出かけていたのだが、玄関を開けるなり彼は叫んだのだ。
「来てください! レオニードさんを助けないと!」
「レオニード!?」
切迫したニコの声に、テオは素早く反応する。何があったのかなどと質問して、時間を無駄にすることはなかった。
さっと通りに飛び出る。
レオニードの店があるクロッカス通りは二ブロック先だ。走れば、二分とかからない。
風を切って走るテオの背に、ニコが叫ぶ。
「あの獣が、店に入っていったんです!」
続いて飛び出してきたベイブを担ぎ上げると、ニコはどんどんと遠くなるテオを追った。腕に抱えたベイブから、震えが伝わってくる。無理もないと思った。彼女は迷霧の森でもあの獣に遭遇したのだから。それが今度はこんな身近に現れて、知人を襲おうとしているのだから。
先行していたテオは、レオニードの店から獣が跳ねるように出てくるのを目撃した。通行人を突き飛ばして、ソイツは屋根の上に飛び上がる。
そしてテオに向かって、血に染まった顔を見せた。牙を剥くその顔はまるで笑っているようで、わざと自分の姿を見せつけているようだった。目があった次の瞬間、猛スピードで屋根から屋根へと飛び移りあっという間に姿を消してしまった。
テオはギリッと奥歯を噛み、野次馬を押しのけて店の中に駆け込む。
床に突っ伏したレオニードの姿が、目に飛び込んできた。彼は弱々しいうめき声を上げている。
「レオ! 大丈夫か?」
抱え上げると、胸に真っ赤な裂け目があった。
大きな三本の爪あと。肉がえぐられ、血が彼の服をぐっしょりと濡らしている。
テオの頬が歪んだ。
「……テオ、あれは……何だ?」
「しゃべるな。すぐに治してやる」
しかしレオニードは、震える手でテオの腕を掴む。
「聞いてくれ……あ、あのバケモノは、お前を……知ってるぞ。ブ、ブロンズの魔法使いって、言った」
苦しげに息を吐きながら、レオニードはやっとのことでそう言った。
ざわざわと、テオの全身の毛穴が立ち上がってくる。朝から感じていた嫌な予感はこれだったのかと。
「テオさん!」
ニコとベイブが飛びこんできた。
ベイブは、倒れているレオニードを見るなり癒やしの光を与え始めた。柔らかな桜色の光が降り注ぎ彼を包みこむ。すると苦しさに歪んでいた彼の表情が、少しづつ和らいでいった。
「……ありがとう。コイツも頼めるか」
レオニードの腕の中に、ぐったりとしたピクシーがいた。彼の相棒のレダだ。しかし、ピクリともしない。
ベイブは顔を強ばらせる。誰の目にも、もう助けようがないことは明らかだった。
血に染まった彼女は、腰から下を失っていたのだ。
「盾になってくれたんだ。……ピクシーのくせに、障壁魔法なんてつかったんだぜ。すげーよな……」
レオニードの目から涙がこぼれた。
テオは低くつぶやく。
「すまない。死者を甦らせることは、誰にも出来ないんだ」
「……そうだったな」
レオニードは、ああと息をつくと目を閉じた。気を失ったようだった。
テオは彼を奥の部屋へと運び込んだ。静かにベッドに横たえると、ベイブの肩に手を置いた。
「レオニードを頼むよ」
「ええ」
テオは立ち上がり、店の外に目をやった。
騒ぎを聞きつけた近所の住人達がのぞいている。みな不安げな顔だった。
「ニコ。お前もここに残ってくれ。アレが戻ってくるとは思わないが……側にいてやってくれないか」
「……はい」
テオは部屋の四隅に護符を貼り、数回指で印を結び大きく腕を振った。すると護符と護符の間に白い糸のような光が走り、それが膨らんで床全体に広がった。そして四面の壁、天井へと広がり部屋を包み込んだ。パチンと指を鳴らすと、光は消えた。これは彼らを守る為の結界だった。
自分を見つめているベイブとニコの向こうに、白蝋のような顔色のレオニードが眠っている。腹の底から怒りが湧いてくる。同時に焦りと、恐れもあった。だがテオは獣を追うつもりだった。
ゴクリと唾を飲み、喉に手をやる。息が詰まる。じわじわと首を締められてゆく、そんな不気味な閉塞感を感じていた。
あの獣は、闇雲に人を襲っているのではない。獲物を狙い定めている。そう言った、ジノスの勘は当たっていたようだ。
ドドドド……と複数の馬の走る音が聞こえた。
テオが通りに出ると、それは騎馬警官隊だった。魔法使いも混じっている。やじうまの一人を捕まえて、何事かと聞いた。
「む、向こうの広場で、さっきのバケモノがまた人を襲っているらしい!」
テオは弾かれたように走りだした。
*
ユリウス・マイヤーは、町をパトロールする警ら隊と行動を共にしていた。クロッカス通りに、獣が現れたという報せを聞き、彼らは現場へと急行している途中だった。
