6 ただいま
ムラト・リッケン上級大将は、古ぼけた小さな家のリビングでソファに腰掛けていた。
小姓が淹れてくれた紅茶のほのかに甘い香りが、ゆったりと部屋に漂っている。
その向かいには、目の下に深い隈を作った神経質そうな男が座っている。痩せぎすのその男は五十代といったところだが、髪に白いものが多く目立ち実際よりも年取って見えた。
内大臣のミハエル・シュミットだった。
今、彼らはこの家の主人が帰ってくるのを待っているところだった。
「陛下の具合も良くなられたようで、よろしゅうございましたなあ。貴殿も安堵なされたことでしょう」
リッケンが言うと、大臣はずれてもいない眼鏡をせわしなく直しながら愛想笑いを浮かべる。
「ええ、一時は大変心配申し上げましたが……。お目覚めになられてからは、アソーギの復旧に尽力されております。それこそ不眠不休であたられておりまして、これはこれでまた心配なのですが……」
「シュミット殿は、誠に心配症であられますなあ」
リッケンは、ハッハと笑う。
シュミットは、また眼鏡をいじりながら苦笑した。
内大臣である彼は、王の側近くに仕えていた。あまり人を寄せ付けることのない王の日常を知る、数少ない人物の一人だ。
「信頼申し上げてはいるのですが、王にもしものことがあったらと思うと、夜も眠れぬありさまで……。まったく気の弱いことで、お恥ずかしい」
彼は王の身を案じて忠言を述べるのだが、黒竜王の前に立つといつも足が震えてしまう。息子のような年の王であるのに、有無をいわさぬその威圧感に気圧されてしまう。しかし自分が言わねば、誰も王に物申すことも無いため、苦役を買ってでているのだった。この数年彼の顔から隈が消えることはなかったし、胃薬は彼の常備品だった。
シュミットの胃痛と引き換えに、王が休息をとるようになったことを、リッケンは聞き及んでいた。彼の忠誠心にはいつも頭が下がる。笑ったのはまずかったと、リッケンは後悔した。
「いやいや、貴殿がおられるからこそ王の健康は守られ、人の意見に耳を傾ける大切さにもお気付きになって下さったのですから、そうお悩みくださるな。貴殿のことは尊敬いたしております。無礼をお許しくだされ」
「と、とんでもない」
シュミットは慌てて首をふり、そして俯いた。この上級大将のように、どんと腹の座った人間になりたいものだと思う。小さく溜息をこぼした。
その時、扉が開き白く長い髭をはやした老人が入ってきた。
「おお、お二方。お待たせしてしまいまいたな」
二人はさっと立ち上がり、一礼した。
王宮付き魔法使い、老アインシルトはにこやかに応じて、着席を勧める。
小姓が彼のカップを用意すると、三人の会談が始まった。
アインシルトが、顔をぐっと引き締める。
「大変な事が起きているのです。魔法使いにとっては、由々しき事態が」
二人の顔も、さっと強張った。
******
コンコンとドアをノックする音に、ニコがはっと顔をあげた。
またお客だ、自分でなんとかなる依頼であればいいんだけど、と憂鬱げに立ち上がった。
階段を降りてくる小さな足音を背に、ニコはドアを開けた。
ウェーブのかかった金髪がキラキラと光る、美しい女性が立っていた。タイトなスカートからスラリと伸びた足も美しい。ビオラだった。
「こんにちは」
ふっくらとした色っぽい唇の主に親しげに微笑にかけられて、ニコは思わず赤面した。
「あ、はい、お久しぶりです」
「入っていいかしら」
そう言って彼女は部屋の奥を伺いながら、ニコの隣を通り過ぎる。ふわんと良い香りがした。
テオの不在を伝えなきゃと思いつつ、ニコはビオラに見とれていた。
「テオなら居ないわよ」
階段の中途から、ぶっきらぼうな声がかかる。
不機嫌きまわりないベイブが、リビングへと降りてきた。
「あらそうなの。少し話がしたかったんだけど」
「お生憎さま。彼はガールフレンドのところに入り浸りよ」
ツンと澄まして、テーブルの上に飛び乗った。そして、ティーポットを抱え上げて、カップにお茶を注ぐ。ツンケンした口調の割には、ビオラをお茶でもてなすつもりのようだ。と言っても、王宮サイドの話を聞き出そうという思惑のためかもしれない。
ビオラはクスリと笑って、ニコを振り返る。
「ええ、もう二週間になります。そろそろ帰ると連絡は会ったんですけど、それがいつになるのか解らなくて。僕で良ければ伝言しますけど」
「そうね……どうしようかしら。それにしても、テオにいい人がいたなんて知らなかったわ。町が壊されちゃったもんだから、心配して彼女の元に飛んでいったのかしら?」
三人分のカップを囲んで彼らはテーブルについた。ビオラはベイブの隣に腰を下ろし、その向かいにニコ座った。
ビオラは、いたずらっぽく笑って隣をちらりと見る。
ベイブの目が釣り上がった。
「違いますよ!」
とニコは慌てて否定する。
ベイブに癇癪を起こされては大変だと、内心焦りながら弁解する。
「海辺の町にいるらしいんで、被害にはあってないだろうし、知り合いの方のところにいるだけだと思います」
