42 黒のドラゴン2
「王宮をまるごと持ち上げおった!」
アインシルトは、地面を見下ろし叫んだ。
王宮があったはずの大地に、ポッカリと真っ黒な穴が口を開けていた。そしてみるみるうちに、もやが溢れ出してくる。
その穴が遠ざかってゆく。王宮は上昇を続けていた。
「なんて力なの!」
「すごい。ドラゴンも、国王陛下も……」
ベイブは驚嘆し、ニコは畏敬をこめて呟いた。このような豪胆な護り方など、想像だにしていなかった。二人は、咆哮を上げ続ける巨大なドラゴンを崇めるような思いで見上げた。
大蛇がドラゴンの首を締め上げようと、巻ついてきた。
「もうじき、みんな死ぬのよおぉぉー!」
大きく首を振りたくり、ドラゴンは大蛇の喉元に喰らいついた。
真っ赤な血しぶきが散った。
「ぐぎゃあぁぁ!」
無残な絶叫がほとばしる。
さらにドラゴンは上昇を続ける。暴れ狂う大蛇の血を浴びて、その体は赤く染まった。ドラゴンもまた凄まじく蛇を振りまわし骨を噛み砕き、狂乱に陥っていた。
「グゴオ!!!」
血の匂いに陶酔し、凶暴な悦びが湧いてくる。
怒りが脳を焼き、破壊の衝動が突き上げる。
このまま血肉を喰らって、むごたらしい殺戮の欲望を満たしたい。
世界を焼き尽くしてしまいたい。
〈ダメだ!〉
大蛇の腹に爪をたて、その肉を大きく引き裂く。
血が香る。
〈狂うな!〉
おぞましい快感が背を走り抜ける。
これ以上の悦びが、他にあるだろうか。
〈あ、あ、あ、あ……〉
このまま地獄に堕ちてしまおう。
自分にはそれが似合いなのだ。
酸鼻な誘惑に身をゆだねてしまえ。
〈違う! そんなもの欲しくない!〉
「グオオオオオオ!」
ドラゴンは頭を振り回す。
狂おしく絶叫した。
***
ドラゴンの咆哮が町を震わせた。言葉なく人々は空を見上げていた。
王宮を空高く持ち上げた黒く凶々しいドラゴンが、狂ったように吠え立てている。
王がまたあのドラゴンを召喚した。六年前の悪夢が繰り返されるのか。ある者は、がっくりと膝を折り絶望を口にした。またある者は、呪いの言葉を口にした。この国を滅ぼすのは魔女や魔物ではなく、王自身ではないかと。
「……逃げろ。早く逃げないと、みんなドラゴンに殺されちまう!」
一人が叫ぶと、次々に逃げろ逃げろの声があがった。恐慌をきたした人々は、我先にと逃げ惑った。救援と混乱の抑止の為に駆けつけた兵士たちの脇をすり抜け、市民たちは走った。
その兵士たちの指揮官としてリッケンが町の中にいる。苦々しく顔を歪めて、パニックに陥った人々を見つめていた。この混乱を収拾することなど、とてもできそうにはなかった。恐怖を抱いているのは、市民たちだけではないのだ。警官や兵士たちも、呆然と空を仰ぐばかりだった。
リッケンは口惜しさを胸に、ドラゴンを見上げた。
「私は信じております」
***
ドラゴンは大蛇に咥えて、激しく羽ばたく。
両の腕で蛇をしっかりを掴み、一気に食いちぎった。
ドボドボと溢れだした血が、大粒の雨のように地に降り注ぐ。
甘い血の匂いが立ち込める。口の中に、血の味が広がる。
喰らいたい。
喰らいたい……。
喰っちまおうか……。
ああ、食っちまおう……。
〈違う! 違う! それはオレの考えじゃない! やめるんだ!〉
