44 迷宮
宮殿の内部は、まるで雲の中のようにふわふわとして何もかもが白くかすみ、辺りを観察するのはひどく困難だった。
迷宮のように通路と部屋が入り組み、幾多の扉がディオニスの前に現れる。その扉を抜け、奥へと進んでゆく。何処へ向かえば良いかなど、もとより解りはしない。ただ、直感を頼るのみだった。
この宮殿はドラゴンの内的世界の象徴なのだろう。
実在の建物ではない以上、常識が通用することはない。階段を上っていたはずがいつのまにやら下っていたり、袋小路に迷い込んだと引き返せば先ほどとは違う広間に出たりする。
合わせ鏡の前に立つと、幾重にも重なる自分の鏡像がてんで勝手に歩き出していった。そして何も映さなくなった鏡の連なりの最深を、六年前の自分が横切るのが見えた。返り血を浴び、背を丸めてズルズルと大剣を引きずって歩いていた。
寒気がする。
〈消えろ!〉
鏡を殴りつけた。鏡面が波打ち、そしてゆっくりと鎮まってゆくと現在の自分が映し出されていた。
現実ではあり得ない、不可思議な空間。
ぐっと唇をひきしめて、ディオニスは探索を続ける。幾つもの扉をくぐり抜けていった。
白くもやもやしたものの中に、時折蠢く物の気配を感じた。ディオニスが、近づくと気配は消える。更に近寄ると、そこには絵が飾られていた。
得体のしれない生き物の絵、燃え上がる街の絵、戦争する人間達の絵、暗黒の絵、けばけばしい色の洪水のような絵、色々な絵があった。
絵の下に題名らしき文字が刻まれたプレートが貼られている。見たこともないその文字。ディオニスに、それを読むことは出来なかった。
〈これらの絵の中に、冥府の王を倒すための答えがあるのだろうか〉
注意深く絵を観察していった。これらは、ドラゴンが今までに見てきた光景なのだろうか。それとも何かの暗示か。
ふと、プレートに刻まれた文字に指で触れた。
《生命》
触れた瞬間、音声が聞こえた。
いや、聞こえたというより、ひらめきのようなものだった。文字の意味が、ごく自然に理解できたのだ。ディオニスは、ほうと感嘆の声を上げた。
抽象的なけばけばしい色の洪水が描かれた絵を、もう一度眺める。
〈ドラゴンの感性では、生命とはこのようなものであるということか〉
次の扉を開き、またいくつかの絵を見つけた。
喰らいあう異形の生物が描かれている。また別のものには、目のくらむ閃光が描かれ、その隣は小さな一輪の花だけが描かれていたりと、脈絡もなく数多くの絵が壁にかかっている。
一体いくつあるのか。この中に答えがあったとして、それに気付くことができるだろうか。一刻も猶予はならない。
あの冥府の王を倒す、いや退けられさえすればいい、その方法を見つけなければならない。なんとか地底に引き戻す方法を。
焦燥に囚われそうになったその時、はたとあることに気づいた。
ドラゴンの言葉の中にヒントがあったのだ。
ディオニスの口に笑みが浮かんだ。彼がそれに気づいた瞬間、するすると白いもやがひいていった。隠されていたものが、あらわになってゆく。
先ほどドラゴンは言った。お前は賭けに勝ったと。
混沌の中に差す一条の光のように、ひとつの絵が目の前に現れた。
見つけた。
その題名のプレートに、ディオニスは確信を持って指を伸ばした。
***
ズズズと王宮が揺れた。
突如、巨大な炎に取り囲まれていた。あの炎の魔物アンゲロスが、攻撃をしかけてきたのだ。王宮を守る球形の障壁の表面で、バチバチと幾つもの火花が咲いた。
ドラゴンはそれには見向きもせずに、虚ろな眼差しで冥府の王の周りを飛び回り続けていた。
穴の奥で邪神の目が、ギラギラと光っている。その目に地上の風景が映るのはもう直だろう。
結界のおかげで、王宮内にアンゲロスが中に入り込んでくることは無い。アインシルトはテラスから一歩も動かず、炎を睨んだ。
燃え上がる炎の中に、いくつもアンゲリキと同じ顔が浮かび上がっている。無数の顔が一斉に喋った。