「……へえ、男って、ただの知り合いの女性の家に、平気で何日も泊まりこめるものなんだ」
ベイブがニコを睨んでいる。
ああ、と少年は肩を落とす。全く弁解にならなかった。
「オルガっていう妙齢の美女のところにいるみたいだから、あなた行ってみる?」
ベイブは、挑むように言った。
妙齢の美女などとはどこにも書いていなかったが、ベイブの中ではそれはもう確信だった。
ビオラは一瞬小首をかしげた。そして顔を強ばらせると、サッとうつ向いてしまった。肩をふるふると震わせている。
一瞬ニコは泣いているのか思ったが、彼女の口からくっくと堪えるような笑い声が聞こえてきて、ぎょっとした。
ベイブと目を見合わせ、首をかしげる。
「くくく……ご、ごめんなさい。笑っちゃって。……オ、オルガ様のことね」
ビオラは顔を上げた。まだ、必死で笑いをこらえている顔だ。
「行ってみるわ」
「知ってるの?」
「ええ」
自分を見つめるゴブリンの少女。その眼差しは真剣で、ただ嫉妬しているだけでなく、口には出せなくてもテオの事をもっと知りたいと心底願っている顔だった。
ビオラは笑ったことを少し後悔した。彼女の真剣さに対して、失礼なことをしてしまった気がした。
「今はもう高齢のために引退していらっしゃるけど、有名な白魔法の使い手だったそうよ。アインシルト様と一緒に王宮付き魔法使いをしていらしたの。だから、きっとテオはオルガ様とも馴染みがあるのね」
困ったような笑顔で、ビオラは説明した。
ベイブの顔はみるみる真っ赤になっていった。
自分が誤解していたことに気づき、また、テオがわざと誤解するように仕向けたことに気づいて、恥ずかしさと悔しさでいっぱいになった。
ビオラはなだめるように優しく、彼女の背をさすった。
あの地震の時、必死で彼を止めようとした彼女の姿を、ビオラは覚えていた。手紙を読まなくても、この小さなゴブリンの少女の気持ちを逆なでする内容であったろうと想像できた。見下げ果てた男だと呆れると同時に、彼女が気の毒でたまらなくなる。
ビオラは彼女を抱きしめるようにして、何度も背をさすった。すると、ベイブの目にみるみる涙が溜まっていった。
「ねえ知ってる? 男の子って好きな子に構って欲しくて意地悪しちゃうって」
ビオラは労るように言った。まるで姉が妹を慰めるような感じだった。
彼女が微笑むと、ベイブの顔が怒りとは違う感情で、また赤くなる。
「……ア、アイツ、男の子って年じゃないと思うけど」
「頭の中はガキでしょ」
「確かに、その通りね。……でも、好きとか嫌いとか関係なく、ただ意地悪なのよ。人を怒らせるのが趣味なの」
「どうしようもないわね。呆れちゃうわ」
二人は笑いあった。
ニコはこの様子を見ているほかなかった。自分が割り込む余地はなさそうだ。もう、ただただ苦笑いを浮かべるばかりだ。
ベイブはふうっと大きく息を吐き、それから口を尖らせて呟いた。
「……テオの嘘つき」
「誰が嘘つきだって?」
いつの間にか玄関が開いていた。そして長身の男がニタニタ笑いながら立っていたのだ。ケーキの箱を指にプラプラとぶら下げている。
「テオさん!」
ニコの引きつった笑みが、ぱっと明るいものになる。やっと帰って来てくれた、と喜色満面だ。
注目を一身に集める話題の主は、ふらりと中に入ってきた。
「言った通りに帰ってきたのに、なんで嘘つき呼ばわりされるんだか。やー、ビオラ、オレに会いに来てくれたのか? 嬉しいねえ。しばらく会ってなかったから、オレが恋しくなった?」
「……今、なにか寝言が聞こえたわね。……話があっただけよ。アインシルト様からまだ聞いてなければ、だけど」
「ああ、なんだ。そっち系の話か」
「もちろんよ。そっち系の話しか、あなたに用なんてないもの」
ツンとビオラはテオを突き放す。
彼女がことさらに、彼に冷たくしていることにニコとベイブは気づいた。
テオだけが訳が解らないというように、肩をすくめている。
「ひどく冷たくあしらわれたもんだなあ。まあ、アインシルトからの言伝なら、散歩でもしながら聞こうかな」
そう言いながら、ベイブの頭をよしよしとなでて、ケーキの箱を渡した。
「おみやげ。ファニーの店のブラウニーは美味いっていうしね」
「……ねえテオ。他に言うことはないの」
ボソリとベイブが言う。
全く、余計なおしゃべりはペラペラと多いくせに、肝心なことは口にしない。二週間ぶりに帰ってきて言うべきことは、他にあるだろうと怒鳴りたくなった。
だいたい、ニコに留守を預かってもらった感謝の言葉を最初に言うべきなのに、完全無視とはどういう了見か。
ベイブはじろりとテオを見上げる。
すると、テオは全く邪気のない笑顔で応える。
「うーん……、ただいま、かな?」
はああと、力が抜け落ちるのをベイブは感じた。
ベイブの言いたかったことを、理解できた二人はプっと笑う。
彼の天性の俺様根性は、ちょっとやそっとのことでは揺るがないようだ。
「お帰りなさい」
あまりの強敵に屈して、ベイブは笑みを返した。