47 炎の魔物VSブロンズ通りの魔法使い2
テオの腕がしなやかな動きで振り下ろされると、無数の水の刃がアンゲロスに襲いかかった。それは一瞬で水蒸気と化すが、水の刃は息つく間も与えず次々と炎に切り込んでゆく。
ググゥっとアンゲロスが苦悶の声をあげた。
しかし、膝をついたのはテオの方だった。ザブンと水の膜が波打つ。
苦しげに倒れこむと、ゴブゴブと大きな泡が吐き出された。腕も地面につき、這うような体勢から、アンゲロスを睨みつける。
「……熱いか。どうだ、内側から身を焼かれる気分は」
半分程の大きさに縮んでしまった火の玉が、冷笑を浮かべていた。水の刃の攻撃が止まったのを良いことに、テオの周りを憎々しげにグルリとまわり始める。
ほんの僅か、テオはアンゲロスの火の粉を吸い込んでいたのだ。その小さな炎が彼を苦しめていた。
テオは胸を掻きむしる。
「はがああ……」
アンゲロスが、テオの体を乗っ取ろうとしているのだ。
炎が体内で暴れ始める。息が苦しい。全身に痛みが走る。熱い。じわじわと身を焼かれる。
苦痛に顔を歪めた。
テオを包んでいる水の膜もブルルと震える。
「負けてはいけません。私を失望させてはなりません」
テオの声で、ウンディーネが言う。
「この者は渡さない。卑しきモノに成り果てた、お前のようなものを私は許しません」
水が二本の触覚のように細く伸び上がった。そして腕の形になる。
透明な、水の腕は火の玉を捕らえようとしゅるしゅると飛沫をあげて、なおも伸びる。
デュークが炎を抱え込んだ。ぶすぶすと黒煙があがる。精霊の体が火傷を負うことは無かったが、ダメージが無いわけではなさそうだ。彼は形だけの笑みを浮かべている。
水妖の腕が火の玉を貫いた。黒煙に白い水蒸気が交じる。
「ごはあ!」
アンゲロスは唸り激しい閃光を発すると、デュークを跳ね飛ばし逃れた。精霊は石畳に叩きつけられていた。炎は更にまた縮んでいた。しかし、萎えてはいない。今がこの敵を倒す最大のチャンスなのだと、闘争心をむき出しにしている。ぎろりとテオを睨んだ。
テオは肩を震わせ、えずいている。その口中にチロリと小さな火が燃えているのが、デュークからも確認できた。
途端、光の速さで火の玉が突入する。水の膜を突き破り、一直線にテオの口を目指して。
「おお……!」
目を剥いて仰け反る。
焼ける。喉が、肺が、脊髄が。爪の先から髪までも。テオは意識を失いそうになるのを、必死に堪える。奪われてなるものかと懸命に抗った。
水の腕は炎を掴み、強引に引きずり出そうとする。ウンディーネに人のような顔は無い。故に表情といったものは元から無く、目に映る映像から彼女の心情を図ることなど出来ないはずだが、その水の動きからは一心不乱にテオを救おうとしている事が伝わってくるのだった。
ジュウジュウと水が激しく蒸発してゆく。立ち込める白い煙に囲まれて、炎と水と人間の姿は、デュークの目から隠されてしまった。
立ち上がった彼はスーツをパンパンと叩き、腕を組んで眺めた。語りかける声に動揺はない。
「我が主よ。貴方はここで終わってしまうような人ではありますまい。そんな人間捨てたバケモノなんて、さっさとぶち殺しましょうよ」
テオに入り込もうとするアンゲロスと、引きずり出そうとするウンディーネの一進一退の攻防が続く。
そんな最中でも紫の目の精霊の声が届いたのか、テオは嘔げながらもデュークを睨みつけている。
「まあ、死んでくれてもいいんですけどね。私、自由になれますし。……尻尾を巻いて黄泉の国に隠れる方が楽ちんかも、ですね。アインシルトには、死んじゃったんだから仕方ないじゃんて、言い訳しといてあげますよ」
精霊はふふんと笑う。
この生死のかかった場面で、度の過ぎるからかいはむしろ励ましではないのかと疑いたくなるテオだった。
なんて気味が悪い精霊だ、虫酸が走る、と炎が与える苦痛以外のものでテオの顔は歪んでいった。ムカついてたまらない。
そして、渾身の力を振り絞ってよろよろと立ち上がった。