折れまい、崩れまいと必死にディオニスは、凶暴な衝動を否定した。
ドラゴンの中で、二つの意志がせめぎ合う。
「ガアアアアア!」
体も二つに裂けてしまうのではないかと思うほどに、相反する強い精神のぶつかり合いだった。
ディオニスの目に、王宮から自分を見上げる、三つの影が飛び込んできた。地震で破壊された町が見えた。逃げ惑う人々が見えた。
〈守るんだ〉
壊してしまえ。
〈守るんだ!〉
なぶり殺しにしろ。
〈守るんだ!!〉
さあ、喰っちまえ。
〈オレは、人間だ!〉
それがなんだ! 人間など愚かなバケモノさ。
〈愚かでもいい。オレは人間だ! 守りたいものがあるんだ!〉
「ゴウウウ!!!」
ドラゴンは雄叫びとともに、ガハっと肉を吐き出した。
歯を食いしばり、ブルブルと震えた。
〈オレは、できる!〉
鋭い爪で我が身を裂く。
そうだ。できないはずがない。自分は黒竜王だ。
この荒ぶるドラゴンを制するのだ。
心の中のもう一つの声を、強引にねじ伏せる。
〈オレに従えぇーー!!〉
天を仰いで高らかに吠え上げた。
「コオオオオオ!」
大蛇が地に落ちていく。
ドラゴンの瞳がキラキラと輝く。薄暗い色はもう微塵も無かった。強い克己心が、ドラゴンの凶暴な衝動をはねのけた。そう、ディオニスはドラゴンの意識に飲み込まれること無く、その力を手に入れたのだ。
彼は再び大きく翼を羽ばたかせて、王宮を空高く引き上げる。その姿は神々しくさえあった。
大蛇は、王宮の真下にあいた大穴に吸い込まれていった。
そして、それがついに現れた。
おおおあああああああ…………!!
恐ろしく巨大な手が、穴の奥から出てきたのだ。
青白く筋ばった死人の腕がずるずると伸び上がり、王宮を握りつぶそうと迫る。
その手のひらの上に、血染めの魔女アンゲリキが横たわっていた。気を失った瀕死の魔女は、陶器のアンティーク人形のように白く、体温を感じさせない。
魔女と同じ顔をした炎が、その体に蛇のように巻き付いている。その傍らで、黒い獣が歯をむいて唸り声を上げていた。
彼らは、憎々しげにドラゴンを仰ぎ見る。
アンゲロスはゆっくりと双子の姉を抱え上げ、代わりに五人の騎士を巨大な手のひらの上に落とした。ひどい火傷を負い、傷ついた騎士たちは呻き声を上げるのがやっとだった。
アンゲロスは姉を獣に託した。心得たとばかりに獣は魔女を背負い、黒い疾風のように空を駆けて去っていった。
そして、アンゲロスが空高く舞い上がる。
「おおお、冥府の王よ……。最後の生け贄を捧げよう。この国を滅ぼし給え」
アンゲロスの怨念の声に呼応して、邪神の腕はさらに獲物に向かって迫り、その爪がグシュリと皮膚を割いて伸びていく。
手のひらに残された騎士たちが勢い良く燃え上がった。
「ぎゃあああ!」
瞬く間に焼き尽くされ、真っ黒な灰となった。
冥府の王が手のひらを握り締める。
ひぎゅああああぁぁぁぁ!!
低くおぞましい声を発して、更に握りしめた。
ぶるぶると腕は震え、青い筋がボコボコと浮き上がってきた。そして、握った手をバッと開くと、灰はあっという間に風に散り散りに飛ばされていった。
その様子を見届けると、炎はニタリと笑った。
再び巨体な腕がブンッと振り回された。爪の先が王宮をかすめる。
ふおおおあああぁぁ!