だがユリウス達が、クロッカス通りにたどり着くことはなかった。前方の広場に、屋根から黒いものが飛び降り、通行人の中に突っ込んでゆくのを目撃したからだ。
それは黒い矢のようだった。一直線に人混みに突っ込んでいったのだった。
パトロール隊の先陣を切って、ユリウスは走りだした。
悲鳴が上がる。
蜘蛛の子を散らすように、人々が逃げ出した。
ユリウスが悲鳴のもとに到着すると、黒い獣が倒れた男の上にのしかかっていた。大きな猫型の獣が、血をしたたらせ牙を剥いて彼を見た。
「伏せろぉ!」
叫ぶと同時に、ユリウスの手から閃光がほとばしった。
男の側にいた逃げ遅れた人々が、さっと地面に突っ伏す。
雷撃が獣を打つ。そう思われた。
しかし、その一歩手前でエネルギーは四散していた。
がぁ! と唸りを上げると、獣は突進してきた。
身構える彼に、巨大な前足が振り下ろされる。
ギラリと光る爪が、白い弧を描いた。黒いローブが、ザクリと引き裂かれる。が、寸前でユリウスは身を沈めていた。
その頭上を獣は飛び越え、すぐ後方の小隊に躍りかかった。
隊員の絶叫が上がる。
振り返ったユリウスに、獣は笑うように牙を見せた。そして、軽々と屋根の上へと跳んだ。
「待て!」
ユリウスが叫んだ時には、もうその姿は消えていた。
背後で女の声が上がる。
「あ……あなたぁ……目を……開けてよぉーー!」
彼は振り返り、叫ぶ女の顔に衝撃を覚えた。
その女はドリスだった。
髪を振り乱し、泣きながら男に取りすがっていてる。大きく胸を割かれた男は、彼女の夫だろう。
なんてことだ。数年ぶりの彼女との再会が、このような悲惨なものになるとは。ユリウスは思わず目を伏せ、こぶしを握った。
そして二羽のふくろうを放つ。一羽は獣の消えた方向へと飛び、もう一羽はアインシルトの元へと。
*
尖塔の小窓から老人が町を見下ろしていた。その肩にふくろうがとまっている。
老アインシルト、その顔は険しいものだった。
「……まずいのお。テオドール……冷静ではおれぬじゃろうな」
ユリウスからの連絡に衝撃を受けていた。
次々ともたらされる凶報。その内の二人は、彼もよく知る人物であった。共に王宮付き魔法使いとして働いた白魔法のオルガ。
そして、十数年前に彼が指導していた弟子のドリス。犠牲になったのは彼女の夫であったが、狙われたのはドリスの方だろう。
テオ、ユリウス、そしてドリスの三人を指導した日々のことは、今でもよく覚えている。彼女が被害を免れたことは、アインシルトにとってこの凶事の中での唯一の幸いだったが、夫を失った彼女の心を思うと、安堵を口することは出来なかった。
そして、この事をテオが知ればどんな反応をすることか。
ふくろうが伝えたユリウスの声は荒れていた。驚きとも怒りともとれる声だった。日頃冷静なユリウスでさえ、動揺を露わにしているのだ。直情的なテオが、どれだけ気持ちを抑えることができるというのだろう。
「二人とも、熱くなりすぎるなよ……」
アインシルトは長い髭を撫でながら、じっと町を見つめていた。
その時、カツカツと足早に階段を登ってくる足音が聞こえてきた。
痩せた眼鏡の男、内大臣のシュミットだった。消えない隈が、更に濃くなったよう思われる。
「アインシルト様」
彼は、眼鏡をしきりに直しながら言った。
「ミリアルド王国より使者が来ております。フラクシオ王国に挙兵の動きが見られるとのことで、急ぎ老師にも謁見したいと」
「ミリアルドか」
アイシルトが重々しくつぶやく。
「このような時に…」
得てして難事とは重なるものだと、息を吐いた。
目の前で気ぜわしげにしている内大臣は、今後一層多忙を極めることになるだろう。もっとも、今王宮内でのんびりしていられる者などいないのだが。
アインシルトは胸苦しさを隠し、ぴんと背筋を伸ばして階段を降り始めた。使者と会わねばならない。
シュミットがそれに続く。
「先方の王子、フィリップ殿下も既に国をお出になられており、明日にでも陛下との会談をご所望とのことです」
「フィリップ殿下のお出ましか……無下には出来ぬな」
「はい」
シュミットは眉間に深いシワを刻み、胃をさすった。
「……それから、陛下のご様子が、少々……」
そっと声を潜めた。
ここには彼ら以外の者はいないのだが、大きな声で話すの憚られるといったシュミットの表情に、アインシルトがうなずく。
「お気になされない方がよいですぞ。あれは、軽い発作のようなものですからの。心配せずとも、すぐ元にお戻りになる」
心配症の内大臣とこの会話をするのは何度目かと、アインシルトは内心苦笑した。それでも、彼の王への揺るがない忠義心は嬉しく思った。
二人は階段を降り切ると、ミリアルドの使者の待つ部屋へと向かった。