45 「勝てる!」
その時、ディオニスの指がピクリと動いた。
ベイブは癒しの力を注ぐのを中断し、重ねていた手をそっと離した。後ずさり、彼から距離を取る。しかし、その目は王を注意深く観察し続けていた。紫がかっていた唇に少し血の気が戻ったように思う。目覚めるのだろうか。
ドラゴンは異界へと去ってしまった。今、目覚めなければ、もう王の精神は二度と肉体に戻ることはないだろう。それは死を表す。早く戻ってこい、とベイブはゴクリと唾を飲んだ。
再び、ピクピクと指が痙攣のように動いた。
と、突然ディオニスがカッと目を見開く。そして即座に立ち上がった。
やはり、王は自分の体に戻ってきたのだ。
ベイブは、ああっと感嘆の声を上げ惚れぼれと王を見上げた。
がっしりとした長身の体躯。たった今まで人形のように倒れていたとは思えない、堂々とした姿だった。
ディオニスはベイブを見下ろして、唇の両端を大きく釣り上げてニタリと笑った。そして勢い良くテラスに飛び出した。
驚くアインシルトとニコを尻目に、ガンッと欄干に足をかけ身を乗り出し、下をのぞき見る。
そして、邪神の黄色く光る目を睨み返す。
「勝てる!」
揚々と声を上げるディオニスに、アインシルトが駆け寄った。
「な、なんじゃと!?」
「ああ、手に入れた! 黒のドラゴンこそが、ヤツの真名を知る者だった!」
「おおお!」
ディオニスは、冥府の王の真名を手に入れたのだ。なんという奇跡か。
みるみるうちに、アインシルトの顔が歓喜に染まり、ニコも思わず歓呼の声をあげていた。
王を追ってベイブがテラスに出てきた。ニコは彼女を振り返り笑みを溢れさせた。ドラゴンの去った理由が、すっと飲み込めていた。ベイブとうんうんと頷き合い、鼓動の早まる胸を押さえてディオニスに視線を送る。
王は更に身を乗り出していた。
「オレにもヤツを支配できる! オレがドラゴンだ!」
言うやいなや、一切の迷いなく飛び降りた。まるで低い塀をひょいと飛び越えるように、王は天空に浮かぶ城から飛び降りたのだ。
全くの予測外の行動に、一同の心臓が跳ね上がった。
「うわああ!」
ニコの声はほとんど悲鳴だった。慌てて欄干から乗り出して、その姿を見送る。
結界の膜を突き破り、黒いマントをはためかせて落下してゆく王は、既に小さな点のようだった。
ディオニスは風を受けながら、不敵な笑みを浮かべていた。冥府の王に向かって一直線に落ちていく。
ふおおおおぉぉぉぉ!!!
待ち構えていたように、巨大な死人の指がディオニスを一気に握りしめた。
容赦なく捻り潰さんと、ギリギリと拳は固く握られてゆく。
ああ、と息を飲んでニコとベイブが見守る。アインシルトの肩が震える。
はたと冥府の王の動きが止まった。
その指の隙間から、まばゆい光がほとばしった。
ひひひひいいいいいいいいい…………
絶望の悲鳴が上がる。
くううううああああ…………
巨大な拳が力なく開いた。それは、冥府の王がディオニスに屈服した瞬間だった。真実の名を知られた屈辱なのか、恐怖なのか、腕は小刻みに震えていた。
開かれた拳の中から、ボウっと光るものが舞い上がる。すると、強大な腕はずるずると地底へと引き返していった。口惜しげに、しかし決して逆らえぬ命令によって冥府の王は地の底へと帰還してゆくのだった。
「おおお! 冥府の王を従わせた! 我が王よ。迎えにいきますぞ」
アインシルトは目を潤ませる。今、目にした光景に感激していた。素晴らしい感動だった。
彼はふくろうの姿に変化する。ディオニスの元へと馳せ参じるのだ。
「け、結界は!?」
今にも飛び立ちそうなアインシルトに、ニコが叫ぶ。
白ふくろうは止まらない。
ただ一言残して、光に向かって一直線に飛んでいった。
「最早、必要ない!」