「アインシルト。この中にあるのだろう? 王の体を私によこせ。冥府の王を倒すことなど、あのドラゴンの力を使っても出来るものか。諦めてしまえ。それにあの様子ではもう、ドラゴンに取り込まれたのではないのか? その体に戻ってくることもないだろう」
老魔法使いが口惜しげに叫ぶ。
「アンゲロス!」
「久しいな」
「とうの昔に死んだと思うておったのにのお……」
「死ねるものかよ」
何匹もの炎の蛇が、王宮を守る球体の壁をギリギリと締め上げ始めた。
「ここは私めにおまかせを」
不意にアインシルトの隣に人影が立った。
どこから湧いて出たのか、デュークが仰々しくお辞儀をしている。
「ご老体は無理なさらずに、王の帰りを待っていて下さい。直に、お戻りになりますよ」
にーっと笑うとまるで何も無いかのように、彼は結界の壁を突き抜けて外へ出て行ってしまった。
途端に、紫の稲妻が炎を引き裂いた。しかし、炎はすぐまた元に戻り、デュークを締め上げようと迫ってくる。
「させませんよ」
「お前のような低級悪魔に、私を倒せはしない」
「おやおや。低級悪魔とは嫌な呼び方をしますねえ。怒っちゃいますよ。性格の悪いあのご主人さまでも、精霊と呼んでくれるのにねえ」
ズルリと伸びた爪を刃と変じ、牙を剥いてキヒヒと嗤った。
紫の目の精霊と炎の攻防が始まった。
ベイブはデュークが結界をものともしないことを、ふと不思議に思った。
しかし考えてみれば、そう不思議がることでもないのかもしれない。この結界はアインシルトが作り出しているようだが、要と言うくらいだから、テオの魔力が大きく作用しているはずだ。
デュークはテオが使役する精霊だ。結界と同じで、テオの魔法の一部のようなものだろう。だから、自由に出入り出来るのだ。
テオが支配している精霊だから。
その時、ハッと気が付いた。テオは精霊の真実の名を知ることで、その精霊を支配できると言ってなかったか。
ベイブは叫ぶ。
「ディオニス! 聞こえる!? 冥府の王を支配するの! 真実の名を探して!」
その声に、アインシルトが振り返った。
「なんと……! 確かに冥府の王を支配すれば、地下世界に帰すことができる。しかし、あの強大な魔神の名をどうやって」
しかも、今まさに地上に這い出ようとしているのに、名前捜しなどと悠長なことをしていられるものではない。
王宮の隣まで舞い上がってきたドラゴンが、ピタリと動きを止めた。ベイブの声が、ディオニスの体を通してドラゴンに伝わったかのようだ。黒龍がテラスを覗きこんだ。そして哄笑した。
「人間よ、お前も気づいたか。さて、わしの出番はここまでのようだ」
バリバリと轟音が響き、ドラゴンの背後で異世界へ通じる亀裂が入った。
黒のドラゴンが現われた時と同じように、垂直の裂け目から生ぬるい風が吹き出し、その奥に凶々しい色を見せていた。
徐々に裂け目が広がってゆく。
「後はアチラから見物することにしよう。もう少し血の匂いをかぎたかったが、またの楽しみとしておこう」
ドラゴンの口がニタリと笑ったように見えた。
そしてゆっくりと、異界への出入口へと向きを変えた。
「何? どういうことだ?」
炎のアンゲロスに動揺が走る。
一体何が起こったというのだ。何故にドラゴンが自ら帰還するのか。本能的に危機を察した彼は、サッと王宮から遠ざかってゆく。デュークがその後を追う。
裂け目は更に広がり、ドラゴンはその中に入っていった。
ニコは憑かれたように、ドラゴンを見つめていた。アインシルトも同様だ。
「帰る? 黒竜王はどうなるんですか? 冥府の王は……。我々は、どうすれば……」
ドラゴンが去ってしまっては、もう、誰にもあの冥府の王を倒すことは出来ないのではないか。このまま破滅を待つばかりなのか。ニコは自分でも気づかぬうちに首を降っていた。
おおおあああああああ!!!!
冥府の王の唸りが、一際大きくなる。絶望とはこういうことなのかと、冷えきったニコの背が震えた。
ドラゴンは冥府の王に構う事無く、異世界の裂け目の中に静かに去っていった。
そして、直ぐに裂け目は閉じ、跡形もなく消えた。