1 夢と現の狭間1
ああぁ、暑い。
暑い、暑い、暑い、息が苦しい。
夏だから暑いのは当たり前? でも暑すぎる。
ここは南国? 灼熱地獄?
ベイブは、ブハーっと大きく息を吐いて勢い良く起き上がった。
暑さに苛立って、毛布をばさりと蹴りあげた。体がじっとりと汗ばんでいたが、すうっと心地良い空気に触れると、ホッと息をついた。
と、倒れた家具や、散らばった食器類が目に入った。
ああ、と思い出す。地震でめちゃめちゃになったのだった。
昨日は散々な一日だったのだ。魔女渾身の魔法が発動したのだ。
大地は揺れ、地の底から冥府の王という魔神が顔を覗かせた。炎の魔物とも遭遇してしまった。王宮では黒竜王とも対面したし、テオと二度と会えなくなるのではと心配もした。
もう一度大きく息を吐き出す。恐ろしかった。でも、今はもう違う。また頑張れる、そう思った。
ふと視線と落とすと、思いもよらず間近にテオの寝顔があった。
ドクンと一つ、心臓が大きく鳴った。
ベイブ側の右脇を大きく開き、彼女を包み込むように手が回されていた。指先が足に軽く触れていた。ずっと腕枕をしていたようだ。
途端にベイブの頬が赤く染まる。
彼と寄り添って寝ていたなんて。昨夜はテオに癒しの光を与え、彼が眠ってしまった後は毛布から逃げ出したはずだったのに。
ベイブは恥ずかしさになおも真っ赤になってゆく。
「あ、赤ん坊じゃ、ないんだからね」
ぷいとそっぽを向いて、少し口を尖らせた。
それにしても、さっきは暑かった。二人分の体温にしても暑すぎるような気がした。ふと、自分の足に当たっている彼の手の熱さに気づき、その顔を振り返った。
赤くなっている。息も荒い。
彼の額にそっと手をあてると、ドキリとするほど熱かった。テオは発熱していた。しかも高熱だ。
「やだ……どうしたのよ、テオ」
彼は答えなかった。
小さくうなるような声をあげて、身をよじっただけだった。
オドオドと何度も小さく呼びかけるが、彼の目は開かなかった。
「……ベイブ? どうしたの」
ニコが声をかけてきた。
今起きたばかりのようだ。眠そうに目をこすっている。
「テオが……ひどい熱なの」
「本当だ……」
ニコはすぐに側によってくると、同じように額に触れ、驚いて手を引っ込めた。尋常な熱さではなかった。
こんなになるまで疲れていたのなら、ちゃんとベッドを用意してあげればよかったとニコは後悔した。
そして、どうしたものかと考えた。薬はどこにあるだろう。ベイブに治せるだろうか。水は使えるだろうか。ただの風邪だろうか。それとも、悪い病気なのだろうか。魔力を使い果たしたことと、関係があるのだろうか。
いろんなことが、頭の中に駆けめぐった。
意識の確認をするために、ニコはテオの肩をトントンと軽く叩いた。
「テオさん……。テオさん、大丈夫ですか?」
何度目かのニコの呼びかけに、少ししてテオがうっすらと眼を開けた。
充血した眼がうるんでいる。
「……ああ」
弱々しく、口を開いた。
首を起こしかけたが、ベイブがそっと押しとどめるとすぐに力が抜けてしまった。起き上がることもできないようだ。
「寝てていいのよ、テオ」
その声が聞こえているのかいないのか、彼はぼんやりと天井を見つめていた。
ニコが目配せすると、ベイブはうなずいた。その手のひらから温かな光が発せられ、テオに注がれてゆく。
「ベッドを整えてきます。僕が運びますから、無理せずに横になってて下さいね」
そう言って立ち上がろうとするニコの腕をテオが掴んだ。
それは怖くなるほど、か弱い力だった。爪の先まで熱い。ニコはぞっとして動けなくなった。思った以上に彼の状態は悪い。
テオが掠れた声を発した。
「良かった……。生きてたんだな、ニキータ」
ニコを見つめている。しかし、熱で朦朧としているためか、視線が合わない。
「え?」
「もう、会えないと思ってた……」
ニコとベイブは目を見合わせた。
テオは、ニコを誰かと間違えているようだ。再び目をつむった彼は、力なく腕を離した。ずるずると落ちていく手が、ニコの手の甲に重なる。
「元気でいたか……?」
ニコの鼓動が早くなる。
熱に浮かされテオは混乱している。
内心の動揺を隠しながら、ニコは話を合わせた。
「ええ、元気です。あなたのおかげです」
