序章
少年は震えていた。
男たちの怒号と命乞いの悲鳴が聞こえる。
ガギンガシャンと、剣と剣が組み合わされる音。次いでグジュリと湿った音と、くぐもったうめきが怖気を誘う。
逃げ惑う足音。甲高い悲鳴。威嚇する猛獣のような怒声。どうっと人が崩れ倒れる鈍い音。
少年の耳に、容赦無い暴力と破壊の音が伝わって来る。今、部屋の外で繰り広げられている、殺戮の鳴動だった。
一つまた絶叫があがり、少年が潜む部屋の扉が激しい音を上げて開けられた。ダンと床が踏みつけられた。ガチャガチャと金属の擦れる音をたてて、誰かが入ってくる。
明かりの消えた薄暗い部屋の片隅で、幼い少年は養育係の女とともに息を潜めていた。
血の気を失った少年の唇が震えていた。とっくに腰は抜け、恐怖のために思考は停止していた。一体何が起こったというのか、そんな疑問さえも浮かばない。ただ、自分は今ここで死ぬのだという思いが漠然と頭に浮かんでいた。
何者かが迫ってくる。
二人が隠れていたついたてが、勢い良く引き倒された。
真っ黒な男がいた。見上げるほどに大きな男だった。背に廊下の照明をあび、その姿は影になっている。甲冑の輪郭だけが、ギラリと光っていた。
男は壁のように立ちはだかる。肩で荒い息をし、獣の唸りを発している。
大剣を振りあげた。
養育係の女が、恐怖にかられて悲鳴をあげて走りだした。
男の腕がサッとしなり、その背を大剣が切り裂いた。女はあっけなくボロ布のように床に倒れ伏した。
少年は声も出せない。大きな目を見開いて、吸い付けられるように男を見つめた。目を離すことが出来なかった。
男が少年に向きなおる。兜の下で、男もまた目を大きく見開き彼を見据えている。スリットからその目が見えた。右目だけがギラギラと光る。
隻眼だった。
ああ、死神が来た。
少年は呆然と男を見上げていた。
「があああ!!!」
男は咆哮し、大剣を振り下ろす。
少年は瞬きもせずそれを見ていた。
白光が閃く。
少年の額のほんの数センチ手前で、剣は動きを止めていた。
男が苦しげにうめき、唇をギリギリと噛み締めている。その唇から血がこぼれていた。
剣が小刻みに震えている。男の腕が、いや体が震えていた。首をうなだれ、ガタガタと全身を震わせる。ガハッと大きく息を吐き出し、男は大剣を投げ捨てた。
そして、少年の腕を掴んで言った。
「来い。逃げんるんだ」
少年は男の言った言葉の意味を理解できなかった。自分はもう死んだのかな、とただ男を見上げていた。
男は、呆然とし立ち上がることのできない少年を、小脇に抱え上げると部屋をでて走りだした。
少年は自分の身に起きていることが、何一つ理解出来なかった。
この男は誰なのか。何をしようとしているのか。自分はどうなるのか。
どこをどう走ったのか、まるで解らない。気が付いた時は、家財道具がつまれた荷馬車に乗せられていた。男は、その荷馬車の持ち主らしき夫婦に何枚もの金貨を渡して、少年をできるだけ遠くに逃がせと命じていた。
馬車はすぐさま走りだす。
町が焼け、人々が逃げ惑っている。真っ黒な空を、赤い炎が染め上げている。
王宮がシルエットになって浮かび上がる。その尖塔に、巨大なドラゴンの姿があった。
黒のドラゴンは天に向かって炎を吹きあげる。そして炎が空に裂け目を創ると、その中に吸い込まれていった。
ああ、と少年は息を吐き目を潤ませた。感動を覚えていた。恐ろしくも美しいドラゴンに見とれていたのだ。
ゆっくりと視線を地に戻すと、少年は後ろを振り返った。
自分をこの馬車に乗せた男の姿が、急速に遠ざかっていく。そして彼が脱いだ兜がその足元に転がった。
少年は男の顔を見たいと思った。だが、馬車はどんどんと速度をあげ遠ざかってゆく。男の顔を判別することは出来なかった。
小さな影になった男が、膝を折り崩れるように地面にひれ伏した。
それが少年が見た、男の最後の姿だった。
あの人は、誰だったんだろう。僕を助けに来てくれたんだろうか。それとも本当は、僕を殺したかったんだろうか……。
*
黒竜王が起した事変は、実に様々な人々にそして多くの人びとに影響を与えた。
町が焼かれた際に、家や家族を失った者のことは言うまでもない。
魔女に与した魔法使いや廷臣たちは、当然ながら処罰を受けた。
だが、己の意志とは関係なく操られていた者までも、処罰の対象となったことは痛ましいことだった。
彼らの為に家族は赦しを乞うたが、叶えられることは無かった。ここでもまた、多くの人生が変えられてしまったのだ。
自分もこの衝撃的な事変によって、生き方を考え直す事になった。そして自分の置かれている状況を、やるべきことをはっきり認識したのだ。
友を信じ続けようと誓った。自分は影となって、彼を支えることが役目なのだと悟ったからだ。
ああ、それなのに。……このザマは何だ!
体が燃えるように熱い。身の内を炎が蹂躙する。悪意が雪崩れ込んでくる。
もがき喘ぐ程に、魔が食らいついてくる。
ああ! 炎が体を焼き尽くそうとしている!
情けない。自分は次代を背負う魔法使いではなかったのか。ここで負けてしまうのか。いや、負けられない。裏切れないのだ。
意識が遠のきそうになる度に、我が身に爪を立てる。この体をあけ渡してよいはずがない。己を失わないように、自分の名を何度も何度も心の中で叫び続けた。
焼ける。細胞がプチプチと音を立てて焼けてゆく。
諦めてはいけない。自分にはやるべきことがあるのだから
もっと叫べ! 叫べ! 叫べ! はね退けるんだ!
――――――。
どれだけの時間そうしていたのか。
長い間叫び続けていたことだけは判る。
そしてふと気付けば、地獄の猛火は去っていた。先ほどまでの苦痛が嘘のように消えている。
体のどこにも異常はないようだ。追い払えたのか、アレを。
大きく安堵の息を吐いた。助かったようだ。体の力が抜け、自然に笑みがわいた。
死ぬことよりも、為すべきことを為せなくなることを悔しく思う。この身を奪われなくて本当に良かった。
それにしても、と思う。
世界とはこんな色をしていただろうか。
全てが赤茶けて見える。
そう、まるで血を被ったように。
…………綺麗だ。