4 感謝知らずとキス
「テオさん……そんなにがっついて大丈夫ですか?」
心配するニコを尻目に、数日ぶりの食事をガツガツと食べまくるテオだった。さっきまで寝込んでいた人間とは思えない、食欲旺盛ぶりだ。
病み上がりだからとスープを出したのに、こんなもの腹の足しにならんとステーキを要求してきた。この非常時にあるわけがないと答えると、食べられるものなら何でもいいから持ってこいと命令したのだった。
ありったけの食材を使って、テーブルに何枚も皿を敷き詰めたが、それはあっという間にテオの胃袋の中に収められていった。
「後で、お腹が痛くなっても知らないわよ」
呆れてベイブが言う。しかし、起き上がって食事が出来るまでに、彼が回復したことがとても嬉しいらしい。始終にこやかだった。
口いっぱいに頬張って喋れないテオは、顔の前でブンブンと手を振ってみせる。心配無用ということらしい。
料理を全て食べきると、満足気にコーヒーの香りを楽しんだ。
「あー、久しぶりに食ったなあ。食えるってのは、ホント幸せだ」
「アインシルト様のお陰ですね。良かったです」
「丁度治りかけてた時に、アイツが来ただけだろう」
「……あなた、本当に感謝知らずね」
ニコとベイブは困ったものだと目配せしあう。
いつものことながら、照れ隠しが下手だとニコは思った。
「さて……」
テオは立ち上がり、オレンジとモスグリーンのローブに手をかけた。
ベイブが慌てて駆け寄る。
「ちょっと! どこ行く気?」
ぐいとローブを引っ張った。
ギョッとしたニコも玄関前に立ちふさがって、テオを行かせまいとする。
「熱が下がったばかりよ。まだ寝てなきゃだめ!」
「そうですよ! 無茶しないでください。出かけるなんてとんでも無いです!」
「なんだよお前たち、過保護だなあ。もう平気だって」
ブルンブルンとローブをふって、ベイブを振り落とす。
「用事があるんだよ。邪魔するな」
「何の用があるっていうのよ! 三日も寝込んでたくせに」
尻もちをついた彼女は口を尖らせた。
「そうですよ。アインシルト様がいらっしゃらなかったら、今頃まだうんうん唸ってたはずですよ。まさかキャットを捜しに行くつもりですか? それなら僕が捜しますから! 他に用なんてないでしょう」
ムッと顔をしかめてニコも言った。彼の食事中に、キャットがいなくなってしまったことは伝えている。毎日捜しまわったが、まだ見つけられないことも。
はあと、テオが大きくため息をつく。
「寝込んでたら用事ができないって、なんで決めつけんだ。ニコ、どけよ」
あごをしゃくって命令する。
その尊大な態度に、怒りをあらわにしたのはベイブの方だった。
テオに喰ってかかる。
「自分勝手が過ぎるわ! あんたに感謝してもらおうなんて、はなから思っちゃいないけど、心配かけて悪いとかちょっとくらい思わないの?」
両手を腰にあててキッとにらみ上げる。
負けてたまるか、と勝ち気な少女はまくしたてた。
「ちょ~っと元気になったと思ったら、何その傲慢な態度! 何様のつもり? 熱で朦朧としてた時は、側にいてくれ~、一人にしないで~って、死にそうな声で甘えてたくせに!」
テオがゲェッと顔をしかめる。
「……オレが? 甘えた?」
「ええ、そーよ!」
ベイブは胸を張る。そしてもう一度テオのローブの裾をぎゅっとつかんだ。
「君に?」「……そーよ」
「オレが?」「そーよ!」
うさん臭げにテオは質問を繰り返す。
「甘えた?」「そーよ!!」
「……抱きしめてよ、ママン、とか言った?」「そーよ!!!」
ぷいと、ベイブが横を向く。
「……嘘つきゴブリンめ!」
「いったーい!」
ベイブの前にしゃがむと、額をピシっと指で弾いた。
容赦なく耳たぶをギュウギュウ引っ張りあげ、その耳元で怒鳴る。
「おい、ごらぁ! オレはありがとうって言っただけだろう? ああぁぁ? 違うか、ドチビ!」
「やめてよ!」
ベイブは、チンピラまがいのテオの足をガンガンと蹴飛ばす。しかし、彼は耳を引っ張るのを止めない。
ニコはつい吹き出してしまった。いつもの二人のじゃれあいが始まったと、可笑しいやら嬉しいやら、微笑みながらそれを見つめた。
「いやー! 痛ーい!」
じたばたと暴れるベイブの顔を、テオは強引に自分に向けた。そしていきなり鼻の頭にキスをする。それもチュッチュと二度三度繰り返した。
一瞬でベイブは真っ赤になり、体が動かなくなった。ローブがするりと手から離れる。
するとテオはさっさと立ち上がった。
ニコに向き直り笑いかける。
「お前も、キスが欲しい?」
ニコは面食らっていた。テオがベイブにキスするなんて。彼からはベイブの鼻ではなく、その下にキスしたように見えていたのだ。
ゆらりとテオの顔が、間近に近づいてくる。
「はい?」
冗談じゃないと、慌ててブルンブルンと首を振る。
「だよな」
テオはポンとニコの肩を押す。