「……オレを許してくれるのか?」
つらそうに眉を寄せる彼に、ニコは一層優しく答える。
「最初から怒ってなんていませんから」
テオは微かに微笑んだ。
そして、また寝息を立て始めた。
ニコは自分のベッドにテオを横たえ、毛布をかけた。
ベイブは冷たいお絞りを額と両脇にはさみ、少しでも熱を下げようとしていた。
彼女の手のひらからは、桜色の光がテオに降り注いでいる。
「疲れていたのね。……昨日、あんなに癒やしの光をあげたのに、こんなになるなんて」
「うん……。なんで気づかなかったんだろう。早く、元気になってくれるといいんだけど」
二人はベッド脇に座り、深い溜息をついた。
ニコは、先ほどテオに掴まれた腕をさすった。
あれは何だったのだろう。痛々しくて見ていられなかった。
「ニキータって誰だろうね。僕と間違えたみたいだけど」
「その人のこと、とても心配していたみたいだった……。きっと、テオの大切な人なのよ」
ベイブの声が切なげだった。
ニコは王宮で彼女を思い出す。テオを返してと叫んでいた。彼女はテオの事が好きなのだと、恋愛事に疎い自分でも解った。テオは気づいているのだろうか。
彼の心の内は、ニコにはまるで見えなかった。熱に浮かされて口走る名も、初めて聞いたものだ。自分は彼の事を何も知らないのだと、改めて思い知らされた。
***
起きなければ、そう思うのに体が言うことをきかない。
力が入らない。そもそも、体はどこにある?
ふわふわとして頼りない。泥の中に沈み込んでいくようだ。いや、空に浮かんでいるのだ。
ここはどこだったか、自分は何をしようとしていたのか、考えようとする端から、別のイメージが次々に湧いてくる。そして交じり合い、千々に乱れ、消えていった。
さっき、誰かと話したような気がする。あれは誰だったか。
なんとか考えようとするが、すぐに何を考えたかったのかさえ解らなくなる。思考は細切れになり、混沌の中に撒き散らされていった。
チカチカと光が明滅する。渦巻く。揺れる。闇が迫る。沈み込んでゆく。
ゆっくりと、深く深く沈んでゆく――――。
『ねえーママー、どうしたの? 起きてよお。ママ、あそぼうよー。ねえパパ、ママ起きないよ?』
ああ、そうだった。
オレは母が死んだことが、全く理解できなかったんだ。
何度も呼びかけて、母を起こそうとしていたっけ。
皆が母の周りに花をいっぱいに敷き詰めてた。
誰かが、オレにも花を持たせて同じようにするように言った。
真っ白な服を着て、花に埋もれて横たわる母は、とても美しかった。
『ママ、キレイだね。花嫁さんみたいだよ。パパ、僕大人になったらママと結婚してもいい?』
無邪気に笑うオレの頭を、父は無言でくしゃくしゃとなで回した。
周りからすすり泣く声が聞こえてきて、オレは急に怖くなったっけ……。
それから、あれはいくつの時だろう。
父に手を引かれて、森の中の見知らぬ家に連れて行かれた。
『パパ、ここどこ?』
父は答えなかった。
オレは不安でたまらなかった。
『ねえ、早く帰ろうよぉ。僕お腹すいたよぉ』
白ひげの老人がにっこりと笑っていた。
『テオドールや。美味しいクッキーを用意しておいたぞ。一緒に食べるかの?』
『うん!』
気が付くと父の姿は無かった。
これがアインシルトとの出会いだったな。
『パパ~! パパ~! 僕帰る。お家に帰る!』
『心配せんでもいい。必ず迎えに来てくださるからの。お前がここでしっかり勉強して、立派な魔法使いなるまでの辛抱じゃ。お前なら国一番の魔法使いにだってなれるぞ』
父に会いたいという一念だった。アイツの言葉を真に受け、必死に魔法の習得に励んだんだ。本気で国一番を目指したんだ。
魔法の勉強も嫌いじゃ無かった。褒められれば嬉しかったし、上達も早かった。何より父の喜ぶ顔が見たかった。自分の頑張りを見て、認めて貰いたかった。
ずっと、父の迎えを今か今かと待ちわびていたんだ。
しかし、それきり父は一度もオレの前に現れることは無かった。
彼が迎えにくることも、会いにくることも決して無いということに、気づいたのは九つの時だった。
自分は捨てられたのだと、この時ようやく悟った。
そのころにはもう、彼の顔はほとんど忘れていた。