光はキラキラと輝きながら、冥府の王の上空に漂っていた。
アインシルトが近づくと、その光は黒竜王ディオニスの姿になって、ふくろうの背の上にしっかと立ち上がった。
堂々と力強い姿だった。
巨大な指がだらりと垂れ下がり、腕はどんどん地に引きこまれてゆく。やがて、指の先までもすっかり穴の中に吸い込まれ、冥府の王の姿は見えなくなった。
「……た、助かったのかな?」
「そうみたいね」
ニコはポツリと呟いた。体の力が急に抜け落ちた。
緊張の糸が切れ、二人はその場に座り込んだ。そして顔を見合わせると、微笑みあった。
王宮は徐々にと下降を初めていた。
地割れが徐々に塞がって、大地は元に戻ってゆく。
冥府の王は、この地を去ったのだ。
ゆっくりと時間をかけて王宮が下降していく間、ニコとベイブはふくろうたちが町の上を高く低く何度も旋回しているのを見つめていた。
彼らは破壊された町の様子を、観察しているようだった。
「……ねえ、ニコ。あの王様って、噂ほど冷酷な人じゃない気がしない?」
欄干に頬杖ついてベイブはふうっと息を吐いた。ふくろうの動きをじっと見つめている。
もしも、本当に人を人とも思わぬ残酷王なら、あんな風に町を検分したりしないのではないかと思った。何よりあのアインシルトを心酔させているのだ、ただの暴君ではないのだろう。いや、暴君という表現自体違っているように思う。
観察を終えたのかふくろうは王宮へと進路を取り、どんどんとこちらに近づいて来た。
「うん。僕もそう思ったよ」
「……テオに似ている気がする」
「そう? ……あ! テオさんを探さなきゃ! どこにいるんだろう」
ニコがキョロキョロしていると、引き返してきたふくろうの背からいきなりディオニスが飛び降りてきた。
軽々と欄干の上に仁王立ちになる。
西に傾いた陽の光を背に受けて、影になったその輪郭が輝いて見えた。
二人は思わず息を呑み、見惚れていた。感動さえしていた。この人は生まれついての王者だ。ニコはそう思った。
王は確かに強烈な威圧感をもっていて人を恐れさせるが、同時に魅了するカリスマ性も持っている。
現に自分はもう、すっかり魅せられてしまっている、そう感じた。自然と心からの敬意を抱き、彼に平伏してしまうのだ。
ディオニスは、じっと二人を見下ろしている。
彼は笑っていた。
厳しいマスクをしていても、その勝ち誇った笑みは隠せなかった。
「ゴブリン!」
いきなり呼びかけられ、ベイブはぎくりと固まる。なぜ自分を呼ぶのか。先程の無礼な発言が頭をよぎり、内心焦りはじめていた。
さっさと謝っておいた方が身のためだろうかと思いつつも、負けん気からつい王を睨み返してしまった。
「やはり国王失格かな? それとも人間失格か? どちらでも構わんがな!」
はっはっはっと、高らかに笑う。怒ってはいないが、意趣返しは忘れないぞと、いうことらしい。
ベイブは、虚をつかれて呆然と彼を見上げるのみだった。
王はひょいと欄干から降りると、大股で広間へと歩いてゆく。そのすれ違いざま、ベイブにペンダントを放って寄越した。
「お前の愛しい魔法使いに返してやるといい」
受け取ったベイブの頬がぱあっと上気する。一つだけになってしまったペンダントトップを、きゅっと握りしめた。
ディオニスは振り向きもせず広間を通りぬけ、次の間に続く扉の向こうへ去っていった。
ふくろうが老人の姿に戻った。泣き出しそうな笑顔を浮かべていた。
「……奇跡のようじゃ。そう思わんか……」
ニコも感無量の笑顔で頷いた。
王宮はさらに下降し、元々建っていた場所へと帰ってゆく。地面に近づくにつれて、なおゆっくりと下降する。時間をかけて正確に元あった場所へ戻ろうとしているようだ。
ズズズズン…………
穏やかな地響きをたてて、大地への帰投が完了した。