グラリと王宮が揺れた。
「冥府の王じゃと……」
アインシルトは色を失った。魔女がこれほどのものを召喚するとは……。
いや、アンゲリキだけではなかったのだ。ニコが言った炎の魔物、アンゲロス。昔のようにまた二人が組んで、この恐ろしい企みを実現させてしまったのだ。
冥府の王、あの腕に捕まれば最後、地獄に引きずり込まれてしまうだろう。死者の国の王であるこの邪神への供物は、人間の生命だ。あの呪いの人形で消えた人々も、獣に噛み殺された人々も、すべて魔女が捧げた邪神への生贄だったのだ。
「ア、アインシルト様……。これは……」
「どうしたものか……」
邪神の腕がブルンと振り回され、その風圧で王宮がぐらりと大きく揺れた。
それをドラゴンがさらに引き上げる。
ベイブはコロコロと転がり、横たわるディオニスにぶつかって止まった。王の唇が紫に変色している。この状態が長く続くのは、危険なのではないかとベイブは感じた。
王の手に自分の手を重ね、目をつぶった。桜色の柔らかな光をそっと注ぎ込んでゆく。
「テオ、あなたもこの王宮の何処かで戦っているのでしょう? あたしも、あたしにできることで戦う」
今自分にできるのは、王の消耗を回復させることだろう。
ひいては、それがドラゴンの力を増すことにつながり、冥府の王を倒すことにもなるだろうと考えた。
その思いが届いたか、ドラゴンは勢いを増して羽ばたき一気に天空高く王宮を運びあげた。そして、巨腕の届かぬ天の一角に、王宮を静止させた。
一転、ドラゴンは急降下とともに冥府の王に向かってゆく。容赦の無い激しい紅蓮の猛火を吐き、続けざまに鋭利な刃物のような雷を放った。しかしどれも、冥府の王にシミひとつ付けることは出来なかった。
強大な指が掴みかかる。その指の一閃だけで、ドラゴンは体勢を崩してしまう。
うううおおおおおぉぉ……
屍色の腕が生者を捕らえようと襲いかかってきた。
ドラゴンが舞い上がり冥府の王をかわした時、小型の飛竜に乗った魔法使いの一団が現れた。
ジノス率いる、魔法騎士団だ。一旦はみじめに逃走したが、このままでは終われない。騎士団としての誇りに傷をつけるわけにはいかない。それは耐え難い恥辱だ。仲間の敵も討たねばならない。
飛竜達が冥府を王を囲んで飛び交った。
騎士団の姿に気づいたアインシルトが歯噛みをした。
「愚かな! アンゲリキを相手にするのとは違うぞ!」
ドラゴンの圧倒的な力をも全く寄せ付けない邪神を目の当たりにし、魔法使いたちは愕然としている。
が、それでも果敢に冥府の王に攻撃をかけた。
たくみに飛竜を操り、ギリギリまで近づくと、一斉に無数の光の矢を放った。
「一点に集中させろ!」
目を血走らせジノスが怒鳴った。矢を放つと同時に、騎士団が散開する。しかし、砂粒があたった程度にも効果はない。騎士団隊長の頬が歪む。
逃げ遅れた一人の騎士に冥府の王が迫る。
それに気付いたドラゴンは吠え、炎を吐いた。勢い良く飛び出した炎の龍が、死人の腕に絡みついた。しかし腕は、構わず魔法使いを追う。
「うわああああ!!」
若い魔法使いは、背後に迫る死の予感に絶叫を上げた。
冥府の王の爪の先が、彼を捕らえた。背を引き裂かれ、一瞬で塵となって彼は消えた。
ドラゴンが鋭い雄叫びを発し、炎の羽ばたきが飛竜たちを吹き飛ばす。飛竜どもは震撼し統制が取れなくなった。
「くそ! 言うことを聞け!」
ジノスは手綱を引きコントロールしようとするが、怯えた飛竜はもう言うことを聞かない。他の魔法使いたちも、逃げ惑う飛竜から振り落とされないようにするので精一杯だった。
ドラゴンは邪魔をするなと言うように、もう一度大きく羽ばたいた。そして冥府の王に、バリバリと雷撃を落とす。
稲妻が手のひらに垂直突き刺さり、腕が白熱する。もうもうと煙が上がり、腕がドガンドガンと大地を殴った。その腕が触れた建物は、一瞬で砂に変じてしまった。
ジノスは戦慄した。とても人間の力の及ぶものではない。恐怖に足のすくむ自分を必死に鼓舞する。今にも捨て鉢になって、無謀な突撃をしてしまいそうな部下たちに、号令をかけた。
「退却だ! 引けーー!」
今度こそ自分の負けをはっきりと理解した。そして騎士の矜持よりも、今は部下の命を守ることを選んだ。犬死に程、無様なものはない。