ニコがよろめいたすきに、彼はサッと脇をすり抜けて玄関を出て行ってしまった。
きょとんと見送った後すぐに、あ! と声をあげた。慌ててドアを開けたが、もう遅い。テオはいなかった。
やられた、とニコは思った。まんまと彼と手に乗せられてしまったのだ。
真っ赤な顔のままベイブがうつむいている。
「……ごめんね、ニコ」
「いや、僕の方こそ……」
テオを引き止めることが出来なかった。
「テオさん、自分でこうと決めたら絶対変えないんだ。僕らがどんなに行かせまいとしたって、ダメだったんだよ」
自分に言い聞かせるようにつぶやいた。
一体テオは、どこへ何しに行こうというのか。
ヤツを取り逃がした、という彼が目を覚まして最初に言った言葉が重く耳に残っている。まさか、と思う。いくらなんでも病身をおして、あの魔物を追ったわけではないだろう。そう信じたい。
ニコは大きく一つ頭を振り、不安な思いを無理やり追い払った。考えても仕方がないことだ。
それにしても二人がかりの制止をキスで振り切るとは、毎度のことながら行動の読めない人だとニコは苦笑する。
「……さっきさ、僕までキスされるのかと一瞬焦ったよ」
「え? か、勘違いしないで、ニコ! 鼻よ、鼻! 鼻の頭よ」
大きく首を振りまくってムキになるベイブがおかしくて、ニコは吹き出した。
***
夕暮れの日差しの中、小高い丘の上に立つ一軒家から、テオは海辺の港町を見下ろしていた。
港についた船の周りで、海鳥たちが忙しげに飛び交っている。今日一日の漁師たちの成果のおこぼれにあずかろうとしているのだろう。
夕方の市が始まる。
新鮮な魚を求めて、みなと通りには多くの人が集まり賑わっていた。船から降ろされる魚の白い腹が、夕日にキラキラと輝いて宝石のようだった。
テオは目を細めて、町の景色を見入っていた。
ウッドデッキの柵に、斜に腰かけて心地よい潮風に吹かれる。穏やかに凪ぐ海も、優しいオレンジ色に輝いている。波立っていた心も静かに落ち着かせてくれる、そんな風景だった。
ここに来るのは久しぶりだ。
髪をさわさわと揺らす風の匂いを嗅いで、テオは大きく伸びをした。
「さあさ、中へおはいんなさいな。冷たいレモネードを入れてあげようね」
背後から声をかけられた。
テオはにっこりと微笑むと、声の主を振り返った。
真っ白な髪の老婦人が、にこやかに立っていた。
「オルガのレモネードは世界一だ。クッキーもあるのかい」
「ええ、ありますよ」
彼女の優しい笑顔は、見るものをホッとさせる不思議な魅力があった。
小柄で腰も少しまがり顔にも手にも深いシワが刻まれおり、かなりの老齢と思われるが、ひ弱さは感じさせなかった。
ウッドデッキから、部屋の中へ戻ろうとする老婦人の腕を、テオがさっと支える。
「段差がある。気をつけて」
「おやおや。心配は無用ですよ。ここは私のうちなんですから」
テオを見上げて、ほっほっと嬉しそうに彼女は笑った。
「それはそうだな。目が見えないと思うとつい余計なことをしちまうよ」
「ありがとうよ、テオドール。昔から優しい子だったものね」
テオはポリポリと頭を掻いた。
オルガは盲目だった。しかし、その所作はまったくそれを感じさせない。まるで彼女の目はテオの姿が見えているように、真っ直ぐに彼の顔を見つめ優しく微笑む。
かくしゃくとした足取りで部屋に入ってゆき、二つのコップにレモネードを注いだ。テーブルにはクッキーの皿が置かれている。
テオは椅子に腰掛けた。
「しばらく、ここにいてもいいかな。気ままな一人暮らしを邪魔して悪いけど」
クッキーをかじりながら言う。
オルガは、彼がそう言うだろうと最初から解っていたようにうなずく。
「私は構わないけど、仕事はいいのかい?」
「大丈夫さ。優秀な弟子もいるしね。……少し、ゆっくり休みたくなってね」
不意に通り抜けた強い風が、レースのカーテンをバサリと揺らした。そして窓から差し込むオレンジの光が、彼の顔の半分に濃い影を作る。
オルガは少し首をかしげて、にっこりと笑った。
それからの数日間、テオはオルガの家から一歩も出ること無く、静かな日々を過ごしていた。
時折、気が向いたように家事を手伝う以外は会話もせず、ただ黙って何時間でも椅子に腰掛けている。
オルガも、テオの好きなようにさせていた。あれこれと世話を焼くようなこともしない。ただ、彼が立ち上がった時にだけ、食事ができているわよと声をかける。
今日もテオは窓際に寄せた椅子に腰掛けて、外を眺めている。しかしその目はぼうっとして、景色どころか何も見てはいなかった。
「ゆっくり休みたいって言っておいて、ずいぶん忙しそうじゃないの」
編み物をしながら、オルガは独り言をつぶやく。
「一日中そうやってるなんてねえ、……テオドールや、相変わらず面倒なことを続けているもんだねえ。……まだ辛いのかい?」
つぶやきの最後は悲しげだった。