「この、クソッタレがぁー!!」
怒声とともに、勢い良く炎を吐瀉する。
好機とばかりに、ウンディーネは一気にそれをテオから引き剥がした。テオの内部に巣食っていた炎がまとめて引き出されていた。
「誰が死ぬかぁ! ボケェ!」
ゲフゲフと咳き込みながら毒づくテオに、お見事とデュークは拍手を送った。
水妖が火の玉に跳びかかり、包み込んだ。ゴボゴボと激しい泡をふいて水が沸騰し、猛烈な勢いで真っ白な蒸気が立ち昇った。
「うがああああ!」
アンゲロスが悲鳴を上げる。どんどんと小さく萎んでゆく。
このまま、魔物を滅してしまえるだろうか。テオは瞬きもせず、凝視していた。
しかし、水も殆ど残っていない上に、どんどんと蒸発してしまうのだった。そして危惧は現実となり、包み込む膜についに隙が出来てしまった。
途端にその隙間をめがけてアンゲロスは猛進した。隙間を埋める間もなく、炎は素早く抜け出し、空の高みに上っていった。一目散に遠ざかってゆく。
ウンディーネにもテオにも、それを追うことは出来なかった。それだけの力が残っていない。
グラリと大きくよろめくテオを、デュークが支える。
「ざまぁ無いですね」
「クソが。あっち追いかけろ!」
空を見上げると、小さな火の玉がほんの小さな点のようになっていた。
テオはデュークを振り払う。
「死にかけてる割に、威勢だけはいいですね」
「追いかけろっ!」
イライラと命令を繰り返すが、この精霊は言うことを聞く気がないようだった。
腕を振り払うテオに冷ややかに笑いかける。
「大体ですね、貴方の左目のせいで私まで能力を制限されてしまってるんですよ? 責任感じて下さい。アンゲロスより、貴方の生き死にの方が重大です。私の今後がかかってますから。……もう、追いつきませんよ」
彼の言うとおり、アンゲロスの姿はもう見えなくなっていた。デュークはもう一度腕を回し、まともに立っていられないテオを支えた。
チッと、主が舌打ちをする。
逃してしまった。アンゲロスを倒す最大のチャンスだったはずだ。ヤツは、かなり追い詰められていたのに。回復されてしまったら、また厄介なことになる。しかし自分にも、もう力が残っていない以上は、ここは痛み分けで引くしかないだろう。
デュークも口にはしないが消耗しているのだ。動きがいつもより鈍いことに、テオは気づいていた。
石畳にどっと倒れるように腰を降ろす。
テオは、コップ一、二杯ほどの小さな水たまりになってしまったウンディーネを見下ろした。
「ウンディーネ……ありがとう」
「よく耐えました。アレは逃してしまいましたが、いずれ必ず倒せる時がくるでしょう」
「そんな体になって大丈夫なのか」
「私は水です。小さな粒になった体は、いずれ雲になり雨となりまた地に戻って来ます。お前の体の方がよほど心配です」
「そう、心配です」
ウンウンとデュークがうなずく。
ついさっき、死んでくれてもいいと言ったことを棚に上げて、さも忠臣ぶってみせる。
「治癒魔法、全く使えませんからねえ。私が治してさしあげましょうか?」
「いらん! ビオラの魔法がまだ少し残っている。お前なんか信用できるか」
テオは胸に手を当てた。
水たまりの半分がするすると登ってきた。
「私が、その治癒魔法を増幅してあげましょう」
そう言って、問答無用といった具合にテオの口の中に入っていった。
ゴクリと飲み込むと、優しく穏やかな力を感じた。ビオラの治癒魔法とウンディーネが混じりあい、テオの体にしみてゆく。血流にのって、隅々まで運ばれ、傷ついた体を癒してくれる。
うっとりと、テオは眼を閉じた。
「ビオラとウンディーネのおかげだな。命拾いした」
デュークを押しのけ、ふうと大きく息を吐く。万全にはほど遠いが、これでもう倒れこむことはなかろうと思った。
更に小さな水たまりになってしまったウンディーネが、ぷるんと震える。
「私と一緒に来る気はありませんか、愛しい人よ。私の夫として」
ウンディーネが甘やかに誘いかける。しかし、からかいではない。真剣な交渉であり、それは契約の誘いだった。
テオは屈んで、できるだけ彼女に近づいた。
「……すまないが、行けない。まだやらなければならない事があるし、ホレた女もいる」
「そうですか、残念です……。でも、お前を守ることが出来て私は嬉しい。……私を忘れないで下さい。いいですね。いつでも、どんな些末事でも私を呼んでいいのです」
テオが頷くと、寂しそうにふるふると水面を波立たせた。
「初めてお前を見た時から、一日たりともお前を思わぬ日はないのです。これからもそれは続くでしょう」
そして、名残惜しげにゆっくりと石畳の隙間に吸い込まれてゆく。辺りにほのかな花の香りを残し、ウンディーネは精霊の世界へと戻っていった。
デュークは顎に指をあてて、ほっほーと当て擦るようにテオを見る。
「いつの間に、ウンディーネを虜にしてたんですか。隅に置けませんね」
「お前に関係ない」
「同じ主に支配される者としては気になりますよ」
テオは、ケッと悪態をついて答えない。
しかし頭の中では、数年前ウンディーネが自ら真名を明かしてくれた日の事が蘇っていた。図らずも水の精霊を、支配することになった日のことを。
晴れ渡る空の下で、湖から盛り上がった人型の水は、キラキラと輝いてとても美しかった。そして、先ほどと同じ誘いをしたものだった。彼女には一切の偽りも強制も無く、一途に愛情を与えようと、真名をテオに告げたのだ。
あの日から一度も彼女を呼んでいなかった。呼ぶ気も無かった。純真な思いを利用するのは、気が引けたからだった。
それを今になって、窮地に陥った己の都合で呼び出してしまったことを、少々後ろめたく感じる。彼女はそれで良いと言ってはくれたが、デュークと同じに扱うことなど出来はしない。
それに結局、自分は何も出来なかった。戦ったのは精霊たちだ。
これで、主だなどとよく言えたもんだと、自嘲した。
さっと立ち上がり、空を見上げる。
東の空はもう深い藍色で、夜の気配がしている。
ブロンズ通りに帰ろう。
「それにしても、なんともったいないことを! 彼女を断るなんて。あんな美女には、なかなかお目にかかれませんよ? それに、とても尽くしてくれそうだったのに」
デュークは大仰に両手を広げて、首を振っている。
「……あのな、水とどうやって愛し合えと言うんだ」
「薄情ですね。水は命の源ですよ。つい今しがた実感したでしょうに」
確かに水は全ての生きとし生けるものの、源である。それにウンディーネは、ビオラの治癒魔法を全身に行き渡らせて、テオを癒してくれた。
もちろん感謝している。彼女は無償の愛を捧げてくれたのだから。しかし、それを受け入れるかどうかは別の問題だと思う。相手は人間ではない。精霊なのだ。たとえどんなに優しく誠実であっても。
そして類まれな美女だったとしても。
「ん? ……顔、あったか?」
「無いですね」
「…………」
テオは、眉をしかめる。
「でも、ウンディーネに取り憑かれた貴方は、とても美しかったですよ」
「……おい、なかなかお目にかかれない美女ってのは、まさかオレのことか?」
「ご名答。先ほどの貴方は最高の美女でした。また見てみたいですね」
「……お前、バカだろ」
はあと、大きくため息をついた。
ニヤニヤと笑うデュークを見ていると、怒る気力が萎えてしまった。
「ところで、いくつも精霊の真名を手に入れてしまうなんて、貴方本当に人間ですか?」
「当たり前だ」
「ま、そういうことにしときましょうか」
テオは剣を無造作にデュークに放り投げる。
うおっと、声を上げて受け止めると、デュークは恨み言を言った。
「刺さるかと思いましたよ! 殺す気ですか? 死にませんけど」
「元の場所になおしとけ」
「……はいはい……取り敢えず、この場は引き上げですね。まあ良しとしましょうか、何も失うことはなかったですし? 黒竜王も活躍しましたし?」
ニヒヒと嫌味に笑い、大剣を肩に担ぎあげると彼はかき消すようにその姿を消した。




